伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

「夜ヒット」の新たな番組カラーを鮮明にした一大事-フランク・シナトラ&ティナ・ターナー生出演

2006-04-14 | 夜のヒットスタジオ/番組史
夜のヒットスタジオといえば、なんと言っても他の番組にはない特色であったのが、海外アーティストの出演ではないでしょうか。

1969年12月22日放送に当時、ジミー・オズモンドのヴォーカルで「ちっちゃな恋人」が日本でもヒットしていた「オズモンド・ブラザーズ」(オズモンズ)が出演。これが夜ヒットにおける海外アーティスト出演者第1号とされています。前田武彦さん、三波伸介さんの時代にはあまり海外アーティストが出演する機会はなかったのですが、井上順さんに司会が代わり、歌謡バラエティーから「正統音楽番組」へと番組のコンセプトを転換するようになって以降、海外アーティストの出演機会が増加しました。

月曜の1時間枠だった時代には、フリオ・イグレシアス、アンディ・ウィリアムス、ピーター、ポール&マリー、U2、デュランデュラン、リック・スプリングフィールド、カルチャークラブ、シーナ・イーストン、オリビア・ニュートンジョン、マドンナなどが夜ヒットに出演(来日時にスタジオに生出演するというケースが多かったですが、例外的に衛星中継で出演することもありました)。毎週出演というわけではなかったですが、特に1980年代に入った頃からは1ヶ月連続で違った海外アーティストが出演するという月が出てくるなど、夜ヒットは国際色豊かな番組へと徐々に変貌していきました。

そして、これらの長年の海外アーティストとの関わり合いが、1985年春の番組リニューアルへの一つの布石となりました。

1985年4月、夜ヒットは17年近く続けてきた月曜22時台での放送から、水曜21・22時台という2時間のワイド編成番組「夜のヒットスタジオDELUXE」へと生まれ変わり、その際の番組コンセプトとして、「国内だけでなく、世界に目を向けて先端の音楽を聞かせる」という点が含まれていました。
その「ワールドワイドな番組」へと生まれ変わろうとする姿勢を視聴者に印象付かせるべく、リニューアル当初より持ち上がっていたのが、アメリカのショービジネス界だけでなく、世界を駆け巡るエンターテイナーの雄として知られる、フランク・シナトラの生出演、というものでした。

この当時の夜ヒットプロデューサーであった疋田拓さんの後日談(「芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE」参照)によりますと、当初、フランク・シナトラ出演を猛プッシュしていたのは、フジテレビではなく、TBSであったそうです。しかし、早い段階で番組が大きく変貌したところをアピールしたいという思いが強かった疋田さんを始めとする時のスタッフが、TBS内でシナトラの日本の番組への出演を推し進めていた担当者に「どうしてもシナトラをこちらの方に貸してほしい」と申し込み、交渉の末にシナトラへの夜ヒット出演交渉の権利を獲得し、程なくして、シナトラ氏自身の方からも出演を快諾する旨の返事が来て、リニューアルわずか3回目という異例の速さで、フランク・シナトラのスタジオ生出演が決定したようです。そして、それと併せて、積年、交渉を続けてきた、米ロック界の大御所・ティナ・ターナーも衛星中継での出演を受諾し、こうして、"超"大物2大アーティストの同時生出演が正式に決定したのです。

この準備段階では、当然に、"超"大物2人が出演するとあって、出演料などの問題が局内でも机上に上ったようですが、疋田さんは「えー、やっちゃえ!」と半ば強引に局内の同意を取り付け、この一大企画を実現させました。この時に出演する2人に対して費やされた番組予算は、何と5,000万円。当時はまだ音楽番組が数多く乱立していた時代であり、各局もそれ相応の予算を音楽番組に対しては付けていたようですが、5,000万円という額は、当然にその中でも破格の額でした。予算云々よりもまずは「番組を前進させる」という点を重視し続けていた当時の夜ヒットスタッフの強い意気込みを感じる話です。

ティナ・ターナーはロンドンからの衛星生中継、そして、フランク・シナトラは、特別車で、旧フジテレビ社屋の駐車場から入ってきて、この時のマンスリーゲスト・小柳ルミ子さんが社屋の入口でシナトラを出迎え、エスコートしながらスタジオに入場する、という「特別待遇」の演出を用意しました。衛星中継でティナ・ターナーが登場した際には、シナトラは、ティナに対して「ティナ、お前どこにいるんだ?」、そしてティナは「ロンドンよ」などというやり取りを生放送内で行ったり、といったように、この回は、通常のときから華やかさのある夜ヒットがより華やかな雰囲気に包まれた回となりました。

この「ティナ&シナトラ同時生出演」は、海外の音楽番組でもそうそう実現できない企画であっただけに、それを日本の番組であるにも関わらずやってのけてしまった「夜のヒットスタジオ」の名は海外の音楽・放送関係者でも話題となり、これ以降、海外アーティストの出演交渉が比較的容易になった、といわれています。出演形態も、来日時のプロモーションをかねての出演という形だけでなく、衛星中継での出演の形態も1時間時代以上に多用し、このDELUXE時代には1~2組の海外アーティストがほぼ毎回出演しました。この後もレイ・パーカーjr.、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、などといった大物海外アーティストの出演は続き、また、海外アーティストに関係する企画が用意されることなどもありました。たとえばパリー・マニロウは西城秀樹さんへの提供曲「腕の中へ」を西城さんと共にジョイントしたり、渡辺貞夫さんと海外アーティストとのジョイントといったものも行われたりするなど、回を負うことに番組イメージとして「国際色のつよい番組」という印象が浸透していきました。

確かに事前に演奏・歌唱した音源に口の動きだけを当てて歌った"ふり"だけをするという「口パク」をやった海外アーティストもいて、洋楽フリークの人々からは、放送当時には批判的な意見もあったりしたようですが、日本の音楽番組に大物の海外アーティストが毎週のように登場する、ということ自体が相当に放送業界の世界でもセンセーショナルな出来事であり、管理人自身、それまでの日本放送界ではまずは"夢"のような話であったことを「夜ヒット」という番組は実現させたという意味で、それだけでも評価に値するのでは?と思います。今の音楽番組で、毎週のように、それができなくても月1回といったスパンでも海外の有名アーティストを出演させることができる番組が殆ど皆無であることからしても、この海外アーティストの出演という点は「夜ヒット」独自の番組の特徴といっても過言ではないと同時に、何よりも番組のネームバリューがいかに高かったかを証明づける部分でもあると思います。

(追記)
今回は特に象徴的な「シナトラ&ティナ同時生出演」の点を強調的に記事を書きましたが、それ以外にも夜ヒットへの海外アーティスト出演については、書くべき事柄も多いように思いますし、このブログを閲覧してくださっている洋楽フリークの方からの当時の各アーティストの出演当時の様子なども教えていただきたいとも思っておりますので、これからもこの点についても継続的に分かる範囲で記事を書きたいと思います。

夜ヒット名シーン/吉田拓郎「アジアの片隅で」

2006-04-10 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
夜ヒット名シーン、今回は吉田拓郎さんの「アジアの片隅で」を紹介します。
このシーンは1987年最後の放送であった12月30日、初の「スーパーデラックス」版のときの一コマです。

前年まで大晦日に放送されていた「世界紅白歌合戦」(1986年は夜ヒットの名義の下で放送)に代わる年末特別企画として編成されたのが、歌謡曲色よりも、ロック・ニューミュージック色を強くした一味違う夜ヒットの魅力を引き出す、という点に重点がおかれた「スーパーデラックス」版であり、その第1回目となる1987年の最大の"目玉"として用意されたのが、日本のフォーク界の二大巨頭ともいえる、吉田拓郎さん、井上陽水さんのテレビ初共演でした。拓郎さんは、この放送より前は、1年ほど充電期間に入っており(シングル発表は1985年12月発売の「ジャスト・ア・Ronin」、LP(アルバム)も1986年9月の「サマルカンド・ブルー」以降、新作の発表がないという状態でした)、充電明け最初のテレビ出演の場として、夜ヒット以外にもほかの放送局からも色々なオファーが入っていたそうですが、それらをすべて断り、夜ヒットへの7年半ぶりとなる出演という選択肢を選びました。

夜ヒットでこの時に歌ったのは「アジアの片隅で」。この曲はちょうど拓郎さんが同番組に初出演した年である、1980年の11月に発表されたLP盤『アジアの片隅で』のタイトル曲で、オリジナルは計13分間にも及ぶ大作でした。

久しぶりのテレビ出演に花を添えるかのごとく、「シンシア」などで共に仕事をしてきたかまやつひろしさんが特別に彼の応援ゲストとして出演、また、古くからの知り合いでもあるTHE ALFEEの面々がバックコーラスとして特別参加、という何とも贅沢なシーンがこのときに実現しました。このときのステージングは視聴者のみならず、このときにスタジオ内にいた出演者をも圧巻させ、1年間にわたる"沈黙"を破る堂々のステージを展開、終盤に曲が盛り上がるに従い、彼の後ろに陣取っていたほかの出演者たちもいっせいに立ち上がり、この曲を盛り上げるべくリズムを取ったりしていました。まさに「拓郎ワールド」にスタジオ全体、そしてテレビ画面全体が引きずり込まれたといっても過言ではないものでした。

この夜ヒットでの"沈黙"を破る「アジアの片隅で」を通じての拓郎さんのメッセージは、多くの視聴者にも彼の健在ぶりを堂々と知らしめることとなり、そして、これを契機に翌年、拓郎さんは本格的な音楽活動を再開することとなりました。

1970年代前半に大ヒットとなった「旅の宿」や「外は白い雪の夜」、彼が一躍時代の寵児になった契機の曲「人間なんて」、そしてこの夜ヒットで歌われた「アジアの片隅で」、いずれを取っても、拓郎さんの作品にもその時代の人間像が映し出され、またその時代の人間に内在された本当の人間性のようなものが映し出されていますし、そして何よりも拓郎さんの曲にかける「魂」といったものが滲み出ています。この夜ヒットでのステージングを通じて、「魂」がある歌、「魂」の入っていない歌の違いは何なのか、漠然ながら再認識した人も恐らく多かったのではないでしょうか。昨今の曲でも確かに多くの人々の心に訴えかける曲が多いのですが、それらがすべて「魂」の入ったものなのか、といえば疑問が残るところです。やはり感動を与えられる歌を歌えるアーティストの条件というのは、曲それぞれに「魂」や「情熱」というものを持っていることがまず第一ではないのか、とこの拓郎さんのステージングから感じるところがあります。

「夜ヒット」という番組みいう観点から見れば、従前よりテレビ出演に消極的であり、しかも、それより前には充電期間に入っていた大御所アーティストが「夜ヒット」を自ら選択して出演してくれた、という点一つを取ってみてもいかに「夜ヒット」のネームバリューがほかの音楽番組よりも数段上を行っていたか、ということがよく分かるような感じがします。また、この「名シーン」の項目では何回も申し上げていることではありますが、夜ヒットという番組は、歌・歌手の個性を演出の重要なポイントとしていたわけで、このシーンでも下手に大掛かりな照明などといったものはなく、階段状に砂漠風景を模倣したものを少しおいただけ、照明は夕暮れ時を演出したという、歌のイメージに忠実なもので、その中で拓郎さんの「魂の歌声」がより際立って強調された、という感じがします。ここにも夜ヒットの演出力の高さが現れていると思います。



夜ヒット晩期のテコ入れ策・~マンスリーLIVE・往年の名コーナー復活・総集編・ヒットメドレーの多用

2006-04-05 | 夜のヒットスタジオ/番組史
1988年2月、芳村真理さんが放送第1000回を以て勇退し、1回置いて、第1002回目より俳優の柴俊夫さんが新司会者として登場し、古舘伊知郎さんとの男性司会コンビという当時としては異色の司会体制となりました。

新体制となって最初の頃は、司会コンビが男性2人であるという目新しさも働き、人気を維持していたようですが、司会者としてはまったくの新人といってもよかった柴さんの台本通りの司会と、台本に沿いながらも随所にアドリブを入れてトークを膨らませる喋りのプロ、古舘さんのコンビネーションの悪さが徐々に露呈するようになり、また、前任者の芳村さんの華やかな雰囲気に対して、男性2人の司会というのは相当の落差もあったりと、活気のあった番組の雰囲気はいつしか地味なものとなり、視聴率の面でも、出演者の工面という面でも苦しい時代が訪れるようになりました。DXスタート当初に掲げていた「ワールドワイドな音楽情報番組」の命題に反して、海外アーティストの出演交渉が難航し、海外アーティストが出演しない回が多くなったり、2回、多いときは3回連続で、マンスリーゲストではない歌手が連続で出演するようになったりと、徐々に出演者調達が以前よりも難しくなってきていることは視聴者の目にも明らかでした。

そこで、当時の夜ヒットスタッフは様々なテコ入れ策を投入して、番組の威厳回復を図るようになりました。そのテコ入れ策として行われた主なものを列挙してみますと・・・・
・第4スタジオでの「LIVE」
マンスリーゲストによる2時間通しのファンを迎えてのライブ企画。1月の間に1回行われる恒例企画としてDX終了期まで行われました。
・往年のコーナーの復活
1988年11月に20周年記念特集を行った際に、前田武彦さんと芳村さんの司会時代の看板コーナーとして親しまれていた「コンピューター恋人選び」を、より現代的にアレンジして復活させたところ、視聴者の反応がよかったらしく、これ以降再び恒例のコーナーとして行われるようになりました。これは時間枠が1時間に短縮した後も数回行われていたと記憶しています。
・総集編企画
古舘・柴司会時代になって以降、頻繁に生歌の合間に過去のVTRを編集して放送する機会が多くなっていきました。1988年12月7日放送の20周年大総集編を皮切りに、1989年4月5日放送のフジテレビ開局30周年記念企画など、年に3~4回程度この総集編らしき企画が実施されていました。
・ヒットメドレー、往年の名曲披露の機会増加
特にマンスリーゲストや、大物アーティストを迎える場合に過去の代表曲を振るコーラス、或いはメドレー形式で披露させる、といった試みもかなり多く行われていたようです。さだまさしさんが12分強もの大作である「親父の一番長い日」をフルコーラスで披露したり、南こうせつさんが「神田川」、長渕剛さんが「巡恋歌」、チャゲ&飛鳥が「ひとり咲き」や「ボヘミアン」、そのほか、田原俊彦さんや少年隊、松田聖子さんの10分以上のヒット曲メドレーなどもありました。

上記以外にも、以前「初出演歌手」の記事を書いた際にも触れたように1988年11月に放送開始20周年を迎えるに当たり、再び番組の勢いを取り戻すという意味を含め、それまでテレビ出演を拒否してきた大物シンガーソングライターである松山千春さんを初登場でマンスリーに抜擢したり、さださんのマンスリーの際に「建具屋カトーの決心」という曲を生放送と同時に公開レコーディングするという、何とも実験的な企画を行ったり、薬師丸ひろ子さんがディナーショー形式の企画を行ったり(これがおそらく後の「LIVE」の前身となった企画であると考えられます)、とかなりのテコ入れ策が行われました。

これらのテコいれ策は、一時的には視聴率上昇をもたらす原動力となりました。しかし、これらの企画が恒例化するようになると、再び視聴率は下降線をたどりはじめました。また、特に過去のVTRを放送する企画やマンスリーでないアイドル歌手が何回もメドレー企画を行ったりすることについては、芳村・井上司会時代以降「生歌・生演奏・フルコーラス」を信条とし、「歌」そして「歌手」の個性をまず重視してきた夜ヒットのそれまでの製作方針とは相容れないものがある、との批判も聞かれるようになり、視聴率の改善・番組の権威性の復活を命題として行ってきたこれらテコ入れ策は、「夜ヒット」の衰退をより加速させてしまうという結果に終わりました。

今思えば、これらのテコ入れが図られるようになった時点で「夜ヒット」は既に終焉への道を歩みだしていたのかもしれません。また、それと同時に歌謡番組の雄として一つの番組ブランドを築き、厳しい製作方針を採ってきた「夜ヒット」までもが、柔軟な製作方針へと転換してきたことは1990年代前半の「歌謡番組冬の時代」、そしてそれに続く「HEY HEY HEY」(フジ)、「うたばん」(TBS)に象徴される「トークバラエティー型音楽番組」という新型の音楽番組主流の時代へと、音楽番組を取り巻く環境が変化してゆく上でとのひとつのシグナルであったことは否定できません。

この時代はまだ管理人自身も小学生で、ただひたすら眠い目を擦りながら、番組制作のあり方などといったことなども分からずに見ていました。ただ、CS放送で黄金時代の夜ヒットが放送され、それを見るようになってから認識は大きく変わりました。芳村・井上時代の「夜ヒット」というのは最初のオープニングメドレー・司会者登場と、エンディングの「ラッキーテレフォンプレゼント」以外は歌とトークでつないで行く、という何ともシンプルな番組内容でしたが、それぞれの歌の持つ雰囲気や歌手の個性というものを重視し、演出にそれをそれを取り込んでいく姿勢は、まさに一流であったという感じがしますし、製作者サイトの番組にかける情熱のようなものもそこにはひしひし感じ取れます。そして、その厳しさや緊張感を何とか中和させようとする芳村さん、井上さんの温かみのある司会ぶりというのもまた絶妙でした。これが本流の「夜のヒットスタジオ」であるならば、晩期のテコ入れ策を多用した夜ヒットはその本流を大きく外れた番組となっていたのでは、と感じます。

また、番組前期の前田武彦さんや三波伸介さんの司会時代は、「歌謡ドラマ」に象徴されるように、「バラエティー」としてのカラーが強い編成であったようですが、その当時は「歌謡バラエティー」として局内でも夜ヒットは認識されており、その認識を前提として番組を作っていたことからすれば、「本格歌謡番組」の名目でバラエティー色を強くする、というのも問題があったと言えます。「常に新しい道を歩み続ける、チャレンジャー精神というのが素晴らしい」、とおっしゃっていた芸能ジャーナリストの故・加東康一氏の意見を借りれば、番組の晩期における「バラエティー色強化」とも解釈できる上記のテコ入れの多用という姿勢は、長寿番組という地位に安住しすぎて「チャレンジャー」としての姿勢を放棄してしまった、とも評価することができるのではないでしょうか。「歌謡バラエティー」へと戻っていくのではなく、あくまでも「本格歌謡番組」としてより「歌」と「歌手」の本質を見抜く演出を行うという姿勢で「夜ヒット」のブランド力をより高めていくべきだったと、管理人自身は思います。

夜ヒット出演者決定に当たっての「事務所力学」

2006-04-01 | 夜のヒットスタジオ/番組史
毎回、異なるゲストが登場をする夜のヒットスタジオ。その出演者決定、特に初出演の決定に当たり、大きく作用したのが、「事務所力学」というべきものでした。

1970年代までの出演者一覧を見ていますと、ザ・ピーナッツや森進一さん、布施明さん、沢田研二さん、梓みちよさん、中尾ミエさん、伊東ゆかりさんなどといった当時の渡辺プロダクション所属の歌手が優先的に準レギュラー格の位置を占めていました。また、初出演ということで、小柳・天地・南の元祖アイドル「三人娘」でいいますと・・・・
・小柳ルミ子さん→1971/04/25レコードデビュー…1971/05/24初出演(デビュー30日後)
・天地真理さん→1971/10/01レコードデビュー…1971/11/01初出演(デビュー32日後)
とナベプロ所属の小柳さんと天地さんはデビューから1ヶ月で早々に初登場しているのに対して、
・南沙織さん→1971/06/01レコードデビュー…1971/11/01初出演(デビュー154日後)
と、弱小事務所であった「ミュージックカプセル」なる事務所所属のシンシアさん(尚、彼女は1972年頃にバーニングプロに移籍しているそうです)はデビューからずいぶんたってからの出演、しかも、大ヒットしたデビュー曲「17才」ではなく、このときは第2弾シングル「潮風のメロディー」ヒット中の中でようやく夜ヒットに出演することができたという状態でした。この例からも、当時のナベプロの夜ヒットにおける「優遇ぶり」が垣間見えるような気がします。

しかし、その後、ナベプロ所属のスター歌手に取って代わるスターを発掘しようという意図で誕生した日本テレビ「スター誕生!」の存在、また、1973年秋に裏番組制作をめぐり発生した、おなじく日本テレビの看板歌番組「紅白歌のベストテン」との深刻な対立を契機に、歌謡界においてひとつの「帝国」ともいうべき存在となっていたナベプロの力は徐々に衰退してゆくことになります。「スター誕生」からは森昌子さんに始まり、桜田淳子さん、山口百恵さん、岩崎宏美さん、新沼謙治さん、ピンクレディーなどが続々とデビューしていきます。そして、彼らはナベプロではなく、サンミュージック(桜田さん)、ホリプロ(百恵さん、森昌子さん)などといった中堅ところというべき事務所に所属をしていき、彼らがスター歌手への道を確実に歩み続けていく過程の中で、彼らの所属事務所もまた、歌謡界におけるステータスを徐々に上げていきました。その中で、1970年代の後半以降、ナベプロの夜ヒットに対する影響力は、準レギュラー格だった一部歌手の出演を除いて、かつての勢いを失っていきました。

このナベプロの権力衰退と平行して、1970年代後半から夜ヒットに強い影響力を持つようになったのが、「バーニングプロ」でした。まだ現在のように大手事務所ではなかったジャニーズ事務所から郷ひろみさんを引き抜き、また前述のように弱小事務所から南沙織さんをこれまた引き抜き、そして細川たかしさん、高田みづえさん、小泉今日子さん、といった具合に有望な新人を獲得するなどして、1970年代の後半以降、事務所の影響力を強めていきました。その中で夜ヒットでもどう事務所所属の歌手は優先的に出演機会をまわされるようになっていきました。一時は、同番組の名物プロデューサーであった、疋田拓さんとバーニングとの癒着関係もささやかれるほどに、バーニングは夜ヒットに大きな力を及ぼしていたようです(疋田さんは1986年に同番組を離れてしまうことになりますが、それも、上記の「癒着関係」が指摘されたことがひとつの要因となっていたようです)。
・細川たかしさん→1975/04/01レコードデビュー…1975/05/05初出演(デビュー35日後)
・高田みづえさん→1977/03/25レコードデビュー…1977/03/21初出演(デビュー5日前、高田さんの場合、フジテレビのオーディション番組から出てきたこともレコードデビュー前での初出演が決まった大きな要因であったようです。)
・小泉今日子さん→1982/03/21レコードデビュー…1982/03/22初出演(デビュー1日後)

そして、1980年代の夜ヒットを語る上で、バーニングと並んで、はずすことができないのが、ジャニーズ事務所です。田原俊彦さん以降、近藤真彦さん、野村義男さん率いるTHE GOOD-BYE、シブがき隊、少年隊、光GENJI、男闘呼組と、次々と人気男性アイドルをデビューさせていき、夜ヒットでの出演機会も相当に優遇されていました。田原さん・近藤さんデビューの1980年の後半以降は、ジャニーズ事務所所属タレントが出演していない回を探すほうが大変なほどに、頻繁に出演していました。ザ・グッパイ、少年隊、男闘呼組については、レコードデビューよりも前に単独のアーティストとして初出演していることからもその優遇ぶりは明らかではないか?と思います。おそらく、当時リアルタイムでヒットスタジオを見ていた方の中にも、初めて彼らをテレビで見たのが夜ヒットだった、という人も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
・田原俊彦さん→1980/06/21レコードデビュー→1980/06/30初出演(デビュー10日後)
・近藤真彦さん→1980/12/12レコードデビュー→1980/11/24初出演(デビュー19日前)
・THE GOOD-BYE→1983/09/01レコードデビュー→1983/05/16初出演(デビュー109日前)
・シブがき隊→1982/05/05レコードデビュー→1982/05/03初出演(デビュー3日前)
・光GENJI→1987/08/19レコードデビュー→1987/07/29初出演(デビュー22日前)
・男闘呼組→1988/08/24レコードデビュー→1987/03/04初出演(デビューより約1年5ヶ月前)
・少年隊→1985/12/12レコードデビュー→1982/06/28初出演(デビューより約3年6jヶ月前)

現在でも多くの歌番組ではジャニーズ事務所のグループは出演機会が優先的にまわされている傾向は強いようですが、夜ヒットの場合、ジャニーズ事務所以外の男性アイドル(沖田浩之さんや風見慎吾さんなど)も新曲を出すたびに出演していましたし、特に吉川晃司さんは番組開始当初からの「ナベプロ」の強いプッシュにより、準レギュラー格として出演を続けていました。その点が、ジャニーズ事務所の男性アイドルしか出せないという某番組との大きな違いか、と思います。夜ヒットの場合も、確かに事務所の力学が時代推移によって、その相手は異なってきたにせよ、出演者の人選に影響を与えていたことは事実なのですが、それ以上に「出来る限り、広いジャンルから、広い人選を、」という製作スタンスも常に意識されていたこともあり、ジャニーズ以外の男性アイドルへの出演機会も積極的に与えていた、ということができる、と思います。そういう点からしても、本当の意味で「幅広いジャンルを網羅し、いろいろなカラーの違う歌を楽しめる音楽番組」といえるのは、テレビ史上に幾多もあった今昔の音楽番組の中でも、夜ヒットしかなかったのでは?と思います。

このほかにもいろいろと事務所力学を感じさせるデータはいくつか夜ヒットではありますが、それらについてはまた後日、紹介したいと思います。