夜のヒットスタジオといえば、なんと言っても他の番組にはない特色であったのが、海外アーティストの出演ではないでしょうか。
1969年12月22日放送に当時、ジミー・オズモンドのヴォーカルで「ちっちゃな恋人」が日本でもヒットしていた「オズモンド・ブラザーズ」(オズモンズ)が出演。これが夜ヒットにおける海外アーティスト出演者第1号とされています。前田武彦さん、三波伸介さんの時代にはあまり海外アーティストが出演する機会はなかったのですが、井上順さんに司会が代わり、歌謡バラエティーから「正統音楽番組」へと番組のコンセプトを転換するようになって以降、海外アーティストの出演機会が増加しました。
月曜の1時間枠だった時代には、フリオ・イグレシアス、アンディ・ウィリアムス、ピーター、ポール&マリー、U2、デュランデュラン、リック・スプリングフィールド、カルチャークラブ、シーナ・イーストン、オリビア・ニュートンジョン、マドンナなどが夜ヒットに出演(来日時にスタジオに生出演するというケースが多かったですが、例外的に衛星中継で出演することもありました)。毎週出演というわけではなかったですが、特に1980年代に入った頃からは1ヶ月連続で違った海外アーティストが出演するという月が出てくるなど、夜ヒットは国際色豊かな番組へと徐々に変貌していきました。
そして、これらの長年の海外アーティストとの関わり合いが、1985年春の番組リニューアルへの一つの布石となりました。
1985年4月、夜ヒットは17年近く続けてきた月曜22時台での放送から、水曜21・22時台という2時間のワイド編成番組「夜のヒットスタジオDELUXE」へと生まれ変わり、その際の番組コンセプトとして、「国内だけでなく、世界に目を向けて先端の音楽を聞かせる」という点が含まれていました。
その「ワールドワイドな番組」へと生まれ変わろうとする姿勢を視聴者に印象付かせるべく、リニューアル当初より持ち上がっていたのが、アメリカのショービジネス界だけでなく、世界を駆け巡るエンターテイナーの雄として知られる、フランク・シナトラの生出演、というものでした。
この当時の夜ヒットプロデューサーであった疋田拓さんの後日談(「芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE」参照)によりますと、当初、フランク・シナトラ出演を猛プッシュしていたのは、フジテレビではなく、TBSであったそうです。しかし、早い段階で番組が大きく変貌したところをアピールしたいという思いが強かった疋田さんを始めとする時のスタッフが、TBS内でシナトラの日本の番組への出演を推し進めていた担当者に「どうしてもシナトラをこちらの方に貸してほしい」と申し込み、交渉の末にシナトラへの夜ヒット出演交渉の権利を獲得し、程なくして、シナトラ氏自身の方からも出演を快諾する旨の返事が来て、リニューアルわずか3回目という異例の速さで、フランク・シナトラのスタジオ生出演が決定したようです。そして、それと併せて、積年、交渉を続けてきた、米ロック界の大御所・ティナ・ターナーも衛星中継での出演を受諾し、こうして、"超"大物2大アーティストの同時生出演が正式に決定したのです。
この準備段階では、当然に、"超"大物2人が出演するとあって、出演料などの問題が局内でも机上に上ったようですが、疋田さんは「えー、やっちゃえ!」と半ば強引に局内の同意を取り付け、この一大企画を実現させました。この時に出演する2人に対して費やされた番組予算は、何と5,000万円。当時はまだ音楽番組が数多く乱立していた時代であり、各局もそれ相応の予算を音楽番組に対しては付けていたようですが、5,000万円という額は、当然にその中でも破格の額でした。予算云々よりもまずは「番組を前進させる」という点を重視し続けていた当時の夜ヒットスタッフの強い意気込みを感じる話です。
ティナ・ターナーはロンドンからの衛星生中継、そして、フランク・シナトラは、特別車で、旧フジテレビ社屋の駐車場から入ってきて、この時のマンスリーゲスト・小柳ルミ子さんが社屋の入口でシナトラを出迎え、エスコートしながらスタジオに入場する、という「特別待遇」の演出を用意しました。衛星中継でティナ・ターナーが登場した際には、シナトラは、ティナに対して「ティナ、お前どこにいるんだ?」、そしてティナは「ロンドンよ」などというやり取りを生放送内で行ったり、といったように、この回は、通常のときから華やかさのある夜ヒットがより華やかな雰囲気に包まれた回となりました。
この「ティナ&シナトラ同時生出演」は、海外の音楽番組でもそうそう実現できない企画であっただけに、それを日本の番組であるにも関わらずやってのけてしまった「夜のヒットスタジオ」の名は海外の音楽・放送関係者でも話題となり、これ以降、海外アーティストの出演交渉が比較的容易になった、といわれています。出演形態も、来日時のプロモーションをかねての出演という形だけでなく、衛星中継での出演の形態も1時間時代以上に多用し、このDELUXE時代には1~2組の海外アーティストがほぼ毎回出演しました。この後もレイ・パーカーjr.、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、などといった大物海外アーティストの出演は続き、また、海外アーティストに関係する企画が用意されることなどもありました。たとえばパリー・マニロウは西城秀樹さんへの提供曲「腕の中へ」を西城さんと共にジョイントしたり、渡辺貞夫さんと海外アーティストとのジョイントといったものも行われたりするなど、回を負うことに番組イメージとして「国際色のつよい番組」という印象が浸透していきました。
確かに事前に演奏・歌唱した音源に口の動きだけを当てて歌った"ふり"だけをするという「口パク」をやった海外アーティストもいて、洋楽フリークの人々からは、放送当時には批判的な意見もあったりしたようですが、日本の音楽番組に大物の海外アーティストが毎週のように登場する、ということ自体が相当に放送業界の世界でもセンセーショナルな出来事であり、管理人自身、それまでの日本放送界ではまずは"夢"のような話であったことを「夜ヒット」という番組は実現させたという意味で、それだけでも評価に値するのでは?と思います。今の音楽番組で、毎週のように、それができなくても月1回といったスパンでも海外の有名アーティストを出演させることができる番組が殆ど皆無であることからしても、この海外アーティストの出演という点は「夜ヒット」独自の番組の特徴といっても過言ではないと同時に、何よりも番組のネームバリューがいかに高かったかを証明づける部分でもあると思います。
(追記)
今回は特に象徴的な「シナトラ&ティナ同時生出演」の点を強調的に記事を書きましたが、それ以外にも夜ヒットへの海外アーティスト出演については、書くべき事柄も多いように思いますし、このブログを閲覧してくださっている洋楽フリークの方からの当時の各アーティストの出演当時の様子なども教えていただきたいとも思っておりますので、これからもこの点についても継続的に分かる範囲で記事を書きたいと思います。
1969年12月22日放送に当時、ジミー・オズモンドのヴォーカルで「ちっちゃな恋人」が日本でもヒットしていた「オズモンド・ブラザーズ」(オズモンズ)が出演。これが夜ヒットにおける海外アーティスト出演者第1号とされています。前田武彦さん、三波伸介さんの時代にはあまり海外アーティストが出演する機会はなかったのですが、井上順さんに司会が代わり、歌謡バラエティーから「正統音楽番組」へと番組のコンセプトを転換するようになって以降、海外アーティストの出演機会が増加しました。
月曜の1時間枠だった時代には、フリオ・イグレシアス、アンディ・ウィリアムス、ピーター、ポール&マリー、U2、デュランデュラン、リック・スプリングフィールド、カルチャークラブ、シーナ・イーストン、オリビア・ニュートンジョン、マドンナなどが夜ヒットに出演(来日時にスタジオに生出演するというケースが多かったですが、例外的に衛星中継で出演することもありました)。毎週出演というわけではなかったですが、特に1980年代に入った頃からは1ヶ月連続で違った海外アーティストが出演するという月が出てくるなど、夜ヒットは国際色豊かな番組へと徐々に変貌していきました。
そして、これらの長年の海外アーティストとの関わり合いが、1985年春の番組リニューアルへの一つの布石となりました。
1985年4月、夜ヒットは17年近く続けてきた月曜22時台での放送から、水曜21・22時台という2時間のワイド編成番組「夜のヒットスタジオDELUXE」へと生まれ変わり、その際の番組コンセプトとして、「国内だけでなく、世界に目を向けて先端の音楽を聞かせる」という点が含まれていました。
その「ワールドワイドな番組」へと生まれ変わろうとする姿勢を視聴者に印象付かせるべく、リニューアル当初より持ち上がっていたのが、アメリカのショービジネス界だけでなく、世界を駆け巡るエンターテイナーの雄として知られる、フランク・シナトラの生出演、というものでした。
この当時の夜ヒットプロデューサーであった疋田拓さんの後日談(「芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE」参照)によりますと、当初、フランク・シナトラ出演を猛プッシュしていたのは、フジテレビではなく、TBSであったそうです。しかし、早い段階で番組が大きく変貌したところをアピールしたいという思いが強かった疋田さんを始めとする時のスタッフが、TBS内でシナトラの日本の番組への出演を推し進めていた担当者に「どうしてもシナトラをこちらの方に貸してほしい」と申し込み、交渉の末にシナトラへの夜ヒット出演交渉の権利を獲得し、程なくして、シナトラ氏自身の方からも出演を快諾する旨の返事が来て、リニューアルわずか3回目という異例の速さで、フランク・シナトラのスタジオ生出演が決定したようです。そして、それと併せて、積年、交渉を続けてきた、米ロック界の大御所・ティナ・ターナーも衛星中継での出演を受諾し、こうして、"超"大物2大アーティストの同時生出演が正式に決定したのです。
この準備段階では、当然に、"超"大物2人が出演するとあって、出演料などの問題が局内でも机上に上ったようですが、疋田さんは「えー、やっちゃえ!」と半ば強引に局内の同意を取り付け、この一大企画を実現させました。この時に出演する2人に対して費やされた番組予算は、何と5,000万円。当時はまだ音楽番組が数多く乱立していた時代であり、各局もそれ相応の予算を音楽番組に対しては付けていたようですが、5,000万円という額は、当然にその中でも破格の額でした。予算云々よりもまずは「番組を前進させる」という点を重視し続けていた当時の夜ヒットスタッフの強い意気込みを感じる話です。
ティナ・ターナーはロンドンからの衛星生中継、そして、フランク・シナトラは、特別車で、旧フジテレビ社屋の駐車場から入ってきて、この時のマンスリーゲスト・小柳ルミ子さんが社屋の入口でシナトラを出迎え、エスコートしながらスタジオに入場する、という「特別待遇」の演出を用意しました。衛星中継でティナ・ターナーが登場した際には、シナトラは、ティナに対して「ティナ、お前どこにいるんだ?」、そしてティナは「ロンドンよ」などというやり取りを生放送内で行ったり、といったように、この回は、通常のときから華やかさのある夜ヒットがより華やかな雰囲気に包まれた回となりました。
この「ティナ&シナトラ同時生出演」は、海外の音楽番組でもそうそう実現できない企画であっただけに、それを日本の番組であるにも関わらずやってのけてしまった「夜のヒットスタジオ」の名は海外の音楽・放送関係者でも話題となり、これ以降、海外アーティストの出演交渉が比較的容易になった、といわれています。出演形態も、来日時のプロモーションをかねての出演という形だけでなく、衛星中継での出演の形態も1時間時代以上に多用し、このDELUXE時代には1~2組の海外アーティストがほぼ毎回出演しました。この後もレイ・パーカーjr.、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、などといった大物海外アーティストの出演は続き、また、海外アーティストに関係する企画が用意されることなどもありました。たとえばパリー・マニロウは西城秀樹さんへの提供曲「腕の中へ」を西城さんと共にジョイントしたり、渡辺貞夫さんと海外アーティストとのジョイントといったものも行われたりするなど、回を負うことに番組イメージとして「国際色のつよい番組」という印象が浸透していきました。
確かに事前に演奏・歌唱した音源に口の動きだけを当てて歌った"ふり"だけをするという「口パク」をやった海外アーティストもいて、洋楽フリークの人々からは、放送当時には批判的な意見もあったりしたようですが、日本の音楽番組に大物の海外アーティストが毎週のように登場する、ということ自体が相当に放送業界の世界でもセンセーショナルな出来事であり、管理人自身、それまでの日本放送界ではまずは"夢"のような話であったことを「夜ヒット」という番組は実現させたという意味で、それだけでも評価に値するのでは?と思います。今の音楽番組で、毎週のように、それができなくても月1回といったスパンでも海外の有名アーティストを出演させることができる番組が殆ど皆無であることからしても、この海外アーティストの出演という点は「夜ヒット」独自の番組の特徴といっても過言ではないと同時に、何よりも番組のネームバリューがいかに高かったかを証明づける部分でもあると思います。
(追記)
今回は特に象徴的な「シナトラ&ティナ同時生出演」の点を強調的に記事を書きましたが、それ以外にも夜ヒットへの海外アーティスト出演については、書くべき事柄も多いように思いますし、このブログを閲覧してくださっている洋楽フリークの方からの当時の各アーティストの出演当時の様子なども教えていただきたいとも思っておりますので、これからもこの点についても継続的に分かる範囲で記事を書きたいと思います。