伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(49-3) 1976年11~12月③

2008-06-12 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年12月6日(第422回)>
・聞いて下さい私の人生 藤 圭子
 詞:六本木哲 曲:岡 千秋 R:1976/08/25 HC:70位
・たまらなく淋しくて アローナイツ
 詞:たかたかし 曲:ノト・サトー R:1976/11/-
・ひとりごとの水時計 岡崎ひとみ
 詞:有馬三恵子 曲:森ミドリ R:1976/12/-
どうぞこのまま 丸山圭子
 詞・曲:丸山圭子 R:1976/07/05 HC:5位
◆年間チャート(77年)32位(35.3万枚)
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀新人賞受賞
LP「黄昏めもりい」からのシングルカット。フォーク色・ポップス色の強いナンバーが大半であった同LPにボサノヴァ調のメロディーを取り入れたこの曲を収録するに当たっては、当初は他の収録作品との比較から異質さが際立っていたこともあり周囲からの反対の声が強かったが、丸山のこの曲に対する強い思いに最終的には折れる形で同LPへの収録が決定したという。このLPリリースに合わせ、そこからのシングルカットとして「ひとり寝のララバイ」も発売されたが、プロモーションの段階から「ひとり寝の―」よりも同曲の評判のほうがよかったこともあり、急遽8月になって臨時リリースという形で同曲がシングルカットされる運びとなった。前評判通りこの曲は累計52万枚(オリコン調べ)を売り上げるヒットを記録、丸山はこの作品によって一躍知名度を上げた。
<丸山圭子>
 72年、エレックレコードよりLP「そっと私は」EP「心の中の」でデビュー。ラジオ番組「キョーリンヘルスフォーク・圭子のソネット」(ラジオ関東<現・ラジオ日本>)、テレビ番組「ヤングインパルス」(テレビ神奈川)などの司会・レギュラーの仕事やバンド「ピピ&コット」での活動を経て、76年にリリースしたシングル「どうぞこのまま」が翌77年にかけて大ヒット、人気女性シンガーソングライターとして頭角を現す。シングル「ラ・ムール」「MISS LONELY」などのオリジナル楽曲の制作の傍ら、由紀さおり、南沙織、桜田淳子らにも楽曲を提供したり、ドラマ「誰かが私を愛してる」(TBS系)の劇中音楽を担当するなど幅広い創作活動を展開。84年に当時の夫である作曲家・佐藤準との間にもうけた子供の育児専念のため音楽活動を休止。その後、佐藤と離婚したのを96年より再び音楽活動を再開。水越けいこ、庄野真代、鈴木康博らとのジョイントコンサートなどで健在ぶりを発揮する傍ら、現在は音楽学校「ヒューマンミュージックカレッジ」の講師として後輩ミュージシャンの育成にも当たっている。

<1976年12月13日(第423回)>
・のんだくれ 安倍律子 R:1976/11/-
・夜明け 北島三郎 
 詞:星野哲郎 曲:米山正夫 R:1976/09/-
・もう一度だけふり向いて 桜田淳子
 詞:阿久 悠 曲:穂口雄右 R:1976/12/05 HC:11位
・哀愁のシンフォニー キャンディーズ
 詞:なかにし礼 曲:三木たかし R:1976/11/21 HC:12位

<1976年12月20日(第424回)>
・君が優しすぎるから あおい輝彦
 詞:岩谷時子 曲:井上忠夫 R:1976/10/25 HC:24位
・ちんちん電車 井上 順 
 詞・曲:井上尭之 R:1976/10/-
ラスト・シーン 西城秀樹 
 詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1976/12/20 HC:8位
※それまで「絶叫型」と評されるスタイルで人気を集めてきた西城が初めて挑戦した本格的なバラード。この曲ではそれまでの派手なアクションは極力封印してテレビ番組に登場、売上としてはオリコン週間チャートで最高8位に留まったが、前作の「若き獅子たち」と並び歌手としての幅を広げる契機をこの曲で築いた。
ペッパー警部 ピンクレディー
 詞:阿久 悠 曲:都倉俊一 R:1976/08/25 HC:4位
◆年間チャート(77年)14位(51.9万枚)
◆第18回(76年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第7回(76年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀新人賞受賞
※この後、77~79年にかけてNo.1ヒットを立て続けに世に送り出し国民的アイドルへと成長していくピンクレディーのデビューシングル。当初は歌詞内容の奇抜さから、所属レーベルのビクターではB面の「乾杯!お嬢さん」(作詞・作曲はA面と同じく阿久・都倉コンビが担当)をA面とし、この曲をそのカップリングとして収録する形でのリリースが検討されていたが、これに阿久・都倉が反対したために同曲がA面として最終的には採用されることになったという。露出度の高い衣装と派手な振付が注目され、デビューシングルながら累計60.5万枚(オリコン調べ)を売り上げるヒットとなった。

<1976年12月27日(第425回)>
最後の一葉 太田裕美
 詞:松本 隆 曲:筒美京平 R:1976/09/01 HC:5位
四季の歌 芹 洋子
 詞・曲:荒木とよひさ R:1976/08/21 HC:8位
◆年間チャート(77年)48位(24.9万枚)
作詞・作曲家の荒木とよひさが、妙高高原でのスキー中に骨折し入院した際に世話になった看護師への謝礼の歌として作った作品である。70年に片山和子が最初にこの曲のシングルレコードを発売72年2月にはいぬいゆみによるバージョンも発売され、オリコン週間チャート最高48位のスマッシュヒットとなったものの当時はさほど話題には上がらなかった。しかし、76年にニッポン放送のラジオ番組「あおぞらワイド」にリスナーであった一般主婦が同曲をリクエストしたところから再注目されるようになり、各レコード会社がこの曲のレコードを再び製作、キングの芹洋子、ビクターの立川清登、キャニオン(現・ポニーキャニオン)の菅原保徳(現・すがわらやすのり)など最終的には8社による競作となったが、芹洋子によるバージョンが累計40万枚以上のセールスを記録しこの中で最大のヒットとなった。後に中国でも「四季之歌」(スーチーシーガー)というタイトルで発売されヒットし、千昌夫の「北国の春」と並び、中国本土で最も有名な日本の愛唱歌として現在に至るまで広く親しまれている。
<芹 洋子>
 小学生の頃からテレビ番組やレコード会社主催ののど自慢大会や歌唱コンクールに入賞。68年、高校卒業を機に地元・大阪を離れて上京。69年、「芹洋子」の芸名でビクターより「野に咲くバラのように」で最初のシングルレコードを発売(ビクターからはこの曲を含め71年にかけて計3枚のシングルを発売)。NHKの音楽番組「歌はともだち」にレギュラー出演を経て、72年にレーベルをキングレコードに変えシングル「牧歌-その夏」で正式にレコードデビュー。74年、当時話題となっていた国鉄広尾線(北海道)の愛国~幸福駅間を乗車する際に発行される「愛国発幸福行き」切符のブームに乗り製作されたシングル「愛の国から幸福へ」が話題となり、続く76年のこの「四季の歌」、77年の「赤い花白い花」、78年の「坊がつる賛歌」のヒットによって人気を確立。その後は主に童謡・唱歌を中心に歌手活動を展開。中国との関わりが深く、81年に日中文化交流音楽大使に任命され北京公演を開催して以来、10回以上に渡り中国でのコンサートを開催。2008年には来日した胡錦涛国家主席とも非公式での対談を実現させている。
落葉が雪に 布施 明 
 詞・曲:布施 明 R:1976/10/10 
 HC:1位(1976/11/08)
◆年間チャート(76年)45位(24.5万枚)
※サントリー「ゴールドラベル」CMソング。
布施のシングル作で初めて作詞・作曲・歌の一人三役をこなした作品である。77年3月リリースの次のシングル「ひとり芝居」も同様に布施自身が詞・曲を手掛けている。
【メドレー】わかって下さい~おまえさん~シクラメンのかほり 都はるみ
 ・わかって下さい 都はるみ
  詞・曲:因幡 晃 (R:1976/02/05) (HC:3位)
※この年ヒットした因幡晃の代表作。「北の宿から」をこの年多くのテレビ番組等で歌ってきたことから、たまには他の歌手の歌を歌いたいという都の意向で、演歌色を排除した他の歌手のヒット曲3曲をメドレー形式で披露する企画が用意された。 

【司会】 芳村真理・井上 順


(参考)この頃の主な出来事
・12/05 戦後初の任期満了による第34回衆議院議員選挙の投開票実施。ロッキード事件の影響から自民党が敗北を喫し単独過半数割れ。衆院各委員会の委員長ポストの自民独占状態が崩壊。
・12/10 ソ連、200カイリ漁業専管水域の設定を布告。
・12/21 1等賞金1000万円のジャンボ宝くじが売り出され、各地の宝くじ売り場で群集が殺到。福岡、松本で死者が出る騒動に発展。これを踏まえ翌77年からは官製往復ハガキによる予約制が導入されることに。
・12/24 三木武夫内閣総辞職。福田赳夫が第67代内閣総理大臣の指名・認証を受け、即日新内閣を発足。
・12/31 この年の日本レコード大賞に都はるみ「北の宿から」。最優秀歌唱賞は八代亜紀「もう一度逢いたい」、最優秀新人賞は内藤やす子「想い出ぼろぼろ」。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(49-2) 1976年11~12月② 

2008-06-08 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年


(76年11月1日(第417回)・8日(第418回)放送分については「曲目リスト(49-1) 76年11~12月①」に記載)

<1976年11月15日(第419回)>

・ク・クル・ク・ク・パロマ(Cu-Curu-Cu-Cu Paloma) アイ・ジョージ
 詞・曲:Tomas Mendez R:1962/-/-<詳細求む>
◆第13回・第20回(62年・69年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回・10回)
<アイ・ジョージ>
①1960 年代に人気を集めたラテン・ジャズ歌手。石油会社の重役であった日本人の父と、フィリピン人の母の間に生まれ、幼少期の頃は父の仕事の影響で香港・マニラ などを転々としながら裕福な少年時代を過ごしたが、彼が生まれて間もなく母親が死亡、父親もバタビヤへの戦地に赴任後、現地の刑務所に投獄され、帰国後す ぐ逝去。15歳で天涯孤独となった彼はその後、ボクシングや競輪の選手、運送屋、菓子屋など数十の職業を転々としながら苦しい生活を送る。その後、米軍 キャンプを中心に流しの歌手として生計を立てるようになり、1953年、知人の薦めでテイチクの歌手採用試験を受け合格、「黒田春夫」という芸名で「裏街ながしうた」でデビューする。しかし、あくまでも歌謡曲路線で売り出したいレコード会社とジャズ・ラテンに傾斜していた彼との方向性の違いが早々から際立ち、程なくテイチクを退社。再び流しの生活に戻る。
② 再び流しの歌手として日本各地の繁華街を転々としていた最中の1959年、大阪のナイトクラブ「クラブアロー」に当初出演予定であった外人歌手が出られな くなりその代理として急遽出演することとなり、そのステージが盛況を得たことから、後にこのクラブと専属契約を結び、再デビューに向けての第一歩を築く。 また、同時期に森繁久弥からもその才能を評価され、森繁率いる「森繁劇団」の大阪での舞台公演にも客演し、知名度を上げた。この年12月、人気ラテングループ「トリオ・ロス・パンチョス」の日本公演に、坂本スミ子とともに前座歌手に起用され、これを機に芸名を「アイ・ジョージ」とし正式に再デビューし、古巣のテイチクとも再契約。その後、「ク・クル・ク・ク・パロマ」「ラ・マラゲーニャ」「ダニー・ボーイ」「ラ・バンバ」「カチード」など洋楽のカバーを中心に歌手活動を展開する傍ら、オリジナルの歌謡曲である「硝子のジョニー」「赤いグラス」「紅子のバラード」などもヒット。抜群の声量と歌唱テクニックにより、1960年代の日本の歌謡界屈指の実力派シンガーとして人気を獲得する。63年には日本人歌手として初めてアメリカのカーネギー・ホールでコンサートを開催、その後も海外での公演を定期的に行い、「世界の流し」との異名を取るようになる。
③69年にはバンド「ザ・ジャパニーズ」を結成。71年には「自由通りの午後」がポーランド音楽祭「ソポト」の日本代表作品に選出さ れるなど、歌手として更なる飛躍が期待されるが、70年代半ば以降、飲食店経営など多額の借金を背負うなど金銭トラブルが続出、これが原因となり表舞台の 一線からフェードアウトせざるを得ない状態に陥ってしまう。テレビ番組やコンサートへの出演も平成期に入ってからはほとんど行っておらず、事実上歌手業は 引退状態となっている。
・どこへ帰る 五木ひろし
 詞:山口洋子 曲:平尾昌晃 R:1976/09/25 HC:16位
◆第2回(76年)全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリ受賞曲 
・夜のフェリーボート テレサ・テン
 詞:山上路夫 曲:井上忠夫 R:1976/06/01 HC:85位
昔の名前で出ています 小林 旭
 詞:星野哲郎 曲:叶 弦大 R:1975/01/25 HC:6位
◆年間チャート(77年)5位(70.8万枚)
◆第10回(77年)日本有線大賞特別賞受賞曲
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞グランプリ受賞曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
※この曲は星野の実体験から生まれた作品といわれている。彼が地方に旅に出ていた際、たまたま一度結婚のために水商売の世界から足を洗った星野の知り合いの女性から、訳あってまたこの世界に戻り独立したので一度店に来て欲しいという電話をもらい、その際、彼女に名前を尋ねたところ、「昔の名前で出ている」と答えた。この言葉に強い印象を抱いた星野は宿泊先のホテルに戻って、一晩でこの曲の歌詞を書き上げたという。
※この曲を発表した前後の時期に、小林は経営していたゴルフ場が倒産し、東映に移籍してヤクザ映画に出演したり、歌手として地方での営業を行うなど地道な芸 能活動により多額の負債返済に明け暮れる日々を過ごしていたが、この曲の2年がかりの大ヒット(累計95.3万枚<オリコン調べ>によりその負債 を一気に返済することができたという。
雪は降る(Tombe La Neige) サルヴァトーレ・アダモ
 詞:Salvatore Adamo/安井かずみ<日本語版訳詞>
 曲:Salvatore Adamo 
 R:1963/-/-<オリジナル>、1969/06/01<日本語版> HC:5位<日本語版>(日・オリコン、71年)
◆年間チャート(71年)31位(30.5万枚)
<サルヴァトーレ・アダモ>
① イタリア出身、ベルギー育ちの世界的なシンガーソングライター。1961年、地元の歌唱コンクールで優勝したのを機に、「哀しみのヴェニス」「帰り来ぬ青 春」などで知られるフランスの人気シャンソン歌手、シャルル・アズナヴールのバッグアップを受け、ベルギー・フィリップス社で初のレコード収録に参加。当 初はなかなかヒット作が生まれなかったが、62年秋に発表した「ブルー・ジーンと皮ジャンパー」がスマッシュヒットし、続く「サン・トワ・マミー」が翌63年にかけて大ヒット、その後も「一寸失礼」「雪は降る」「いとしのパオラ」「夢の中に君がいる」などのヒットが続き、国内での人気を確立。また、フランスを初めとする他の欧州諸国の音楽市場にも本格的に進出し、ソ連やアフリカ、チリ、イスラエルなどでも長期のツアーを実施。世界中に多くの固定ファンを持つ国際派スターとして活躍する。84年夏に持病の心臓病が悪化し、一時療養を強いられるが、脅威の回復力で短期間で復帰、日本公演を敢行しファンを喜ばせた。
大の親日家としても知られ、1963年の初来日以来、30回以上にわたり日本公演を敢行。 コンサートのみならず来日時には「ヒットスタジオ」をはじめ「サウンド・イン・S」(TBS系)、「ミュージックフェア」(フジテレビ系)、「徹子の部屋」(テレビ朝日系)など日本のテレビ番組にも数多く出演したり、日本の歌手(森進一ら)に楽曲の提供を行うなど、日本のショービジネスの世界にも一定の 足跡を残した。日本の歌手にも彼の作品をレパートリーとして取り込んでいる歌手も多く、特に越路吹雪は64年に大ヒットした「サン・トワ・マミー」をはじ め、「夢の中に君がいる」「夜のメロディー」「失せし恋」「どうぞおねがい」など、アダモの代表的なナンバーを率先してシングル・アルバム盤に吹き込むな ど、その後のアダモの日本での人気に多大な影響を及ぼした存在でもあった。80年秋、越路が逝去した際に行われた追悼式にもアダモは急遽来日し彼女に哀悼 の意を捧げている。

<1976年11月22日(第420回)>
・酒場川 ちあきなおみ
 詞:石本美由起 曲:船村 徹 R:1976/10/10 HC:81位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(7回)
・兄いもうと 新沼謙治
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1976/11/01 HC:39位
・ダンス・ウィズ・ミー 和田アキ子
 詞:千家和也 曲:浜田省吾 R:1976/11/25 
・あけぼの荘 千田彩子 R:1976/10/-
・さざんか 森 進一
 詞:中山大三郎 曲:猪俣公章 R:1976/08/25 HC:24位
◆第18回(76年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲
◆第7回(76年)日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(9回)
【メドレー】白いあなた~最後の一葉 太田裕美
 ・白いあなた 太田裕美
  詞・曲:太田裕美 R:1976/06/21【LP】
LP「手作りの画集」収録曲

<1976年11月29日(第421回)>
・逢いびき 伊東ゆかり
 詞:なかにし礼 曲:川口 真 R:1976/08/01
パールカラーにゆれて 山口百恵
 詞:千家和也 曲:佐瀬寿一 R:1976/09/21 
 HC:1位(1976/10/04-11/01)
◆年間チャート(76年)18位(40.9万枚)
◆第9回(76年)日本有線大賞有線ヒット賞受賞曲
コバルトの季節の中で 沢田研二
 詞:小谷 夏(久世光彦) 曲:沢田研二 R:1976/09/10 HC:7位
※この年も「立ちどまるなふり向くな」「ウィンクでさよなら」そして同曲とベストテンヒットを立て続けに発表した沢田だったが、この年5月、新幹線の車内に一般の男性乗客にからかわれたことに憤激し、相手を殴打し軽傷を負わせるという不祥事を起こしたことから、その責任を取る形で、同年の賞レース番組や大晦日の紅白歌合戦への出場を全て辞退している。
※ソロ転向後では初の沢田自身の作曲によるシングル作品。作詞は前年のドラマ「悪魔のようなあいつ」(TBS系)で知遇を得たドラマプロデューサー・久世光彦が担当した。 
東村山音頭(志村ケンの全員集合 東村山音頭) 志村けん(ザ・ドリフターズ)
 詞:土屋忠司 曲:細川潤一/たかしまあきひこ<編> R:1976/09/05 HC:8位
※元々は1963年、東京・東村山市の市制施行を記念して地元農協からの依頼盤としてキングレコードから制作・発売されたものである(歌は当時キングの看板スターであった三橋美智也、下谷二三子を起用)。この曲を少年期に頻繁に聞いていた東村山出身の志村けんが、「8時だョ!全員集合」の一コーナー「少年少女合唱隊」でギャグを織り交ぜて披露したところ好評を博し、後に加藤茶による「はじめての僕デス」との両A面扱いでシングル化され、オリコン最高6位、21万枚以上を売り上げるヒットとなった。74年に荒井注に代わる新メンバーとしてドリフターズに加入して以降、迂闊が上がらずスランプ状態にあった志村だったが、この曲のヒットを背景に子供たちを中心に熱烈な支持を獲得するようになり、以後加藤茶と並ぶツートップ体制でドリフの人気を牽引する存在に成長してゆく。 

【司会】 芳村真理・井上 順


(参考)この頃の主な出来事
・11/16 この年の日本歌謡大賞に都はるみ「北の宿から」。
・11/29 日本医科大学の丸山千里名誉教授、自ら発明したガン抑制に効果があるとされる「丸山ワクチン」の新薬認可申請を厚生省に提出。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(49-1) 1976年11~12月①

2008-06-08 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年11月1日(第417回)>
・女になるでしょう 西川峰子
 詞:吉岡 治 曲:岡林信康 R:1976/10/25 HC:40位
・雪ごもり 芦川よしみ
 詞・曲:小林亜星 R:1976/10/- 
◆第18回(76年)日本レコード大賞新人賞受賞
・女から男への手紙 青江三奈
 詞:荒木あい子/阿久 悠<補作> 曲:井上忠夫 R:1976/10/-
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(10回)
・時 中村雅俊
 詞:塚原 将 曲:小椋 佳 R:1976/11/01 HC:12位
寒い夜明け 郷ひろみ
 詞:楳図かずお 曲:筒美京平 R:1976/11/01 HC:5位
 ※「まことちゃん」「漂流教室」などで知られる漫画家・楳図かずおが作詞を担当。

<1976年11月8日(第418回)>
・お父さん 水前寺清子
 詞:星野哲郎 曲:はやしこば R:1976/11/-
・恋は紅いバラ 殿さまキングス
 詞:千家和也 曲:佐瀬寿一 R:1976/09/05 HC:24位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回)
想い出ぼろぼろ 内藤やす子
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1976/09/01 HC:9位
◆第18回(76年)日本レコード大賞最優秀新人賞受賞
◆第7回(76年)日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞
◆第2回(76年)全日本歌謡音楽祭優秀新人賞受賞
◆第9回(76年)日本有線大賞最優秀新人賞受賞
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞最優秀新人賞受賞
・津軽じょんがら節 寺内タケシとブルージーンズ
 曲:青森県民謡 R:1965/12/-【LP】
LP「レッツゴー・エレキ節」収録曲
<寺内タケシとブルージーンズ>
「エレキの神様」の異名を取るギタリスト・寺内タケシをリーダーとするエレキコンポバンド。元々は1962年にロカビリーバンドとして結成され、当初はサックスなど管楽器担当のメンバーも在籍していたが、後にメンバーや専属振付師ら関係者たちが演奏中に大怪我をする事故に見舞われたのを機に、弦楽器・ドラム・キーボート担当のみの構成によるエレキバンドへの転身を図り、1964年、新宿厚生年金会館で同じくエレキバンドのベンチャーズとアストロノウツを前座に迎え、初のコンサートを開催し大盛況を得る。これを機に翌65年にかけて日本にエレキブームを起き、その火付け役となった同バンドに海外の音楽関係者やメディアも注目、アメリカの長寿エンターテイメント番組「エド・サリバンョー」などの出演依頼を受けたり、寺内自身も「世界3大ギタリスト」へと選出されるなど、早々より日本のエレキ音楽の第一人者としての地位を確立する。ちなみにこの初期の頃のメンバーには後に「ザ・ワイルドワンズ」のリーダーとなる加瀬邦彦もザ・スパイダース(このバンドも元々はGSバンドではなく1961年にロカビリーバンドとして発足)からの移籍という形で在籍しており、寺内と並ぶ同バンドの看板として活躍していた。
②1966年、ザ・ビートルズ来日公演でザ・ドリフターズらと並び前座を務めることとなったが、その直前に加瀬が脱退。その後、リーダーの寺内も過労によりダウンしたために同バンドを離れ、別のGSバンド「寺内タケシとバニーズ」を結成。屋台骨の相次ぐ離脱により、同バンドは一時、当時隆盛を極めようとしていたムード歌謡路線への転換を余儀なくされてしまった(この時代は田川譲司がリーダーを担当)。
③その後、寺内は他のメンバーとの音楽性の違いを理由としてバニーズからも脱退し、しばらくソロでの演奏活動を展開。その中でGSブームが終息の兆しを見え始め、各GSバンドがムード歌謡路線、あるいはハードロック路線への傾斜といった形で当初の理念とは異なった方向性へと向かい始めていくことに危機感を抱き、1969年、新たにメンバーを集め、新バンドとしてブルージーンズ(第二次ブルージーンズ)を結成。当初はまだ上記の第一次ブルージーンズも活動を続けており、当初は両者間で商標問題が起きるなど波乱の船出であったが、エレキバンドとしてのブルージーンズ復活を熱望していたファンの声が後押しとなり、第一次ブルージーンズは程なくそのバンド名を完全に寺内側に返上。エレキバンドの第一人者・ブルージーンズはここに完全復活を遂げる。その後、GSブームの終焉によりそれまで所属していたバンドが解散し、活躍の場を求め寺内のもとを訪れてきた若い才能を結集させ、70年秋に寺内以外のメンバーを総入れ替え(入替前と入替後を区別する意味で、入替後のブルージーンズは「第三次ブルージーンズ」と称されることが多い)。その後も数年置きでメンバーの入替えを行い、時代時代のニーズに合った音楽性の追求しながら現在も演奏・創作活動を続けている(因みにヒットスタジオ出演時のメンバー構成は寺内(リードギター)・宮川周吾(2ndギター)、石井薫(3rdギター)、大森和夫(4thギター)、桐生和史(キーボート)、新庄ハジメ(ベース)、井上正、諏訪周二(共にドラムス)という編成であった)。
④通常の商業ベースによる国内での演奏活動を続ける一方で、社会的なメッセージを込めた異色のコンサート活動を長年にわたり敢行してきたことも同バンドの特色である。この76年の夏、白血病と闘っている寺内のファンであるソ連の少女に生演奏を聞かせる目的で、大赤字を覚悟で52日間に及ぶソ連でのコンサートツアーを敢行、最終的には40万人以上の観客動員数を記録する大成功を収めた。その後も81年・84年の計3回に平和の希求をテーマに掲げ大規模なソ連でのツアーを実施。また、エレキブームの全盛期に全国各地の高校の多くがエレキギターの使用を禁止する措置を生徒に課したことに対し、エレキの魅力を伝えることでこの状態を是正したいとの思いから始めた「ハイスクール・コンサート」は現在1500校にも及ぶ。これらの永年にわたる音楽活動を通じての社会的貢献が評価され、音楽功労賞・文化功労賞(日本国際連合協会より、84年)、文部大臣表彰(00年)、文化庁長官表彰(04年)など多くの顕彰を受けている。
⑤レパートリーとしては第一次メンバーの加瀬作曲による「ユア・ベイビー」やコンサートのエンディング曲として演奏される「青春へのメッセージ」などのオリジナルナンバーがあるほか、ベンチャーズの代表作「パイプ・ライン」「ダイヤモンド・ヘッド」から「エル・クンバンチェロ」などのジャズ・ラテンのスタンダード、そしてベートーベンの「運命」、シューベルトの「未完成」などといったクラシックの名作「ソーラン節」「花笠音頭」などの日本民謡に至るまで多岐に渡ることでも知られており、「エレキと他の音楽ジャンルとの融合」という点でもパイオニア的な存在ともいえる。特にこのヒットスタジオ出演時にも演奏した「津軽じょんがら節」のカバーは、1965年に発表したLP「レッツゴー・エレキ節」への収録以来、ブルージーンズの代名詞として人気の高い作品である。
⑥因みにこのブルージーンズの出演が、現存する記録によれば同番組における歌なしのフュージョンバンドの出演第1号とされている。


(76年11月15日(第419回)放送分以降については「曲目リスト(49-2) 76年11~12月②」及び「同(49-3) 76年11~12月③」に記載)

【司会】 芳村真理・井上 順


(参考)この頃の主な出来事
・11/03 アメリカ大統領選、民主党のジミー・カーター候補が第39代大統領に当選。
・11/06 国鉄が列車運賃の値上げを実施。この値上げにより初めて新幹線グリーン車の運賃が航空機を上回る。
・11/10 昭和天皇在位50年記念式典が日本武道館にて挙行される。
・11/12 衆院法務委員会で、検事総長の名を語った偽電話事件につきロッキード問題特別両院委員会は京都地裁判事補の鬼頭史郎に対する証人喚問を実施。 


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(48-2) 1976年9~10月②

2008-06-08 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年10月4日(第413回)>
・エル・クンバンチェロ(EL Cumbanchero) 坂本スミ子
 詞・曲:Refael Hernandex R:1960/-/-<詳細求む>
◆第13回(62年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回)
プエルトリコの作曲家、ラファエル・エルナンデスが1943年に発表したルンバ・グァラーチャの曲。タイトルの「エル・クンバンチェロ」とはスペイン語で「お祭り騒ぎをしている人」を意味する。南米・アメリカでは戦後まもなくよりラテンのヒットナンバーとして人気を博したが、日本では1953年、ブラジルのザビア・クガード楽団が来日した際に同曲を演奏したことをきっかけに知られるようになった。歌詞付のバージョンは坂本のほか、「ラテンの女王」との異名をとった宝とも子の歌唱バージョンも有名である。
・流れ雲 千 昌夫
 詞:横井 弘 曲:一代のぼる R:1976/10/01
・女の河 内山田洋とクールファイブ
 詞:川内康範 曲:曽根幸明 R:1976/10/05 HC:53位
・サヨナラ・ハーバーライト 安西マリア
 詞:橋本 淳 曲:響わたる R:1976/08/01

<1976年10月11日(第414回)>
・恋人願書 松本ちえこ
 詞:伊藤アキラ 曲:あかのたちお R:1976/08/25 HC:20位
・くもりのち晴れ 藍美代子
 詞:石原信一 曲:武川行秀 R:1976/09/25 
・夜霧の出来事 麻丘めぐみ
 詞:吉田健美 曲:響わたる R:1976/09/05 HC:83位
・ぬれて大阪 アローナイツ
 詞:山口洋子 曲:徳久広司 R:1976/07/25
<アローナイツ(秋庭豊とアローナイツ)
①元々は北海道で炭坑夫として働きながらアマチュアでバンド活動をしていたメンバーが集まり結成。札幌のクラブで専属歌手として活動していた73年に、札幌・中の島を舞台とした「中の島ブルース」を自主制作盤として発表、これが北海道の有線で話題となったことから、75年、新たに同じ「中の島」の地名のある大阪・長崎の情景を盛り込んだ上でメジャーデビュー盤として同曲を再リリース。クールファイブとの競作によって話題となり、ムード歌謡グループの新星として注目を集める。その後も「たまらなく淋しくて」「献身」「さだめ」などのシングルをリリースしたが、90年にリーダーの秋庭豊が45歳の若さで急死。以降、他のメンバーも入替・離脱が続き、現在はメインボーカルであった木下あきらの単独ユニット名としてこの「アローナイツ」の名称が使われている状態となっている。
②尚、この「ぬれて大阪」から78年6月リリースの「赤い夕陽に影を見た」のプロモーション期間までの約2年間についてはリーダーの秋庭の名を外し単に「アローナイツ」名義で活動していた。
・酒場のタンゴ 坂上二郎
 詞:山上路夫 曲:竹村次郎 R:1976/08/-

<1976年10月18日(第415回)>
・可愛いおまえ 渥美二郎
 詞・曲:遠藤 実 R:1976/10/-
・嘘でもいいの 角川 博
 詞:石坂まさを 曲:八木架寿人 R:1976/09/05
◆第18回(76年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第7回(76年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第2回(76年)全日本歌謡音楽祭優秀新人賞受賞
◆第9回(76年)日本有線大賞新人賞受賞
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞新人賞受賞
・人生おけさ 三波春夫
 詞:北村桃児 曲:長津義司 R:1976/06/-
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(19回)
<三波春夫>
①1939年、16歳のときに「南條文若」の芸名で東京・六本木の寄席「新歌舞伎座」で浪曲師としてデビュー。1944年に陸軍に入隊し満州、次いでソ連の戦線に参加。終戦後、ソ連軍に捕らえられ、ハバロフスクの捕虜収容所に投獄。極寒のシベリアの中で4年に及ぶ抑留生活を送る。この時代にも浪曲や芝居の台本作りに精進。当初は思想教育の徹底の上で好ましくない行為として猊を聞かせていたソ連側も最終的には折れ、これら台本を元にして各収容所で浪曲や劇を演じ好評を博した。
②1949年秋に帰国し、再び日本で浪曲師としての活動を再開、一座を率いて全国各地で巡業の旅に出るなど、人気浪曲家として活躍する。しかし、ハバロフスクの抑留時代での経験から、歌謡曲歌手への夢を捨てきれず、1957年6月、テイチクレコードと歌謡曲歌手として契約。同時に芸名を「三波春夫」に改称し、「チャンチキおけさ/船方さんよ」で歌手デビュー。同年末の浅草国際劇場ワンマンショーでは、当時、歌手のステージ衣装は洋装が常識とされていた時代にあって、家紋を散らした紋付袴姿でステージに立ち派手な所作を付けて歌を披露(三波が「和装の男性歌謡曲歌手第一号」と称されているのはこのためである)。この聴衆の意表を付いたステージングが好評を得、以後、三波の終生に渡る歌唱スタイルとして親しまれることとなる。また、現在では常識化している歌手による1ヶ月の座長公演の先駆者でもあり、1961年に東京・歌舞伎座、大阪・新歌舞伎座、名古屋・御園座で初の座長公演を開催。沖縄返還をテーマに掲げた「沖縄物語」、北方領土問題を題材とした「高田屋嘉兵衛」など政治色のあるテーマを盛り込んだ芝居を数多く演じ、固定ファンを数多く獲得。何れの劇場の座長公演も1980年まで20年に及ぶロングランとなった。
③その後も「雪の渡り鳥」「忠治流転笠」「大利根無情」などの股旅物のほか、浪曲師出身という経歴を生かして歌謡曲と浪曲の統合を目指した「歌謡浪曲」というジャンルを確立。64年には「元禄名槍譜 俵星玄蕃」、66年には「豪商一代 紀伊国屋文左衛門」、72年には「大忠臣蔵」といった、総演奏時間10分以上に及ぶ歴史物の大作を発表し、このジャンルでは他の追随を許さぬ存在となる。他方、その明るいキャラクターや歌声から、国民的イベントのテーマ音楽のレコード盤吹き込みに起用されることも多く、1963年に吹き込んだ「東京五輪音頭」、1967年に吹き込んだ「世界の国でこんにちは」では、各レコード各社が人気の所属歌手を担ぎ出しての激しい商戦が繰り広げられたが、最終的にはテイチクの三波盤が最も人気を集め、この点から「国民的歌手」との異名を取るようになった。70年の万国博開催の際には「世界の国からこんにちは」を歌った万博を象徴する歌手として、リビアで発行された万博記念切手にも登場した(切手に日本の芸能人が登場したのも三波が最初であった)。
④91年、日本テレビ系の期首特別番組「ザッツ・宴タテイメント」内で行われたハウス・サウンドと自身の代表作数曲を合体させるという異色の企画が好評を博したのを機に、翌92年、ハウスミュージック風アレンジをふんだんに取り入れたシングルCD「ハウスおまんた囃子」を発売。以後、ダンスミュージックやラップといったこれまでの芸能生活では無縁だった世界との融合を積極的に展開し、若年層のファンを獲得。若者が集うライブハウスやディスコを中心とした派手なライブ活動も話題をさらった。
⑤1990年代半ばに前立腺癌の診断を受けた後も、テレビや舞台でそれまでと変わらぬ健在振りを見せていたが、2000年に入って病状が悪化。同年秋に行われた故郷である新潟・越路町での町制記念イベントへの出演後、療養に専念したが、2001年4月に77歳で逝去した。
⑥NHK紅白歌合戦の全盛期を象徴する歌手の一人でもあり、1958年(第9回)の紅白で「雪の渡り鳥」で初出場して以来、1986年(第37回)まで29回連続出場。「紅白改革」により出演者の大幅刷新が予想された1987年の紅白では出場歌手発表前に出場辞退を発表。その後、1989年(通常の対戦方式ではなく、昭和の紅白を回顧するという特別番組編成で行われた第1部に出演)、1999年の紅白(50回を記念して出場)でカムバック出場し計31回にわたり出場。特に99年、生涯最後の紅白のステージでの「俵星玄蕃」の熱演ぶりは、浪曲師時代も含め約60年に及ぶ三波の芸能人生の集大成として紅白史上に残る名場面となっている。1960年代には白組のトリに5度起用され、66年の紅白では美空ひばりを抑えて「紀伊国屋文左衛門」で大トリの大役を務めている。
・哀しい妖精 南 沙織
 詞:松本 隆 曲:Janis Ian R:1976/09/01 HC:20位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(6回)
アメリカの女性人気シンガーソングライター、ジャニス・イアンからの提供曲。この年12月には全編ジャニス・イアンの作品で構成された15枚目のオリジナルLP「ジャニスへの手紙」をリリース。ジャニス自身の作詞によるこの曲の英語詞バージョン「I LOVE YOU BEST」もこのLPの1曲目に収録されており、当時のテレビ音楽番組では松本隆による日本語詞バージョンと並行してこの英語版バージョンを披露することが多かったという。

<1976年10月25日(第416回)>
・四季の歌 いぬいゆみ
 詞・曲:荒木とよひさ R:1972/02/25 HC:48位
芹洋子盤がヒットする4年前にこのいぬい盤の「四季の歌」はリリースされ、オリコン週間チャートで最高48位にランクインされ、10万枚を売り上げるスマッシュヒットとはなったものの、後の芹盤の大ヒットによりその影に埋もれてしまった。
・暮れなずむ街 アトリエ 
 詞:(不明)<情報求む> 曲:後藤明日香 R:1976/07/-  
針葉樹 野口五郎
 詞:麻生香太郎 曲:筒美京平 R:1976/09/10 HC:2位
◆年間チャート(76年)28位(33.0万枚)
◆第18回(76年)日本レコード大賞歌唱賞受賞曲
◆第7回(76年)日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲
◆第9回(76年)日本有線大賞有線功労賞・有線スター賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲
ドリーム 岩崎宏美
 詞:阿久 悠 曲:筒美京平 R:1976/11/05 HC:4位
◆第7回(76年)日本有線大賞有線スター賞受賞曲

【司会】 芳村真理・井上 順


(参考)この頃の主な出来事
・10/10 具志堅用高、プロボクシングWBA世界ジュニアフライ級チャンピオンの座を獲得。
・10/12 プロ野球パシフィック・リーグの太平洋クラブライオンズを運営する福岡野球株式会社のメインスポンサーにクラウンガスライターが参画。これに伴いチーム名を「クラウンライターライオンズ」に改称。
・10/16 プロ野球セントラル・リーグ、巨人が前年度最下位からリーグ優勝を果たす。
・10/24 華国峰が中華人民共和国の主席に就任。
・10/25 三重の鈴鹿サーキットで初のF1レースが開催される。
・10/29 山形・酒田市で繁華街の映画館から出火。強風に煽られ周辺の家屋・建物に火が燃え移り、広範囲が火の海と化す(酒田大火)。必死の消火活動により約11時間後に鎮火したが、小村面積22.5ha、全焼棟数1,059戸、被災者3,300人と大きな爪跡を残した。
・10/31 日本ビクター、家庭用VHSビデオレコーダー1号機「HR-3300」を発売。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(48-1) 1976年9~10月①

2008-06-06 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年9月6日(第409回)>
・花火 芦川よしみ
 詞・曲:小林亜星 R:1976/07/25
・愛人(アマン) 木の実ナナ
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1976/09/01
・ハート泥棒 キャンディーズ
 詞:林 春生 曲:すぎやまこういち R:1976/09/01 HC:17位
ねぇ!気がついてよ 桜田淳子
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1976/08/25 HC:2位
◆年間チャート(76年)36位(27.4万枚)
【メドレー】伊勢佐木町ブルース~長崎ブルース~池袋の夜~小樽の灯 青江三奈 
 ・小樽の灯 青江三奈
  詞:吉川静夫 曲:渡久地政信 R:1976/06/-
 ・伊勢佐木町ブルース 青江三奈
  詞:川内康範 曲:鈴木庸一 R:1968/01/05 HC:5位(68年)
◆年間チャート(68年)11位(50.6万枚)
◆第10回(68年)日本レコード大賞歌唱賞受賞曲
◆第1回(68年)全日本有線放送大賞(夜のレコード大賞)優秀スター賞受賞曲
◆第19回・第33回(68年・82年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回・16回)
イントロの溜息が話題を集め、50万枚のヒットを記録。これを機に青江は、「池袋の夜」「長崎ブルース」「札幌ブルース」「新宿サタディ・ナイト」「盛岡ブルース」「銀座ブルー・ナイト」など地名をタイトルに組み入れ、各地の情景をテーマとした楽曲を次々と吹き込み、「御当地ソングの女王」との異名を取るようになった。因みにこの曲が発売される1ヶ月前の67年12月にテイチクからデニー白川という男性歌手による歌唱で同じタイトルのシングルレコード(※同名異曲)を発表しており、当時、この曲の舞台である横浜・伊勢佐木町の商店街ではどちらのバージョンを応援するかで意見が二分してしまい、7丁目まである商店街のうち1・2丁目はデニー版を、3~7丁目は青江版がそれぞれ推す形で両バージョンのレコード商戦が繰り広げられたというエピソードが残されている。2000年の青江没後、彼女を追悼する意味から、4丁目の商店街に同曲の歌碑が建立された。
※この年のヒットにより、前年は選に漏れた年末の紅白歌合戦にも2年ぶりに再出場。しかし、冒頭の溜息の部分については「子供に聞かせるのに相応しくない」という判断からガズーの音に差し替えられた(尚、82年の紅白では溜息付でこの曲を披露している)。

<1976年9月13日(第410回)>
・すれちがい 黒沢年男
 詞・曲:中山大三郎 R:1976/04/-
もう一度逢いたい 八代亜紀
 詞:山口洋子 曲:野崎真一 R:1976/09/25 HC:9位
◆第18回(76年)日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞曲
◆第7回(76年)日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲
◆第9回(76年)日本有線大賞有線スター賞受賞曲
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞功労賞受賞曲
◆第27回・第44回(76年・93年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回・20回)
あなたがいたから僕がいた 郷ひろみ
 詞:橋本 淳 曲:筒美京平 R:1976/08/01 HC:2位
◆年間チャート(76年)47位(24.0万枚)
◆第18回(76年)日本レコード大賞大衆賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回)
※この年のレコード大賞では大衆賞を郷が受賞したのに加え、西城秀樹、野口五郎もそれぞれ歌唱賞を受賞。ようやく新御三家がレコード大賞の舞台に揃い踏みすることとなった(レコード大賞の舞台に新御三家が揃ったのはこの年のみである)。
青春時代 森田公一とトップギャラン
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1976/08/21
 HC:1位(1977/01/17-02/07)
◆年間チャート(77年)2位(86.5万枚)
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
<森田公一とトップギャラン>
 69年、それまで「トシハルとB&Bセブン」という音楽グループの一員であった森田公一が独立して結成したバンド。バンド自体の人気は結成から数年の間はなかなか上がらなかったが、まずはリーダーの森田が70年代に入ってから、阿久悠らとの作詩陣とのコンビで、天地真理の「ひとりじゃないの」「恋する夏の日」、桜田淳子の「はじめての出来事」、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」、アグネス・チャンの「ひなげしの花」などのヒットナンバーを次々と作曲し、人気作曲家としての地位を確立。そしてバンド自体も75年、「下宿屋」のヒットで注目を集めるようになり、76年リリースのこの「青春時代」が、青春期・学生時代の郷愁を思い起こさせる内容で広い世代で支持を獲得。翌77年にかけて累計101.8万枚(オリコン調べ)を売り上げる大ヒットを記録。結成9年目にしてようやく全国区での人気を獲得した。81年に解散。のち90年に森田の作曲家生活30周年を記念して「森田公一とトップギャランⅡ」として再結成した。

<1976年9月20日(第411回)>
・夏の日記 野中小百合 
 詞:林 春生 曲:(不明)<詳細求む> R:1976/08/25
・逢いたくて北国へ 小柳ルミ子
 詞:橋本 淳 曲:筒美京平 R:1976/09/25 HC:15位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(6回)
・メランコリー 梓みちよ
 詞:喜多条忠 曲:吉田拓郎 R:1976/09/21 HC:11位
◆第18回(76年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲・同編曲賞受賞曲(編曲:荻田光雄)
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(10回)
※作曲者の吉田拓郎もLP「ぷらいべえと」(77年3月リリース)の収録曲の一つとしてこの曲をセルフカバーしている。
※梓と吉田、そして作詞者の喜多条が当時飲み友達として親交があったことから生まれた作品であるといわれている。吉田は梓がこの曲のレコーディングに臨んだ際、「あなたは歌がうまいから困るんです」「思い切って下手クソにやって欲しい」と要望を出し、梓もその要望に応じてあえて音程を崩して吹き込みを行ったという。
※同年、この曲のヒットをひっさけ、年末の紅白にも通算10回目の出場を決めたが、本番の際、この曲の歌唱時間の短縮をNHKの担当スタッフから要求されたところ、梓は「ヒット曲のない大物歌手のほうに長い歌唱時間を採るのはおかしい」とこの姿勢を批判し、スタッフとの間で一悶着を起こした。このことが尾を引き、梓は翌年以降も「ノクターン」「よろしかったら」とヒットを出したにもかかわらず、NHKの番組からは暫くの間締め出される状態となってしまった。
若き獅子たち 西城秀樹
 詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1976/09/05 HC:4位
◆第18回(76年)日本レコード大賞歌唱賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回)
※この曲の発売当時、赤坂のホテルニュージャパンの地下で当時営業していたナイトクラブ「ニューラテンクォーター」(89年閉店)で初のディナーショーを開催。壮大なスケールのこの曲や次作の本格的バラード「ラストシーン」の制作・発売とあわせ、この時期より西城はアイドル歌手からの脱皮を徐々に図るようになった。

<1976年9月27日(第412回)>
・残り火 矢吹 健
 詞:東海林良 曲:徳久広司 R:1976/07/25
・縁切寺 バンバン
 詞・曲:さだまさし R:1976/08/21
※75年11月リリースのグレープの3rdアルバム「コミュニケーション」収録曲のカバー
・手編みのプレゼント 岡田奈々
 詞:松本 隆 曲:佐藤 健 R:1976/09/10
・歩 北島三郎
 詞:関沢新一 曲:安藤実親 R:1976/06/25 HC:58位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(14回)
・はつかり号は北国へ チェリッシュ
 詞:荒木とよひさ 曲:穂口雄右 R:1976/10/10 HC:89位
「はつかり」号とは1958年10月に当時の国鉄・東北本線の上野~青森間に初めて投入された特急列車のことである。その後、82年11月から東北新幹線が開業したことに伴い活躍の場を移し、同新幹線の終着駅である盛岡駅~青森駅間の新幹線への連絡用の特急列車として運用されたが、2002年12月、東北新幹線の八戸駅への延伸に伴い、その役割を終えた。
【メドレー】なのにあなたは京都へゆくの~白いギター~避暑地の恋 チェリッシュ
 ・なのにあなたは京都へ行くの チェリッシュ
  詞:脇田なおみ 曲:藤田哲郎 R:1971/09/05 HC:13位(71年)
チェリッシュのデビューシングル。デビュー当初は5人組のフォークバンド編成であった(シングル3作目「ひまわりの小径」より松崎好孝・松井(現・松崎)悦子の男女デュオ編成となった)。
 ・白いギター チェリッシュ
  詞:林 春生 曲:馬飼野俊一 R:1973/09/25 HC:5位(73年)
◆第15回(76年)日本レコード大賞歌唱賞受賞曲
 ・避暑地の恋 チェリッシュ
  詞:林 春生 曲:馬飼野俊一 R:1873/04/25 HC:3位(73年)
◆年間チャート(73年)26位(33.0万枚)

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・09/06 ソ連の戦闘機「ミグ25」が函館に強行着陸。同9日、同機パイロットのベレンコ中尉はアメリカに亡命するため離日。
・09/09 中国共産党の毛沢東主席が死去。82歳。彼の死により10年に及ぶ文化大革命は終焉を迎える。
・09/11 ブリヂストン創業者、石橋正二郎死去。87歳。
・09/12 台風17号に伴う集中豪雨の影響で、長良川が警戒推移を越え、岐阜・安八町の右岸堤防が80mにわたり決壊。これにより同町および墨俣町のほぼ全域が水没する。
・09/29 川崎市議会、全国自治体で初のアセスメント条例案を可決。