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・聞いて下さい私の人生 藤 圭子
詞:六本木哲 曲:岡 千秋 R:1976/08/25 HC:70位
・たまらなく淋しくて アローナイツ
詞:たかたかし 曲:ノト・サトー R:1976/11/-
・ひとりごとの水時計 岡崎ひとみ
詞:有馬三恵子 曲:森ミドリ R:1976/12/-
・どうぞこのまま 丸山圭子
詞・曲:丸山圭子 R:1976/07/05 HC:5位
◆年間チャート(77年)32位(35.3万枚)
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀新人賞受賞
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀新人賞受賞
※LP「黄昏めもりい」からのシングルカット。フォーク色・ポップス色の強いナンバーが大半であった同LPにボサノヴァ調のメロディーを取り入れたこの曲を収録するに当たっては、当初は他の収録作品との比較から異質さが際立っていたこともあり周囲からの反対の声が強かったが、丸山のこの曲に対する強い思いに最終的には折れる形で同LPへの収録が決定したという。このLPリリースに合わせ、そこからのシングルカットとして「ひとり寝のララバイ」も発売されたが、プロモーションの段階から「ひとり寝の―」よりも同曲の評判のほうがよかったこともあり、急遽8月になって臨時リリースという形で同曲がシングルカットされる運びとなった。前評判通りこの曲は累計52万枚(オリコン調べ)を売り上げるヒットを記録、丸山はこの作品によって一躍知名度を上げた。
※<丸山圭子>
72年、エレックレコードよりLP「そっと私は」、EP「心の中の」でデビュー。ラジオ番組「キョーリンヘルスフォーク・圭子のソネット」(ラジオ関東<現・ラジオ日本>)、テレビ番組「ヤングインパルス」(テレビ神奈川)などの司会・レギュラーの仕事やバンド「ピピ&コット」での活動を経て、76年にリリースしたシングル「どうぞこのまま」が翌77年にかけて大ヒット、人気女性シンガーソングライターとして頭角を現す。シングル「ラ・ムール」「MISS LONELY」などのオリジナル楽曲の制作の傍ら、由紀さおり、南沙織、桜田淳子らにも楽曲を提供したり、ドラマ「誰かが私を愛してる」(TBS系)の劇中音楽を担当するなど幅広い創作活動を展開。84年に当時の夫である作曲家・佐藤準との間にもうけた子供の育児専念のため音楽活動を休止。その後、佐藤と離婚したのを96年より再び音楽活動を再開。水越けいこ、庄野真代、鈴木康博らとのジョイントコンサートなどで健在ぶりを発揮する傍ら、現在は音楽学校「ヒューマンミュージックカレッジ」の講師として後輩ミュージシャンの育成にも当たっている。
72年、エレックレコードよりLP「そっと私は」、EP「心の中の」でデビュー。ラジオ番組「キョーリンヘルスフォーク・圭子のソネット」(ラジオ関東<現・ラジオ日本>)、テレビ番組「ヤングインパルス」(テレビ神奈川)などの司会・レギュラーの仕事やバンド「ピピ&コット」での活動を経て、76年にリリースしたシングル「どうぞこのまま」が翌77年にかけて大ヒット、人気女性シンガーソングライターとして頭角を現す。シングル「ラ・ムール」「MISS LONELY」などのオリジナル楽曲の制作の傍ら、由紀さおり、南沙織、桜田淳子らにも楽曲を提供したり、ドラマ「誰かが私を愛してる」(TBS系)の劇中音楽を担当するなど幅広い創作活動を展開。84年に当時の夫である作曲家・佐藤準との間にもうけた子供の育児専念のため音楽活動を休止。その後、佐藤と離婚したのを96年より再び音楽活動を再開。水越けいこ、庄野真代、鈴木康博らとのジョイントコンサートなどで健在ぶりを発揮する傍ら、現在は音楽学校「ヒューマンミュージックカレッジ」の講師として後輩ミュージシャンの育成にも当たっている。
<1976年12月13日(第423回)>
・のんだくれ 安倍律子 R:1976/11/-
・夜明け 北島三郎
詞:星野哲郎 曲:米山正夫 R:1976/09/-
・もう一度だけふり向いて 桜田淳子
詞:阿久 悠 曲:穂口雄右 R:1976/12/05 HC:11位
・哀愁のシンフォニー キャンディーズ
詞:なかにし礼 曲:三木たかし R:1976/11/21 HC:12位
<1976年12月20日(第424回)>
・君が優しすぎるから あおい輝彦
詞:岩谷時子 曲:井上忠夫 R:1976/10/25 HC:24位
・ちんちん電車 井上 順
詞・曲:井上尭之 R:1976/10/-
・ラスト・シーン 西城秀樹
詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1976/12/20 HC:8位
※それまで「絶叫型」と評されるスタイルで人気を集めてきた西城が初めて挑戦した本格的なバラード。この曲ではそれまでの派手なアクションは極力封印してテレビ番組に登場、売上としてはオリコン週間チャートで最高8位に留まったが、前作の「若き獅子たち」と並び歌手としての幅を広げる契機をこの曲で築いた。
・ペッパー警部 ピンクレディー詞:阿久 悠 曲:都倉俊一 R:1976/08/25 HC:4位
◆年間チャート(77年)14位(51.9万枚)
◆第18回(76年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第7回(76年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀新人賞受賞
※この後、77~79年にかけてNo.1ヒットを立て続けに世に送り出し国民的アイドルへと成長していくピンクレディーのデビューシングル。当初は歌詞内容の奇抜さから、所属レーベルのビクターではB面の「乾杯!お嬢さん」(作詞・作曲はA面と同じく阿久・都倉コンビが担当)をA面とし、この曲をそのカップリングとして収録する形でのリリースが検討されていたが、これに阿久・都倉が反対したために同曲がA面として最終的には採用されることになったという。露出度の高い衣装と派手な振付が注目され、デビューシングルながら累計60.5万枚(オリコン調べ)を売り上げるヒットとなった。
◆第18回(76年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第7回(76年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀新人賞受賞
※この後、77~79年にかけてNo.1ヒットを立て続けに世に送り出し国民的アイドルへと成長していくピンクレディーのデビューシングル。当初は歌詞内容の奇抜さから、所属レーベルのビクターではB面の「乾杯!お嬢さん」(作詞・作曲はA面と同じく阿久・都倉コンビが担当)をA面とし、この曲をそのカップリングとして収録する形でのリリースが検討されていたが、これに阿久・都倉が反対したために同曲がA面として最終的には採用されることになったという。露出度の高い衣装と派手な振付が注目され、デビューシングルながら累計60.5万枚(オリコン調べ)を売り上げるヒットとなった。
<1976年12月27日(第425回)>
・最後の一葉 太田裕美
詞:松本 隆 曲:筒美京平 R:1976/09/01 HC:5位
・四季の歌 芹 洋子
詞・曲:荒木とよひさ R:1976/08/21 HC:8位
◆年間チャート(77年)48位(24.9万枚)
※作詞・作曲家の荒木とよひさが、妙高高原でのスキー中に骨折し入院した際に世話になった看護師への謝礼の歌として作った作品である。70年に片山和子が最初にこの曲のシングルレコードを発売。72年2月にはいぬいゆみによるバージョンも発売され、オリコン週間チャート最高48位のスマッシュヒットとなったものの当時はさほど話題には上がらなかった。しかし、76年にニッポン放送のラジオ番組「あおぞらワイド」にリスナーであった一般主婦が同曲をリクエストしたところから再注目されるようになり、各レコード会社がこの曲のレコードを再び製作、キングの芹洋子、ビクターの立川清登、キャニオン(現・ポニーキャニオン)の菅原保徳(現・すがわらやすのり)など最終的には8社による競作となったが、芹洋子によるバージョンが累計40万枚以上のセールスを記録しこの中で最大のヒットとなった。後に中国でも「四季之歌」(スーチーシーガー)というタイトルで発売されヒットし、千昌夫の「北国の春」と並び、中国本土で最も有名な日本の愛唱歌として現在に至るまで広く親しまれている。
※<芹 洋子>
小学生の頃からテレビ番組やレコード会社主催ののど自慢大会や歌唱コンクールに入賞。68年、高校卒業を機に地元・大阪を離れて上京。69年、「芹洋子」の芸名でビクターより「野に咲くバラのように」で最初のシングルレコードを発売(ビクターからはこの曲を含め71年にかけて計3枚のシングルを発売)。NHKの音楽番組「歌はともだち」にレギュラー出演を経て、72年にレーベルをキングレコードに変えシングル「牧歌-その夏」で正式にレコードデビュー。74年、当時話題となっていた国鉄広尾線(北海道)の愛国~幸福駅間を乗車する際に発行される「愛国発幸福行き」切符のブームに乗り製作されたシングル「愛の国から幸福へ」が話題となり、続く76年のこの「四季の歌」、77年の「赤い花白い花」、78年の「坊がつる賛歌」のヒットによって人気を確立。その後は主に童謡・唱歌を中心に歌手活動を展開。中国との関わりが深く、81年に日中文化交流音楽大使に任命され北京公演を開催して以来、10回以上に渡り中国でのコンサートを開催。2008年には来日した胡錦涛国家主席とも非公式での対談を実現させている。
・落葉が雪に 布施 明 ※作詞・作曲家の荒木とよひさが、妙高高原でのスキー中に骨折し入院した際に世話になった看護師への謝礼の歌として作った作品である。70年に片山和子が最初にこの曲のシングルレコードを発売。72年2月にはいぬいゆみによるバージョンも発売され、オリコン週間チャート最高48位のスマッシュヒットとなったものの当時はさほど話題には上がらなかった。しかし、76年にニッポン放送のラジオ番組「あおぞらワイド」にリスナーであった一般主婦が同曲をリクエストしたところから再注目されるようになり、各レコード会社がこの曲のレコードを再び製作、キングの芹洋子、ビクターの立川清登、キャニオン(現・ポニーキャニオン)の菅原保徳(現・すがわらやすのり)など最終的には8社による競作となったが、芹洋子によるバージョンが累計40万枚以上のセールスを記録しこの中で最大のヒットとなった。後に中国でも「四季之歌」(スーチーシーガー)というタイトルで発売されヒットし、千昌夫の「北国の春」と並び、中国本土で最も有名な日本の愛唱歌として現在に至るまで広く親しまれている。
※<芹 洋子>
小学生の頃からテレビ番組やレコード会社主催ののど自慢大会や歌唱コンクールに入賞。68年、高校卒業を機に地元・大阪を離れて上京。69年、「芹洋子」の芸名でビクターより「野に咲くバラのように」で最初のシングルレコードを発売(ビクターからはこの曲を含め71年にかけて計3枚のシングルを発売)。NHKの音楽番組「歌はともだち」にレギュラー出演を経て、72年にレーベルをキングレコードに変えシングル「牧歌-その夏」で正式にレコードデビュー。74年、当時話題となっていた国鉄広尾線(北海道)の愛国~幸福駅間を乗車する際に発行される「愛国発幸福行き」切符のブームに乗り製作されたシングル「愛の国から幸福へ」が話題となり、続く76年のこの「四季の歌」、77年の「赤い花白い花」、78年の「坊がつる賛歌」のヒットによって人気を確立。その後は主に童謡・唱歌を中心に歌手活動を展開。中国との関わりが深く、81年に日中文化交流音楽大使に任命され北京公演を開催して以来、10回以上に渡り中国でのコンサートを開催。2008年には来日した胡錦涛国家主席とも非公式での対談を実現させている。
詞・曲:布施 明 R:1976/10/10
HC:1位(1976/11/08)
◆年間チャート(76年)45位(24.5万枚)
※サントリー「ゴールドラベル」CMソング。
※布施のシングル作で初めて作詞・作曲・歌の一人三役をこなした作品である。77年3月リリースの次のシングル「ひとり芝居」も同様に布施自身が詞・曲を手掛けている。
・【メドレー】わかって下さい~おまえさん~シクラメンのかほり 都はるみ※サントリー「ゴールドラベル」CMソング。
※布施のシングル作で初めて作詞・作曲・歌の一人三役をこなした作品である。77年3月リリースの次のシングル「ひとり芝居」も同様に布施自身が詞・曲を手掛けている。
・わかって下さい 都はるみ
詞・曲:因幡 晃 (R:1976/02/05) (HC:3位)
※この年ヒットした因幡晃の代表作。「北の宿から」をこの年多くのテレビ番組等で歌ってきたことから、たまには他の歌手の歌を歌いたいという都の意向で、演歌色を排除した他の歌手のヒット曲3曲をメドレー形式で披露する企画が用意された。
【司会】 芳村真理・井上 順
(参考)この頃の主な出来事
・12/05 戦後初の任期満了による第34回衆議院議員選挙の投開票実施。ロッキード事件の影響から自民党が敗北を喫し単独過半数割れ。衆院各委員会の委員長ポストの自民独占状態が崩壊。
・12/10 ソ連、200カイリ漁業専管水域の設定を布告。
・12/21 1等賞金1000万円のジャンボ宝くじが売り出され、各地の宝くじ売り場で群集が殺到。福岡、松本で死者が出る騒動に発展。これを踏まえ翌77年からは官製往復ハガキによる予約制が導入されることに。
・12/24 三木武夫内閣総辞職。福田赳夫が第67代内閣総理大臣の指名・認証を受け、即日新内閣を発足。
・12/31 この年の日本レコード大賞に都はるみ「北の宿から」。最優秀歌唱賞は八代亜紀「もう一度逢いたい」、最優秀新人賞は内藤やす子「想い出ぼろぼろ」。
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