伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

夜ヒット独自の華やかさの礎-司会者・芳村真理のファッション

2006-02-27 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力
この番組の一つの代名詞に、第1~1000回まで司会を務め、夜ヒットの看板司会者として番組に大きく貢献してきた芳村真理さんの奇抜なファッションがあります。
今回はその芳村さんのファッションについての話です・・・。

芳村さんは50代後半以上の方ならご存知の方も多いと思いますが、1950年代の後半、入江美樹さん(現・小沢征爾氏夫人)らと同様に人気ファッションモデルのお一人で活躍されており、「週刊朝日」などでも数多く表紙モデルも務めていました。そのモデルとして活躍した数年間の経験で培われた彼女独自のオシャレ観を一気に開花させた番組がこの夜ヒットであったわけです。

彼女に司会を依頼するとき、スタッフも当然に芳村さんがモデルとしての経験があり、ファッション業界でも一応名が通った存在であることを知っていたため、「服装はお任せ」ということになり「自由に自分でコーディネートした服装を着て好きな"ジャズ"を堪能できるなら」というで番組司会の仕事が決まったそうです(後に第1回の司会に臨むにあたり「ジャズ」ではなく完全な歌謡番組であることを知ったという話は以前申し上げたとおりですが・・・)。そこから約20年、彼女はこの番組で実に1,200着を越える衣装を身に着けてきました。

しかし、なぜにあれほどまでに華やかな服装を身にまとって登場していたのか、それはせっかく自分の裁量で服装選びができるなら、その時折の流行をいち早く自分が紹介する「モードのメッセンジャー」でなければならない、という意思に基づくものだったそうです。その役割を常に果たし続けるために、彼女は他の仕事のないオフの日になると、国内外からファッション雑誌や機関誌を大量に仕入れたり、時には海外まで赴いてファッション・ショーに出かけ、そのショーのスタッフとのコネクションを作り、どういう形で着るべきかということを、自分が知りうる着付けの技術や、それでもたりないときは知り合いのスタイリストやデザイナーなどとも何度か協議を重ねるなど、相当の努力をしていたようです。その努力があの他のタレントでも真似がまずできないであろう奇抜なファッションに結実していたのです。

時に電球を頭につけて、また、髪型をパンク風にしてドレススタイルで登場したり、「ジョーン・バーンズ」のタキシートスタイル、1枚の布地で作られた劇場の緞帳を思わせる衣装など、普通の人ではまず着れないだろうと思われるスタイルで登場したかと思えば、彼女が気に入っていたブランドである「クリッツィア」のシンプルな黒のタイトなジャケットとミニスカート、「イブ・サン・ローラン」の黒のコートと裾の広がったパンツ、芳村さんとは親しい間柄の花井幸子さんデザインのストライブ柄のスーツスタイルといったシックな着こなしも無難にこなしていました。そして1960年代後半にはやったミニスカート、1970年代前半に流行したマキシスカートと、その時折の流行もぎっちり披露したりと、本当に彼女のファッションの領域は奥行きの深いものでした。そして、派手な衣装のときはあえてアクセサリーは最小限にする、パンク風にするには、メイクやアクセサリーの使い方を考えあえてミスマッチでパンクファッションに挑戦する、といった具合にその一つ一つに彼女のファッションに対する深い考え方がしっかりと主張されていたように感じます(ここの部分が今の若い女性タレントのファッションとの一番大きな違いなのかもしれないですね)。

洋服だけでもこれほどバラエティーに富んだ服装をしていたのですから、和服の着方も当然に普通の着方とは違う奇抜なスタイルに挑戦していました。特に1986年に入り1回目の番組で彼女は憧れの着物デザイナー・久保田一竹さんの着物で登場したのですが、一竹さんの「自由に着てください」という言葉に応じて、彼女はその着物を全体に上に上げ、短めの帯を締めスカートのような雰囲気で着用し、足には足袋・草履ではなく、ストッキングにハイヒールというなんとも斬新な着方で登場しました。その時に出演していたゲストの近藤真彦さんもこの芳村さんの服装をひどく絶賛されたそうというエピソードも残っています(後に三田佳子さんも「紅白」の司会を務めた際、このときの芳村さんの着付けを参考にした衣装で司会に臨んだことがあるそうです)。

このような奇抜なファっションが一層エスカレートしたのは高級ブランドブームの中でモード系がはやっていた1980年代のことです。時の相手役、井上順さんもファッションに造詣が深い方で、毎回冒頭には彼女のその回に着ている衣装やヘアスタイルに必ず茶々を入れる(「芳村さんの髪型で今日の東京は風が強かったのが分かる」、「蜘蛛巣城」「カトリーヌ・ド"ブース"」布地の厚いタイツのことを「股引き」、マント風のコートで出たときには「月光仮面」等など・・・・)というパターンが恒例となっていました。井上さんはその回に何を芳村さんが着用してくるか、本番まで全く知らないわけで、あの「茶化し」も完全なアドリブであったそうですが、その彼の一言一言によって芳村さんのファッションへの追求欲がより掻き立てられ、回を重ねることに衣装が派手になっていったそうです。

彼女の奇抜なファッションは一部では「歌手よりも派手にする司会者というのは如何なものか」、「着物をあんなふうにめちゃくちゃに着るとは伝統を軽視している」といった批判もありましたが、そのような批判を彼女はより自分流を追い続けることで払拭していきました。また、彼女のファッションはタレントの服装にも影響を与え、タレントが専属スタイリストを付けるようになったのもこの夜ヒットが契機だったという話も残されています。このことを裏付けるように、夜ヒットに多く出演した中尾ミエさんや中森明菜さんなども「とにかく真理さんに誉められる洋服を着ていこうと毎回他の番組に出るとき以上に衣装にこだわった」と後におっしゃっています。

こういった出演タレント、そして何よりも司会の芳村真理さんの刺激的なファッションが夜ヒット独自の他の番組とは違った華やかさ、そして毎回違った刺激を視聴者、そして番組そのものにも与え、長寿番組にはつき物の"マンネリ化"を食い止める礎となっていたことはいうまでもありません。

夜のヒットスタジオでは披露されなかった曲<スポンサー競合関係編>

2006-02-25 | 夜のヒットスタジオ/番組史
毎回、幅広いジャンルの曲を聴くことができた夜ヒットですが、必ずしもその時折のヒット曲を全て網羅できた、というわけではありません。中には諸事情で歌うことができなかった曲もあります。

特に同番組のスポンサーと競合関係にあった会社のCFソングの披露は厳しい制約がありました。1978年頃から、化粧品メーカーや製菓メーカーはこぞってCFソングを用いて激しい商戦を繰り広げていました。それと同時に夜ヒットの場合では資生堂と森永製菓が主要スポンサーとなっていたため、両社と熾烈な競争を繰り広げていた他の同業種の会社(カネボウが典型例)のCFで流れている曲はヒットチャートの上位になっていても基本的には披露することができない状態にありました。
私が知っている限りでは・・・・
・「赤道小町ドキッ」(山下久美子/1982→カネボウ)
・「すみれSeptember Love」(一風堂/1982→カネボウ)
・「君たちキウイ、パパイヤ、マンゴだね/1984→カネボウ)
・「ハッとしてGood!」(田原俊彦/1980→グリコ)
・「青い珊瑚礁」(松田聖子/1980→グリコ)
・「渚のラブレター」(沢田研二/1981→マックスファクター)
・「色つきの女でいてくれよ」(ザ・タイガース/1982→コーセー化粧品)
・「春咲小紅」(矢野顕子/1981→カネボウ)
・「君に胸キュン。」(YMO/1983→カネボウ<※尚、YMOはこれより3年前の1980年に初出演しています>)
・「私のハートはストップモーション」(桑江知子/1979→ポーラ化粧品)
・「君は薔薇より美しい」(布施明/1979→カネボウ)
・「Mr.サマータイム」(サーカス/1978→カネボウ)
などです。このほかにも幾つかあったと思います。
この関係で、これらの曲がヒットしている時には初出演できず、別の曲で後に初出演を余儀なくされてしまった歌手(桑江知子、サーカス、一風堂)、また出演を最後までしなかった歌手(山下久美子)もいましたし、常連組でもこれらの歌がCFソングとして流れている間は出演できなかった歌手(田原俊彦の場合にはB面の曲で代替、松田聖子の場合には、1980年4月28日放送で初出演してから、半年間は出演できなかった)もいます。

上記の曲はどれもその時代にヒットチャートの上位にランクしていた曲ばかりです。それら世間で流行っている曲がスポンサーの競合関係のために紹介できない、というのは「その時折の話題の曲を紹介する」ということを前提として成立する歌番組の性質上、番組としての体裁や品性を保つにはかなりの打撃であったことは事実で、このCFソング隆盛の時代であった1980年代前期の夜ヒットは必ずしもヒット曲を満遍なく聞ける番組ではなかったことは否定できないと思います。

しかし、このような事態は全てがマイナスで働いていたわけではなく、海外アーティストや、テレビ出演を拒否をしていたアーティストへの出演交渉を積極的に行う契機を番組に与えました。そういった意味ではこの時代の夜ヒットは「ヒット曲」という面では苦境の時代であったが「幅広いジャンルを網羅する」という総合音楽番組としての夜ヒットの魅力を確かなものにしたと言う面では、大きな成果を挙げた時代だったと言えます(ただ、ヒット曲を多く聴きたかった番組視聴者の人からみれば評価は分かれるところでしょうが・・・・)。フォーク・ニューミュージック界の実力者である吉田拓郎、井上陽水や、海外からフリオ・イグレシアスやU2、ピーター、ポール&マリーなどが来日して夜ヒットに初出演したのも丁度この頃の話です。

夜ヒット名シーン/森進一「見上げてごらん夜の星を」

2006-02-25 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
今回は夜ヒット22年の中での熱演シーン、印象深い歌の場面などを取り上げます。
その第1弾は森進一さんが坂本九さん追悼の意をこめて涙の絶唱をしたことで知られる「見上げてごらん夜の星を」の歌唱シーンです。

このシーンは1985年8月21日放送での一コマです。
既に事前にこの回では「うさぎ」という7分弱におよぶ大作で森さんは夜ヒットの出演が決まっていました。ところがこの1週間前に、今も人々の記憶に鮮烈に残っていることであろう、あの御巣鷹山での「日本航空機123便墜落事故」が発生し、同航空機の乗客であった歌手・坂本九さんも、この悲惨な事故により43歳の若さで命を落としました。

森さんが紅白歌合戦に初出場したのはこの夜ヒットが丁度スタートした1968年。第19回のことです。この回の白組司会は宮田輝さんではなく、坂本九さんが出場歌手と兼ねて担当していました。その際、九さんはこういう風にコメントして森さんを送り出しました。
「鹿児島にいるおかあさん、見ていますか。あなたの進一くんが歌います。"花と蝶"。」と。
このコメントに森さんはひどく感激したらしく、それ以来、九さんを尊敬する存在の一人として位置づけ、お二人は親交を深めるようになりました(※尚、後にご指摘があり、「ナベプロ」の先輩後輩の間柄だったと書きましたが、あれは誤りで、九さんは「ナベプロ」とはライバル関係にあった「マナセプロ」の所属であったそうです。この点、お詫びして訂正いたします。)

その尊敬する九さんを番組、そして彼の残した歌を通じて追悼したいと、森さん自身がスタッフに翻意し、上記の「うさぎ」を歌うことを急遽キャンセルして、このシーンが実現しました。

九さんの「見上げてごらん夜の星を」とは違い、特別指揮を務めた服部克久さんの手によるジャズ風アレンジの音楽、そしてバックに合唱団を従えて、森さんはこの曲を歌いました。歌がサビの部分に入る頃になり、彼は目に涙を溜め、歌いきると同時に一筋の涙が流れ落ちました。そのあまりにも哀しい彼の歌声と、そしてその歌を通じて見えてくる生前の九さんの姿がオーバーラップし、スタジオ内は静寂につつまれ、出演者やスタッフも涙を流しながら、森さんの歌に聞き入っていました。

管理人自身、あの事故が起きたのが丁度幼稚園低学年の頃で、九さんが生前に映画・テレビ・舞台に八面六臂の活躍をしていた姿をリアルタイムで肌で感じていた世代ではありません。しかし、この時のスタジオの関係者が流した涙が、坂本九という人物の人間性とそれまでの芸能史における大きな功績をそのまま現していたと、物心ついて、この場面を思い返す度に実感します。言葉以上の故人への強い思いが森さんの歌にはこもっていたのではないでしょうか。あれほどまでに歌手が一人の人間としてのメッセージが歌を通じて伝わってきたと私が実感した場面は、この絶唱シーンを置いて他にはなかったように思います。それほどに衝撃的な一場面でした。

豊富な才能を持った一人のエンターテイナーの死、それは芸能界・放送界だけでなく、彼の歌声や姿を通じて励まされてきたファンや視聴者にとっても"大きな損失"ではなかったか、と悔やまれてなりません。九さんがまだ存命であれば、今の芸能界やテレビの世界も少なからず違ったものになっていたと容易に推知できます。

「あのとき、確かに九さんは、いつものようにニコニコしながらスタジオの中にいたと思います。」司会の芳村真理さんが番組降板後に同シーンを回顧して述べたこの一言が今でもこのシーンと共に思い出されます。今も森さんを初め、九さんと時間を共有してきた仲間やファンの人たちの心の中には「ニコニコした顔の九さん」はこれからも生き続けるのだろうと思います。

夜ヒット継続の転機・「泣きの夜ヒット事件」

2006-02-24 | 夜のヒットスタジオ/番組史
前日の記事の続き・・・。
前日も申し上げたように、スタート当初は視聴率も音楽・マスコミの関係者からの評判も低空飛行を続けていた「夜ヒット」。ところが、1969年に入り、初頭に番組史に残るハプニングである「泣きの夜ヒット」事件が発生します。

事の発端は放送開始からちょうど3ヶ月を経過した1969年1月27日放送に遡ります。その回に当時の看板企画「コンピュータ恋人選び」で"モルモット"となったのは中村晃子さん。ところが彼女の恋人として有名人の中で誰が一番相性がよいのかをコンピュータで情報分析したところ、何と、司会者の前田武彦さんが最も相性の良い人物であるとはじき出されたのです。その途端、中村さんは号泣。その後、芳村真理さんがフォローして、何とか中村さんは涙を流しながら、「涙の森の物語」という歌を歌い、歌の最中、隣には「理想の恋人」に選ばれたマエタケさんが付き添って涙を拭う、というシーンが全国中に放送されました。

そして、この1ヶ月後の2月24日放送では、今度は、いしだあゆみさんと小川知子さんが番組内で号泣する事態が起きます。小川さんは、この頃、若手レーサーとして期待されていた福沢幸雄さんと交際していたとの噂が週刊誌などで報じられていました。ところがその福沢さんがあるレースのテスト走行中に不慮の死を遂げてしまいます。その福沢さんが生前に小川さんに宛てたメッセージを録音したカセットテープをマエタケさんが手渡した途端に泣き崩れ、いしだあゆみさんや中村晃子さん、レギュラーの東京ロマンチカなどその回の出演者が涙で歌を歌うこともままならない小川さんをサポートするというシーンが流れました。
そして、その騒ぎが一段落着いたと思っていたら、今度はいしだあゆみさんが号泣する事態が起きます。これも「恋人選び」がらみで、その時にいしださんの「理想の恋人」としてコンピュータがはじき出したのがその回のゲストの一人・森進一さん。そうすると、中村さんの時と同じく、いしださんは感極まり「ブルーライトヨコハマ」を披露している最中に涙で歌えなくなり、小川さんが付き添って何とか歌い終える、というシーンです。
この1月27日、2月24日の放送の際には、「こちらの方ももらい泣きしてしまいました」という賛辞の電話と、「いい加減にしろ」という厳しい批判の電話が局内に鳴り響き、局は電話の対応でパニック状態に陥ってしまったという逸話があるほど、この両放送の反響は凄ましいものがありました。また、『週刊TVガイド』にも放送後に「故意か、偶意か」という論評が掲載されるなど、マスコミでもこの話題が多く取り上げられました。

特に2月24日の放送のときは出演者の内2人が泣き出したということで、出演者もスタッフもかなりパニックした状態でその後も放送されていたらしく、番組の放送終了後、司会のマエタケさん、芳村さんは出演者全員を食事に誘って、その放送時の興奮を抑えようとしたそうです。

この一件を機に夜ヒットは「泣きのヒットスタジオ」という異名を取るほどに、歌手がよく涙を流しました。しかし、この「人の目も憚らずに歌手が泣きじゃくる」というシーンは、同時に、夜ヒットスタート時に掲げた「歌手の素顔を引き出す」という目標を実現させた瞬間に他ならなかったのです。それまで「雲の上の存在」としてみていた歌手の「一人間としての素顔」がそのままテレビに映し出された瞬間、それが歌手の涙であったのです。

この「泣きの夜ヒット」事件を皮切りに、賛否両論の意見が激しく主張される中で、番組への関心度も高まりを見せ始め、回を負うことに視聴率は20%台、30%台という高視聴率をはじき出し、ついにスタートから5ヶ月後の1969年3月17日放送では、番組最高視聴率・42.2%という驚異的な視聴率を記録。この時点で、当初3ヶ月程度の繋ぎだった夜ヒットは一躍、低迷の時代にあったフジテレビの中では希少なドル箱番組へと急成長し、番組の継続が決定。そして、1969年4月7日放送より、カラー放送に切り替わり、同時に演奏担当のオーケストラもその後、月曜日放送の終了まで演奏を担当することになる「ダン池田とニューブリード」(因みにモノクロの時代は「豊岡豊とスイング・フェイス」が担当していました)に交替。そして、音楽・芸能関係者も人気番組となった夜ヒットに対して、以前の「抵抗感」はいつの間にかなくなり、逆に各レコード会社・芸能事務所がこぞって所属タレントの出演をスタッフに猛プッシュするようになり、歌手、俳優からお笑いタレント、時にはスポーツ選手にいたるまで、バラエティーに富む出演陣を擁し、番組は第1期黄金期を迎えることとなりました。人気俳優であった吉永小百合さんや勝新太郎さん、石原裕次郎さん、渡哲也さん、そのほか、お笑い界の人気スターだった、クレイジーキャッツ、コント55号、そしてザ・ドリフターズもこの時代に夜ヒットに初出演し、それぞれ歌を披露しました。

2回にわたり、番組の黎明期の話をしましたが、この話は一応この当りで区切りとして、次回は夜ヒットで歌われた曲目について紹介していきたいと思います。

「夜のヒットスタジオ」スタートの経緯は意外なものだった・・・

2006-02-22 | 夜のヒットスタジオ/番組史
これまでの記事でも紹介してきたように22年間に及ぶ長寿番組となった夜ヒット。しかし、その始まりはなんとも意外なものでした。

夜ヒットは1985年3月25日放送まで月曜日22時~の1時間枠で放送されていましたが、この番組が始まる前のフジテレビの同枠というのはドラマ枠でした。しかし、当時のフジテレビは今のような視聴率1,2位を争うような強豪な放送局ではなく、視聴率的に万年低迷を続ける"弱小"の放送局であり、この枠のドラマもことごとく失敗していました。
そこでフジテレビは、3ヶ月程度のインターバルを置いて、新路線のドラマ枠とすることを決意し、その間の穴埋め番組を制作する必要が生じました。その"穴埋め"こそがこの夜のヒットスタジオだったわけです。

スタート当時において22時の枠というのは、今のように子供でも起きて見られる時間帯というわけではなく、どちらかといえば「大人の時間帯」という性質が強い時間帯でした。まして、歌謡番組は1960年代当時、どこの放送局も「ドル箱」として位置づけられており、視聴者が見やすい時間帯に放送されていました。これよりも前にフジテレビで始まっていた「今週のヒット速報」(司会:高橋圭三・松任谷国子)は金曜日20時~でしたし、他の局でも「ロッテ歌のアルバム」(司会:玉置宏)は日曜日の昼、「歌のグランプリ」(司会:三木鮎郎、中村メイコほか)は火曜20時~、といった具合でした。また、ドル箱である関係上、カラー放送も他のジャンルの番組よりも一足早くスタートしており、この時代には看板歌謡番組の大半はカラーでの放送になっていました。
その中で、夜22時、しかも生放送・モノクロでの放送と言う形でスタートした夜ヒットに対する当時の局内での期待度は「所詮つなぎに過ぎないんだから当たらなくても別にいい」という悲観的な雰囲気が支配的であったようです。

しかし、番組立ち上げに参加したスタッフたちは上記のような局内での支配的意見とは全く反対に、「これまでにない歌謡番組を作ってやろう」という意識が強かったそうです。時間帯も放送形態も歌謡番組の当時の原則からすれば例外、ならば内容も斬新に、という意気込みがあったように見えます。
その「これまでにない歌謡番組」とは何か。それはそれまでは一般の視聴者からすれば雲の上の存在であったスター歌手を「一人の人間」として映し出すという点でした。「歌のアルバム」に象徴されるように、それまでの歌謡番組というのは、歌謡ショー形式のものが基本形で、司会者の役割も本当に業務的な曲の紹介しかしない、というのが大半でした(ただ、「歌のアルバム」については、玉置宏さんの豊富な歌謡曲に対する造詣に裏打ちされた司会スタイルがなければこの番組の長寿化は有り得なかったのでは、と思います)。そのような歌謡番組の作り方とは異なり、夜ヒットは「毎回歌手を集めて行われる、歌を中心とする"パーティー"」というコンセプトで制作が行われ、この番組における司会者の役割というのはパーティーのホスト・ホステス役といった位置づけでした。そのホスト・ホステス役という意味合いで初代司会者に抜擢されたのが、前田武彦さんと芳村真理さんであった訳です。

前田武彦さんはもともとは「シャボン玉ホリデー」などの名番組の企画立案に参加されていた放送作家でしたが、1968年4月より、平日正午の公開放送番組「お昼のゴールデンショー」の司会者に抜擢され、て一躍放送タレントとして人気者となった方でした。他方、芳村真理さんは1950年代よりファッションモデル、そして女優として活躍し、1966年に朝ワイドの「小川宏ショー」で産休に入った木元教子さん(元TBSアナウンサー)の後任の女性司会者として抜擢され、強い個性を発揮するアシスタント司会者として知られていた方でした。お二人ともこの番組の司会を始める前は殆ど歌謡曲は興味の範疇にはなかったらしく、初代のプロデューサーであった伊藤昭さんがお二人が歌謡曲には興味がないがジャズの熱狂的なファンであることを知り、「ジャズの歌謡番組の司会をお願いしたい」という言葉で口説き落として司会をお願いした、という話があります。しかし、歌謡曲に造詣のあまりない司会者を抜擢したというのも、上記のそれまでの歌謡番組とは異なる「一人の人間を映し出す歌謡番組」という番組コンセプトを弁えての人選であったようです(尚、ヒットスタジオ開始の1年ほど前にマエタケさんがディスクジョッキーを務めるラジオ番組に芳村さんが1ヶ月間、ゲストパートナーとして招かれ、そこでのお2人のやり取りを聞いた伊藤プロデューサーや構成作家の塚田茂さんが何とかこのコンビを新番組の司会に置きたい、というところからマエタケさん、芳村さんに白羽の矢が立ったという話があります)。

そして、歌手の人間性を引き出すというコンセプトの下に、局内に缶詰になってコーナーの立案が行われ、後に初期夜ヒットの名コーナーとなった「コンピューター恋人選び」「歌謡ドラマ」、そのほか、ヒットスタジオの代名詞ともいえる「他人の歌オープニングメドレー」や「ご対面」コーナーなどを放送内に盛り込むことや、レギュラー出演者として当時の人気ムードコーラスグルー・鶴岡雅義と東京ロマンチカと、コーナー担当として小林大輔アナウンサーを起用することも決まり、そして1968年11月4日、「夜のヒットスタジオ」第1回目の放送がスタートしました。初回のゲストは島倉千代子さん、布施明さん、美川憲一さん、小川知子さん、中村晃子さん、黒木憲さん、佐川満男さん、そして「恋の季節」が爆発的ヒットとなっていたピンキーとキラーズ(ピンキーというのは今陽子さんのことです)の計8組でした。

しかし、それまでの歌謡番組と違うカラーを打ち出した同番組に対する開始当初の視聴者の評価も、先ほど書いたような局内のゲバ評と同じくあまり芳しいものではなく、むしろ批判的な論調が多かったようです。また、音楽関係者も夜22時に生で歌を歌うには体力的な問題があるという点や、当時の歌手が週末には地方でプロモーションや巡業を行い、月曜日をオフ日にしているという場合も少なくなく、そして何よりも「素顔を引き出す」とのコンセプトが"スター"である歌手のイメージを傷付けかねないとして強く抵抗しており、なかなか出演者の調達も巧くいかないという、相当に厳しい中での船出となりました。

ところが翌1969年初頭、番組に転機をもたらす「泣きの夜ヒット事件」が起ります。これ以降はまた後日話したいと思います。