この番組の一つの代名詞に、第1~1000回まで司会を務め、夜ヒットの看板司会者として番組に大きく貢献してきた芳村真理さんの奇抜なファッションがあります。
今回はその芳村さんのファッションについての話です・・・。
芳村さんは50代後半以上の方ならご存知の方も多いと思いますが、1950年代の後半、入江美樹さん(現・小沢征爾氏夫人)らと同様に人気ファッションモデルのお一人で活躍されており、「週刊朝日」などでも数多く表紙モデルも務めていました。そのモデルとして活躍した数年間の経験で培われた彼女独自のオシャレ観を一気に開花させた番組がこの夜ヒットであったわけです。
彼女に司会を依頼するとき、スタッフも当然に芳村さんがモデルとしての経験があり、ファッション業界でも一応名が通った存在であることを知っていたため、「服装はお任せ」ということになり「自由に自分でコーディネートした服装を着て好きな"ジャズ"を堪能できるなら」というで番組司会の仕事が決まったそうです(後に第1回の司会に臨むにあたり「ジャズ」ではなく完全な歌謡番組であることを知ったという話は以前申し上げたとおりですが・・・)。そこから約20年、彼女はこの番組で実に1,200着を越える衣装を身に着けてきました。
しかし、なぜにあれほどまでに華やかな服装を身にまとって登場していたのか、それはせっかく自分の裁量で服装選びができるなら、その時折の流行をいち早く自分が紹介する「モードのメッセンジャー」でなければならない、という意思に基づくものだったそうです。その役割を常に果たし続けるために、彼女は他の仕事のないオフの日になると、国内外からファッション雑誌や機関誌を大量に仕入れたり、時には海外まで赴いてファッション・ショーに出かけ、そのショーのスタッフとのコネクションを作り、どういう形で着るべきかということを、自分が知りうる着付けの技術や、それでもたりないときは知り合いのスタイリストやデザイナーなどとも何度か協議を重ねるなど、相当の努力をしていたようです。その努力があの他のタレントでも真似がまずできないであろう奇抜なファッションに結実していたのです。
時に電球を頭につけて、また、髪型をパンク風にしてドレススタイルで登場したり、「ジョーン・バーンズ」のタキシートスタイル、1枚の布地で作られた劇場の緞帳を思わせる衣装など、普通の人ではまず着れないだろうと思われるスタイルで登場したかと思えば、彼女が気に入っていたブランドである「クリッツィア」のシンプルな黒のタイトなジャケットとミニスカート、「イブ・サン・ローラン」の黒のコートと裾の広がったパンツ、芳村さんとは親しい間柄の花井幸子さんデザインのストライブ柄のスーツスタイルといったシックな着こなしも無難にこなしていました。そして1960年代後半にはやったミニスカート、1970年代前半に流行したマキシスカートと、その時折の流行もぎっちり披露したりと、本当に彼女のファッションの領域は奥行きの深いものでした。そして、派手な衣装のときはあえてアクセサリーは最小限にする、パンク風にするには、メイクやアクセサリーの使い方を考えあえてミスマッチでパンクファッションに挑戦する、といった具合にその一つ一つに彼女のファッションに対する深い考え方がしっかりと主張されていたように感じます(ここの部分が今の若い女性タレントのファッションとの一番大きな違いなのかもしれないですね)。
洋服だけでもこれほどバラエティーに富んだ服装をしていたのですから、和服の着方も当然に普通の着方とは違う奇抜なスタイルに挑戦していました。特に1986年に入り1回目の番組で彼女は憧れの着物デザイナー・久保田一竹さんの着物で登場したのですが、一竹さんの「自由に着てください」という言葉に応じて、彼女はその着物を全体に上に上げ、短めの帯を締めスカートのような雰囲気で着用し、足には足袋・草履ではなく、ストッキングにハイヒールというなんとも斬新な着方で登場しました。その時に出演していたゲストの近藤真彦さんもこの芳村さんの服装をひどく絶賛されたそうというエピソードも残っています(後に三田佳子さんも「紅白」の司会を務めた際、このときの芳村さんの着付けを参考にした衣装で司会に臨んだことがあるそうです)。
このような奇抜なファっションが一層エスカレートしたのは高級ブランドブームの中でモード系がはやっていた1980年代のことです。時の相手役、井上順さんもファッションに造詣が深い方で、毎回冒頭には彼女のその回に着ている衣装やヘアスタイルに必ず茶々を入れる(「芳村さんの髪型で今日の東京は風が強かったのが分かる」、「蜘蛛巣城」「カトリーヌ・ド"ブース"」布地の厚いタイツのことを「股引き」、マント風のコートで出たときには「月光仮面」等など・・・・)というパターンが恒例となっていました。井上さんはその回に何を芳村さんが着用してくるか、本番まで全く知らないわけで、あの「茶化し」も完全なアドリブであったそうですが、その彼の一言一言によって芳村さんのファッションへの追求欲がより掻き立てられ、回を重ねることに衣装が派手になっていったそうです。
彼女の奇抜なファッションは一部では「歌手よりも派手にする司会者というのは如何なものか」、「着物をあんなふうにめちゃくちゃに着るとは伝統を軽視している」といった批判もありましたが、そのような批判を彼女はより自分流を追い続けることで払拭していきました。また、彼女のファッションはタレントの服装にも影響を与え、タレントが専属スタイリストを付けるようになったのもこの夜ヒットが契機だったという話も残されています。このことを裏付けるように、夜ヒットに多く出演した中尾ミエさんや中森明菜さんなども「とにかく真理さんに誉められる洋服を着ていこうと毎回他の番組に出るとき以上に衣装にこだわった」と後におっしゃっています。
こういった出演タレント、そして何よりも司会の芳村真理さんの刺激的なファッションが夜ヒット独自の他の番組とは違った華やかさ、そして毎回違った刺激を視聴者、そして番組そのものにも与え、長寿番組にはつき物の"マンネリ化"を食い止める礎となっていたことはいうまでもありません。
今回はその芳村さんのファッションについての話です・・・。
芳村さんは50代後半以上の方ならご存知の方も多いと思いますが、1950年代の後半、入江美樹さん(現・小沢征爾氏夫人)らと同様に人気ファッションモデルのお一人で活躍されており、「週刊朝日」などでも数多く表紙モデルも務めていました。そのモデルとして活躍した数年間の経験で培われた彼女独自のオシャレ観を一気に開花させた番組がこの夜ヒットであったわけです。
彼女に司会を依頼するとき、スタッフも当然に芳村さんがモデルとしての経験があり、ファッション業界でも一応名が通った存在であることを知っていたため、「服装はお任せ」ということになり「自由に自分でコーディネートした服装を着て好きな"ジャズ"を堪能できるなら」というで番組司会の仕事が決まったそうです(後に第1回の司会に臨むにあたり「ジャズ」ではなく完全な歌謡番組であることを知ったという話は以前申し上げたとおりですが・・・)。そこから約20年、彼女はこの番組で実に1,200着を越える衣装を身に着けてきました。
しかし、なぜにあれほどまでに華やかな服装を身にまとって登場していたのか、それはせっかく自分の裁量で服装選びができるなら、その時折の流行をいち早く自分が紹介する「モードのメッセンジャー」でなければならない、という意思に基づくものだったそうです。その役割を常に果たし続けるために、彼女は他の仕事のないオフの日になると、国内外からファッション雑誌や機関誌を大量に仕入れたり、時には海外まで赴いてファッション・ショーに出かけ、そのショーのスタッフとのコネクションを作り、どういう形で着るべきかということを、自分が知りうる着付けの技術や、それでもたりないときは知り合いのスタイリストやデザイナーなどとも何度か協議を重ねるなど、相当の努力をしていたようです。その努力があの他のタレントでも真似がまずできないであろう奇抜なファッションに結実していたのです。
時に電球を頭につけて、また、髪型をパンク風にしてドレススタイルで登場したり、「ジョーン・バーンズ」のタキシートスタイル、1枚の布地で作られた劇場の緞帳を思わせる衣装など、普通の人ではまず着れないだろうと思われるスタイルで登場したかと思えば、彼女が気に入っていたブランドである「クリッツィア」のシンプルな黒のタイトなジャケットとミニスカート、「イブ・サン・ローラン」の黒のコートと裾の広がったパンツ、芳村さんとは親しい間柄の花井幸子さんデザインのストライブ柄のスーツスタイルといったシックな着こなしも無難にこなしていました。そして1960年代後半にはやったミニスカート、1970年代前半に流行したマキシスカートと、その時折の流行もぎっちり披露したりと、本当に彼女のファッションの領域は奥行きの深いものでした。そして、派手な衣装のときはあえてアクセサリーは最小限にする、パンク風にするには、メイクやアクセサリーの使い方を考えあえてミスマッチでパンクファッションに挑戦する、といった具合にその一つ一つに彼女のファッションに対する深い考え方がしっかりと主張されていたように感じます(ここの部分が今の若い女性タレントのファッションとの一番大きな違いなのかもしれないですね)。
洋服だけでもこれほどバラエティーに富んだ服装をしていたのですから、和服の着方も当然に普通の着方とは違う奇抜なスタイルに挑戦していました。特に1986年に入り1回目の番組で彼女は憧れの着物デザイナー・久保田一竹さんの着物で登場したのですが、一竹さんの「自由に着てください」という言葉に応じて、彼女はその着物を全体に上に上げ、短めの帯を締めスカートのような雰囲気で着用し、足には足袋・草履ではなく、ストッキングにハイヒールというなんとも斬新な着方で登場しました。その時に出演していたゲストの近藤真彦さんもこの芳村さんの服装をひどく絶賛されたそうというエピソードも残っています(後に三田佳子さんも「紅白」の司会を務めた際、このときの芳村さんの着付けを参考にした衣装で司会に臨んだことがあるそうです)。
このような奇抜なファっションが一層エスカレートしたのは高級ブランドブームの中でモード系がはやっていた1980年代のことです。時の相手役、井上順さんもファッションに造詣が深い方で、毎回冒頭には彼女のその回に着ている衣装やヘアスタイルに必ず茶々を入れる(「芳村さんの髪型で今日の東京は風が強かったのが分かる」、「蜘蛛巣城」「カトリーヌ・ド"ブース"」布地の厚いタイツのことを「股引き」、マント風のコートで出たときには「月光仮面」等など・・・・)というパターンが恒例となっていました。井上さんはその回に何を芳村さんが着用してくるか、本番まで全く知らないわけで、あの「茶化し」も完全なアドリブであったそうですが、その彼の一言一言によって芳村さんのファッションへの追求欲がより掻き立てられ、回を重ねることに衣装が派手になっていったそうです。
彼女の奇抜なファッションは一部では「歌手よりも派手にする司会者というのは如何なものか」、「着物をあんなふうにめちゃくちゃに着るとは伝統を軽視している」といった批判もありましたが、そのような批判を彼女はより自分流を追い続けることで払拭していきました。また、彼女のファッションはタレントの服装にも影響を与え、タレントが専属スタイリストを付けるようになったのもこの夜ヒットが契機だったという話も残されています。このことを裏付けるように、夜ヒットに多く出演した中尾ミエさんや中森明菜さんなども「とにかく真理さんに誉められる洋服を着ていこうと毎回他の番組に出るとき以上に衣装にこだわった」と後におっしゃっています。
こういった出演タレント、そして何よりも司会の芳村真理さんの刺激的なファッションが夜ヒット独自の他の番組とは違った華やかさ、そして毎回違った刺激を視聴者、そして番組そのものにも与え、長寿番組にはつき物の"マンネリ化"を食い止める礎となっていたことはいうまでもありません。