伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

<詳細お願いします>出演日不定の歌手・曲

2012-10-19 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力
出演歌手・曲につき出演・披露された具体的な時期が現時点で判然としないものがいくつかがありますので、詳細がわかる方がおられましたらご一報ください。
上條恒彦「どこかで誰かが」(ドラマ「木枯し紋次郎」主題歌)
・・・・1972年3月~5月のうちのいずれかに出演
※現時点で判明している限りでの初出演日・曲目は1972年7月3日放送「あなたがいれば」。但し、この時期の出演歌手・曲目の中には、フジ系で当時放映中のドラマ主題歌が多く登場している(坂口良子、いずみたくシンガーズ、グラスロードなど)ことを考えると、この曲のヒット当時に既に番組に出演している可能性が高い。
金井克子「他人の関係」
・・・・1973年4月~6月のうちのいずれかに出演
夏木マリ「絹の靴下」
・・・・1973年8月~9月のうちのいずれかに出演
※現時点で判明している限りでは、初出演日は1974年6月24日「夏のせいかしら」とされている。
小坂明子「あなた」
・・・・1973年12月~1974年1月のうちのいずれかに出演
※現時点で判明している限りでは、74年8月12日に同曲で出演となっているが、フジテレビが中継を行う「世界歌謡祭」のグランプリを受賞して大ヒットしたという経緯を考えると、ヒットしていた時期に既に初出演している可能性がある。
梓みちよ「二人でお酒を」
・・・・1974年4月~6月のうちのいずれかに出演
※番組前期の常連歌手でありながら、この曲が大ヒットしていた時期の番組出演実績は現時点で判明している限りではゼロというのは不自然では?
中川圭衣子(1986年2月)-曲目が不明。本職が声楽家・ミュージカル歌手であることを考えると、オペラ・ミュージカルの定番曲を披露している可能性が高い。

(2013/04/17 追記:新聞テレビ欄での出演者表記がないものの、過去の番組出演の出演間隔から番組内で披露された可能性が高い楽曲)
小柳ルミ子「京のにわか雨」
・・・・当時の新聞テレビ欄表記によれば、1972年5月~10月まで小柳の出演実績なし。但し、新曲発表として72年8月頃(72年7月31日または8月7日放送?)に同曲で出演している可能性が高い(「京の-」は72年8月10日発売)。
野口五郎「青い日曜日」
・・・・当時の新聞テレビ欄表記によれば、1972年5月~7月まで野口の出演実績なし。但し、新曲発表として72年6月頃(72年5月29日または6月5日放送?)に同曲で出演している可能性が高い(「青い-」は72年6月1日発売)。
伊丹幸雄「僕だけひとりぼっち」
・・・・当時の新聞テレビ欄表記によれば、1972年8月~1973年2月まで伊丹の出演実績なし。但し、新曲発表として72年10月頃(72年10月16日・23日・30日放送の何れか?)に同曲で出演している可能性が高い(「僕だけ-」は72年10月21日発売)。
にしきのあきら「城ヶ島慕情」
・・・・当時の新聞テレビ欄表記によれば、1972年11月~1973年1月までにしきのの出演実績なし。但し、新曲発表として72年11月頃(72年11月6日または11月13日放送?)に同曲で出演している可能性が高い(「城ヶ島-」は72年11月21日発売)。

このほか、DX初期(1985年4月~1986年3月)までのマンスリー歌手の曲目についても大半が詳細不明となっております。この点につきましてもわかる方いましたらご一報ください。

歌謡曲黄金時代を支えた名クリエーター達(1-2) 売野雅勇② 曲目リスト編

2008-07-22 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力

(売野雅勇氏の経歴・功績等については「概要・経歴編」を参照のこと)

<夜ヒットを彩った売野雅勇作品>
【1982(昭和57)年】
・07/28 少女A/中森明菜 
 曲:芹沢廣明 HC:5位 AP:82/09/20(第723回)

【1983(昭和58)年】
・02/23 1/2の神話/中森明菜 
 曲:大沢誉志幸 HC:1位 AP:83/03/07(第746回)、ほか
・02/25 微熱かナ/伊藤麻衣子 
 曲:来生たかお HC:43位 AP:83/03/28(第749回)
・04/01 め組のひと/ラッツ&スター 
 曲:井上大輔 HC:1位 ※「麻生麗二」名義 AP:83/05/09(第755回)、ほか
・05/25 過ぎ去れば夢は優しい/野口五郎 
 曲:筒美京平 HC:45位 AP:83/05/23(第757回)  
・06/01 エスカレーション/河合奈保子 
 曲:筒美京平 HC:3位 AP:83/06/13(第760回)、ほか
・07/21 夏のクラクション/稲垣潤一 
 曲:筒美京平 HC:25位 AP:83/08/01(第767回)、ほか
・09/07 禁区/中森明菜 
 曲:細野晴臣 HC:1位 AP:83/09/12(第773回)、ほか
・09/14 UNバランス/河合奈保子  
 曲:筒美京平 HC:4位 AP:83/10/17(第778回)、ほか
・10/14 挑発∞(無限大)/シブがき隊 
 曲:井上大輔 HC:2位 AP:83/10/31(第780回)、ほか
・12/01 今夜はフィジカル/ラッツ&スター 
 曲:井上大輔 HC:35位 ※「麻生麗二」名義 AP:83/11/28(第784回)、ほか

【1984(昭和59)年】
・01/15 サムライ・ニッポン/シブがき隊 
 曲:後藤次利 HC:3位 AP:84/01/09(第789回)、ほか
・01/21 涙のリクエスト/チェッカーズ 
 曲:芹沢廣明 HC:2位 AP:84/02/20(第795回)、ほか
・02/25 2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-/郷ひろみ 
 曲:井上大輔 HC:7位 AP:84/03/05(第797回)、ほか
・03/21 月下美人(ムーンライト・ハニー)/ラッツ&スター 
 曲:井上大輔 HC:29位 ※「麻生麗二」名義 AP:84/03/19(第799回)、ほか
・03/23 さよならのカレンダー/伊藤麻衣子 
 曲:岩里未央 AP:84/04/30(第805回)
・03/30 喝!/シブがき隊 
 曲:後藤次利 HC:1位 AP:84/04/16(第803回)、ほか
・05/01 哀しくてジェラシー/チェッカーズ 
 曲:芹沢廣明 HC:1位 AP:84/06/18(第812回)、ほか
・06/01 サヨナラは八月のララバイ/吉川晃司 
 曲:NOBODY HC:6位 AP:84/06/25(第813回)、ほか
・06/06 ケジメなさい/近藤真彦 
 曲:馬飼野康二 HC:1位 AP:84/07/16(第816回)、ほか
・06/21 ヤクシニー/郷ひろみ 
 曲:井上大輔 HC:21位 AP:84/07/09(第815回)、ほか
・07/01 グラマーGUY/ラッツ&スター 
 曲:井上大輔 HC:77位 ※12inch Single AP:84/07/02(第814回)
・07/05 背中からI Love You/西城秀樹 
 曲:後藤次利 HC:30位 AP:84/08/06(第819回)、ほか
・07/25 十戒(1984)/中森明菜 
 曲:高中正義 HC:1位 AP:84/08/20(第821回)、ほか
・08/23 星屑のステージ/チェッカーズ 
 曲:芹沢廣明 HC:1位 AP:84/09/17(第825回)、ほか
・08/28 唇のプライバシー/河合奈保子 
 曲:筒美京平 HC:4位 AP:84/09/24(第826回)、ほか
・09/10 ラ・ヴィアンローズ/吉川晃司 
 曲:大沢誉志幸 HC:4位 AP:84/09/10(第824回)、ほか
・10/21 摩天楼ブルース/東京JAP 
 曲:筒美京平 HC:18位 AP:85/03/11(第849回) 
・11/01 ビリーヴ/松本伊代 曲:筒美京平 
 HC:11位 AP:84/11/26(第835回)
・11/05 ヒーロー/麻倉未稀 
 原詩・曲:Jim Steiman/Dean Pichford(訳詞) HC:19位 AP:85/01/28(第843回)
・11/21 ジュリアに傷心(ハートブレイク)/チェッカーズ 
 曲:芹沢廣明 HC:1位 AP:84/12/10(第837回)、ほか
・12/05 北駅のソリチュード/河合奈保子 
 曲:筒美京平 HC:6位 AP:85/01/07(第840回)、ほか

【1985(昭和60)年】
・02/01 見えない翼/伊藤麻衣子 
 曲:鈴木キサブロー HC:14位 AP:85/02/25(第847回)、ほか
・03/05 ジェラス・トレイン/河合奈保子 
 曲:筒美京平 HC:6位 AP:85/03/18(第850回)、ほか
・03/21 あの娘とスキャンダル/チェッカーズ 
 曲:芹沢廣明 HC:1位 AP:85/04/03(第852回)、ほか
・04/01 マドンナはお前だけ/ラッツ&スター 
 曲:井上大輔 HC:57位 ※「麻生麗二」名義 AP:85/04/03(第852回)
・05/21 六本木レイン/研ナオコ 
 曲:吉田拓郎 HC:78位 AP:85/06/05(第861回)
・05/22 夏の愛人/山本達彦 
 曲:山本達彦 AP:85/06/05(第861回)
・06/05 夢絆/近藤真彦 
 曲:鈴木キサブロー HC:2位 AP:85/06/12(第862回)、ほか
・06/12 デビュー -Fly Me To Love-/河合奈保子 
 曲:林哲司 HC:1位 AP:85/06/12(第862回)、ほか
・07/03 風のサザン・カリフォルニア/堀ちえみ 
 曲:高中正義 HC:9位 ※「Wa・ショイ!」両A面 AP:85/08/21(第872回)
・07/05 俺たちのロカビリーナイト/チェッカーズ 
 曲:芹沢廣明 HC:1位 AP:85/07/03(第865回)、ほか
・07/17 Sea Loves You -キッスで殺して-/石川秀美
 曲:小田裕一郎 HC:10位 AP:85/07/10(第866回)、ほか
・08/21 クレイジー・パラダイスへようこそ/チェッカーズ
 曲:藤井尚之 ※Album「毎日!チェッカーズ」より AP:86/04/23(第906回)
・09/21 HEART OF RAINBOW -愛の虹を渡って-/チェッカーズ
 曲:芹沢廣明 HC:1位 ※12inch Single AP:85/10/16(第880回)
・09/25 青春の忘れ物/堀ちえみ
 曲:鈴木キサブロー HC:12位 AP:85/09/18(第876回)、ほか
・10/03 ラヴェンダー・リップス/河合奈保子
 曲:林哲司 HC:5位 AP:85/10/02(第878回)、ほか
・10/21 大将/近藤真彦
 曲:鈴木キサブロー HC:6位 AP:85/11/06(第883回)、ほか 
・12/12 THROUGH THE WINDOW -月に降る雪-/河合奈保子
 原詩・曲:Peter Beckett(訳詞) HC:7位 AP:85/12/11(第888回)、ほか 
・12/18 サイレンの少年 -遠くで抱きしめて-/石川秀美
 曲:芹沢廣明 HC:10位 AP:85/12/04(第887回)、ほか
・12/28 暗くなるまで待って/堀ちえみ
 曲:後藤次利 ※Album「夢の続き」より AP:85/12/18(第889回)

【1986(昭和61)年】
・01/21 夢千秒/堀ちえみ
 曲:鈴木キサブロー HC:12位 AP:86/01/22(第893回)、ほか
・01/27 悲しいな/杉浦幸
 曲:岸正之 HC:4位 AP:86/01/29(第864回)
・02/21 OH!! POPSTAR/チェッカーズ
 曲:芹沢廣明 HC:2位 AP:86/02/19(第897回)、ほか
・03/20 密室のTANGO/山本達彦
 曲:山本達彦 AP:86/04/02(第903回) 
・03/26 フラミンゴinパラダイス/荻野目洋子
 曲:NOBODY HC:7位 AP:86/04/16(第905回)、ほか
・04/01 涙のハリウッド/河合奈保子
 曲:林哲司 HC:7位 AP:86/04/23(第906回)、ほか
・04/01 ジャスミンの夢飾り/河合奈保子
 曲:林哲司 ※「涙のハリウッド」B面 AP:86/06/11(第913回) 
・04/21 ジャックナイフの夏/堀ちえみ
 曲:タケカワユキヒデ HC:12位 AP:86/04/23(第906回)
・05/21 想い出のクリフサイド・ホテル/中村雅俊
 曲:鈴木キサブロー HC:29位 AP:86/06/11(第913回)、ほか
・06/05 Song for U.S.A/チェッカーズ
 曲:芹沢廣明 HC:1位 AP:86/07/16(第918回)、ほか
・07/09 SHADOW SUMMER/石川秀美
 曲:林哲司 HC:18位 AP:86/07/09(第917回)、ほか
・07/24 刹那の夏/河合奈保子
 曲:筒美京平 HC:10位 AP:86/07/30(第920回)
・08/07 Super Chance/1986オメガトライブ
 曲:和泉常寛 HC:2位 AP:86/08/13(第922回)、ほか
・09/03 Say Yes!/菊池桃子
 曲:林哲司 HC:1位 AP:86/09/03(第925回)、ほか
・09/29 P.S.抱きしめたい/稲垣潤一
 曲:林哲司 ※Album(但しLPではリリースされず)「P.S.抱きしめたい」より AP:86/11/05(第934回)
・10/29 六本木純情派/荻野目洋子
 曲:吉実明宏 HC:3位 AP:86/10/29(第933回)、ほか
・11/06 最後のHoly Night/杉山清貴
 曲:杉山清貴 HC:2位 AP:86/11/19(第936回)、ほか
・11/21 さよならの贈り物/ブレッド&バター
 曲:芹沢廣明 AP:87/02/11(第948回)

【1987(昭和62)年】
・03/03 湾岸太陽族/荻野目洋子
 曲:山崎稔 HC:3位 AP:87/03/18(第953回)、ほか
・03/25 アイドルを探せ/菊池桃子
 曲:林哲司 HC:1位 AP:87/03/04(第951回)、ほか
・04/22 思い出のビーチクラブ/稲垣潤一
 曲:林哲司 HC:30位 AP:87/04/29(第959回)
・05/25 NIGHT OF SUMMER SIDE /池田政典
 曲:NOBODY AP:87/06/24(第967回)
・05/27 水の中のAnswer/杉山清貴
 曲:杉山清貴 HC:1位 AP:86/05/27(第963回)、ほか
・06/01 70年代/中村雅俊
 曲:中崎英也 HC:30位 AP:87/06/17(第966回)、ほか
・06/21 さよならの果実たち/荻野目洋子
 曲:筒美京平 HC:1位 AP:87/07/01(第968回)、ほか
・06/21 Brilliant Summer/1986オメガトライブ
 曲:和泉常寛 ※Album「DJ SPECIAL」より AP:87/06/17(第966回)
・07/15 Miss Lonely Eyes/1986オメガトライブ
 曲:和泉常寛 HC:2位  AP:87/07/29(第972回)、ほか
・07/29 Nile in Blue/菊池桃子
 曲:林哲司 HC:2位 AP:87/08/19(第975回)、ほか
・10/08 ガラスの草原/菊池桃子 
 曲:林哲司 HC:4位 AP:87/10/07(第982回)、ほか
・10/14 デス・トラップ/石川秀美
 曲:NOBODY HC:48位 AP:87/09/30(第981回)
・10/27 北風のキャロル/荻野目洋子
 曲:筒美京平 HC:2位 AP:87/11/18(第988回)、ほか
・11/18 Stay Girl,Stay Pure/1986オメガトライブ
 曲:和泉常寛 HC:5位 AP:87/11/11(第987回)

【1988(昭和63)年】
・01/21 ストレンジャーtonight/荻野目洋子
 曲:NOBODY HC:1位 AP:88/03/09(第1004回)
・03/21 Down Town Mystery/カルロス・トシキ&オメガトライブ
 曲:和泉常寛 HC:8位 AP:88/03/23(第1006回)、ほか
・04/27 スターダスト・ドリーム/荻野目洋子
 曲:井上マサヨシ HC:1位 ※「麻生麗二」名義 AP:88/05/04(第1012回)、ほか
・05/21 京都去りがたし/森進一
 曲:森進一 HC:28位 AP:88/06/22(第1019回)、ほか
・08/10 アクアマリンのままでいて/カルロス・トシキ&オメガトライブ
 曲:和泉常寛 HC:3位 AP:88/08/03(第1025回)、ほか
・09/07 淋しさならひとつ/松本伊代
 曲:井上ヨシマサ HC:23位 AP:88/10/26(第1037回)
・11/16 TRASH/柴田恭兵
 曲:太田美智彦 HC:12位 AP:88/11/16(第1040回)

【1989(平成元)年】
・07/05 恋のロックンロール・サーカス/浅香唯
 曲:NOBODY HC:4位 AP:89/07/05(第1072回)
・07/21 どうして好きといってくれないの/カルロス・トシキ&オメガトライブ
 曲:林哲司 AP:89/07/12(第1073回)
・09/05 花の降る午後/カルロス・トシキ&オメガトライブ
 曲:林哲司 AP:89/08/30(第1080回)



【緊急特集】ダン池田さん、逝く。

2008-02-22 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力

この「夜のヒットスタジオ」の演奏バンド、「ダン池田とニューブリード」のバンドマスターとして、番組全盛期を支えたダン池田さんが昨年12月25日にお亡くなりになりました。 ここで、哀悼の意を込めて彼の歩んできた経歴を振り返ります。

1935年、ダンさんは現在の韓国・ソウル市で産声を上げました。戦後に入ってから、父親の郷里である長野市に引揚げてからは、父親が銀行員であったこともあり全国各地を転々。その中で、中学生時代の恩師との出会いがその後の音楽家人生を決定つける第一歩となったそうです。

1952年に北海道の留萌高等学校に入学。同高校時代にはブラスバンド部を自らが中心となって創立されるなど、その後遺憾なく発揮されることとなる「ニューブリード」の絶対的なリーダーシップはこの時代からその片鱗を見せていたようです(尚、この高校時代の同級生には作曲家の森田公一がいます)。

1955年に上京、中央大学に入学しますが、プロのミュージシャンになるというかねてからの夢を捨てきれず在学中から、ラテンバンドのトランペット奏者としてプロミュージシャンとしての活動を開始。1963年には若干27歳にして独立し「ダン池田とアフロキューバンド」を創設。そしてこのバンドを母体に、1969年にはジャズのビッグバンドとして「ダン池田とニューブリード」を創設。それから程なくして、「夜ヒット」がカラー放送へと切り替わると同時に番組専属の伴奏バンドとして抜擢され、後発バンドながら、「小野満とスイング・ビーバーズ」「森寿男とブルーコーツ」「高橋達也と東京ユニオン」などと共に歌謡番組黄金時代を象徴する人気バンドとして視聴者にもおなじみの顔となってゆきます。

1972年からは通算13回にわたり「NHK紅白歌合戦」の紅組演奏担当に抜擢(1974年のみ「原信夫とシャーブ&フラッツ」が担当)され、名実共に実力・人気No.1のビッグバンドとしての地位を確立しました。 また、ダンさん自身、そのキャラクターの軽妙さもあり、単なる一指揮者・バンマスという立場を超えて、タレントとしても活動するようになり、「オールスター家族対抗歌合戦」では審査員、「スターどっきり(秘)報告」ではレポーターとして出演、初期の「夜ヒット」でも人気コーナーだった「歌謡ドラマ」では構成の塚田茂と共に「コメディー要員」としても活躍していました。

本業のバンマスとしては、やはりラテンバンドの出身者らしく、他のバンマスよりも指揮のスタイルはリズミカルかつ派手で、それに釣られるような形で「ニューブリード」のメンバーたちも他のビッグバンド以上に抑揚感・臨場感のあるクオリティーの高い演奏を展開。華やかしき「夜ヒット」黄金期の番組イメージの構築という点において、司会の芳村真理の派手な服装、スタッフたちの過激な演出スタイル、出演者層の幅広さとならび、彼らの演奏、そしてダンさんのあの独特の指揮スタイルも外す事が出来ない要素であったと私は思っております。 以前CS再放送で流れていた「ラテンの女王」坂本スミ子の十八番「エル・クンバンチェロ」の演奏(1976年10月4日放送)などは、見ていてホントに「シビれる」の一言で、このバンドの実力の高さを改めて再認識した次第です。

そんなような感じで1980年代前半まで歌謡番組お馴染みの存在であったダンさんですが、1985年3月、「夜ヒット」が二時間番組に拡大するのを機にバンドマンスターから降板(但し、「夜ヒット」以外の番組については「ニューブリード」のリーダーとしての活動を続けていたそうです)。当初はその降板理由は「体調面での問題」とだけ説明されていました。

 しかし、同年11月、「テレビ音楽番組から生演奏が消えていきつつある風潮に対する警告」という名の下に、芸能界暴露本のハシリともいえる『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』という本を出版。この本の中で、「夜ヒット」の本当の降板理由が「ギャラと待遇の悪さ」であったこと、また司会の井上順、芳村真理をはじめ主要な出演者をほぼ実名で批判(一度図書館でこの本を呼んだことがありますが、内容の大半が「ヒットスタジオ」に限定した長年の不満の吐露といった雰囲気が強く、信憑性が定かでない記述が相当に多いので、厳密な意味での、つまり真実を何の脚色もなくありのまま書いた本という意味での「暴露本」とはニュアンスがやや異なると思いますが…)。 その内容の過激さから70万部を売上げるベストセラーとなりますが、実名での批判により人気歌手・タレントを数多く抱えている大手のプロダクションや放送局各局からは強い反発を受け、半ば「追放」のような形で、「ヒットスタジオ」以外の出演番組からもフェードアウトを余儀なくされ、また「ニューブリード」の活動自体にも支障を来たすようになったことから、バンマスの座もこの年12月には元GS「パープル・シャドウズ」の小田啓義に譲り、自らは「ニューブリード」からも完全に決別。 こうして、彼は一瞬にして表舞台から姿を消すこととなります。

その後も住まいのあった埼玉県を中心に、カラオケ教室を開いたり、バーを経営するなど細々と生計をたてていたそうですが、1998年に脳梗塞を患って以降は体調を崩しがちになり、自宅療養と入院を繰り返しており芸能界とのつながりはほぼ断絶していたようです。 あれだけの名声を誇ったバンマスにしては何とも淋しい晩年。彼の人生はまさに絵に描いたような「栄光」と「挫折」の一生であったといえるかもしれません。

ただ、その「挫折」の契機を作った暴露本の出版については、生前、常にこれを悔いるような発言をしなかったそうです。たしか数年前に日本テレビ系で「あの人は今」のような番組に出演されたことがあり、そのときもそんなような趣旨のことを言っておられたような記憶があります。 それだけ業界全体に対する不満もあったのでしょうし、ご本人のお気持ちとしてはもう「芸能界にいることの必要性」を感じられなくなっており、干されても構わない、といったぐらいの「決死の覚悟」を持ってこの本を書いたといえるのかもしれません。そう考えると、我々が思っている彼の晩年に対する「挫折」というイメージと、ダンさんご本人が抱いていた晩年の過ごし方・生き方に対する考えには実際には開きがあるのかも…。 ただ、番組フリークとしては、やはり暴露本出版という「攻撃」的態度はあったとはいえ、番組全盛期を語る上ではまず外すことの出来ない存在であったこともまた事実なわけで、その意味では、これで完全に彼の独特な力強い指揮スタイルを拝見することも過去の映像だけになってしまったという点で淋しさを感じます。

恐らく4月辺りからまた1976年頃のものにCS再放送の時期が戻るはずですので、これからはもう絶対にリアルタイムで見ることが出来ない「ダン池田」の指揮の雄姿も是非多くの人に注目してほしいところです。

暴露本によって霞んでしまったともいえる彼の音楽家としての実力の高さをあの指揮スタイルを通じて再認識してください。 とにかく、ヒットスタジオフリークの一人として番組功労者のダンさんには「お疲れ様でした」と言いたいと思います。ダンさんのご冥福をお祈りいたします。合掌。



夜ヒット名物コーナー・「オープニングメドレー」

2006-05-02 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力
夜のヒットスタジオの名物コーナーとして、第1回放送から最晩期まで続いたものとして、オープニングでの「他人の歌メドレー」というものがあります。これを楽しみに毎回夜ヒットをチェックしていた方もかなり多いんじゃないでしょうか。

夜ヒットがスタートした当時、企画ものであるといえども、他の歌手の曲を歌う、というのは業界では「ご法度」とされており、スタート当初、この「オープニングメドレー」も、当時は業界の猛批判に晒されていたようです。しかしこのブログを立ち上げた頃にも書いた夜ヒットの黎明期の項目を参考していただければ分かりますが、夜ヒットのコンセプトはそれまでの歌謡番組の常識を覆すこと、詳しく言えば、「雲の上の存在」であるスター歌手を「普通の一人間」として理解して、視聴者と歌手の距離を少しでも縮める、というところにあり、このメドレーもまた、途中で歌詞を忘れてしまって適当な詞やハミングなどで誤魔化してしまったり、というハプニング性を計算に入れた企画であったことからすれば、そのような批判も当時の製作者サイトからすれば既に想定範囲内のことであったと思います。

そして例の「泣きの夜ヒット事件」を契機として、夜ヒットの評判が高まり、局の看板番組へと成長していくにつれ、このメドレーに対する批判も沈静化し、夜ヒットにはなくてはならない名物コーナーとして長年親しまれることとなりました。

このオープニングメドレーは「意外性」が一番の魅力であったと思います。普段はドップリと演歌の世界に漬かっているベテラン歌手がいきなり、若手アイドルの曲を歌ったり、その逆もあったり、時には海外出身の歌唱力に定評がある歌手が片言の日本語で、グダグタな歌唱になったり・・・・(欧陽菲菲さんや故・テレサ・テンさん辺りがその代表例でしたか・・・)と、歌手の印象を大きく変えることもしばしばありました。

「意外性」を狙ったと思われるキャスティングをざっと思い浮かべてみますと・・・・
・村田英雄→「風は秋色」(松田聖子)、「セーラー服を脱がさないで」(おニャン子クラブ)、「セクシー・ユー」(郷ひろみ)
・三波春夫→「君は薔薇薔薇・・・という感じ」(田原俊彦)
・八代亜紀→「1986年のマリリン」(本田美奈子)
・小柳ルミ子→「あんたのバラード」(ツイスト)
・春日八郎→「青い果実」(山口百恵)
・千昌夫→「白いパラソル」(松田聖子)、「天使も夢見る」(桜田淳子)
・五木ひろし→「ミ・アモーレ」(中森明菜)
・森進一→「UFO」(ピンクレディー)
・都はるみ→「哀愁トゥナイト」(桑名正博)
・中森明菜→「襟裳岬」(森進一)
・松田聖子→「函館本線」(山川豊)
等など、いくつもあったように記憶しています。特に村田さんと三波春夫さんのものについては、かなり有名ですね・・・(三波さんは殆ど音楽に関係なく「バラバラ」と歌っていたり、村田さんは思いっきり村田節で「セクシー・ユー」を歌い、それに乗せて次に歌う郷ひろみさんが踊っているという何とも言いがたい光景が・・・)。逆に意外性を狙って、妙にマッチしていた場合もいくつかありましたね。管理人が知っている限りでは、前川清さんの「乾杯」(長渕剛)、野口五郎さんの「ほんきかしら」(島倉千代子)、山口百恵さんの「岸壁の母」(二葉百合子)、八代亜紀さんの「ジェラシー」(井上陽水)などは、すべて完全な逆の発想(演歌→ポップス系、もしくはその逆)でのキャスティングなのにも関わらず、その人の歌声、或いは歌唱スタイルの特性からか、妙に雰囲気が合っていたという感じがします。

ほかにも細川たかしさんは、ロックであろうがポップスであろうが、すべて民謡調で歌ってしまったり、聖飢魔Ⅱが出演するときは必ずといっていいほど、歌を度外視して「公開ミサ」に引きづりこんだり、とんねるずにあっては、本番で歌う衣装よりも派手な衣装(ヒッピー風衣装)でいきなり登場したり、或いは敢えて音をすべてはずして歌ったり、森進一さんや青江三奈さんの歌を歌う場合に彼らの声真似をして歌うパターンが多かったり、といわゆる「お決まり芸」みたいなものもいくつかありました。また、クリスマスの日が含まれる週の放送では、通常のパターンではなく、すべてクリスマスソングでメドレーを行っていたのを記憶しています(その場合、ラストに登場する歌手は大抵「きよしこの夜」辺りを歌っていたと思います)。

メドレーのラストに登場する歌手は、自分の持ち歌(自分の前の出番の歌手が歌った、そのラストの歌手自身のオリジナル曲)を歌いメドレーを締めくくるわけですが、その歌手を囲うようにしてほかの出演者が登場してくる、というのも、夜ヒットの豪華さを視聴者にアピールする上で効果的な演出であったと思いますし、ほかの出演者が歌にあわせて、妙なダンスを行うのも何とも見ていて壮快な感じでした。またその雰囲気の上ラストでメドレーに登場することも、歌手とにとっては一種のステータスになっているという感じすらありましたね。
あの、拓郎さんや陽水さん、中島みゆきさん、BOOWYですらもメドレーには普通に参加してくれていましたし・・・、何とも今考えても豪華な企画でした。

ただ、晩期になると、歌番組を「プロモーションの一環」として軽く考える風潮が蔓延るようになったせいか、メドレーを拒否して、後から改めて司会者から紹介される形で登場するケースが多くなっていきました。歌番組、もっと広くいえば「歌」に対する価値観がアーティスト各人により複雑・多様化していく中で、メドレーという企画は時代錯誤な感じを否めないものとなっていったという感じがします。仮に夜ヒットが今も続いていたとしても、メドレーについては、途中で廃止となっていた可能性も十分考えられます。今のヒット曲も「夜ヒット」のあの雰囲気で歌われていたなら、もっと違うカラーを印象付けることができた、そういう部分では、夜ヒットは続いてほしかった番組でしたが、他方、メドレーという夜ヒットの名物を排除してしまえば、メドレーがない夜ヒットは、単なる一歌番にすぎない、と番組の評価を損ねることにもなりかねない。その点ではあの1990年の辺りが番組としての限界点であった、という見方もできる。その辺りが何とももどかしく感じますね・・・。

夜ヒット独自の華やかさの礎-司会者・芳村真理のファッション

2006-02-27 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力
この番組の一つの代名詞に、第1~1000回まで司会を務め、夜ヒットの看板司会者として番組に大きく貢献してきた芳村真理さんの奇抜なファッションがあります。
今回はその芳村さんのファッションについての話です・・・。

芳村さんは50代後半以上の方ならご存知の方も多いと思いますが、1950年代の後半、入江美樹さん(現・小沢征爾氏夫人)らと同様に人気ファッションモデルのお一人で活躍されており、「週刊朝日」などでも数多く表紙モデルも務めていました。そのモデルとして活躍した数年間の経験で培われた彼女独自のオシャレ観を一気に開花させた番組がこの夜ヒットであったわけです。

彼女に司会を依頼するとき、スタッフも当然に芳村さんがモデルとしての経験があり、ファッション業界でも一応名が通った存在であることを知っていたため、「服装はお任せ」ということになり「自由に自分でコーディネートした服装を着て好きな"ジャズ"を堪能できるなら」というで番組司会の仕事が決まったそうです(後に第1回の司会に臨むにあたり「ジャズ」ではなく完全な歌謡番組であることを知ったという話は以前申し上げたとおりですが・・・)。そこから約20年、彼女はこの番組で実に1,200着を越える衣装を身に着けてきました。

しかし、なぜにあれほどまでに華やかな服装を身にまとって登場していたのか、それはせっかく自分の裁量で服装選びができるなら、その時折の流行をいち早く自分が紹介する「モードのメッセンジャー」でなければならない、という意思に基づくものだったそうです。その役割を常に果たし続けるために、彼女は他の仕事のないオフの日になると、国内外からファッション雑誌や機関誌を大量に仕入れたり、時には海外まで赴いてファッション・ショーに出かけ、そのショーのスタッフとのコネクションを作り、どういう形で着るべきかということを、自分が知りうる着付けの技術や、それでもたりないときは知り合いのスタイリストやデザイナーなどとも何度か協議を重ねるなど、相当の努力をしていたようです。その努力があの他のタレントでも真似がまずできないであろう奇抜なファッションに結実していたのです。

時に電球を頭につけて、また、髪型をパンク風にしてドレススタイルで登場したり、「ジョーン・バーンズ」のタキシートスタイル、1枚の布地で作られた劇場の緞帳を思わせる衣装など、普通の人ではまず着れないだろうと思われるスタイルで登場したかと思えば、彼女が気に入っていたブランドである「クリッツィア」のシンプルな黒のタイトなジャケットとミニスカート、「イブ・サン・ローラン」の黒のコートと裾の広がったパンツ、芳村さんとは親しい間柄の花井幸子さんデザインのストライブ柄のスーツスタイルといったシックな着こなしも無難にこなしていました。そして1960年代後半にはやったミニスカート、1970年代前半に流行したマキシスカートと、その時折の流行もぎっちり披露したりと、本当に彼女のファッションの領域は奥行きの深いものでした。そして、派手な衣装のときはあえてアクセサリーは最小限にする、パンク風にするには、メイクやアクセサリーの使い方を考えあえてミスマッチでパンクファッションに挑戦する、といった具合にその一つ一つに彼女のファッションに対する深い考え方がしっかりと主張されていたように感じます(ここの部分が今の若い女性タレントのファッションとの一番大きな違いなのかもしれないですね)。

洋服だけでもこれほどバラエティーに富んだ服装をしていたのですから、和服の着方も当然に普通の着方とは違う奇抜なスタイルに挑戦していました。特に1986年に入り1回目の番組で彼女は憧れの着物デザイナー・久保田一竹さんの着物で登場したのですが、一竹さんの「自由に着てください」という言葉に応じて、彼女はその着物を全体に上に上げ、短めの帯を締めスカートのような雰囲気で着用し、足には足袋・草履ではなく、ストッキングにハイヒールというなんとも斬新な着方で登場しました。その時に出演していたゲストの近藤真彦さんもこの芳村さんの服装をひどく絶賛されたそうというエピソードも残っています(後に三田佳子さんも「紅白」の司会を務めた際、このときの芳村さんの着付けを参考にした衣装で司会に臨んだことがあるそうです)。

このような奇抜なファっションが一層エスカレートしたのは高級ブランドブームの中でモード系がはやっていた1980年代のことです。時の相手役、井上順さんもファッションに造詣が深い方で、毎回冒頭には彼女のその回に着ている衣装やヘアスタイルに必ず茶々を入れる(「芳村さんの髪型で今日の東京は風が強かったのが分かる」、「蜘蛛巣城」「カトリーヌ・ド"ブース"」布地の厚いタイツのことを「股引き」、マント風のコートで出たときには「月光仮面」等など・・・・)というパターンが恒例となっていました。井上さんはその回に何を芳村さんが着用してくるか、本番まで全く知らないわけで、あの「茶化し」も完全なアドリブであったそうですが、その彼の一言一言によって芳村さんのファッションへの追求欲がより掻き立てられ、回を重ねることに衣装が派手になっていったそうです。

彼女の奇抜なファッションは一部では「歌手よりも派手にする司会者というのは如何なものか」、「着物をあんなふうにめちゃくちゃに着るとは伝統を軽視している」といった批判もありましたが、そのような批判を彼女はより自分流を追い続けることで払拭していきました。また、彼女のファッションはタレントの服装にも影響を与え、タレントが専属スタイリストを付けるようになったのもこの夜ヒットが契機だったという話も残されています。このことを裏付けるように、夜ヒットに多く出演した中尾ミエさんや中森明菜さんなども「とにかく真理さんに誉められる洋服を着ていこうと毎回他の番組に出るとき以上に衣装にこだわった」と後におっしゃっています。

こういった出演タレント、そして何よりも司会の芳村真理さんの刺激的なファッションが夜ヒット独自の他の番組とは違った華やかさ、そして毎回違った刺激を視聴者、そして番組そのものにも与え、長寿番組にはつき物の"マンネリ化"を食い止める礎となっていたことはいうまでもありません。