(77年7月18日放送(第454回)までの曲目については「曲目リスト(53-1) 1977年7~8月①」を参照のこと)
・長距離電話 あべ静江
詞:藤公之介 曲:佐藤 健 R:1977/07/-
・ためらい 内山田洋とクールファイブ R:1977/05/25
※「二人の海峡」B面。
・気絶するほど悩ましい Char詞:阿久 悠 曲:梅垣達志 R:1977/06/25 HC:12位
※<Char>
①小学校3年の頃より趣味でギターを初め、中学時代にはスタジオミュージシャンとしてプロの音楽活動を開始。佐藤準らと共に結成したバンド「SMOKY MEDICINE」での活動を経て、76年、シングル「NAVY BLUE」(6月リリース)、アルバム「Char」(9月リリース)でソロアーティストとしてデビュー。翌77年~78年にかけて、歌謡曲テイストを盛り込んだ「気絶するほど悩ましい」「逆光線」「闘牛士」を次々にヒットさせ、70年代後半のニューミュージック台頭の波を牽引。同時期にメジャーデビューし当初よりヒットを連発していた原田真二・ツイストととも「ニューミュージック御三家」の一角を形成し、アイドル的な人気を獲得する。
②78年9月にシングル「GIRL」をリリースしたのをきっかけにテレビ出演を一時セーブすることを宣言(歌謡曲テイストの作品を頻繁に歌わされることに不満をもったことが理由と伝えられている)、より精力的なコンサート・ライブ活動が期待されていた矢先の同年末に不祥事を起こし、一時音楽活動の一切からの休業を余儀なくされる。翌79年春にカルメン・マキの誘いを受け、彼女のバンドにサポートメンバーとして参加したのを機に音楽活動に復帰。同年にはジョニー吉長・ルイズルイス加部と共にロックバンド「Johnny,Louis&Char」(後に「Pink Cloud(ピンククラウド)」に改称)を結成し、同バンドを軸に本格的に活動再開し、同年末には独立事務所「SPACED OUT」を設立、オーナーに就任。以後、忌野清志郎ら人気アーティストとのセッション経験を積み重ね、地道に実力派ギタリストとしてのステップを駆け上がってゆく。
③80年代後半に入ってからは、上記の「Pink Cloud」としての活動に並行し、ソロ活動を徐々に再開。88年にはより自由な創作活動を展開したいという積年の思いと、無名でありながらも優れた才能をもったミュージシャンの発掘を目的として自らがオーナーとなってインディーズレーベル「江戸屋レーベル」を設立。89年からは、元「ノー・バッド・レビュー」のギタリスト・石田長生とともにギターデュオ「BAHO」を結成し、それまでのロックテイストを排したアコースティック色の強いライブ活動を展開。また、アン・ルイス、高中正義、鳴瀬喜博・松本孝弘らが結成した「うるさくてゴメンねBAND」など多くのミュージシャンのライブツアーにもゲスト参加するなど、場所・時に縛りをかけることなく意欲的な演奏活動を各地で繰り広げた。ギターテクニックの精巧さなどから、プロ・アマ問わず多くのバンド演奏者からも”ギタリスト界の神”として崇拝される存在となり、名実ともに「日本を代表するロックギタリスト」へと成長を遂げる。
④94年、日本武道館でのコンサートを最後に「Pink Cloud」としての15年の活動に終止符を打ち、ジム・コウプリーらと共に結成した「Psychedelix」の一員としての活動と上記の「BAHO」での活動を中心とした音楽活動に移行。97年には10年間に及んだ「江戸屋レーベル」の経営から身を引き、翌98年、ポリドールにレーベルを移籍。移籍後第1弾シングル「TODAY」をソロ名義でリリース、正式にソロミュージシャンとして再始動。山崎まさよしら後輩ミュージシャンとの交流を重ねる一方で、ソロ始動後もかつての仕事仲間であった金子マリ、佐藤準、ジョニー吉長らとは現在も定期的に数年に1度のペースでセッションを展開。また、CFソングや子供番組向けの音楽製作を担当するなど、精力的な活動を続けている。
⑤尚、「Char」という一風変わった名称の由来については諸説があるが、元々は本名の「竹中尚人」の「尚人」(ひさと)の読みが曖昧化して生まれた幼少のころからのニックネームであり、この呼び名に愛着があったことからそのまま音楽活動上の通名として採用したと一般的には解されている。
・【メドレー】雨の物語~なごり雪 イルカ①小学校3年の頃より趣味でギターを初め、中学時代にはスタジオミュージシャンとしてプロの音楽活動を開始。佐藤準らと共に結成したバンド「SMOKY MEDICINE」での活動を経て、76年、シングル「NAVY BLUE」(6月リリース)、アルバム「Char」(9月リリース)でソロアーティストとしてデビュー。翌77年~78年にかけて、歌謡曲テイストを盛り込んだ「気絶するほど悩ましい」「逆光線」「闘牛士」を次々にヒットさせ、70年代後半のニューミュージック台頭の波を牽引。同時期にメジャーデビューし当初よりヒットを連発していた原田真二・ツイストととも「ニューミュージック御三家」の一角を形成し、アイドル的な人気を獲得する。
②78年9月にシングル「GIRL」をリリースしたのをきっかけにテレビ出演を一時セーブすることを宣言(歌謡曲テイストの作品を頻繁に歌わされることに不満をもったことが理由と伝えられている)、より精力的なコンサート・ライブ活動が期待されていた矢先の同年末に不祥事を起こし、一時音楽活動の一切からの休業を余儀なくされる。翌79年春にカルメン・マキの誘いを受け、彼女のバンドにサポートメンバーとして参加したのを機に音楽活動に復帰。同年にはジョニー吉長・ルイズルイス加部と共にロックバンド「Johnny,Louis&Char」(後に「Pink Cloud(ピンククラウド)」に改称)を結成し、同バンドを軸に本格的に活動再開し、同年末には独立事務所「SPACED OUT」を設立、オーナーに就任。以後、忌野清志郎ら人気アーティストとのセッション経験を積み重ね、地道に実力派ギタリストとしてのステップを駆け上がってゆく。
③80年代後半に入ってからは、上記の「Pink Cloud」としての活動に並行し、ソロ活動を徐々に再開。88年にはより自由な創作活動を展開したいという積年の思いと、無名でありながらも優れた才能をもったミュージシャンの発掘を目的として自らがオーナーとなってインディーズレーベル「江戸屋レーベル」を設立。89年からは、元「ノー・バッド・レビュー」のギタリスト・石田長生とともにギターデュオ「BAHO」を結成し、それまでのロックテイストを排したアコースティック色の強いライブ活動を展開。また、アン・ルイス、高中正義、鳴瀬喜博・松本孝弘らが結成した「うるさくてゴメンねBAND」など多くのミュージシャンのライブツアーにもゲスト参加するなど、場所・時に縛りをかけることなく意欲的な演奏活動を各地で繰り広げた。ギターテクニックの精巧さなどから、プロ・アマ問わず多くのバンド演奏者からも”ギタリスト界の神”として崇拝される存在となり、名実ともに「日本を代表するロックギタリスト」へと成長を遂げる。
④94年、日本武道館でのコンサートを最後に「Pink Cloud」としての15年の活動に終止符を打ち、ジム・コウプリーらと共に結成した「Psychedelix」の一員としての活動と上記の「BAHO」での活動を中心とした音楽活動に移行。97年には10年間に及んだ「江戸屋レーベル」の経営から身を引き、翌98年、ポリドールにレーベルを移籍。移籍後第1弾シングル「TODAY」をソロ名義でリリース、正式にソロミュージシャンとして再始動。山崎まさよしら後輩ミュージシャンとの交流を重ねる一方で、ソロ始動後もかつての仕事仲間であった金子マリ、佐藤準、ジョニー吉長らとは現在も定期的に数年に1度のペースでセッションを展開。また、CFソングや子供番組向けの音楽製作を担当するなど、精力的な活動を続けている。
⑤尚、「Char」という一風変わった名称の由来については諸説があるが、元々は本名の「竹中尚人」の「尚人」(ひさと)の読みが曖昧化して生まれた幼少のころからのニックネームであり、この呼び名に愛着があったことからそのまま音楽活動上の通名として採用したと一般的には解されている。
・雨の物語 イルカ
詞・曲:伊勢正三 R:1977/03/25 HC:16位
◆年間チャート(77年)34位(33.5万枚)
・なごり雪 イルカ詞・曲:伊勢正三 R:1975/11/05 HC:4位(75年)
◆年間チャート(76年)11位(53.7万枚)
◆第43回(92年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
◆第43回(92年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
※<楽曲について>
①元々はかぐや姫のアルバム「三階建の詩」(74年3月リリース)の中の収録曲の一つとして製作された作品。それまでは作詞専任で曲作りに参加していた同グループのメンバー・伊勢正三が初めて作曲を手掛けた作品でもあり、上記アルバムを製作するに当たり、リーダーである南こうせつが「印税がメンバー3人にそれぞれ平等に入ってくるようにしたい」という方針を出したことから作詞専任だった伊勢にも曲を書くチャンスが与えられることになり、この機会を活かして誕生したのがこの作品と、後にかぐや姫解散後に伊勢を中心に結成された「風」のシングルとしてヒットした「22才の別れ」(この曲も元々は上記アルバムの収録曲の一つである)であった。伊勢の話によれば、まず最初に「今春が来て君はきれいになった」というサビの歌詞とメロディーだけが突然思い浮かんでしまい、この部分を壊さないようにするためにどのように全体の構成を組み立てるかに相当苦慮したという。また、東京のとある駅をこの曲の主な舞台として設定しているが、実際は、伊勢の生まれ故郷である大分の国鉄(現・JR)・日豊本線の津久見駅がモデルとなっていると伝えられている。
②アルバム収録曲ではあったが、当初より伊勢作曲の2作は評判が高く、リーダーのこうせつも「神田川」の次のシングルとして「なごり雪」を出したいという意向を持っていたとされるが、既に「赤ちょうちん」と「妹」が日活より映画化されることが事前に決定しており、またその後程なくしてグループが解散したこともあり、ついにかぐや姫としてこの曲をシングルとしてリリースすることはできなかった。その後、以前より親交があったイルカが次のシングルをどうするかで苦慮していることを聞き、伊勢は同作品を歌うことを彼女に提案。そして、75年11月にイルカの歌唱によりこの作品がシングル化されることとなった。・・・・・・・・・・・・・・・
※<イルカ>
①70年、神部和夫を中心とするフォークグループ「シュリークス」(※ちなみにこのバンドにはのちに「かぐや姫」に参加することとなる山田嗣人(山田パンダ)や、現在芸能レポーターとして活動している所太郎らもメンバーとして名を連ねていた)にボーカルとして参加(※同グループ在籍時の通名は結婚前の姓名である「保坂としえ」名義)し、71年4月、シュリークス4枚目のシングルとしてリリースされた「君の生まれた朝」でレコードデビュー。このバンドで知り合った神部と72年に結婚し、その後同グループの形態も夫妻によるフォークデュオ形態に転換し、この形態ではシングル4枚、アルバム3枚をリリースした。
②74年2月リリースのアルバム「イルカのうた」を最後にシュリークスとしての活動を停止。音楽活動上の通名を女子美術大学時代からのニックネームでもあった「イルカ」に改称し、同7月より、ニッポン放送の人気深夜番組「オールナイトニッポン」の金曜2部担当のパーソナリティーに抜擢。そして同10月に、ソロアーティストとして初のシングルとなる「あの頃のぼくは」をリリース(このイルカのソロ活動開始と同時に、夫の神部は表舞台での活動からは身を引き、彼女のマネージャー及び音楽プロデューサー業に専念)。そして、75年秋に発売された3作目「なごり雪」が翌76年にかけて54.7万枚(オリコン調べ)、オリコン週間チャート最高4位のヒットを記録し、一躍彼女の知名度派上昇した。
③77年に一時活動を休止し、長年の夢でもあった絵本「ちいさな空」を出版(その後シリーズ化され、80年までに全4巻刊行)。出産を経て、79年にシングル「海岸通」をリリースし完全復帰。その後も「Follow Me」「もう海には帰れない」などの作品を発表。ソフトタッチの曲調が広い世代に受け入れられ、80年には日本の女性シンガーソングライターとして初めて日本武道館でのコンサートを開催、成功を収める。また84年には”歌謡界の女王”美空ひばりにシングル曲「夢ひとり」を提供したことも話題となった。
④ その後もコンスタントに新譜や他のアーティストへの楽曲提供を続ける傍ら、伊勢正三や南こうせつらとのジョイントコンサートを開催したり、ラジオ番組「イルカのミュージックハーモニー」(ニッポン放送)のパーソナリティーとしても活躍。07年、長年パーキンソン病のため療養生活に専念していた夫の神部和夫が死去するという不幸に見舞われたが、それを乗り越えて、08年は久々の新譜として交響曲「わが祖国」の中にある「モルダウ」を題材とした「いつか見る虹~モルダウより~」をリリース。女性フォーク歌手の代表格の一人として現在も健在ぶりを発揮している。
③77年に一時活動を休止し、長年の夢でもあった絵本「ちいさな空」を出版(その後シリーズ化され、80年までに全4巻刊行)。出産を経て、79年にシングル「海岸通」をリリースし完全復帰。その後も「Follow Me」「もう海には帰れない」などの作品を発表。ソフトタッチの曲調が広い世代に受け入れられ、80年には日本の女性シンガーソングライターとして初めて日本武道館でのコンサートを開催、成功を収める。また84年には”歌謡界の女王”美空ひばりにシングル曲「夢ひとり」を提供したことも話題となった。
④ その後もコンスタントに新譜や他のアーティストへの楽曲提供を続ける傍ら、伊勢正三や南こうせつらとのジョイントコンサートを開催したり、ラジオ番組「イルカのミュージックハーモニー」(ニッポン放送)のパーソナリティーとしても活躍。07年、長年パーキンソン病のため療養生活に専念していた夫の神部和夫が死去するという不幸に見舞われたが、それを乗り越えて、08年は久々の新譜として交響曲「わが祖国」の中にある「モルダウ」を題材とした「いつか見る虹~モルダウより~」をリリース。女性フォーク歌手の代表格の一人として現在も健在ぶりを発揮している。
<1977年8月1日(第456回)>
・街角のラブソング 南 沙織
詞・曲:つのだ・ひろ R:1977/07/21 HC:36位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(7回)
・失恋蝙蝠男 山本リンダ詞:伊藤アキラ 曲:高田 弘 R:1977/07/-
・恋のためらい 坂口純子 R:1977/06/-
・【メドレー】風の子守唄~座頭市子守唄 五木ひろし
・座頭市子守唄 五木ひろし
詞:いわせひろし 曲:曽根幸明
(R:1968/08/-<初発>/1970/08/-<再発>/1977/-/-<再々発>)
※オリジナル歌手は勝新太郎。68年に「どんとやれ」のB面(大映映画「座頭市果し状」主題歌として収録)、70年に「座頭市の唄」のB面として、77年にA面曲(フジテレビ系時代劇「新・座頭市」主題歌として収録)として、3度シングルレコード化されている。
※五木がラスベガス公演を前年に引き続き開催することとなったため、その記念として当時の最新シングル曲である「風の子守唄」に引き続いてこの曲を披露した。
※五木がラスベガス公演を前年に引き続き開催することとなったため、その記念として当時の最新シングル曲である「風の子守唄」に引き続いてこの曲を披露した。
【司会】 芳村真理・井上 順
(77年8月8日(第457回)・同8月15日(第458回)放送分については「曲目リスト(53-3) 1977年7~8月③」に記載)
(参考)この頃の主な出来事
・07/23 小・中学校新学習指導要領告示。原案通り「君が代」が国歌とすることが明記される。
・08/06 松本零士・作の人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」映画版が封切られる。
・08/07 洞爺湖畔の有珠山が噴火。