伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(53-2) 1977年7~8月②

2008-06-30 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

(77年7月18日放送(第454回)までの曲目については「曲目リスト(53-1) 1977年7~8月①」を参照のこと)

<1977年7月25日(第455回)>
・長距離電話 あべ静江
 詞:藤公之介 曲:佐藤 健 R:1977/07/-
・ためらい 内山田洋とクールファイブ R:1977/05/25
「二人の海峡」B面
・気絶するほど悩ましい Char
 詞:阿久 悠 曲:梅垣達志 R:1977/06/25 HC:12位
<Char>
①小学校3年の頃より趣味でギターを初め、中学時代にはスタジオミュージシャンとしてプロの音楽活動を開始。佐藤準らと共に結成したバンド「SMOKY MEDICINE」での活動を経て、76年、シングル「NAVY BLUE」(6月リリース)、アルバム「Char」(9月リリース)でソロアーティストとしてデビュー。翌77年~78年にかけて、歌謡曲テイストを盛り込んだ「気絶するほど悩ましい」「逆光線」「闘牛士」を次々にヒットさせ、70年代後半のニューミュージック台頭の波を牽引。同時期にメジャーデビューし当初よりヒットを連発していた原田真二・ツイストととも「ニューミュージック御三家」の一角を形成し、アイドル的な人気を獲得する。
②78年9月にシングル「GIRL」をリリースしたのをきっかけにテレビ出演を一時セーブすることを宣言(歌謡曲テイストの作品を頻繁に歌わされることに不満をもったことが理由と伝えられている)、より精力的なコンサート・ライブ活動が期待されていた矢先の同年末に不祥事を起こし、一時音楽活動の一切からの休業を余儀なくされる。翌79年春にカルメン・マキの誘いを受け、彼女のバンドにサポートメンバーとして参加したのを機に音楽活動に復帰。同年にはジョニー吉長・ルイズルイス加部と共にロックバンド「Johnny,Louis&Char」(後に「Pink Cloud(ピンククラウド)」に改称)を結成し、同バンドを軸に本格的に活動再開し、同年末には独立事務所「SPACED OUT」を設立、オーナーに就任。以後、忌野清志郎ら人気アーティストとのセッション経験を積み重ね、地道に実力派ギタリストとしてのステップを駆け上がってゆく。
③80年代後半に入ってからは、上記の「Pink Cloud」としての活動に並行し、ソロ活動を徐々に再開。88年にはより自由な創作活動を展開したいという積年の思いと、無名でありながらも優れた才能をもったミュージシャンの発掘を目的として自らがオーナーとなってインディーズレーベル「江戸屋レーベル」を設立。89年からは、元「ノー・バッド・レビュー」のギタリスト・石田長生とともにギターデュオ「BAHO」を結成し、それまでのロックテイストを排したアコースティック色の強いライブ活動を展開。また、アン・ルイス、高中正義、鳴瀬喜博・松本孝弘らが結成した「うるさくてゴメンねBAND」など多くのミュージシャンのライブツアーにもゲスト参加するなど、場所・時に縛りをかけることなく意欲的な演奏活動を各地で繰り広げた。ギターテクニックの精巧さなどから、プロ・アマ問わず多くのバンド演奏者からも”ギタリスト界の神として崇拝される存在となり、名実ともに「日本を代表するロックギタリスト」へと成長を遂げる。
④94年、日本武道館でのコンサートを最後に「Pink Cloud」としての15年の活動に終止符を打ち、ジム・コウプリーらと共に結成した「Psychedelix」の一員としての活動と上記の「BAHO」での活動を中心とした音楽活動に移行。97年には10年間に及んだ「江戸屋レーベル」の経営から身を引き、翌98年、ポリドールにレーベルを移籍。移籍後第1弾シングル「TODAY」をソロ名義でリリース、正式にソロミュージシャンとして再始動。山崎まさよしら後輩ミュージシャンとの交流を重ねる一方で、ソロ始動後もかつての仕事仲間であった金子マリ、佐藤準、ジョニー吉長らとは現在も定期的に数年に1度のペースでセッションを展開。また、CFソングや子供番組向けの音楽製作を担当するなど、精力的な活動を続けている。
⑤尚、「Char」という一風変わった名称の由来については諸説があるが、元々は本名の「竹中尚人」の「尚人」(ひさと)の読みが曖昧化して生まれた幼少のころからのニックネームであり、この呼び名に愛着があったことからそのまま音楽活動上の通名として採用したと一般的には解されている。
【メドレー】雨の物語~なごり雪 イルカ
 ・雨の物語 イルカ
  詞・曲:伊勢正三 R:1977/03/25 HC:16位
◆年間チャート(77年)34位(33.5万枚)
 ・なごり雪 イルカ
  詞・曲:伊勢正三 R:1975/11/05 HC:4位(75年)
◆年間チャート(76年)11位(53.7万枚)
◆第43回(92年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
<楽曲について>
元々はかぐや姫のアルバム「三階建の詩」(74年3月リリース)の中の収録曲の一つとして製作された作品。それまでは作詞専任で曲作りに参加していた同グループのメンバー・伊勢正三が初めて作曲を手掛けた作品でもあり、上記アルバムを製作するに当たり、リーダーである南こうせつが「印税がメンバー3人にそれぞれ平等に入ってくるようにしたい」という方針を出したことから作詞専任だった伊勢にも曲を書くチャンスが与えられることになり、この機会を活かして誕生したのがこの作品と、後にかぐや姫解散後に伊勢を中心に結成された「風」のシングルとしてヒットした「22才の別れ」(この曲も元々は上記アルバムの収録曲の一つである)であった。伊勢の話によれば、まず最初に「今春が来て君はきれいになった」というサビの歌詞とメロディーだけが突然思い浮かんでしまい、この部分を壊さないようにするためにどのように全体の構成を組み立てるかに相当苦慮したという。また、東京のとある駅をこの曲の主な舞台として設定しているが、実際は、伊勢の生まれ故郷である大分の国鉄(現・JR)・日豊本線の津久見駅がモデルとなっていると伝えられている。
②アルバム収録曲ではあったが、当初より伊勢作曲の2作は評判が高く、リーダーのこうせつも「神田川」の次のシングルとして「なごり雪」を出したいという意向を持っていたとされるが、既に「赤ちょうちん」と「妹」が日活より映画化されることが事前に決定しており、またその後程なくしてグループが解散したこともあり、ついにかぐや姫としてこの曲をシングルとしてリリースすることはできなかった。その後、以前より親交があったイルカが次のシングルをどうするかで苦慮していることを聞き、伊勢は同作品を歌うことを彼女に提案。そして、75年11月にイルカの歌唱によりこの作品がシングル化されることとなった。
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<イルカ>
70年、神部和夫を中心とするフォークグループ「シュリークス」(※ちなみにこのバンドにはのちに「かぐや姫」に参加することとなる山田嗣人(山田パンダ)や、現在芸能レポーターとして活動している所太郎らもメンバーとして名を連ねていた)にボーカルとして参加(※同グループ在籍時の通名は結婚前の姓名である「保坂としえ」名義)し、71年4月、シュリークス4枚目のシングルとしてリリースされた「君の生まれた朝」でレコードデビュー。このバンドで知り合った神部と72年に結婚し、その後同グループの形態も夫妻によるフォークデュオ形態に転換し、この形態ではシングル4枚、アルバム3枚をリリースした。
74年2月リリースのアルバム「イルカのうた」を最後にシュリークスとしての活動を停止。音楽活動上の通名を女子美術大学時代からのニックネームでもあった「イルカ」に改称し、同7月より、ニッポン放送の人気深夜番組「オールナイトニッポン」の金曜2部担当のパーソナリティーに抜擢。そして同10月に、ソロアーティストとして初のシングルとなる「あの頃のぼくは」をリリース(このイルカのソロ活動開始と同時に、夫の神部は表舞台での活動からは身を引き、彼女のマネージャー及び音楽プロデューサー業に専念)。そして、75年秋に発売された3作目「なごり雪」が翌76年にかけて54.7万枚(オリコン調べ)、オリコン週間チャート最高4位のヒットを記録し、一躍彼女の知名度派上昇した。
③77年に一時活動を休止し、長年の夢でもあった絵本「ちいさな空」を出版(その後シリーズ化され、80年までに全4巻刊行)。出産を経て、79年にシングル「海岸通」をリリースし完全復帰。その後も「Follow Me」「もう海には帰れない」などの作品を発表。ソフトタッチの曲調が広い世代に受け入れられ、80年には日本の女性シンガーソングライターとして初めて日本武道館でのコンサートを開催、成功を収める。また84年には”歌謡界の女王”美空ひばりにシングル曲「夢ひとり」を提供したことも話題となった。
④ その後もコンスタントに新譜や他のアーティストへの楽曲提供を続ける傍ら、伊勢正三や南こうせつらとのジョイントコンサートを開催したり、ラジオ番組「イルカのミュージックハーモニー」(ニッポン放送)のパーソナリティーとしても活躍。07年、長年パーキンソン病のため療養生活に専念していた夫の神部和夫が死去するという不幸に見舞われたが、それを乗り越えて、08年は久々の新譜として交響曲「わが祖国」の中にある「モルダウ」を題材とした「いつか見る虹~モルダウより~」をリリース。女性フォーク歌手の代表格の一人として現在も健在ぶりを発揮している。

<1977年8月1日(第456回)>
・街角のラブソング 南 沙織
 詞・曲:つのだ・ひろ R:1977/07/21 HC:36位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(7回)
・失恋蝙蝠男 山本リンダ
 詞:伊藤アキラ 曲:高田 弘 R:1977/07/-
・恋のためらい 坂口純子 R:1977/06/-
【メドレー】風の子守唄~座頭市子守唄 五木ひろし
 ・座頭市子守唄 五木ひろし 
  詞:いわせひろし 曲:曽根幸明 
  (R:1968/08/-<初発>/1970/08/-<再発>/1977/-/-<再々発>)
オリジナル歌手は勝新太郎。68年に「どんとやれ」のB面(大映映画「座頭市果し状」主題歌として収録)、70年に「座頭市の唄」のB面として、77年にA面曲(フジテレビ系時代劇「新・座頭市」主題歌として収録)として、3度シングルレコード化されている。
※五木がラスベガス公演を前年に引き続き開催することとなったため、その記念として当時の最新シングル曲である「風の子守唄」に引き続いてこの曲を披露した。 

【司会】 芳村真理・井上 順

(77年8月8日(第457回)・同8月15日(第458回)放送分については「曲目リスト(53-3) 1977年7~8月③」に記載)

(参考)この頃の主な出来事
・07/23 小・中学校新学習指導要領告示。原案通り「君が代」が国歌とすることが明記される。
・08/06 松本零士・作の人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」映画版が封切られる。
・08/07 洞爺湖畔の有珠山が噴火。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(53-1) 1977年7~8月①

2008-06-30 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年7月4日(第452回)>
・夜行列車 森 進一
 詞:喜多条忠 曲:吉田拓郎 R:1977/06/10 HC:31位
・恋歌 八代亜紀
 詞:池田充男 曲:伊藤雪彦 R:1977/05/25 HC:16位
洪水の前 郷ひろみ
 詞:岡田冨美子 曲:筒美京平 R:1977/07/01 HC:4位
・ひと夏の前に… シェリー
 詞:島 武実 曲:宇崎竜童 R:1977/05/-

<1977年7月11日(第453回)>
■74年8月5日放送以来、2度目の大磯ロングビーチからの中継。大雨にたたられる。
・おんなの春 細川たかし 
 詞:中山大三郎 曲:八木架寿人 R:1977/04/10 HC:44位
・シンプル・ラブ 大橋純子
 詞:松本 隆 曲:佐藤 健 R:1977/04/05 HC:44位
◆第6回(77年)東京音楽祭・国内大会 シルバーカナリー賞受賞曲/同・世界大会 外国審査員団賞受賞曲
◆第3回(77年)マジョルカ世界音楽祭入賞曲(第3位)
アルバム「レインボー」からのシングルカット
イミテイション・ゴールド 山口百恵
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1977/07/01 HC:2位
◆年間チャート(77年)20位(46.7万枚)
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回)
※1994年には、作曲者の宇崎自身もアルバム収録曲としてセルフカバーしたほか、2003年にはB'z・松本孝弘と倉木麻衣も特別ユニット「TAK MATSUMOTO featuring 倉木麻衣」名義で同曲のカバーをシングルとして発表している。 

<1977年7月18日(第454回)>
・オゝ神様 研ナオコ
 詞・曲:杉本真人 R:1977/06/25 HC:43位
暑中お見舞い申し上げます キャンディーズ
 詞:喜多条忠 曲:佐瀬寿一 R:1977/06/21 HC:5位
◆年間チャート(77年)39位(29.8万枚)
放送前日の7月17日に行われた日比谷野外音楽堂でのコンサートの最中、「普通の女の子に戻りたい」というフレーズと共にキャンディーズは解散を突然発表、世間に衝撃を与える。視聴者からの関心度の高さもあり、同回の放送ではこの「暑中お見舞い―」を披露する前に急遽、コンサート後に行われた緊急解散記者会見の模様を写したVTR映像が挿入された。因みに当初は9月末での解散・引退という意向を示していたが、後に関係者やファンの翻意により、翌年春まで解散時期は延期されることになった。
・海鳴りの詩 都はるみ
 詞:阿久 悠 曲:浜 圭介 R:1977/07/01
だけど… 高田みづえ
 詞:島 武実 曲:宇崎竜童 R:1977/07/25 HC:6位
サクセス ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1977/03/20 HC:2位
◆年間チャート(77年)22位(44.4万枚)
「愛しのティナ」両A面。

【司会】 芳村真理・井上 順

(77年7月25日放送(第455回)・同8月1日放送(第456回)で披露された曲目については「曲目リスト(53-2) 1977年7~8月②」に記載)

(参考)この頃の主な出来事
・07/01 領海法・漁業水域暫定措置法施行。日本の領海を海岸より12海里と法定化。
・07/05 パキスタンで軍事クーデター発生。
・07/11 第11回参議院議員選挙実施。社会党は惨敗(13日に成田知巳委員長、石橋政嗣書記長がこの責任を取り辞意を表明)。この選挙で女優・元「3時のあなた」(フジテレビ系)司会者の扇千景が全国区から出馬し初当選。
・07/13 ニューヨークで落雷を原因として、25時間にも及ぶ大停電が発生。これを利用した放火・窃盗事件が市内各地で多発。
・07/14 日本初の静止気象衛星「ひまわり1号」がアメリカ・ケープカナベラルから打上げられる。
・07/18 主婦12人が化粧品で顔が黒く変色したとして、メーカー5社を相手取り1億円の損害賠償を請求する訴えを大阪地裁に提起する。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(52-3) 1977年5~6月③

2008-06-28 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

(77年5月30日放送(第447回)~同6月13日放送(第449回)までの曲目については「曲目リスト(52-2) 77年5~6月②」を参照)

<1977年6月20日(第450回)>

・二人の海峡 内山田洋とクールファイブ
 詞:五木寛之 曲:内山田洋 R:1977/05/25 HC:57位
・映画のあとで 麻丘めぐみ
 詞:橋本 淳 曲:都倉俊一 R:1977/01/25
※「銀世界」B面。
あずさ2号 狩人
 詞:竜真知子 曲:都倉俊一 R:1977/03/25 HC:4位
◆年間チャート(77年)15位(51.1万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第8回(77年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第3回(77年)日本テレビ音楽祭新人賞受賞
◆第3回(77年)全日本歌謡音楽祭最優秀新人賞受賞
◆第10回(77年)日本有線大賞新人賞受賞
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞新人賞受賞
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
狩人>
①加藤久仁彦・高道による兄弟デュオ。元々は二人ともソロ歌手志望であり、兄弟揃って同じ音楽学校に通っていたが、家庭の経済的事情によって共に通学することが困難となり、兄の久仁彦が世話になったある講師に自主退学を申し出たところ、その講師から兄弟でデュオを組むのであれば一人分の授業料でこのままレッスンを受け続けてもよい、との慰留を受け、これがデュオ結成の端緒となったという。
②その後、作曲家・都倉俊一の門下を経て、77年3月、この「あずさ2号」でレコードデビューを果たす。因みに「狩人」というデュオ名は都倉の命名によるものであり「大ヒットを狙い続けるハンターであり続けて欲しい」という願いを込めて付けられたものであるとされている。このデビュー作「あずさ2号」は都倉はじめ関係者たちによる熱心なプロモーションが実を結び、オリコン週間チャート最高4位累計51.2万枚(オリコン調べ)の大ヒットを記録。以降、79年頃にかけて「コスモス街道」「青春物語」「若き旅人」「アメリカ橋」などを次々とヒットさせ、一躍スターダムに躍り上がる。しかし、80年代に入ってからは「日本海」(八代亜紀との競作、83年)などの話題作はあったものの、新勢力の台頭に押され売上が低迷。テレビへの出演機会も激減、地方での営業で食いつなぐ日々を強いられる。
③ しかし、94年よりスタートした日本テレビ系「THE夜もヒッパレ」への出演を機に、全盛期のころにはあまり表に出てこなかった、生来のキャラクターの軽妙さが受け、この時期より表舞台での露出が増加。95年に新たなアレンジを採用して、18年ぶりに「あずさ2号」を再リリースしたのを皮切りに、一時中断していた新譜のリリースも再開。外部での単独コンサートなども開催されるなど、全盛期当時のファンを中心として根強い人気を堅持したが、2007年末にそれぞれの長年の夢であった、プロボクサー(久仁彦)、ソロアーティスト(高道)への転身を図るという理由から31年に及ぶデュオとしての活動に終止符を打った。
楽曲について>
①この曲のタイトルにある「あずさ2号」の「あずさ」とは1966年に国鉄の新宿~松本駅間に設定された特急列車の愛称(元々は1960年に同区間に設定された臨時夜行準急列車の愛称として採用されたものであるが、この特急の新設により転用された)である。この曲は同名称が付された特急の中でも、当時、上記区間で定期運行されている特急の一番列車として、通勤・通学客の貴重な「足」として機能していた下りの「2号」を題材に、都会での暮らしを別れを告げ、新たに見つけた交際相手とこの「あずさ2号」に乗り、信州方面へと旅立つ様を描いた作品となっている。
②因みにこの「下り」の「あずさ2号」という名の列車は、78年10月ダイヤ改正に伴い、号数の付番方法が下りは奇数、上りは偶数に統一する形に改訂されたことに伴い、「あずさ3号」と改められ、この曲のヒットからわずか1年で消滅している(その後、2002年2月に特急「あずさ」全般に使用されていた183・189系電車の廃止が決定したことに伴い、そのメモリアル列車が運行された際に、「あずさ2号」の名称が一日限りで復活。往年の鉄道ファンの郷愁を誘った)。

<1977年6月27日(第451回)>
■矢野顕子と山本邦山ほか尺八奏者5氏によるジョイント企画放送、日本民間放送連盟賞(テレビ娯楽番組部門)優秀賞を受賞。
・村祭りの前に 新沼謙治
 詞:吉田健美 曲:杉本真人 R:1977/06/01 HC:38位
・純情派 渡 真介
 詞:阿久 悠 曲:川口 真 R:1977/06/-
・風の子守唄 五木ひろし
 詞:山口洋子 曲:遠藤 実 R:1977/05/25 HC:23位
【メドレー達者でナ~五木の子守唄 矢野顕子
 ・達者でナ 矢野顕子
  詞:横井 弘 曲:中野忠晴/矢野顕子<編> R:1976/12/05【Album】
アルバム「長月 神無月」(ソロデビューコンサートの模様を収録したライブアルバム)収録。オリジナルは1960年発表の三橋美智也のヒット曲。
 ・五木の子守唄 矢野顕子
  詞・曲:熊本県民謡 
※この曲については現在までにリリースされた矢野の全アルバム・シングル作品のいずれにも収録されていない(但し自身のコンサートでは数度披露している模様)。
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※同回の放送では尺八奏者の山本邦山・石垣征山・川村泰山・酒井帥山・難波邦政とのジョイントで以上の2曲を披露。この企画によりヒットスタジオは77年度の日本民間放送連盟賞・テレビ娯楽番組部門で優秀賞を受賞した。
<矢野顕子>
①71年、青山学院高等部に在学中のときにジャズクラブ「青山ロブロイ」のステージに上がり、そこの経営者であった安部譲二の知遇を得てプロミュージシャンとしての道を志す。73年にバンド「ザリバ」を矢野誠らと共に結成、74年、シングル「或る日」でレコードデビューを飾るが、発売翌日に突如解散(当時の所属レコード会社が矢野以外のメンバーに関心がなく、早期に矢野をソロデビューさせるために突如解散となったとの説あり)。その後はティンバン・アレイ、キャラメル・ママのキーボート担当のサポートメンバーとしてツアーやレコーディングに帯同し、この時期に当時キャラメル・ママのメンバーであった細野晴臣らとの親交を築いた。尚、ザリバを共に結成した縁でこの時期に矢野誠と結婚、彼との間に男児を授かった。
②76年7月、アルバム「JAPANESE GIRL」で正式にソロデビュー。片面を当時のアメリカ音楽界を代表するロックバンドの一つであったリトル・フィート(Little Feat)をメインのバッグバンドに迎えた「AMERICAN SIDE」、もう一方をあかだ森魚・鈴木茂らと日本の当時の新進気鋭のクリエーターらとのセッションを中心とした「日本版」と題して製作されたこのアルバムではオリジナル曲「気球にのって」「へりこぷたあ」などに混じって、国民的歌手・藤山一郎の初期代表作の一つである「丘を越えて」や、生まれ故郷である青森の民謡をベースとした「津軽ツアー」、ねぶた祭りを題に取った「ふなまち唄」などといった、日本のポピュラー音楽のスタンダードといえる領域にも入り込み、大胆なアレンジを展開。このアルバムは業界内外で絶賛を浴び、一躍、ニューミュージック界の鬼才として注目を集める存在となる。
③79年に矢野と離婚した後、自身のオリジナル作品の創作活動と並行して、日本のテクノサウンドの先駆的存在であるイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のサポートメンバーとしてコンサートツアーに帯同。この競演をきっかけとしてYMOのメンバーの一人、坂本龍一との交際を始め、80年には坂本との間に長女で現在はミュージシャンとして活動する美雨を出産。当初は内縁の夫婦関係であったが82年に正式に坂本と結婚。以降、YMOが解散した後も坂本が彼女の音楽活動での主要なブレーンとして参加。81年には坂本が作曲を手掛けたシングル「春咲小紅」がカネボウのキャンペーンソングとして採用されたことをきっかけにヒット(オリコン最高5位累計売上:37.0万枚)。楽曲製作のスタンスも前夫・矢野誠プロデュースの時代のころの和風テイスト溢れるものから、テクノサウンドをベースとした作風を経て、YMO解散後に発売されたアルバム「オーエス オーエス」(84年)以降はで柔和なムードが漂う独自の音楽観を確立。その作風や育児・家事と並行しながら演奏・創作活動を定期的に敢行して行く活動スタンスはキャリア・ウーマンの代表格として同世代の女性からの厚い支持を獲得してゆく。
④87年に家事専念を理由として一時音楽活動を休業した後、89年、アルバム「WELCOME BACK」より復帰。90年に一家揃ってアメリカ・ニューヨークに生活の拠点を移したが、程なく夫である坂本とは別居(のち2005年に正式に離婚)。以降、現地のジャズミュージシャンや宮沢和史(THE BOOM)、奥田民生ら日本国内の後輩ミュージシャンと積極的なセッション活動を展開するほか、絵本創作・アニメ声優など新たな領域にも挑戦。1982年より開始した、ピアノ1本だけの弾き語り形式による「出前コンサート」も途中幾度かの中断期間をはさみながら、現在も尚、生涯のライフワークとして好評を博している。
⑤尚、プロミュージシャンとして活動を開始したごく初期の頃は、生家の姓である「鈴木」姓を名乗っていたが、最初の夫である矢野誠との結婚を機に、矢野との離婚~坂本龍一との結婚・離婚を経て、今日に至るまで一貫して「矢野」の姓を音楽活動での通名として使用している。

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・06/15 和歌山・有田市で集団コレラ発生。
・06/30 東南アジア条約機構(SEATO)解体。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(52-2) 1977年5~6月②

2008-06-28 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

(77年5月23日放送(第446回)までの曲目については「曲目リスト(52-1) 77年5~6月①」を参照)

<1977年5月30日(第447回)>

・許してください 角川 博 
 詞:石坂まさを 曲:たきのえいじ R:1977/01/25 HC:32位
◆第29回(78年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
・少女自身 久木田美弥
 詞:さいとう大三 曲:川口 真 R:1977/03/-
・恋愛遊戯 太田裕美
 詞:松本 隆 曲:筒美京平 R:1977/05/31 HC:13位
・片想い 中尾ミエ
 詞:安井かずみ 曲:川口 真 R:1971/11/-(初発)/1977/06/10(再発) HC:28位
楽曲について>
 前回記載のフランク永井「おまえに」同様、初発から数年の年月を経てヒットに結びついた作品。中尾の当時の所属レーベルであるビクターレコード内部で、関係者からの評判はよかったもののヒットには至らなかったいわば「隠れた名曲」を再び掘り起こし、一定の評判を集めてから再発しようという動きがあり、その際にその「隠れた名曲」としてこの「片想い」が選び出された。この話を聞きつけた札幌の音楽関係者が方々で同曲を強く推したところ、まずは地元・北海道の有線でヒットの兆しを見せ始め、後にその勢いが他地域の有線にも波及。この好調ぶりを背景として77年に再発盤が製作され、中尾にとり久々のヒット作となった。
Cherry Bomb(チェリー・ボンプ) ザ・ランナウェイズ
 詞・曲:Joan Jett R:1976/-/-<米>/1977/04/25<日> HC:10位<日(オリコン)>
<ザ・ランナウェイズ(The Runaways)>  
 75年にロサンゼルスで結成されたガールズロックの草分け的バンド。結成当時のメンバーはチェリー・カーリー(Cherie Currie /リードボーカル・キーボード)、ジョーン・ジェット(Joan Jett/ギター・ボーカル)、ジャッキー・フォックス(Jackie Fox/ベース)、リタ・フォード(Lita Ford/ギター)、サンディ・ウェスト(Sandy West/ドラム)の5人。76年、「スターダスト」というクラブで演奏しているところを、'60年代~'70年代のアメリカ音楽界の「顔役」であったキム・フォーリー(Kim Fowley)に見初められ、彼のプロデュースの下でアルバム「The Runaways」シングル「Cherry Bomb」でプロデビュー。デビュー当時、メンバーの平均年齢は16才という若さであったが、特にボーカル担当であったチェリーの過激なファッションやハードロック路線に傾斜した曲調が注目され、上記アルバム・シングルがアメリカ、そして日本でもヒット(アルバムは米・ビルボード誌のアルバムチャートで最高194位、日本のオリコンアルバムチャートでは最高7位にランキングされている)。将来が大きな期待がかかったものの、77年には早くもチェリー、ジャッキーの2人が相次いで脱退。これをきっかけに徐々にメンバー間の音楽性の違いが表面化し人気が一気に低迷。79年、結成からわずか4年で解散した。
<楽曲について> 
 ギター担当のジョーンが詞・曲を担当。日本で発売された当初は「悩殺爆弾」という邦題がつけられていた(上記のデビューアルバム「The Runaways」も日本では「悩殺爆弾-禁断のロックン・ロール・クイーン」という邦題でリリースされた)が、後に原題に倣い邦題も「チェリー・ポンプ」に改められた。

<1977年6月6日(第448回)>
・紫の雨 菅原洋一
 詞:岩谷時子 曲:東海林修 R:1977/06/-
・新宿ダダ 山川ユキ
 詞・曲:石坂まさを R:1977/05/25
帰らない 清水健太郎
 詞・曲:つのだ・ひろ R:1977/04/01 
 HC:1位(1977/05/02・05/09)
◆年間チャート(77年)12位(54.8万枚)
◆第19回日本レコード大賞最優秀新人賞受賞(同曲を含め、同年度のレコード大賞の選考対象期間内に発売された全シングル作品に対して受賞)
「恋人よ」両A面
【メドレー】年下の男の子~ペッパー警部~春一番~S.O.S~やさしい悪魔~カルメン'77 キャンディーズ/ピンクレディー
 ※「キャンディーズvsピンクレディー」と銘打って行われたジョイント企画の一環。一通り上記メドレーを披露し終わった後に、新曲である「暑中お見舞い申し上げます」(キャンディーズ)、「渚のシンドバッド」をそれぞれ披露した。
渚のシンドバッド ピンクレディー
 詞:阿久 悠 曲:都倉俊一 R:1977/06/10 
 HC:1位(1977/06/27-07/11、08/15-09/12)
◆年間チャート(77年)1位(94.0万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞大衆賞受賞曲(同曲を含め、同年度のレコード大賞の選考対象期間内に発売された全シングル作品に対して受賞)
ピンクレディーにとり初のミリオンヒット(累計売上:100.0万枚<オリコン調べ>)。以降、78年6月リリースの8thシングル「モンスター」まで5作連続でミリオンを記録(尚、この記録はB'zが93年に「裸足の女神」で6作連続ミリオンセラー達成の新記録を樹立するまでは歴代最多の記録となっていた)。また、首位を沢田研二「勝手にしやがれ」より奪還した最初の週である77年8月第3週からこの作品で5週連続、そしてその後これに入れ替わるように9月第3週目に次の作品「ウォンテッド(指名手配)」が1位の座に座り、以降12月第1週まで12週連続で同作品も1位を獲得、2作品で通算17週にわたりオリコンチャート1位の座を堅守するという記録も残している

<1977年6月13日(第449回)>
・Morning,Noon and Nighttime(愛のひととき) バルビ・ベントン R:1977/-/-<詳細求む>
<バルビ・ベントン(Barbi Benton)>
 元々は米国の雑誌「PLAYBOY 」のプレイメイトとして活躍。74年、同誌が興した「PLAYBOY」レーベルより「The Taddy Bear Song(邦題:いとしのデディ・ベア)で歌手デビュー。歌手としての主な代表作としては「Something New」(76年)などがある。この回に披露した「Morning,Noon and Nighttime」は同年度の第6回東京音楽祭・世界大会の銅賞受賞曲であり、日本でも受賞後に記念盤としてリリースされた。
セクシー・ロックンローラー 西城秀樹
 詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1977/06/05 HC:7位
センチメンタル・カーニバル あおい輝彦
 詞・曲:阿部敏郎 HC:8位
【メドレー】星に願いを~ポケットいっぱいの秘密~ひなげしの花~小さな恋の物語 アグネス・チャン(ほか出演者一同)
※5月に一旦再来日したアグネス・チャンが再び学業に復帰するためにカナダに戻ることとなったことから、その壮行会的な意味合いから再びヒットメドレー企画が組まれた。森進一・岩崎宏美・布施明ら同回のほかの出演歌手が揃ってこのメドレーにも参加、アグネスの代表曲を共にジョイントした。
・心に翼を下さい アグネス・チャン
 詞:松本 隆 曲:加瀬邦彦 R:1977/04/25 HC:32位

【司会】 芳村真理・井上 順

(77年6月20日放送(第450回)・同6月27日放送(第451回)の曲目については「曲目リスト(52-3) 77年5~6月③」を参照)

(参考)この頃の主な出来事
・05/25 大阪大学のアメリカ人講師が、ジーパンを着用して講義に出席しようとした女子学生の受講を拒否、これを機に「ジーパン論争」が勃発。
・05/25 アメリカ映画「スター・ウォーズ」封切。
・06/09 愛知医科大学の教授会において大量の裏口入学の事実ありとの内部告発がなされ、闇入学金が約3,000万円にも上ることが判明(愛知医大不正入学事件)。
・06/12 樋口久子、全米女子プロゴルフ選手権に日本人プロゴルファーとして初優勝を達成。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(52-1) 1977年5~6月①

2008-06-23 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年5月2日(第443回)>
・UP AND DOWN 梓みちよ
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1977/03/21
「女達のキィ・ワード」B面
・ドライブイン物語 小川知子
 詞:西岡恭蔵 曲:大野雄二 R:1977/04/25
悲恋白書 岩崎宏美
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1977/04/25 HC:8位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回)
※デビュー作「二重唱(デュエット)」以来これまで8作連続で筒美京平が作曲を手掛けてきたが、この作品では作曲者が大野克夫に交代。この年の紅白では当初はこの曲よりもセールスは上で、各賞レースでもノミネート作品となっていた「思秋期」を披露するものと大方の関係者は予想していたが、歌唱時間や演出上の問題等の関係で「思秋期」での出演では難があったためにアップテンポ調のこの作品が選曲されたという。
カルメン'77 ピンクレディー
 詞:阿久 悠 曲:都倉俊一 R:1977/03/10 
 HC:1位(1977/03/28-04/25)
◆年間チャート(77年)7位(65.8万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞大衆賞受賞曲(この曲を含め、同年度のレコード大賞の選考対象期間内にリリースされたシングル4作品に対して受賞)

<1977年5月9日(第444回)>
気まぐれヴィーナス 桜田淳子
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1977/05/15 HC:7位
◆第19回(77年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回)
・う・ふ・ふ 由紀さおり
 詞:島 武実 曲:宇崎竜童 R:1977/05/-
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(9回)
・港のまつり 森 昌子
 詞:わたなべ研一 曲:沖田宗丸 R:1977/05/01 HC:40位
・海峡ブルース 北島三郎 R:1977/05/-

<1977年5月16日(第445回)>
・紅ほおずき 木の実ナナ
 詞:阿久 悠 曲:丹羽応樹 R:1977/04/-
・心のひびわれ 片平なぎさ
 詞:さいとう大三 曲:神保正明 R:1977/05/05
・6年経ったら 五十嵐夕紀 
 詞:松任谷由実 曲:筒美京平 R:1977/04/20
<五十嵐夕紀>
 スクールメイツを経て、77年、シングル「6年経ったら」で歌手デビュー。同年秋からは香坂みゆき、天馬ルミ子と共に「レッツゴーヤング」(NHK)の番組内チーム「サンデーズ」に初代の女性メンバーとして参加し、79年まで約1年半に渡りレギュラー出演し知名度を上げる。このほかにも「ぎんざNOW!」(TBS)、「クイズ!ドレミファドン」(フジテレビ)などのバラエティー番組のアシスタントも数多く務めるなど、大手プロダクションである渡辺プロの所属であったこともあり、テレビ出演自体はデビュー当初より多かったものの、歌手としては全く振わず(デビュー作であるこの「6年経ったら」も含めすべての作品でオリコンチャートTOP100入りを果たすことはできなかった) 、徐々にタレントとしても人気は低迷。80年代に入ってからはアイドル路線を脱し、演歌路線の「浮気ならいいわ」などで再起を賭けるも不発。その後ナベプロからも退社し、84年には「にっかつロマンポルノ」に出演し一時的に話題となったが、86年に結婚のため引退。リサイクルショップの経営を経て現在はダンス講師として活躍している。
・野良猫 ガールズ
 詞:鳴海昌明 曲:小田裕一郎 R:1977/05/-
・おまえに フランク永井
 詞:岩谷時子 曲:吉田 正 R:1972/09/-(初発)/1977/03/25(再発) HC:22位
◆第25回・第28回・第32回(74年・77年・81年)NHK紅白歌合戦出場曲(18回・21回・25回)
<楽曲について>
 作曲者の吉田正が長年影となって自らの作曲家人生を支え続けてくれた夫人に対する感謝のメッセージを込めて作られた作品といわれている。元々は1966年に発売されたシングル「大阪ろまん」のB面として発表されたが、当初はA面のヒットに隠れてしまいほとんど注目されることもなかった。しかしフランクはこの作曲者でもある恩師・吉田正のこの曲に対する強い思いを汲み取り、是が非でも広く世の中に定着させたいという思いが抱くようになり、その後もコンサートでは重要なオリジナルソングの一つとして毎回のようにこの曲をプログラムの中に取り入れて歌い続けた。その甲斐もあって1972年に今度はA面曲として再びレコーディングする機会に恵まれる。このときも当初はほとんどヒットにはつながらったが、カラオケブームや有線放送の波に乗るような形で中高年層を中心に徐々にこの曲の存在が知られるようになり、1977年に満を持して3度目のレコード化(A面曲としては2度目)、オリコンチャート最高22位、27.8万枚(オリコン調べ)のヒットとなった。「大阪ろまん」のB面として最初に世に出てから11年という長い年月を経て、フランクがこの曲に対して抱き続けてきた念願はようやく達成された。
【メドレー】ひなげしの花~ポケットいっぱいの秘密~草原の輝き アグネス・チャン
76年8月にカナダ留学のため歌手活動を休業したアグネス・チャンが一時再来日「おかえりアグネス」と題して記念企画を組み、上記の代表作3曲をメドレー形式で歌ったほか、再来日に先立って4月にリリースされた待望の新譜「心に翼を下さい」も初披露した。

<1977年5月23日(第446回)>
・花流浪(さすらい) 渥美二郎
 詞・曲:遠藤 実 R:1977/04/-
・そよ風と私 岡田奈々
 詞:藤公之介 曲:森田公一 R:1977/04/10
・母を想えば 三波春夫 R:1977/05/-
勝手にしやがれ 沢田研二
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1977/05/21 
 HC:1位(1977/06/20、07/18-08/08)
◆年間チャート(77年)4位(74.7万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞・編曲賞(編曲者・船山基紀に対して)受賞曲(編曲賞については、同曲を含め同年度のレコード大賞選考対象期間内に発表した全編曲作品群に対して受賞)
◆第8回(77年)日本歌謡大賞受賞曲

◆第3回(77年)全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリ受賞曲
◆第10回(77年)日本有線大賞受賞曲
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞優秀スター賞受賞曲
◆第6回(77年)東京音楽祭・国内大会 ゴールデンカナリー賞受賞曲/同・世界大会 銀賞受賞曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(5回)
<楽曲について>
沢田研二のソロデビュー以後にリリースした全シングル曲中、75年の「時の過ぎゆくままに」に次ぐ好セールスを残した作品(累計売上枚数:89.3万枚<オ
リコン調べ>)。沢田はこの曲で、発売直後に東京音楽祭・国内大会でゴールデンカナリー賞を受賞したのを皮切りに、レコード大賞・歌謡大賞など、年末にかけて各音楽賞の大半を独占、名実ともに歌謡界のトップスターとしての地位をこの作品によって確立した。この曲をテレビ番組で披露する際には大抵クリーム色のスリーピース姿に帽子という出で立ちで登場歌の途中でその帽子を脱ぎ捨てカメラの方に向かって投げるというパフォーマンスが受け入れられ、これをきっかけに以後、沢田はメイク・衣装・パフォーマンスなどヴィジュアル面で趣向を凝らした斬新な演出を積極的に取り入れるようになり、独創的な質の高いステージングで多くのファンを魅了、トップスターの座を堅持してゆく。
②曲のタイトルは、「ヌーヴェルヴァーグ」の旗手、ジャン・リュック・コダールの長編映画デビュー作として知られるフランス映画「勝手にしやがれ」(1960年公開)より拝借したものであり、曲の内容もこのタイトルからのインスピレーションによって作られたものであるといわれている。尚、この曲にまつわるエピソードとして、サザンオールスターズのデビュー作「勝手にシンドバッド」がこの曲のタイトルとピンクレディーの「渚のシンドバッド」を折衷して作られたとする説が有名だが(詳細は78年7~8月期の曲目リストに記載予定)、山口百恵が翌年にヒットさせた「プレイバックPart2」も元々はこの作品へのアンサーソングという意味合いで製作されたものであり、歌詞の中に「勝手にしやがれ」というフレーズが登場するのはそのためであるとも言われている。

【司会】 芳村真理・井上 順

(77年5月30日放送(第447回)~同6月13日放送(第449回)の曲目については「曲目リスト(52-2) 1977年5~6月②」に記載)

(参考)この頃の主な出来事
・05/02 大学入試センター発足。
・05/02 領海12カイリ法、漁業水域200カイリ暫定措置法成立。
・05/06 新東京国際空港公団、反対派の建てた鉄塔2基を抜き打ちで撤去。これを受けて8日に行われた抗議集会で反対派と機動隊員が衝突。同盟支援者であった東山薫さんがガス弾を頭部に受けて死亡(東山事件)。
・05/07 イギリス・ロンドンにて第3回先進国首脳会議(サミット)開催(~8日)。
・05/11 北海道の三井石炭興行芦別鉱業所にてガス爆発事故発生。25人死亡。
・05/22 元社会党副委員長・社民連代表の江田三郎が死去。69歳。社民連発足からわずか2ヶ月足らずでの突然の死であった。
・05/25 大阪大学のアメリカ人講師が、ジーパンを着用して講義に出席しようとした女子学生の受講を拒否し問題化、ジーパン論争が勃発。
・05/25 米映画「スター・ウォーズ」封切。