伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

歴代司会者考Ⅳ-「コンビ司会の最高傑作」芳村真理・井上順コンビの時代

2006-10-26 | 夜のヒットスタジオ/番組史
今回は3代目の男性司会者、井上順さんの登場から記事を書きます。

1976年4月、「歌謡ドラマ」に代表されるバラエティー性の強いコーナーの打ち切り、そして、全編を司会者と歌手によるトーク部分、そして歌のみで進行するというシンプルな構成により、「歌」「歌手」を重視する「総合音楽番組」への方針転換を打ち出したヒットスタジオ。そこで、バラエティー色の要として2年間司会を担当した三波伸介さんに代わり3代目の芳村真理さんの相手役として登場したのが、井上順さんでした。

井上順さんはGSの第一人者グループとして君臨していた「ザ・スパイダーズ」で堺正章さんとツートップを張っていた人で、そのころから、2枚目半的な気さくなキャラクターがファンの間でも支持され、ソロデビュー後も歌手、俳優、そして司会者として多彩な活動を続けていました。この夜ヒットに司会者として登板する以前にも、すでに同じくフジテレビ系の「ゴールデン歌謡速報」(1972~1973)を小林大輔さんとコンビで担当したのを皮切りに、「火曜歌謡ビッグマッチ」(TBS、1973~1974)では黒柳徹子さんとのコンビ、「ベスト30歌謡曲」(NET、1975~1976)ではうつみ宮土理さんとのコンビで、歌謡番組の司会実績も十分。当時まだ29歳という若い司会者でしたが、満を持しての登板といえると思います。特に総合歌謡番組へと方針転換をするに当り、様々な歌謡番組ですでに知り合いとなっていた歌謡曲系歌手以外のジャンルにも裾野を広げるという点で、ミュージシャンとしても活動していた彼の意見も番組に欲しいということや、ライバル番組「紅白歌のベストテン」ですでのマチャアキさんが8年近くも司会を担当していたこととの兼ね合いで、彼の盟友でもありまた好敵手ともいえる順さんに白羽の矢が立ったというように見ることもできるでしょう。
他方、芳村真理さんにとっては、マエタケさん、三波さんと二代続けて自分より年長の司会者が相手となっていたのに対して、今回は自分よりも干支一回りも下の相手役。番組内での進行は「年上の姉(=芳村)にちょくちょくチョッカイを出す弟(=井上)」というような雰囲気で進められました。

上述のように、シンプルな「歌」にこだわる構成となった夜ヒットにあって、さらに司会者の発言なり衣装なりが番組人気にかかる比重は大きくなっていました。その中で、芳村、井上コンビは自己研鑽を繰り返しながら夜ヒット史上でも最高ともいわれる名コンビぶりを築き上げていきます。

井上順さんが番組内でよく多用していたのは、いわゆる「オヤジギャグ」といわれる類のフレーズの数々。
芳村さんがどんな衣装を着てくるのか本番まで分からず、いざ本番となって、彼女の奇抜な衣装を見るなり、「カトリーヌ・ドブース」「蜘蛛巣城」「特別ゲストとしてコロムビア・ローズさんをお迎えして・・・・」「今日は芳村さんの髪型を見て東京がいかに風が強かったかよく分かります」「(パーマ風の髪型を見て)局内にすずめの巣が出来た」などなど、年令が自分や他の出演歌手よりも年長であることを茶化すフレーズとして「(石川さゆりさんとは)丁度倍ですね」「(中森明菜さん初出演時の披露曲「少女A」をもじって)老婆A」などということもありました。芳村さんも彼がどのような言葉を返してくるかが楽しみになって、更に衣装の奇抜さはエスカレートしていったそうです。
他の歌手に対してもいろいろ茶化しをいれてましたね。思い出すだけでも・・・・
・西城秀樹さんが「ボタンを外せ」を披露する際の衣装を見て「今日は「麦と兵隊」(これは東海林太郎さんの戦前のヒット曲です)を歌うの?」
・由紀さおりさんやダークダックスに対して「見事に由紀さんやダークさんで年令層を上げていただきました」。
・山口百恵さんが下半身がなかなか痩せないという話をしているときには「下半身沈殿デブ」。
・TUBE初出演のときにはチューブという呼び方から連想する言葉として「タイヤ」と紹介。
・松田聖子さん初出演のときは「ポスト百恵」を「新聞受け百恵」と表現(つられて、芳村さんもこのとき聖子さんのことを「百恵ちゃん」とミスってしまったようです)。
・「彼岸」の話題が出たときに梓みちよさんがゲストでいたこともあり、「梓、寒さも彼岸まで」。
・「節分」の話題のときには小柳ルミ子さんの八重歯を意識して、小柳さんにむかって「鬼は外」。
とまあ、色々ありましたね。

「オヤジギャグ」というからにはそれなりに見てる側は「寒さ」(悪い表現ですが・・・)があってこその「オヤジギャグ」なのですが、なぜか順さんが言って、芳村さんがそれをさらりと受け流しをすることで不思議とオシャレなギャグに聞こえてしまうという部分もあったという気がします。時には芳村さんを困らせる質問をして、彼女の困った様子を茶化すなんていうパターンもあったりしましたね(確か、河合奈保子さんが「北駅のソリチュード」という曲を初披露するときに「ソリチュードってどんな意味なんですかね?」と急に質問して、芳村さんが慌てたなんてこともありましたよね)。あと、アイドル歌手の歌なんかになると後ろのひな壇で振り付けを見よう見まねで真似たりする場面も多かったです。こうやって書いていても、井上順という人は「エンターテイナー気質が体にうまく染み込んでいる人なんだなあ」という感じがしますね。

これらの順さんによる茶化しや色々な奇異なアクションで、番組カラーは更に明るくなっていきました。これらの「暴走」を止めにかかり、番組進行の本筋に戻して行くのは必ず芳村さんの役割。時に「歌詞間違えちゃったのね~」とか「(早見優さん初出演のときに)(松本)伊代ちゃんに似た感じで・・・」云々といった解釈によっては反感を買いかねない発言も時にあったようですが、すでにこの時代には芳村さんは「番組の権威の象徴」ともいえる存在。上記の発言も「強引なまでの説得力」で見事にカバーしていました。順さんの茶化しを困惑気味ながらも、最終的にはさらりと交わして歌まで持っていってしまうあたりも「大人の女性の対応」という感じがあり、この辺もより順さんの茶化しなりパフォーマンスなりが更に光る要素となっていたような気がします。あれで完全にスルーされていたら、順さんのせっかくの持ち味は完全に埋没されてしまいかねないわけで、その辺を大人の対応をあえて採ることで旨くフォローしてましたね。この真理さんの「大人としての対応」は他の歌手でも多く見られ、石野真子さんも「一人の大人の女性として接してくれた」として後に回顧しています。

このように漫才でいうところの「ボケツッコミ」の役割がはっきりしたこの2人のコンビネーションは、出演歌手だけでなく、スタッフ、そして視聴者にも安心感を与え、番組はマエタケ・芳村時代に次ぐ第2期黄金時代ともいえる時代に突入します。

この頃のコンビ司会について井上、芳村両氏は口をそろえて「緊張の極度にいる歌手に少しでもリラックスした気持ちでいい歌を歌ってもらえるようにするため、毎回苦心した」と仰っています。
この時代の夜ヒットはスタッフが本番中もスタジオ狭しと走り回り、怒号が飛びかう「戦場」そのもののような場所だったと評価されるほどに、製作現場の厳しさは業界内外でも有名でした。その中に歌手、特に初出演の歌手などがやってくると、完全に萎縮気味になってしまい、本来の力が発揮できない状態になってしまう。そこでその厳しさをなんとか中和させるために順さん、真理さんは上記のような茶化しやフォローを入れて歌手の気持ちをリラックスさせていたそうです。そして当の順さん、真理さん当人にしてみても、お互いの持ち味を殺して暴走をしてしまうというのはやはり番組の雰囲気をギクシャクさせてしまい、余計に歌手への緊張感を助長させかねないということも考えて、あえて「ボケツッコミ」の役割を明確化させてコンビネーションをよくさせたという風にみることもできるかもしれません。
現場の厳しさ、そして司会者の歌手に敬意を払っての司会ぶり、その相反する両要素が重なり合い、他の歌謡番組とは一線を画す独特の程よい緊張感、程よいフランクさの合わさった絶妙の雰囲気を生み出していたと言えるでしょう。この「程よい緊張感」と「程よいフランクさ」の両立、というのは簡単そうにみえて、実は今のテレビ番組では一番出来ていない部分であると言えます。それゆえに、この頃の夜ヒットをCSで見るにつけ、「神がかり」的なオーラを感じることもしばしばあります。

こうして典型的な「二枚目半」的キャラクターの順さんと、衣装から言動に至るまでこれも典型的な「大人のオシャレな女性」というオーラを放ち続ける真理さんという強烈な個性の重なり合いによって中興の時を迎えた夜ヒットでしたがやはり歌と司会者のトークを中心におくという構成は単調な感じも否めず、80年代半ばごろになるとマンネリ化は避けられない状態になっていました。1978年にそれまでの歌謡番組とはことなる「情報番組」としての要素を盛り込んだ「ザ・ベストテン」が登場したことにより歌謡番組そのものの在り方が再考の時代に入り、長年ライバル番組として君臨していた「紅白歌の~」も81年に完全チャート番組「ザ・トップテン」へと衣替え。他局でも数多くのチャート番組が誕生し、スピード感のある構成によってその時折の流行の歌をまず優先して紹介してゆくという「音楽情報番組」的構成が新たなトレンドとなっていきました。スタート当初から「斬新さ」をうりにして、当時の歌謡ショー形式主流の歌謡番組のスタイルにセンセーショナルを送り込んできたはずの夜ヒットは逆にいつしかオードソックスな歌番組となっていたのです。

そこで、このマンネリ状態を打開する策として、「ベストテン」に対してよく聞かれていた「歌をじっくりゆっくりと聞かせて欲しい」「ベストテンに出られない歌手が締め出されている」という批判を汲むという形で、1985年春、夜ヒット製作陣はまた新たな一大決断を下します。それは慣れ親しんだ15年以上もの間月曜22時という枠を離れ、水曜21時からの2時間ワイド編成「DELUXE版」へと移行し、更に多ジャンル化を目指すというものでした。

この新体制に移行した後も芳村・井上のゴールデンコンビは不変でしたが、新体制発足から僅か半年後の1985年9月、順さんは9年半担当してきた夜ヒット司会を降板。降板の理由は「一つのものだけを長くやっているのは、逆に自分の可能性を縮めているのではないか」と自分の今の状態に疑心が生じたからだったそうです(あと、もう一点は、当時事務所には無断で菓子商品のCMに出演したために事務所と軋轢が生じ、芸能活動を一時セーブせざるを得なくなってしまったという説もあります)。順さんの中ではまさに熟知たる思いでの降板だったのだろうと思います。

芳村さんは順さん降板について「年の離れた弟が親元を離れて自分の所帯を持つようになった」という認識で番組から去ることになった彼を送り出したといいます。順さん最終回のED時で、芳村さんは長年の相手役が離れることを惜しみ大泣きして番組進行もままならない状態になってしまったそうです。他方、順さんも芳村さんについて「これまで一緒に仕事をしてきた人の中で一番許容できる幅が広い人。分け隔てなく手を差し伸べるところが凄かった。大切な10年間をありがとう」と彼女が番組を降板する時に賛辞を送っています。いかにこの芳村・井上コンビがお互いに全幅の信頼を寄せていたかというのがこの点でも分かる気がします。真理さんへの自虐ネタも、順さんへの対処の仕方もどれもこれも「全幅の信頼」なしにはまず成立しえなかったと思います。

ベストテンにおける黒柳さんと久米宏さんのコンビほど、スピード感があるわけではなかったのですが、やはり、目を見て何を相手が次に言おうとしているかが察しが付く、という感じの芳村さん、井上順さんのコンビは見ている側からしても雰囲気からして良かったですし、上記でも色々と触れましたが、ゲストへの敬意の払い方、息抜きをさせるタイミング、たとえ下世話ネタであっても、全く下品な感じには聞こえない最低限の司会者としての品性、どれを取っても絶妙だなあという気がします。一般に黒柳・久米コンビについては「名コンビ」と評されていますが、夜ヒットにおける芳村・井上コンビもまた、管理人の私にとっては黒柳・久米と
双璧を為す「テレビ史上最高の名司会コンビ」だったと思います。まさに「コンビ司会はかくあるべき」という理想をそのまま体現してくれていたコンビだったのではないかと。
おそらく、私と同様、CS再放送でこの2人の司会ぶりを近年の歌謡番組の司会者の司会ぶりとの比較で「いかに名コンビだったか」というのを再認識した人もこのブログを見ている方にも数多くいるのではないでしょうか・・・。

歴代司会者考Ⅱ-芳村真理復帰、新パートナーに三波伸介・朝丘雪路登場

2006-10-25 | 夜のヒットスタジオ/番組史
1ヶ月ぶりの更新・・・。最近バタバタとしており、ブログにかかりきりになれる時間が取れないため、なかなか更新ができない状況にあり、御贔屓されている方々には大変申し訳なく思っております。

さて、今回は、芳村真理、三波伸介、朝丘雪路トリオ司会の時代について記事を書きたいと思います。

前回も触れたように「共産党バンザイ事件」によって1973年秋の改編を以って、前田武彦さんが事実上の解任という形で番組を降板。相手役の芳村真理さんも一時降板し、その後、新たなレギュラー司会者を迎えず、ゲスト歌手2名が代表して司会を担当するという実験的な試みが行われました。このときには、大抵は森進一さんや橋幸夫さん、五木ひろしさん、由紀さおりさん、和田アキ子さん、水前寺清子さんら60~70年代前半の夜ヒット常連の出演歌手が当番していました。

が、やはり、番組を長く続けていく上では、いつまでも当番司会制という形に頼るわけにもいかず、この当番制も半年間で打ち切られ、1974年4月放送からは、再度、芳村さんを番組に呼び戻し、新たな彼女の相手役として、当時「笑点」「お笑いオンステージ」などで人気司会者となっていた三波伸介さん、そして以前から歌手として夜ヒットに出演しており、芳村さんとは旧知の間柄でもあった朝丘雪路さんの2人を起用、芳村・三波・朝丘のトリオ体制司会へと移行しました。

このトリオ体制の司会となった当初は、特に半年振りに夜ヒットに帰ってきた芳村さんに対しては批判が少なからずあったようです。「一度番組を降板しておきながら、1年もたたずに番組に戻ってくるというのはどういうことなのか?」という点から、「当初から、芳村に関しては、半年後に番組に必ず戻すのでという約束の下に、一度形だけマエタケと共に番組降板という形を採ったのでは?」として「出来レース」という疑惑を持たれたのです。ただ、この批判も、新パートナーである三波さん、朝丘さんとの司会ぶりの中で、この番組での彼女の存在感を以前以上に増すようになっていくに従い聞かれなくなっていました。

他方、新司会者の三波さんに関しては、やはり「笑点」における並居る新進気鋭の落語家たちを相手にしての「大喜利」での豪快かつ気遣いのある司会ぶりでも代表されるように彼が持っている「明るい」キャラクターを買っての抜擢でした。当時の夜ヒットはまだまだ「バンザイ事件」によりダーティーな印象が払拭しきれない状態にあり、完全にこの一件の後遺症から脱してゆく上で三波さんのキャラクターが大きく影響していたように思います。朝丘さんについては、芳村さんが「洋」のイメージがあるのと対比して「和」のイメージがある女性を置いて、「和VS洋」という対比で番組を華やかにしようという考えや、芳村さんとまったくの同学年(1935年生)であったということも抜擢の要因であったようです。

このトリオ司会では役割分担がなされており、主に歌手とのトーク部分など番組進行の中枢は、芳村・朝丘の女性コンビが担当し、三波さんはその2人の進行をあえて「茶化し」に入るコメディリリーフ的な役割を担っていました。番組の中心的進行をあえて男性司会者がせずに女性2人が行うというスタイルもまた、当時の「男女1ペア、男尊女卑的図式」というのが当たり前というテレビ司会者業の構図の中では異端ともいえるものでした。芳村さんと朝丘さんは同年代ということもあり古くから親交があり、気心が知れた存在同士。故に番組内でのやり取りも離婚経験もあり、子供もいる大人の女2人の「本音」がときに進行内で垣間見えるものでした。朝丘さんはこの芳村さんとのコンビでの進行に関して後年「これをきっかけに、他の局でも女性コンビのトーク番組が増えたのでは?」と述べています。また、前述の「和=朝丘VS洋=芳村」という図式通り、芳村さんと朝丘さんの華やかな服装対決もその中では展開されており、その中に軽妙洒脱な三波さんのキャラクターが加わることで、一層番組は華やかさを増しました。

しかし、朝丘さんが程なくして舞台の長期公演の仕事が入ってしまい、わずか3ヶ月でレギュラー出演を降板し、舞台公演がないときにゲスト司会者として登場するという形式(1975年3月を以って完全降板)となり、以降は芳村・三波という以前と同様の「男女1ペア」での司会体制に戻りました。

この時代の看板コーナーは何と言っても「歌謡ドラマ」。マエタケ時代からすでに「コンピューター恋人選び」と並ぶ2枚看板として行われていたコーナーでしたが、ここに「コント」はお手の物の三波さんが加わったことから、このコーナーが最大の番組内での見せ所となりました。三波さんはほぼ毎回といっていいほどこのコーナーには登場。ハゲ頭のかつらを被って歌手を息子や娘に見だてて父親役を演じたり、時にはちょっと抜けたところのある二枚目役を演じたり、またさらにあるときは女装なんかもしたり、と南さんの芸人としての本領が見事に発揮され、ときには歌手も、ちゃんとしたコント台本があるのに笑いが止まらずに展開がめちゃくちゃになってしまうなんてことも幾度もあったらしいです(特に小柳ルミ子さんについては笑いで覚えていたセリフがすっ飛んでしまい、コーナー自体が継続不可能となってしまう事態に陥ったことがあるそうです)。普段はニヒルなイメージがある沢田研二さんがいきなり牛乳瓶の底のような丸縁メガネをかけて真面目な学生役を演じたり、小川知子さんが意地悪な小姑を演じたり、いろいろと歌手の違う側面が垣間見えたコーナーであり、そこに三波さんがちょこちょこセリフの合間にアドリブを入れてくるときに見せる歌手の素性がまた巧妙でもありました。

しかし、「夜のヒットスタジオ」は当然に中心は「歌手」そして「歌」。それゆえ「歌謡ドラマ」の人気が高まるにつれて、次第に今度は「歌番組なのに歌が聞こえてこない」といった批判が出るようになります。
この批判に応ずるべく、1975年に入ると、徐々に後の「本格音楽番組」へのシフトをにおわせる傾向が生じ始めます。海外から実力派の黒人女性コーラスグループ「スリーディグリーズ」を招待し、戦前派の大物歌手・淡谷のり子さんを特別出演させ、そしてグレープ、バンバン、シグナル、憂歌団といった、当時テレビ出演には消極的とされたフォークグループの出演を実現させたりと、「歌をないがしろにしない」というその後の夜ヒットの製作方針の土壌がこの頃に出来上がりつつありました。

他方、歌謡番組としての色彩が強くなるに従い、三波さんの本領も司会の中でも発揮されにくい雰囲気が強まっていきます。構成の塚田茂さんは「三波ちゃんはどうしても二枚目になってしまう」と彼の当時の司会ぶりを回顧しています。三波さんは、当時30~40代初頭の女性にとってファッションリーダーとしてその着こなしを評価されていた芳村真理さんが相手役だったこともあり、この番組だけのために本番前日に服を大量に買い込んだりするなど、豪快なイメージとは裏腹に中身は実に気遣いがあり実直な性格だったそうで、どうしても「歌謡番組」というベースゆえに身構えてしまうところもあったようです。相手は落語家や芸人ではなく、本来はコントなどは正業としていない歌手、しかもコント出演など「格好が悪い」と思っていたフォーク系の歌手などにあってはさらに気遣いをせねばならず、その中で三波さんの本来のキャラクター性はなかなか発揮しつらい状態になっていたようです。

1976年春、「本格音楽番組」への方針転換、同時にコメディー色の強いコーナーの一掃という一大決断が下され、同時に三波さんも2年で番組を降板。しかし、すでにこのとき、三波さんは大御所の域に達するタレントであったため、処遇は極めて慎重な形で行われました。夜ヒットスタッフが同番組を去ることになった彼のために用意したのはあの「スターどっきり(秘)報告」。三波さんはいわば事実上のコンバートという形で、この番組の初代司会者(キャップと番組の中で称されていました)を務めることになります。

そして、1976年4月より、芳村真理さんの3代目の男性パートナーとして、お馴染み井上順さんが登場。第2期黄金時代と称される中興の時を迎えることになります。この井上順さん抜擢後の話は次回記事にて触れたいと思います。