伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(45-2) 1976年3~4月②

2008-05-26 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年4月5日(第387回)>
■同回の放送より、井上順が3代目の男性司会者として登場。
恋のシーソーゲーム アグネス・チャン
 詞:落合恵子 曲:井上忠夫 R:1976/04/10 HC:8位
・いじわる時計 ザ・リリーズ
 詞:松本 隆 曲:森田公一 R:1976/03/05  
・夕焼け 菅原洋一 R:1976/03/-
・みかん 大竹しのぶ
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1976/04/05 HC:67位
<大竹しのぶ>
①73年、フォーリーブスの北公次主演のフジテレビ系ドラマ「ボクは女学生」での北の相手役のオーディションに合格し芸能界入り。翌年公開された「青春の門(筑豊編)」、そして75年の朝の連続テレビ小説「水色の時」(NHK)のヒロイン役と次々と大役に抜擢され、同年代のアイドル的存在としての人気を獲得。個性的なキャラクターと迫真迫る演技力で、その後も松竹映画「事件」(78年)、同「鬼畜」(79年)、東映=角川映画「麻雀放浪記」(84年)、大河ドラマ「花神」(77年)、同右「獅子の世代」(80年)などといった話題作に次々と出演。特に78年の「事件」の演技で、キネマ旬報助演女優賞や日本アカデミー賞主演・助演女優賞など数多くの映画賞を受賞し、実力派女優としての定評を確立した。
②82年に演出家・服部清治と結婚し1児をもうけるのちに死別。その後、88年に、「男女7人夏物語」「男女7人秋物語」(何れもTBS系)での共演を機に交際を始めた、人気お笑いタレントの明石家さんまと再婚し、彼との間にも1児をもうけたが、92年、わずか4年足らずの結婚生活にピリオドを打つ。以後は独身となり、以前以上に女優業に積極的に邁進。ここ数年は舞台女優としての評価が高く、「奇跡の人」「マグベス」「欲望という名の電車」などの名作の舞台にも主演。紀伊国屋演劇賞・芸術選奨文部科学大臣賞・菊田一夫演劇賞など主要な演劇関連の賞をほぼ毎年のように受賞するなど、日本の舞台・演劇界を背負って立つ看板女優として活躍。他方、元夫である明石家さんまの影響から「中居正広の金曜日のスマたちへ」(TBS系)などバラエティー番組への露出も多く、その天然ともとれる独特なキャラクターで広い世代から親しまれている。

<1976年4月12日(第388回)>
・霧の港 神戸 青江三奈 R:1976/03/-
・おばさん 森 昌子
 詞・曲:浜口庫之助 R:1976/03/01 HC:24位
・陽ざしの中で 布施 明 
 詞:関 真次 曲:吉川忠英 R:1976/04/21 HC:12位
※① 主に海外の歌のコピーを中心に音楽活動を展開してきた、元ニューフロンティアーズ出身のスタジオミュージシャン、関真次と吉川忠英が「日本語の歌を作りたい」という思いで製作した「夢が少しずつ」という作品を渡辺プロの当時の布施担当スタッフが気に入り、大ヒットとなった小椋佳作品「シクラメンのかほり」「傾いた道しるべ」の次の作品の製作という大役を作詞・作曲家のキャリアがほとんどなかったこの2人のコンビに託したといわれている。
※②20万枚を売り上げるヒットとなった作品であるにも関わらず、なぜか長らくの間、彼のベスト盤への収録は見送られてきた(近年発売されているベスト盤やCD-BOXには収録されている)ことから「まぼろしの名曲」とファンの間では評されている作品でもある。

<1976年4月19日(第389回)>
・霧雨の朝突然に… バンバン
 詞・曲:荒井由実 R:1976/02/25 
愛に走って 山口百恵
 詞:千家和也 曲:三木たかし R:1976/03/21 HC:2位
◆年間チャート(76年)16位(46.5万枚) 
※「赤い運命」(TBS系ドラマ「赤い運命」主題歌)との両A面。
・純心 村上こうじ R:1976/03/-

<1976年4月26日(第390回)>
・少女期 森田つぐみ
 詞:千家和也 曲:大野克夫 R:1976/04/25 HC:84位
・涙のディスコナイト 欧陽菲菲
 詞:橋本 淳 曲:佐藤 寛 R:1976/03/-
ウィンクでさよなら 沢田研二
 詞:荒井由実 曲:加瀬邦彦 R:1976/05/01 HC:7位
ビューティフル・サンデー 田中星児
 詞:Rod Mcqueen/Daniel Boone/田中星児<訳>
 曲:Rod Mcqueen/Daniel Boone
 R:1976/03/25 HC:4位
※「オー・マリヤーナ」両A面。 
◆年間チャート(76年)12位(51.9万枚)
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
※第49回(77年)選抜高等学校野球大会開会式入場行進曲
<楽曲について>
オリジナルはイギリスのシンガーソングライター、ダニエル・ブーンの歌唱で知られる。72年に本国イギリスで、次いでアメリカでリリースされ、イギリスのヒットチャートでは最高21位、アメリカのビルボード・チャートでは最高15位を記録し、発売数ヶ月で全世界での売上枚数がミリオンを超えるという爆発的なヒットとなった。
②日本では、76年初頭にTBS系で当時放送されていた平日朝の情報番組「おはよう720」内で、1人のレポーターが1ヶ月近くの長期の諸外国取材を行い、その模様を放送するという人気コーナー「パスポート4」(のちに「キャラバン2」と改称され継続)の東西ドイツ取材のシリーズの放送中にBGMで同曲が使われたところ、視聴者から問い合わせが殺到。この予想外の反響振りから当時の番組ディレクターがディスコ・メイトというレコード会社に働きかけ、その結果、この曲のシングル盤が日本でも発売されることとなった。オリジナルであるダニエル・ブーン盤(リリースは76年3月10日)は発売後わずか2週間でそれまで11週連続1位であった「およげ!たいやきくん」に代わって、オリコン週間チャートの1位の座を獲得し、以後、6月第4週まで15週連続で1位の座を保守累計192.4万枚という驚異的なセールスを残した(尚この記録は日本でリリースされた洋楽シングルとしては現在も最高のセールス記録となっている)。
③ダニエル・ブーン盤に加え、日本ではほかに田中星児、バンド「トランザム」による日本語訳バージョンも程なくしてからリリースされ、いずれもオリコンチャートでベスト10入りを果たすヒットとなった。このほか、俳優の平田満や、田中が所属していた「ヤング101」によるカバーバージョンも発売されている。尚、田中盤、トランザム盤それぞれ日本語訳は異なっており、田中盤は田中自身の訳詞により、童謡調ともいえる、老若男女を問わず覚えやすい仕上がりとなっているのに対して、トランザム盤はフォーク畑出身の新進気鋭の作詞家・松本隆の手により訳詞がなされ、主に大学生など若年層のユーザーを狙ったフォーク色の強い仕上がりとなっている。
<田中星児>
 高校時代より各局のオーディション番組、のど自慢番組、歌唱コンクールに出場し、「NHKのど自慢大会」(ポピュラーの部)優勝、TBS系「ナショナル10人抜きのど自慢」優勝など数多くの賞を受賞、「のど自慢荒らし」として有名に。このアマチュア歌手の枠を超えた歌唱力が注目され、70年、同年スタートした「ステージ101」(NHK)内のグループ「ヤング101」の筆頭格の一人として参加し、プロの歌手としてデビュー。その後、71年には同局の幼児教育番組「おかあさんといっしょ」の初代”うたのおにいさん”として抜擢。歌手・作詞・作曲家として子供向けソングのスターとして人気を博す。76年に発売した同曲のカバー盤でも自身で訳詞を手掛け、その親しみやすくシンプルな訳詞も相まって50万枚を超えるヒットとなり、年末にはNHK紅白歌合戦にも出場。一躍その名を全国に知らしめた。その後もTBS系「8時の空」の司会やNHK教育の番組、NHK「みんなのうた」などへの楽曲提供などで活躍。

【司会】 芳村真理・井上 順(76/04/05~)

(参考)この頃の主な出来事
・04/01 米・カリフォルニア州にてアップルコンピュータ社が発足。
・04/05 中国にて第1次天安門事件起きる。故・周恩来首相を追悼する意味で天安門広場に集合した群集たちが警察当局と衝突。この事件により黒幕と目された小平が副首席の職を解かれ失脚。
・04/09 「白樺派」の中心的な存在として日本の文壇史の流れを築いた作家・武者小路実篤が死去。90歳。
・04/14 最高裁、72年に行われた衆議院議員総選挙における千葉1区の議員定数と右選挙区の有権者数との均衡が争われた訴訟において、選挙自体の有効性は肯定しつつ当該定数不均衡事態については違憲とする判決を下す。
・04/27 東京地裁、「四畳半襖の下張」を刑法上の「わいせつ文書」に該当すると判断、被告・野坂昭如らに有罪判決を下す。
・04/29 北京のソ連大使館前で爆発事件発生。ソ連は直ちに中国政府に抗議。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(45-1) 1976年3~4月①

2008-05-26 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年3月1日(第382回)>
・恋におぼれて 真木ひでと
 詞:山口洋子 曲:浜 圭介 R:1976/01/21
・気がむけば電話して 南 沙織 
 詞:中里 綴 曲:田山雅充 R:1976/03/01 HC:29位
・夕焼け野郎 伊藤 透
 詞:岡田冨美子 曲:井上忠夫 R:1976/02/-
女友達 野口五郎
 詞:山上路夫 曲:佐藤 寛 R:1976/02/10 HC:4位
春一番 キャンディーズ
 詞・曲:穂口雄右 R:1976/03/01 HC:3位
◆年間チャート(76年)21位(36.2万枚)
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回) 
※①元々は75年3月リリースのLP「年下の男の子」の収録曲の一つであったが、ファンからの評価が高かったことやキャンディーズ自身や関係者からの熱烈な要望もあり、1年後にシングル化。「年下の男の子」以来のオリコン週間チャートベスト10入りを果たし、現在も「春」を連想させる歌謡曲の代表的ナンバーとして後世にも歌い継がれている。
※②この曲の歌詞は当初、千家和也が担当する予定となっていたが、穂口がメロディーを作った際に五線譜に書き留めていた一番の仮詞を千家が読んだところ、これを高く評価。そのために全編の歌詞も穂口が担当することになったという。

<1976年3月8日(第383回)>
・お嫁に行っていいんだよ 北島三郎 R:1976/03/-
・気まぐれ雨 内山田洋とクールファイブ
 詞:斎藤 保 曲:吉田 佐 R:1976/02/05 HC:40位
木綿のハンカチーフ 太田裕美  
 詞:松本 隆 曲:筒美京平 R:1975/12/21 HC:2位
◆年間チャート(76年)4位(86.7万枚)
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀スター賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
※①太田裕美の全シングル曲中、(現時点では)最高のセールスを記録(累計86.4万枚。しかし、「およげ!たいやきくん」や「ビューティフル・サンデー」の記録的大ヒットの影に埋もれ、オリコンシングルチャートで1位を獲得することはできなかった。
※②元々は75年11月リリースのLP「心が風邪をひいた日」の中の収録曲の一つであったものをシングルカットして同年12月に新譜のシングル盤として発表。この曲の製作当初、作曲担当の筒美が作詞者の松本から提示された詞につき「長すぎる」として、歌詞の一部をカットするように要望を出したものの、松本や担当のプロデューサーらとの連絡が間々ならず、やむなく当初に松本から示された歌詞に沿ってメロディーを作ったところ、意外にすんなりと曲作りは順調に進み、筒美自身、満足のゆく出来で曲が仕上がったというエピソードが残されている。尚、後にこの歌詞については、ボブ・ディランのアルバムの中に収録されていた「Boots of Spanish Leather(邦題:スペイン革のブーツ)」と類似しているとして盗作騒ぎも起きたが、この点につき松本はディランの楽曲の影響の下にこの曲の歌詞を手掛けたことを認める発言を行っている。

<1976年3月15日(第384回)>
・故郷 森 進一
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1976/01/10 HC:44位
・おもいで岬 新沼謙治
 詞:阿久 悠 曲:川口 真 R:1976/02/01 HC:38位
※「スター誕生!」(日本テレビ系)で5度目の出場にしてようやく本選に勝ち進み、歌手デビューの切符を手に入れた新沼謙治のデビューシングル
君よ抱かれて熱くなれ 西城秀樹
 詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1976/02/25 HC:3位
◆年間チャート(76年)26位(33.5万枚)
※以後、77年9月リリースの「ボタンを外せ」まで7作続く阿久・三木コンビ作品の1作目。 
北の宿から 都はるみ
 詞:阿久 悠 曲:小林亜星 R:1975/12/01 
 HC:1位(1976/12/06・12/20-1977/01/10)
◆年間チャート(76年)3位(87.6万枚)/同(77年)11位(55.8万枚)
◆第18回(76年)日本レコード大賞受賞曲
◆第7回(76年)日本歌謡大賞受賞曲
◆第5回(76年)FNS歌謡祭・音楽大賞 グランプリ・最優秀歌唱賞受賞曲 
◆第9回(76年)日本有線大賞受賞曲
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞受賞曲

◆第26回・第27回(75年・76年)NHK紅白歌合戦出場曲(11回・12回<紅組トリ>) 
※70年代に入り、安定した人気を確保しながらも新たなヒットに恵まれず、低迷期にあった都はるみにとり久々の大ヒットとなった作品。発売当初は売上は低調に推移していたが、有線放送などでの好評振りや、ほぼ1年を通じてこの曲に全力投球してのテレビや地方営業などの積極的なプロモーション活動、またそれまで得意としていた「はるみ節」と形容される独特の唸り節を極力抑えた歌唱法が功を奏し、発売から5ヶ月を経てからオリコン週間チャートベスト20圏内に入り、発売から1年を経た年末になってようやく彼女自身初となる同チャート1位の座を獲得。この年の音楽賞をほぼ独占したことにより更に注目度が高まり、年が改まって77年に入ってからも引き続き堅調な売上を記録。最終的には足掛け3年で累計143.5万枚を売り上げるというミリオンセラーとなった。

<1976年3月22日(第385回)>
・悪人志願 にしきのあきら
 詞:阿久 悠 曲:(不明)<情報求む> R:1976/01/-
・裏町ブルース 殿さまキングス
 詞:川内康範 曲:北原じゅん R:1976/03/05 HC:63位
泣かないわ 桜田淳子
 詞:阿久  悠 曲:森田公一 R:1976/02/25 HC:4位
ファンタジー 岩崎宏美
 詞:阿久  悠 曲:筒美京平 R:1976/01/25 HC:2位
◆年間チャート(76年)20位(39.3万枚)
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(2回)

<1976年3月29日(第386回)>
■この回の放送をもって三波伸介が番組を降板。同時に「歌謡ドラマ」も終了。
・陽だまりの恋 片平なぎさ
 詞:有馬三恵子 曲:三木たかし R:1976/02/05
・すきま風 三善英史 R:1976/03/-
※杉良太郎の「すきま風」とは同名異曲。
・鬼面児 水前寺清子
 詞:星野哲郎 曲:安藤実親 R:1976/03/-
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(12回)
・淋しがりやのあなたへ シグナル
 詞:西谷一二三 曲:住出勝則 R:1976/03/21(LP)
※LP「淋しがりやのあなたへ」収録曲
<シグナル>
 75年9月、浅見昭男・田村功夫・住出勝則の3人編成で結成・デビュー。デビューシングル「20才のめぐり逢い」は翌76年にかけて、フォーク系の新人のデビュー曲としては異例の累計30万枚を超える大ヒットを記録し、一躍人気フォークグループとして台頭。その後、メンバーの一人であった田村が裏方に回るためグループを脱退し、稲垣達雄がベース担当として新たに加入。「黄昏のあらし」「B・G・Mはため息で」などEP盤を14枚、LP盤を8枚(うち1枚はベスト盤)をリリース。翌84年からは元アリスの堀内孝雄と合流し、「堀内孝雄&ケインズ」という新ユニットを結成、EP「逆光線」で再出発を図るが、翌85年、わずか1年弱で同ユニットは消滅、同時にグループ自体も10年に及ぶ活動に正式に終止符を打った。

【司会】芳村真理・三波伸介(~76/03/29)


(参考)この頃の主な出来事
・03/01 後楽園球場に日本初の人工芝が登場。
・03/02 北海道庁爆破事件起きる。死亡2人、重軽傷者85人の惨事に。
・03/22 「我等のテノール」との異名で戦前から戦後にかけて日本のクラシック・オペラ界を牽引したテノール歌手の藤原義江が死去。77歳。
・03/23 ロッキード事件の渦中の中にあった児玉誉士夫の邸宅に元俳優が操縦する小型飛行機が突入する事故発生。操縦者の元俳優は死亡。
・03/29 第48回アカデミー賞にて、黒澤明監督の「デルス・ウザーラ」が最優秀外国語映画賞を受賞。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(44-2) 1976年1~2月②

2008-05-22 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年


<1976年2月9日(第379回)>

・哀しみの追跡 尾崎紀世彦 
 詞:阿久 悠 曲:井上忠夫 R:1975/12/-
・恋挽歌 ちあきなおみ
 詞:吉田 旺 曲:浜 圭介 R:1976/01/01
・レディ・レイは最高さ! メッツ
 詞:竜真知子<訳> 曲:Pierre Groscolas R:1976/01/-
※原曲はピエール・グロコラ「Lady Lei」(レディ・レイ)。
<メッツ>
74年に「ジャニーズジュニア」第一期生の中心的メンバーであった小坂まさる(リーダー)、畠山昌久、近藤純市、柏木孝夫、吉田義久、鈴木寛の6名により、郷ひろみのコンサートでのバックダンサーチームとして結成された「ジュニア・エース」を前身とする。74年秋に同様の経緯から結成されたフォーリーブスのバッグダンサーチーム「ジュニア・スペシャル」を脱退した山縣孝良が新たに参加(代わって畠山が「ジュニア・スペシャル」へと転籍のため同グループから離脱)。75年春、郷がジャニーズ事務所からバーニングプロダクションへと事務所を移籍した際に行動を共にし、その後、グループ名を郷の命名による「メッツ」に改称(この間にリーダーは小坂から山縣に交代)。76年にユニオンレコード(テイチクレコードのサブレーベル名)から同曲でデビューし、数枚のシングルを発表したが振るわず77年にアイドルグループとしての活動を休止。翌78年、今度は小坂をリーダーとする5人編成のロックバンドとして、レコード会社をRCA(現・BMG JAPAN)に移籍して再デビューしたものの、これも長くは続かず79年に完全に解散した。

<1976年2月16日(第380回)>
・えれじい -哀歌- 小川知子
 詞:杉 紀彦 曲:井上忠夫 R:1975/10/25 HC:67位
立ちどまるなふりむくな 沢田研二
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1976/01/21 HC:8位
・僕の思い出さん 桂 三枝 R:1975/12/-
※「三枝のムラムラ日記」B面。
<桂 三枝>
 関西大学卒業後、上方落語家の”四天王”の一角を担った桂小文枝(のちに5代目桂文枝を襲名)に弟子入りし、同年、京都花月で落語家としてデビュー。1967年、ラジオの深夜放送番組「歌え!MBSヤングタウン」(毎日放送ラジオ)のスタートと同時に、同番組のパーソナリティーの一人に抜擢され、軽妙な語り口やトーク技術が受け、若年層を中心に人気沸騰。以後、この番組のテレビ版として開始された「ヤングおー!おー!(毎日放送)の司会を皮切りとしてテレビ司会者としても台頭。現在も続く「新婚さんいらっしゃい!」(朝日放送=テレビ朝日系)をはじめ「三枝の国盗りゲーム」(同右)、「パンチDEデート」「三枝の愛ラブ爆笑クリニック」(以上関西テレビ=フジテレビ系)など、数多くのテレビ人気番組の司会を担当し、関西No.1司会者としての地位を確立。本業である落語家としては1980年代より「創作落語」に意欲的に挑戦。1983年にはその中の一編である「ゴルフ夜明け前」で文化庁芸術祭賞を受賞するなど、落語家としても創作落語の第一人者として人気を集める。1990年代後半以降は、テレビ司会者としての人気は翳りが生じたものの、本職・落語家への回帰が更に顕著となり、2003年からは上方落語協会の第6代会長に就任。就任早々から目標としてきた関西での定席復活を成就したり、協会の社団法人化、真打制度の復活に向けた協議など、様々な挑戦を続けてきた彼ならではの新たな試みを次々と展開。上方お笑い界の重鎮中の重鎮として多くの後輩らに影響を与え続けている。
「歌手」桂三枝について>
 落語家を皮切りにマルチな活動を展開してきた三枝だが、歌手としても、とりわけ自身が司会を担当していた番組との兼ね合いで数枚レコードを発売している。主なシングル作品としては「夕日のアンジェロ」(69年)、「ひと目あったその日から」(西川きよしとのデュエット、76年)、「面積・ア・ゴー・ゴー」(76年)、「六杯目の水割り」(77年)、「熱海あたりで」(八代亜紀とのデュエット、91年)などがある。
およげ!たいやきくん 子門真人
 詞:高田ひろお 曲:佐瀬寿一 R:1975/12/25
 HC:1位(1976/01/05-03/15)
◆年間チャート(76年)1位(453.6万枚
◆第7回(76年)日本歌謡大賞特別賞受賞曲
◆第5回(76年)FNS歌謡祭最優秀ヒット賞受賞曲
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞特別賞受賞曲
<楽曲について>
①1975年にフジテレビ系の幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」のオリジナルソングとして製作される。当初は生田敬太郎がこの曲の歌唱を受け持っていたが、彼がテイチクレコードの所属であったために同番組関連のレコード盤を発売していたキャニオンレコード(のちポニーキャニオン)からレコードを発売することができない等の理由から、放映開始から1ヵ月後にそれまで多くのアニメ番組で主題歌を受け持っていた子門真人が生田に代わってこの曲を歌うこととなった
②同年12月、子門の歌唱バージョンで「ひらけ!―」関連では2枚目のレコードとしてこの曲のシングル盤が発売されたところ、発売前からの子供やその母親の間での話題性・周知度の高さのみならず、歌詞の内容に童謡というカテゴリーに入る作品ながら、人生の悲哀を想像させる内容が歌詞の中に含まれていたことからサラリーマンの間でも共感を集め、翌年に入って早々のオリコンシングルチャートでいきなり1位に輝き、以後、3月第3週まで11週連続で首位を独占、最終的には累計457.6万枚という驚異的なセールスを記録した(公称では500万枚以上を売り上げたとも言われている)。このセールス枚数はオリコンの調査が開始された1968年1月以降に発売された全シングル曲中最高の記録でもあり、30年以上を経過した今も尚、このセールス記録を抜くシングル作品は現れていない。
③この曲の好評振りを背景に、76年2月には同名のアルバム盤も発売され、これもオリコンアルバムチャートで6種連続首位をキープし、35万枚以上を売上げるなど、当時のまだまだ未開拓の領域でもあったアルバム市場にあって記録的な好セールスを残した。
④同作のB面(但し両A面扱いとの説もあり) はなぎらけんいち(現・健壱)の歌った「いっぽんでもニンジン」。タイトルからも連想されるように「”1”本→”ニ”(2)ンジン」、「”2”足→”サン”(3)ダル」といった具合に巧妙な言葉遊び・無理問答でほぼ全編が展開されるという点からこの曲に対する評価も高く、「ポンキッキ」のオリジナルナンバーの中でも名作の類としてその後20年近くに渡り定期的に番組内でも放映された。
④なお、子門は「アルバイト」としてこの仕事を引き受けた(つまり、歌手に発生する著作権をレコード会社が買い取り、歌手自身は歌唱印税の数%のみを受け取る契約(買取契約という)のみを行い、売上に応じた印税収入を受け取る契約(印税契約)を締結しなかった)ため、記録的なヒットを残しながら、子門の下に入ってきた歌唱印税はわずか5万円にすぎなかった(但し、その後、キャニオンレコードの計らいにより、報奨金100万円と白いギター1本が贈呈された)という。この売上により生じた利益はほぼそのままキャニオン側にキャッシュバックされたことから、莫大な利益を元に同社は後に新社屋を建設するに至ったというエピソードまで残されている。因みに通常、「童謡」というカテゴリーの下で製作・発売されるレコード・CDはこの曲のケースに限らず、概して「買取契約」である場合が一般的である。
<子門真人>
①広告代理店勤務を経て、1966年8月、「藤浩一」という芸名で正統の歌謡曲歌手としてデビュー(ちなみにそのデビューシングル曲「黄色いレモン」は、筒美京平の事実上の作曲家デビュー作として後年知られるようになった)。しかしヒットには恵まれず、わずか1年半で歌謡曲歌手としては引退。その後は作曲家としてGSバンドのLP盤収録曲の作品を手かげたり、アルバイトでテレビのCMソングを歌うなどして一応は音楽活動を継続。71年、特撮ヒーロー番組「仮面ライダー」(毎日放送=NET(現・テレビ朝日)系)の主題歌を歌ったところ、この番組の人気に相乗して異例の好セールスを記録し、一躍人気アニメソング歌手として人気が浮上。そして76年、上記の「およげ!―」が日本歌謡史上最高のセールスを記録し、これまでは顔が見えないところでの地道な活動が続いた彼のメディアへの露出度も一気に上昇。アフロヘアに素朴な風貌、そして歌声は折り紙つき、というインパクトの強さも多くのテレビ視聴者から好感を持って受け入れられた。
②80年代に入ってからも、音楽プロデューサーとして主にアニメ・特撮・子度向けの番組の挿入歌・主題化の制作に関わる傍ら、従前どおりにアルバイトという形で自ら子供向けの歌を歌い、「子供向けソングの第一人者」としての存在感を堅持し続けたが、1990年代に入り、「人間不信」を理由として音楽活動から引退した。
・私の恋人・たいやきくん 山本リンダ
 詞:中山大三郎 曲:穂口雄右 R:1976/02/10
上記「およげ!―」のアンサーソングとして製作。このほかにもタレント・政治家の横山ノックの歌による「がんばれ!たこやきちゃん」などといったアンサーソングも同時期に製作・発売された。

<1976年2月23日(第381回)>
・かたちばかりの幸福 由紀さおり
 詞:杉山正美 曲:木森敏之 R:1976/03/05
・決心 チェリッシュ
 詞:石原信一 曲:中村泰士 R:1976/02/05 HC:22位
・今日がはじめてです 森田恵子 R:1976/01/-
・ああ宮城県 吉川団十郎
 詞・曲:吉川団十郎 R:1976/04/10 HC:37位
<吉川団十郎>
74年、「吉川団十郎一座」というバンドを組み音楽活動を開始。同年、「キューピーちゃん」でヤマハポピュラーソングコンテスト全国大会で川上賞・キャニオンレコード賞を受賞。続いて翌75年には世界歌謡祭にも日本代表で「ママのお誕生日」で出場し、これをきっかけに、76年に本格的にプロアーティストとしてデビュー。同曲のほか、EP「田舎者」・「今夜シャララ」などコミカルな作品を発表。東北弁のアクセントの強い独特の語り口や、田舎の出身という点を前面に押し出した素朴なキャラクターが受け、「11PM」(日本テレビ系)などのテレビ番組にもタレントとして数多く出演し人気を博したが、77年、わずか1年で芸能活動を引退し帰郷。翌78年にアマチュア時代から担当していた地元のラジオ番組「ジャンボリクエストAMO」(東北放送ラジオ)のパーソナリティーに復帰し、ローカルタレントとして東北地方を中心に芸能活動を再開。現在は1980年代より始めた陶芸家としての活動に重点を置いている。
<補足>同曲は元々、正式にプロデビューする前に発売されたライブLP「陽陰者」(75年発表)の中の収録曲の一つであり、事実上はこのLPからのシングルカット作品である。

【司会】 芳村真理・三波伸介

 
(参考)この頃の主な出来事
・02/14 安宅産業が事実上倒産。前年、75年に発覚した子会社・安宅アメリカによるカナダでの石油精製プロジェクトの不振が本社の経営状態をも逼迫したことが経営破たんの直接的な原因であった。
・02/16 上記のコーチャン・ロッキード社副社長の証言のなかで名前が挙がったことから国会より証人喚問の招聘を受けた小佐野健治が、自身とコーチャン副社長の間に入った仲介人の存在についての質問を受けたところ、「記憶にございません」とこの質問への証言を拒絶。このフレーズは後に流行語となる。
・02/29 日本最古の常設映画館、浅草・電気館が閉鎖される。
・02/29 日本最初の実用衛星「うめ」の打ち上げに成功。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(44-1) 1976年1~2月①

2008-05-22 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1976年1月5日(第374回)>
・桜前線 小柳ルミ子
 詞:麻生香太郎 曲:徳久広司 R:1976/01/10 HC:21位
※これまでデビューシングル「わたしの城下町」以来、16作連続で小柳のシングル作品で編曲を担当してきた森岡賢一郎に代わり、同曲では馬飼野俊一がアレンジを受け持った。
・夕陽のスケッチ 天地真理
 詞:宮中雲子 曲:筒美京平 R:1975/12/05 HC:58位
・冬の日の帰り道 アグネス・チャン
 詞・曲:小泉まさみ R:1975/12/10 HC:14位

<1976年1月12日(第375回)>
白い約束 山口百恵
 詞:千家和也 曲:三木たかし R:1975/12/21 HC:2位
◆年間チャート(76年)23位(35.0万枚)
・わかれ雪 伊東ゆかり
 詞:中山大三郎 曲:中村泰士 R:1976/01/01 HC:87位
・女の十字路 細川たかし
 詞:中山大三郎 曲:浜 圭介 R:1976/02/01 HC:15位
◆第9回(76年)日本有線大賞有線スター賞受賞曲

<1976年1月19日(第376回)>
・霧のわかれ 石川さゆり
 詞:西沢 爽 曲:浜 圭介 R:1976/01/01 HC:30位
・二日酔い 梓みちよ
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1976/02/05
◆第5回(76年)東京音楽祭・世界大会 銅賞受賞曲
・花水仙 八代亜紀
 詞:池田充男 曲:浜 圭介 R:1976/01/25 HC:14位
恋の弱味 郷ひろみ
 詞:橋本 淳 曲:筒美京平 R:1976/02/01 HC:4位

<1976年1月26日(第377回)>
・わたしは新妻 殿さまキングス
 詞:千家和也 曲:彩木雅夫 R:1975/12/05 HC:65位
・ひとときのシークレット シェリー
 詞:橋本 淳 曲:筒美京平 R:1976/01/-
・あの人は遠い人 西川峰子
 詞:千家和也 翌:三木たかし R:1975/12/20 HC:33位
・無縁坂 グレープ
 詞・曲:さだまさし R:1975/11/25 HC:12位
◆年間チャート(76年)29位(32.7万枚)
※日本テレビ系ドラマ「ひまわりの詩」主題歌
グレープの解散前最後のシングル作品。この曲のタイトルにもなっている「無縁坂」は、東京都・湯島に実在する坂の名称であり、森鴎外の著作「雁」の舞台となったことでも有名な場所である。

<1976年2月2日(第378回)>
・おんな酔い 青江三奈 R:1975/12/-
愛の始発 五木ひろし
 詞:山口洋子 曲:猪俣公章 R:1976/02/01 HC:10位
◆年間チャート(76年)35位(27.7万枚)
◆第9回(76年)全日本有線放送大賞優秀スター賞受賞曲
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(6回、白組トリ)
・愛の怖れ グラシェラ・スサーナ
 詞・曲:平岡精二 R:1975/09/-
<グラシェラ・スサーナ>
 アルゼンチン出身。10歳のころからタンゴ歌手としての活動を開始し、現地でも実力派として早くより台頭。71年、南米旅行中であった菅原洋一が、偶然見たタンゴ・フェスティバルのステージに経っていた彼女の歌唱力を高く評価し、帰国後すぐに日本に招聘。この約1ヶ月間の日本滞在期間の間にLP「愛の音/グラシェラ・スサーナ」を製作し、翌72年にこのLPとEP「サバの女王」でデビュー。73年に再来日した際に製作されたセカンドLP「ADORO/REINE DE SABA~アドロ・サバの女王」がオリコンLPチャートで220週にもわたって100位圏内にランクインされるという異例のロングヒットを記録。少女期の頃より鍛え上げられた、太く張りのある歌声と母国語の発音が色濃く残った発音で日本語ナンバーをカバーする様は多くの日本人の音楽フリークに強い印象を残すこととなった。この日本での人気の定着を背景として、以降は日本を主な拠点として音楽活動を展開。現在も長野に拠点を構える音楽事務所に籍を置き、毎年日本各地でライブツアーを敢行するなど現役のアーティストとして活動を続けている。


【司会】 芳村真理・三波伸介


(参考)この頃のおもな出来事
・01/06 京都の平安神宮本殿が過激派の放火により全焼。
・01/09 中華人民共和国の周恩来首相が在職中のまま死去。77歳。 
・01/12 大手商社の伊藤忠商事と安宅産業が業務提携契約を締結することを発表。
・01/20 ヤマト運輸、個別宅配サービス「宅急便」の発売を開始。
・01/31 鹿児島市立病院で国内初の5つ子の赤ん坊が誕生。5月に東京の日大板橋病院に転院したのち、9月に退院。父親がNHKの政治部記者であった縁からNHKを中心にこの5つ子たちの成長過程を追ったTVドキュメンタリーが後に数多く製作される。
・02/04 インスブルック冬季オリンピック開幕(~15日)。日本人選手のメダル獲得数はゼロに終わる。
・02/06 米国上院委員会に投書されたロッキード社の機密資料を基に開かれた上院外交委員会・多国籍企業小委員会の公聴会の席上。ロッキード社のA.コーチャン副社長が、200万ドルを日本の政府高官に賄賂として流したこと、児玉誉士夫を介して小佐野健治・国際興行社主と接触したことなどを証言したことから「ロッキード事件」が発覚。日米両政界を巻き込む一大汚職事件に発展。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(43-2) 1975年11~12月②

2008-05-20 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 75~76年

<1975年12月1日(第369回)>
・ひとねむり 南 沙織
 詞:落合恵子 曲:筒美京平 R:1975/11/21 HC:27位
・遠い日 フォーリーブス
 詞:葉月多夢 曲:小椋 佳 R:1975/11/01 HC:41位
・時には一人で いしだあゆみ
 詞:喜多条忠 曲:筒美京平 R:1975/11/10 HC:83位
◆第27回(76年)NHK紅白歌合戦出場曲(8回)
・この胸にこの髪に 浅田美代子
 詞:橋本 淳 曲:中村泰士 R:1975/10/21
・ひとり暮し 憂歌団
 詞・曲:尾関 真 R:1975/10/01
※「おそうじオバチャン」B面。
<憂歌団>
1970年代初頭にアマチュアバンドとして当時高校生であった木村充揮、内田勘太郎、島田和夫、花岡献治の4人により結成。1975年10月にEP「おそうじオバチャン」、続く11月にはLP「憂歌団」を発表し、プロアーティストとしてデビュー。日本では数少ない本格的な「ブルース」を取り扱う音楽グループとして早くより注目され、上田正樹、山下洋輔、RCサクセション、泉谷しげる、マディ・ウォーターズ、原田芳雄といった多彩な数多くのアーティストとセッションを展開したり、1980年代に入ってからは「ブルース」と琉球音楽・レゲエ・ブギといった多様なポピュラー音楽との融合を図った意欲作を発表するなど多岐な音楽活動を展開。デビューシングルであった「おそうじオバチャン」発売1週間で放送禁止となったことでも代表されるように過激な内容やメッセージ性を含んだ楽曲を製作したり、あくまでも生まれ育った大阪に根を下ろし、この地を拠点として活動を続けるなど、異色かつ斬新な活動スタイルを終始貫徹し続けたことも、人気を集める要因となった。98年、大阪・名古屋・東京で行われたコンサートツアーを以て、メジャーデビューから24年に及んだグループの活動に一旦区切りを付けた。
<補足>
①この回での憂歌団のステージが記録上ではいわゆる「4スタ(または10スタ)ライブ」の第1号とされている。
②「おそうじオバチャン」が歌詞の内容に掃除婦という特定の職業に対して差別的な表現が含まれているとして発売直後に要注意歌謡曲(放送禁止歌)の指定を受けたことから、このヒットスタジオ出演時についても「おそうじ―」は披露されていない模様(B面曲であった「ひとり暮し」ではない作品を披露した可能性もあり。情報求む)。

<1975年12月8日(第370回)>
・白い微笑 麻丘めぐみ
 詞:さいとう大三 曲:馬飼野俊一 R:1975/10/25 HC:44位
・ちょっとさよなら 中条きよし
 詞:吉田 旺 曲:浜 圭介 R:1975/12/-
・リリー・マルレーン(Lili Marleen) 淡谷のり子
 詞:Hans Leip 曲:Norbert Schltze R:1975/08/-
※①1915年にドイツの詩人であるハンス・ライプがロシアへの出征を目前に控えている最中に創作した詩集「Das Lied eines jungen Soldaten der Wacht(邦題:港の小さなオルゴール)の中に収録された一編の詩をもとに、1938年、ノルベルト・シュルチェがメロディーを付け、翌39年2月にラーレ・アンデルゼンの歌でドイツでレコード盤が発売。発売当初はほとんどヒットしなかったが(一説では初回プレス盤で売れたのはたったの60枚程度であったともいわれている)、約2年後の1941年、ドイツ軍の第二装甲中隊のとある曹長が少尉に昇格しベオグラード放送局に転属した際に、当時アフリカの戦線に参加していたかつての自身の同僚である中隊の兵士たちへのプレゼントとして、自身が曹長だったころによく好んで彼らに聞かせていたこの曲をかけたところ、アフリカの戦地で話題となり、ドイツ軍兵士のみならず、この放送を偶然聴いていたイギリス軍兵士たちの間でも流行。国家間の軍事的・政治的対立の枠を超越したヒットソングとなった。
※②尚、この曲を最初に歌唱したラーレ・アンデルセンがこの曲の詩の存在に初めて遭遇したのは、出稼ぎのためにミュンヘンのキャバレーやクラブの歌手をしていた頃のことであり、この際に同詩にメロディーをつけたのはシュルツェではなく、ルドルフ・ツィンゲという別の作曲家であった。その後、ベルリンへと活動の拠点を移した際にシュルツェと出会い、彼もまた偶然にもツィンゲとはまた別のメロディーをこの曲の詩に付けていたことを知り、両者の作ったメロディーのどちらをこれから歌っていくか、秤にかけた結果、後者のシュルツェによるバージョンのほうを持ち歌として採用するに到ったという話が残されている。
※③アンデルセンによる歌唱バージョンは、その後、彼女の自殺未遂報道をイギリス・BBCがナチス・ドイツの非道をアピールするための情報戦略の一環として利用されたことの余波からか、時の宣伝大臣・ヨゼフ・ゲッペルスの指示によりドイツ国内での歌唱・放送の一切が禁じられ、以後敗戦が確定するまでこの曲がドイツで流れることはなくなってしまったが、その間に、ベルリン出身のハリウッド女優・マリーネ・ディートリッヒがをレパートリーの一つに同曲を取り入れ、連合軍へ慰問に訪れる際に頻繁に歌唱。連合軍兵士の間でも大きな反響を呼んだ。日本では、戦後、このディートリッヒのバージョンでこの曲の存在が広く知れ渡るようになった。
※④75年、上記のようなこの曲の誕生からヒット、そしてその後の経緯を克明に記した単行本、「リリー・マルレーンを聞いたことがありますか」(文藝春秋、鈴木明・著)が出版され、「戦後30年」という当時の時世も影響して、同曲は日本国内で再び注目を集めるようになった。鈴木の助言を受けてこの曲を吹き込むことを決断したと言う加藤登紀子のバージョンがシングル盤としてこの年5月に発売されたのを皮切りに、淡谷のり子、梓みちよらによるバージョンも相次いでシングル・アルバム盤で発表されている。
・別れのブルース 淡谷のり子 
 詞:藤浦 洸 曲:服部良一 R:1937/07/-
<淡谷のり子>
①1907年、青森県の豪商の家の長女として生まれる。実家の破産を受けて、1923年に母・妹とともに上京し、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。当初はピアノ科に在籍していたが、教師の薦めにより声楽科に編入し、プロのオペラ歌手を目指してクラシックの基礎を学ぶ。途中一家の家計を助けるべく絵画モデルなどのアルバイトに専念するために休学を余儀なくされるも、その後復学し、リリー・レーマンの弟子である柴田稲子に師事し、1929年、首席で卒業。その後、母校の研究科に籍を置きながらクラシック歌手として、プロ歌手の道を歩み始めたが、クラシックだけでは苦しい生計を支えきれず、止む無く流行歌の世界に入り、翌1930年、ポリドールから「久慈浜音頭」でデビュー。これに母校・東洋音楽学校側は憤慨し、「低俗な歌を歌った」として流行歌への進出を堕落と解して、彼女の名前を卒業者名簿から抹消、クラシック歌手としての道は頓挫してしまうが、その後、コロムビアへの移籍(後に一旦テイチクに移籍するが、コロムビアに再度復帰している)を経て、初期古賀メロディーの佳作「私此頃憂鬱よ」(1931年)のヒットにより一線級の流行歌歌手として頭角を現し始める。その後は「ドンニャ・マリキータ」「巴里祭」「アマ・ポーラ」などのシャンソンナンバーを紹介し、日本におけるシャンソンの先駆者としての地位を確立するとともに、「ジーラ・ジーラ」「ラ・クンパルシータ」などのタンゴやジャズのナンバーも多く吹き込むなど、主に海外のポピュラー音楽を中心とした歌手活動を続けつつ、和製歌謡曲の世界でも作曲家・服部良一の代表作の一つ「別れのブルース」「雨のブルース」を吹き込み、これらも立て続けに大ヒット。飽くなき歌に対する探究心により活動の幅を広げ、レパートリーの豊富さ、実力共に女性ナンバーワンの歌手として絶大な支持を獲得するようになった。
②戦後に入ってからも、1950年代にかけて「聞かせてよ愛の言葉を」「君忘れじのブルース」「アデュー」「白樺の小径」などをヒットさせ、戦前・戦中派の女性歌手の中でも別格の存在感を放ち続ける一方、1960年代に入ってからはテレビの人生相談番組の回答者やオーディション番組の審査員などとしても活躍。審査員・コメンテーターとしては、極貧の家計状態ながら苦労して音楽的基礎を学んできたという自身の経験から辛らつとも受け取れる発言も多く、痛快と賛美される声のある一方で、物議を醸すことも少なくなかった。1965年には当時の週刊誌で、国民的番組として全盛のときを迎えていた紅白歌合戦の選考基準や出場歌手の顔ぶれにつき「歌手ではなく歌屋にすぎない」「歌手ではなく"カス"」といった発言で痛烈な批判を展開し、賛否両論を巻き起こした。
③他方で、戦時中、戦地への慰問の際にも、華美なドレスにあえて身にまどい、他のスター歌手の多くが戦時歌謡を歌う中でただ一人、これを拒否して純粋な流行歌を歌う姿勢を通し続けたというエピソードにも象徴されるように、徹底した反骨の人、平和主義者としても知られ、平和を祈願する政治活動にも晩年まで積極的に参加。また、生涯現役の歌手であることに強い拘りをもち、70代に入ってからもコンスタントに新譜の発表や渋谷「ジャンジャン」などでのライブコンサートを毎年開催するなど精力的な歌手活動を展開。「思い出のメロディー」(NHK)など懐メロ番組でも藤山一郎と並び常連として出演を続け、健在ぶりを視聴者にアピールした。
④1993年に脳溢血を患って以降は体調を崩しがちとなり、歩行は困難となり、声量や歌唱力にも著しい衰えが生じたことから、1990年代後半以降、徐々に表舞台から遠ざかってゆく。最晩年は体力も衰えほぼ寝たきりとなり、事実上引退状態であった。そして、クラシック歌手としてデビューしてから70年目に当たる1999年、歌に捧げたその一生に幕を閉じた。享年92歳。
<楽曲について>
①淡谷が「ブルースの女王」という異名を取る契機となった作品であるとともに、和製ポップスの祖として歌謡史に偉大な足跡を残した服部良一の作曲家としての出世作となった作品でもある。晩年、病気で倒れるまで、淡谷はテレビ番組に出演する際にはこの作品を頻繁に披露していたことから、昭和10年代前半に発表された作品ながら、幅広い世代で知名度の高い作品ともなっている。
②外国人相手の私娼たちで賑わっていた当時の横浜・本牧の街をイメージしてこの曲は書き上げられたとされる。そのため、曲が完成した当初は、タイトルは「別れの―」ではなく、「本牧ブルース」とする予定であったという。
③この曲をもらった際に服部から「魂の入った声でこの歌を歌ってほしい」という要望がなされたことや、この曲の音域が低く設定されていたこともあり、いつも通りの高いソプラノの声ではこの曲の持つ情感を巧く表現できない淡谷は判断。レコーディング前夜に煙草と酒を大量にあおり、あえて喉のコンディションを悪くした上で、味わいのある低いアルトの声を作り上げて吹き込みに臨んだという逸話が残っている。

<1975年12月15日(第371回)>
・二人の御堂筋 内山田洋とクールファイブ
 詞:石原信一 曲:中村泰士 R:1975/12/05 HC:44位
・あの人の船行っちゃった 森 昌子
 詞:山口あかり 曲:遠藤 実 R:1975/12/01 HC:22位
センチメンタ 岩崎宏美
 詞:阿久 悠 曲:筒美京平 R:1975/10/25
 HC:1位(1975/12/08-12/15)
◆年間チャート(76年)17位(42.1万枚)
※第48回(76年)選抜高等学校野球大会開会式入場行進曲

<1975年12月22日(第372回)>
・傘 橋 幸夫
 詞:結城しのぶ/佐伯孝夫<補作> 曲:吉田 正 R:1975/09/25
・恋はまぼろし 鶴岡雅義と東京ロマンチカ
 詞:高村貴士 曲:藤本卓也 R:1975/11/-
ゆれてる私 桜田淳子
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1975/11/25 HC:4位
◆年間チャート(76年)39位(27.0万枚)

<1975年12月29日(第373回)>
・カモン・ベイビー 林 寛子
 詞:千家和也 曲:穂口雄右 R:1976/01/10
・放浪ヨコスカ 和田アキ子
 詞:悠木圭子 曲:鈴木 淳 R:1975/12/20
・ハートのエースが出てこない キャンディーズ
 詞:竜真知子 曲:森田公一 R:1975/12/05 HC:11位

【司会】 芳村真理・三波伸介 

(参考)この頃の主な出来事
・12/06 安宅産業の子会社である安宅アメリカの経営危機につき、大蔵省(現・財務省)・日本銀行が救済に乗り出す。
・12/10 三億円事件(1968年発生)の時効が成立。
・12/14 蒸気機関車が牽引する最後の旅客列車が室蘭本線の室蘭~岩見沢間で走行。同24日には同じく蒸気機関車牽引式での最後の貨物列車が夕張線(現・石勝線)の夕張~追分間を走行。ここに1872年の鉄道開業以来100年以上にわたり続いてきた、日本における蒸気機関車の歴史に幕が下りる。
・12/21 ウィーンのOPEC本部に武装ゲリラが乱入、サウジアラビアのヤマニ石油相らを人質に占拠。23日、ゲリラはアルジェリアで投降。
・12/22 クロロキン網膜症患者ら原告231人が国と製薬会社を相手取り、東京地裁に64億円の損害賠償請求訴訟を提起。
・12/31 第18回日本レコード大賞に布施明「シクラメンのかほり」。最優秀歌唱賞は五木ひろしが「千曲川」で2年連続受賞。最優秀新人賞は細川たかし「心のこり」。