伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【緊急特集】ダン池田さん、逝く。

2008-02-22 | 夜のヒットスタジオ/番組の要素・魅力

この「夜のヒットスタジオ」の演奏バンド、「ダン池田とニューブリード」のバンドマスターとして、番組全盛期を支えたダン池田さんが昨年12月25日にお亡くなりになりました。 ここで、哀悼の意を込めて彼の歩んできた経歴を振り返ります。

1935年、ダンさんは現在の韓国・ソウル市で産声を上げました。戦後に入ってから、父親の郷里である長野市に引揚げてからは、父親が銀行員であったこともあり全国各地を転々。その中で、中学生時代の恩師との出会いがその後の音楽家人生を決定つける第一歩となったそうです。

1952年に北海道の留萌高等学校に入学。同高校時代にはブラスバンド部を自らが中心となって創立されるなど、その後遺憾なく発揮されることとなる「ニューブリード」の絶対的なリーダーシップはこの時代からその片鱗を見せていたようです(尚、この高校時代の同級生には作曲家の森田公一がいます)。

1955年に上京、中央大学に入学しますが、プロのミュージシャンになるというかねてからの夢を捨てきれず在学中から、ラテンバンドのトランペット奏者としてプロミュージシャンとしての活動を開始。1963年には若干27歳にして独立し「ダン池田とアフロキューバンド」を創設。そしてこのバンドを母体に、1969年にはジャズのビッグバンドとして「ダン池田とニューブリード」を創設。それから程なくして、「夜ヒット」がカラー放送へと切り替わると同時に番組専属の伴奏バンドとして抜擢され、後発バンドながら、「小野満とスイング・ビーバーズ」「森寿男とブルーコーツ」「高橋達也と東京ユニオン」などと共に歌謡番組黄金時代を象徴する人気バンドとして視聴者にもおなじみの顔となってゆきます。

1972年からは通算13回にわたり「NHK紅白歌合戦」の紅組演奏担当に抜擢(1974年のみ「原信夫とシャーブ&フラッツ」が担当)され、名実共に実力・人気No.1のビッグバンドとしての地位を確立しました。 また、ダンさん自身、そのキャラクターの軽妙さもあり、単なる一指揮者・バンマスという立場を超えて、タレントとしても活動するようになり、「オールスター家族対抗歌合戦」では審査員、「スターどっきり(秘)報告」ではレポーターとして出演、初期の「夜ヒット」でも人気コーナーだった「歌謡ドラマ」では構成の塚田茂と共に「コメディー要員」としても活躍していました。

本業のバンマスとしては、やはりラテンバンドの出身者らしく、他のバンマスよりも指揮のスタイルはリズミカルかつ派手で、それに釣られるような形で「ニューブリード」のメンバーたちも他のビッグバンド以上に抑揚感・臨場感のあるクオリティーの高い演奏を展開。華やかしき「夜ヒット」黄金期の番組イメージの構築という点において、司会の芳村真理の派手な服装、スタッフたちの過激な演出スタイル、出演者層の幅広さとならび、彼らの演奏、そしてダンさんのあの独特の指揮スタイルも外す事が出来ない要素であったと私は思っております。 以前CS再放送で流れていた「ラテンの女王」坂本スミ子の十八番「エル・クンバンチェロ」の演奏(1976年10月4日放送)などは、見ていてホントに「シビれる」の一言で、このバンドの実力の高さを改めて再認識した次第です。

そんなような感じで1980年代前半まで歌謡番組お馴染みの存在であったダンさんですが、1985年3月、「夜ヒット」が二時間番組に拡大するのを機にバンドマンスターから降板(但し、「夜ヒット」以外の番組については「ニューブリード」のリーダーとしての活動を続けていたそうです)。当初はその降板理由は「体調面での問題」とだけ説明されていました。

 しかし、同年11月、「テレビ音楽番組から生演奏が消えていきつつある風潮に対する警告」という名の下に、芸能界暴露本のハシリともいえる『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』という本を出版。この本の中で、「夜ヒット」の本当の降板理由が「ギャラと待遇の悪さ」であったこと、また司会の井上順、芳村真理をはじめ主要な出演者をほぼ実名で批判(一度図書館でこの本を呼んだことがありますが、内容の大半が「ヒットスタジオ」に限定した長年の不満の吐露といった雰囲気が強く、信憑性が定かでない記述が相当に多いので、厳密な意味での、つまり真実を何の脚色もなくありのまま書いた本という意味での「暴露本」とはニュアンスがやや異なると思いますが…)。 その内容の過激さから70万部を売上げるベストセラーとなりますが、実名での批判により人気歌手・タレントを数多く抱えている大手のプロダクションや放送局各局からは強い反発を受け、半ば「追放」のような形で、「ヒットスタジオ」以外の出演番組からもフェードアウトを余儀なくされ、また「ニューブリード」の活動自体にも支障を来たすようになったことから、バンマスの座もこの年12月には元GS「パープル・シャドウズ」の小田啓義に譲り、自らは「ニューブリード」からも完全に決別。 こうして、彼は一瞬にして表舞台から姿を消すこととなります。

その後も住まいのあった埼玉県を中心に、カラオケ教室を開いたり、バーを経営するなど細々と生計をたてていたそうですが、1998年に脳梗塞を患って以降は体調を崩しがちになり、自宅療養と入院を繰り返しており芸能界とのつながりはほぼ断絶していたようです。 あれだけの名声を誇ったバンマスにしては何とも淋しい晩年。彼の人生はまさに絵に描いたような「栄光」と「挫折」の一生であったといえるかもしれません。

ただ、その「挫折」の契機を作った暴露本の出版については、生前、常にこれを悔いるような発言をしなかったそうです。たしか数年前に日本テレビ系で「あの人は今」のような番組に出演されたことがあり、そのときもそんなような趣旨のことを言っておられたような記憶があります。 それだけ業界全体に対する不満もあったのでしょうし、ご本人のお気持ちとしてはもう「芸能界にいることの必要性」を感じられなくなっており、干されても構わない、といったぐらいの「決死の覚悟」を持ってこの本を書いたといえるのかもしれません。そう考えると、我々が思っている彼の晩年に対する「挫折」というイメージと、ダンさんご本人が抱いていた晩年の過ごし方・生き方に対する考えには実際には開きがあるのかも…。 ただ、番組フリークとしては、やはり暴露本出版という「攻撃」的態度はあったとはいえ、番組全盛期を語る上ではまず外すことの出来ない存在であったこともまた事実なわけで、その意味では、これで完全に彼の独特な力強い指揮スタイルを拝見することも過去の映像だけになってしまったという点で淋しさを感じます。

恐らく4月辺りからまた1976年頃のものにCS再放送の時期が戻るはずですので、これからはもう絶対にリアルタイムで見ることが出来ない「ダン池田」の指揮の雄姿も是非多くの人に注目してほしいところです。

暴露本によって霞んでしまったともいえる彼の音楽家としての実力の高さをあの指揮スタイルを通じて再認識してください。 とにかく、ヒットスタジオフリークの一人として番組功労者のダンさんには「お疲れ様でした」と言いたいと思います。ダンさんのご冥福をお祈りいたします。合掌。