青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
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地震から女性・子ども・お年寄りを救う 第Ⅱ部
1995年1月17日に起こった阪神大震災で、地震のどさくさに紛れて多くのレイプ事件が起きた事に怒りを感じた。このレイプ事件を調査したのが、性を語る会代表北沢杏子氏のレポート。 そして、1月~3月のレイプ事件のあと、4月~6月は「中絶」へと女たちの災害は続いたのです。 なぜ、レイプ事件はおこるのか? 
いま再び、怒りをもって10年前のことをここに記しました。



連合会のコメント
この話は関西にいる仲間から良く聞いた話だ。しかしメディアは事実を知っていても表には出さないし、警察も大震災の最中のゴタゴタにそういう犯罪があっても捜査をするところではないだろう。皆人命救助にかり出されているから絶対無理だ。またある大きい機関の人の話しも現実にあった。今回の東日本大震災の時も刑務所から犯罪者を逃がした事件など。しかし東京千葉神奈川がM8の大地震を受けたらとても東日本大震災や阪神大震災の比ではない。大暴動に近い位の色々な犯罪が起きると思っている。当然レイプ事件も数えきれない位起きるだろう。



北沢杏子さんの紹介
北沢杏子(きたざわ きょうこ、1929年11月23日 - )さんはフェミニズム活動家・性教育実践家である。埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。実践女子大学国文科、舞台芸術学院、東京綜合写真専門学校卒業。2007年現在、東京都世田谷区在住。アーニ出版共同代表、性を語る会代表。



皆さん北沢杏子さんの調査に疑問を持たれた方もいたでしょう。しかしこの話は事実、あった事は間違いない。今回、危機管理のスペシャリスト佐々淳行さんの、ほんとに彼らが日本を滅ぼす、という本に書かれてあった中に、危機管理は①自助②互助③公助の三段階からなる。その「自助」ないし「互助」の方策として「自警団の編成」があげられる。



1995年1月23日、阪神淡路大震災の被害にあった神戸市にアメリカ最大のNGO、アメリケアのボランティア十数名がノースウェストの特別機で飛来した。被災地を歴訪していたとき、一人のアメリカ人女子大生が被災民の集団を見回して訝しげにたずねた。「なぜ日本の若い男たちは、膝をかかえて私たちの援助を待ってるの? いろんな国の災害現場に行ったけど、どこでも若い男たちが自分の家族、恋人など老幼婦女子を守るため、『自警団』を組織し、私たちボランティアと行動を共にするわ、とくに女性を暴漢から守るのは男性の義務でしょ?」



この質問には、まいった。みると、本当に若い男たちの無気力、不作為がとても目立つ。
のちに、ある会議で同席した神戸市の婦人局長は「誰も公になるのを恐れて被害申告しませんが、阪神大震災ではセクハラが沢山ありました。みんな暗数になっていますが、なぜ日本の男性は、不良達から自分の姉妹や恋人をも守ろうとしないのでしょうか?」と発言した。「男の方々が誰も言わないなら、私が申します」と怒りをこめての発言だった。なるほど、この問題は幾多の検討会議でとりあげられたことがない。爾来私は、機会ある毎に「消防団、青年団、JC、交通安全協会などの有志で、女性を守る自警団を組織しなさい。警察はすべての避難所まで目が届かない。竹刀ぐらい持って複数で夜回りしなさい」と指導してきた。



今回の被災地は、過疎高齢化の農漁村が多く、屈強な青壮年が少ないのかもしれないが、「自警団」の編成は「自助」の典型である。警察に相談すると「警察に被害届を出してください。私力救済は処罰される事もありますから自警団はどうかと思う」と答えるに決まっている。だが、女性の敵の不良たちを竹刀で打ち据えることは一向に敵わないと、私は思う(ゴルフ・倶楽部、木刀はやめた方が良い)。だが、自分一人だけではやらないこと。必ず複数でパトロールすることが肝要だ。



とにかく民主党は閣僚経験もない素人集団だ。その為、東北大震災で起きた大被害の為に、多くの人災も含めて日本は戦後最大の窮地に陥った。そこへもって危機管理の経験もない民主党の菅政権によって、ズタズタにされてしまった。特に福島の原発の問題は良い例だ。これではっきりした事は、民主党にはプロの危機管理の政治家がいなかった事だ。だからその時に菅政権は危機管理のスペシャリスト・佐々淳行氏に全てを任すべきだった。そうしたらあれほどの大混乱はなかった。国民はこの先どうなるのかと不安が一杯だったに違いない。おそらく今後、佐々淳行さんのような危機管理のプロは二度と出てこないでしょう。



佐々 淳行 氏
初代内閣安全保障室長
1930年(昭和5年12月11日生まれ)
略歴
■1954年(昭和29年)3月 東大法学部卒業
■1954年(昭和29年)4月 国家地方警察本部(現警察庁)入庁
■1954年~1965年
 警視庁、警察大学校(助教授)、大分県警、埼玉県警、大阪府警、警察庁等に赴任
■1965年(昭和40年)2月 在香港日本国総領事館領事
■1968年~1975年 警視庁・警察庁
 1968年7月に帰国後、警察庁・警視庁の調査・外事・警備課長、 監察官などを歴任
■1975年(昭和50年)8月 三重県警察本部長
■1977年(昭和52年)2月 警察庁刑事局参事官
■1977年~1986年 防衛庁出向
 防衛審議官、教育参事官、人事教育局長、官房長、防衛施設庁長官を歴任
■1986年(昭和61年) 内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長
■1989年(平成元年) 昭和天皇大喪の礼を最後に退官


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