青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
子どもは日本国の宝|私たちは【子どもをいじめと虐待、性犯罪から守る】為にあらゆる方法を講じ解決にあたります





きょうは彼岸の中日。明日は午前10時半からお墓参り。じっくりとお墓に入っている両親と話して来るつもりです。そして私は親孝行したのか、それとも親不孝をしたのかと、今でも、悩んでいるので話しかけて来ます。また両親は誰にでも自慢が出来る親だと今でも思っています。昔の親は私の知ってる限り、みんな子どもの為に一生懸命働き子育てをしていたが、それに対し親に対し心から感謝をしたのは自衛隊に入って数か月後から徐々に考えるようになった。


       (父親が撮影した旅の写真)

別にホームシックにかかっていなかったが、学生時代は親の言う事も聞かず、良く遊び世間からは不良少年と呼ばれ、悪い事はしなかったが喧嘩はよくやりその都度、母親が相手の家に謝りに行ったり、とにかく夜遊びは連日しかし学校は行っていた。その内、母親は自分を外出をさせないように最初はウサギとかニワトリ等を飼い始め、私に世話をするように言って来たので、別に動物が好きだったので、仕方なく世話をする事にした。しかしそれでも外出するのでついに大きな小屋を作りヤギを連れて来た。



とにかくみんなの草を取りに多摩川の土手に毎日行くようになり大変だった事と今度は母親が学校に来て私の後ろで一緒に授業を受けるようになった。最初は恥ずかしかったが、それが評判になり話が大きく広まって、多分読売新聞だと思う大きく新聞記事に出た為、川崎では話題になった。それからしばらくして母親は学校に来なくなった。今でも母親の優しい顔を思い出す。それに今度は父親から空手をやれと、巻き藁を作り毎日2時間位突きや蹴りの練習ばかり。しかし後々この練習が役に立った。それは別にしても18才で傷害事件を起こし警察に逮捕。



それから母親は新宿にある東宝芸能学園の年一回のニューフェースに応募。写真で合格。そして二次試験の面接などをして合格。しばらく通ったがとにかく色々な勉強をしなければならなかったので途中下車。そして新宿で遊ぶようになり、父親がたまらず知り合いの検事さんと話をして、私を自衛隊に入れる事を勝手に決めた。そして仕方なく自衛隊に入隊。それからが私の人生の新たな出発が始まった。もし自衛隊に入っていなかったら、自分の今はいない。そこから自分の新しい門出の始まりだ。やはり親から離れると甘えてた訳ではないが、両親の事を思い出し、色々心配をかけた事を思い出す。



そうすると自然に親に感謝をしなければと、元々私は酒もたばこも遊びもやらない人間。毎月給料を貰えば親に送金をした。
その間に親から毎月5回位は手紙を送って来たので、私も色々自衛隊での生活等を書いて送った。そして自衛隊を満期退職して、実家に戻った時にはどんなに嬉しかったことか。親子水入らずで午前様まで話した事を思い出す。私が送金したお金を母親が全部貯金していた。そこで改めて母親の優しさを知った。両親は私の生まれ変わった姿を見て、本当にうれしそうだった。



それから数年経ち妹が結婚して子供が4人も出来、手伝いに行くようになり、そのまま自分のアパートと妹の新居との往復で、母親は忙しく自分のアパートを人に貸し、母親が妹の家に同居し、私は父親と一緒に実家に住むようになった。
父親も大手の会社を定年退職してから地域のボランティア活動をしながら、数ケ所のいこいの家等でダンスを教えていた。私は私で地域の青少年達に無料で空手の指導をしながら、子供のいじめや自殺の撲滅活動をしていたので、忙しい中で中々父親との会話も出来ず、その代りに父親に対し日本中を旅行して見たらと聞いたら、父親も喜んで私の考えを受け入れてくれた。


父親はそれから友達を誘ったりダンスのグループで、北海道・本州・四国・九州と全国を約15年位かけて、自家用車とか観光バス等で全国を旅をしながら父親が撮った写真は1千枚を超えた。その写真を整理しながら旅先の情景と一緒に楽しんでいる父親の姿を想いながら、集めた写真を分類途中で皆さんに見て貰おうと撮影しました。そして今回投稿しました。それから亡くなる前、5年間は父親の介護。最初は大した事はなかったが、段々と歩行する事が難しくなり、周りから特別老人ホームを友人から勧められたが、それは私自身どうしても出来なかった。



 一番最初何が大変だったかと言うと、お風呂に一緒に入って体を洗う事を、父親は最初恥ずかしいのか嫌がっていたが、その内慣れてきていつも風呂から出る時は、悪いねとか申し訳ないとかその言葉が一番辛かった。その度に親子だから当たり前だと話しをしながら身体を洗ってやったりしてやった事を思い出す。とにかく2階の下は会社なので、絶えず食事以外でも時々見に行っていた。
る日いつも見ているテレビの音が中々止まないので、2階に見に行ったら父親が亡くなっていた。まだ体は体温があったので119番で救急車を依頼。



すぐに来てくれたがすでに遅かった。父親の枕元の柱には非常ベルが付いていたが、鳴る事はなかった。静かに眠るように亡くなっていた。それから葬儀をし父親をお墓に入れる気持にもなれず、長い期間、自宅の2階の大きな仏壇の前に骨壺を置きながら、毎日線香をあげ父親にザンゲ。皆からはもういいんではないかと言われたが、まだお墓に入れる気持ちにはなれなかった。何故お風呂に入れたり食事を持って行ったときに、もっと父親との会話が出来なかったのか、今でも後悔している。



良く聞く話で親に、孝行したい時には親はなし、本当に昔の人達の言い伝えは本当にその通りだ。とにかく優しい、いい父親だった。
今考えても良い父親だった。もし私がボランティア活動を一切していなかったら、もっと父親と楽しい事が出来たのにと、ただ一言ごめんなさい。そして仲間や私がいずれはお世話になる正福寺の住職からも、もうお墓に入れても良いのではないかと言われ、5ヶ月前にお墓に納骨をしましたが、まだまだ今でも父親や母親の事を思い出すとやり切れません。ここで皆さん、私のやって来た事が本当に親孝行だったかどうかを教えてください。何か自分自身が割り切れません。

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(子どもを守り隊の金澤義春会長の川崎の黄門様)



[中原署 ちかん事案の発生について]
[2013-09-10 16:30]
[川崎市中原区上新城付近]
帰宅途中の女子児童が、後方から来た男にお尻を触られる事案が発生しました。女子児童が大声を出すと男は逃走しました。
身の危険を感じたら防犯ブザーを鳴らす、なければ大声を出して助けを求めましょう。
[犯人像]
年齢30~40歳位、体格小柄、灰色Tシャツの男

[警察本部 注意喚起について]

夏休みも終わり、学校生活が始まる時期となりました。
保護者の方は、お子さんと一緒に通学路の周辺の危険な場所や、いざというときに駆け込める「子ども110番の家」を確認しましょう。
また、「出かけるときは、誰とどこへ行くか、何時に帰るかを言う」、「一人で遊ばない」、「知らない人にはついて行かない」、「危なくなったら大声で『助けて!』と叫んで逃げる」などの安全の約束についてお子さんと話し合い、事件や事故に巻き込まれないよう指導してください。







君が代
 
http://youtu.be/8iuYxdXFPbc