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日記。

去年を振り返って

2012年11月20日 | Weblog
今月の最初に放送大学に卒業研究を提出しました。
まだ面接などがあるので詳しいことは後日報告したいと思いますが、「臺灣風俗誌から見た台湾」という題で書かせていただきました。去年から今年にかけて台湾の方々との交流はとても貴重な体験でした。
改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

片岡巌の曽孫、台湾にて、原子力発電に反対する呉慶年教授に出会う。
台湾に11・9から4泊5日で行きました。大変楽しく密度の濃い旅でした。詳しくいずれ皆さんに報告できると思いますが、取り急ぎ台南の成功大学にて夜の不思議な古老との出会いについて...

一年前のブログに感想文を書きました。

2012年09月28日 | Weblog
片岡巌と台湾語研究会

台湾風俗誌と僕。小さな頃、何故かキョンシー映画がすきだったぼくは、小学校の頃は少林寺拳法を習い、一つ上の姉がいたからと言う理由で自由の森学園に入り、中学校と高校時代を過ごす。...


全く同じようなところで行ったり来たりしているようで、もうすでにはるか遠くに来たような気もする。
相変わらずの毎日だけど、今は仕事と勉強の時期だ。過去は10年後に振り返る事にして、現状だけ記録しておこうと思います。
卒業研究の論文を11月6日までに書き終えること。
大学院の入試10月7日

バンドはしばらく休憩でも練習だけは続けて行く事。
辛島さんのドラムと嶋さんのギターでなにかやりたい。
家賃28000円の仮事務所を借りて勉強部屋を作る予定。
ほかにたくさんのご恩を受けたお返しをしたい。
以上今月の目標でした。

片岡巖の友人は?

2012年09月05日 | Weblog
僕にも友人がいる、
ちゃっかりしているやつもいれば、ずーっと見守っていてくれるような友人。。
多くの友人がいて僕がいる。
片岡巖だって、友達くらいいただろう。

台湾風俗誌を出版するのも友人の勧めだし、
書き上げるのだってきっと一人では書ききれない。
調査は一人では出来ないし。また、風俗誌の定本となったような本もあっただろう。
福島の友人、
明治29年に仙台から台湾に守備隊としてきた時の友人、
憲兵として転々としながらも、通訳として現地の人との友情、人情に触れたこともあっただろう。
また同じような興味を持つような人もいただろう。

台湾日日新報とは、薩摩派の台湾新報と長州派の台湾日報が合併した
最盛期5万部を発行する台湾の最大の新聞で、その新聞を中央の言論だとすると、
片岡の考えは色々な周辺の言論でもあったのでしょうか。

京都出身の森丑之助のような人にもまた片岡巖は、影響を受けただろう。

森は台湾原住民の研究者で、大正期に台湾原住民の研究では日本、台湾に於いて森にかなうものはいない
森と片岡は、手元に決定的な資料は無いが、おそらく、面識は有ったであろう。

片岡1876年生まれ、森も1877年生まれ、
年も近く、どちらかというと、
どちらもあまり恵まれた境遇とは言えない環境から、
新天地を目指して、期待を膨らませた。
若者たちの胸の中に、躍る夢は何だったのだろうか?
通訳としての台湾と日本の架け橋になり、また自分たちの眼でみたものを、公平な立場から伝えようとした。。

日本人と原住民の架け橋となった森丑之助の生涯は、最後は船から身投げをしてしまう。
(大正15年1926年7月)
原因は研究著述出版のための資金援助の打ち切りと、未帰順蕃のブヌン族シブクン蕃を政府の攻撃から安全な場所に移住させようとした「東埔楽園」移住計画の頓挫のための深い鬱病であったと言われる。


人類学のもつ特性、文明批評としての眼。台湾から見た日本。
植民地政策のために安易に命をすてたとは思えない。
政策が政策であったために、自分の命をかけて血を通わそうとした。
それは、まさに武士道とも言えるだろうか、そしてまた台湾原住民の心とも同じと。

その後、痛ましい霧社事件のことを知らずに、
森に続いて片岡も昭和5年にマラリアにて、この世から去っている。

彼らは自らの命をかけて

日本と台湾の架け橋を次の世代にわたして、、。

7月27日に拓殖大学を訪問しました。

2012年08月05日 | Weblog
森永信光の家族で写っている写真を、郵送で百年史の担当のS教授へ送らせて頂きました。
7月27日 金曜日、平日の休みを利用して、拓殖大学に行って校舎を観てみようと思いました。
茗荷谷から歩いて徒歩、6分ぐらい。校門をくぐると、正面に新しい校舎があり、
垂れ幕でロンドンオリンピックに出場する選手の名前が書いてありました。

そう。拓殖大学はすごいスポーツ選手を沢山出している事でも有名です。
右手に立派な古い建築が綺麗な状態で残っていました。
(昭和初期の校舎を保存して新たに修築してあるそうです)

その古い建築がシンメトリーになっていて、とても綺麗でした。
正面玄関の右手に桂太郎先生の像もあります。
自動ドアを開けて中に入ってみると、中は空調が効いて涼しく、明かりは新しいシャンデリアです。
案内板に百年史編纂室と書いてあった。
S教授にまだ、お会いしていないので、もしかしたらいらっしゃるかもしれない。
ぜひお会いしてみようと、突然ですが、何の用意も無しに、
階段を上がり3階に行き、ドアを開けてみました。

中には、数名の先生が机に向かっていましたが、突然の訪問者に快く対応していただき、
手を休めて小一時間ほど台湾と拓殖大学の関係の歴史を教えていただきました。
S教授は今日はお休みでしたが、他の先生方から、貴重な本や資料を頂いたり、卒業生たちの事や、
文章を書く時の注意するポイントなどいろいろな教えていただきました。

信光が居た第一期の頃は、校舎は別のところにあり、その古い頃は写真は無いのですが、
絵が2階の廊下に飾ってありました。洗い直して、描いたばかりのような鮮やかな色を出している油絵は、
校舎裏の倉庫に長いこと眠って居たそうです。
そのあと校舎をぐるりと見学して、夕方までゆっくり、考えにふけったり、
改築中の校舎をみたり、道ゆく学生たちの中に息づく校風みたいなものを感じ取ったりして、、、。

わからないことがあったらいつでもいらっしゃいと言って頂いたので、
信光の手紙や日記を持ってぜひまた、伺いたいと思います。
帰り道はぐるっと寄り道して拓殖大学の国際教育会館にも行きました。
こちらも素敵な建物でした。こちらもまた伺いたいと思います。

森永信光のこと

2012年07月14日 | Weblog
先週のお昼に家の方に拓殖大学の方から電話で連絡が来た。
そして
昨日、
S教授から大学の歴史を綴った

「拓殖大学百年史(大正編)」が自宅に届いた。

さっそくページを開いて見ると、

台湾協会学校から始まったその歴史
その第一期生である森永信光は明治33年に入学,36年に卒業後.台湾総督府外事課に就職。
その後、東石郡の郡守として大正9年から地方分権「五州三庁制度」の一端を担う。
大正12年4月に退官し帰国。
とここまでちゃんと書かれていたが
その後の事がよくわからないというので、ご質問を受けたが、
僕も本人ではないのでよくはわからないので推測や憶測でしか言えなかったが、
きちんとデータから出ているところはお伝えした。

その頃の拓殖大学は、
桂太郎が創立者で、後藤新平や新渡戸稲造なども名前が出てくる。
まあ、その人たちが信光のことを知らないとは思うけど。
でも学生の数は少なかったから知ってたかもしれない。
信光は帰国後、日本では、
福井にて老後を過ごすつもりであったが、空襲にて妻と長女を失うと、次男の神戸のところに、そして福島の長男のところで過ごした。
仕事も何かといろいろとやろうとはしていたが、
神官の資格を取り、戦争や震災で亡くなった方の供養をして回り、晩年は囲碁と文学と酒を愛していた。

S教授とはお互いに意見を交換し、推測を修正をして頂いたり。
お互いにこれからのことを考えると、あと十年後には日本も台湾も戦時中の事を知っている人がほとんどいなくなってしまう事。だからなるべく急がなくてはならない、、、。
今でさえ90歳の台湾で日本人と一緒に暮らしていた人だって、子供の頃の記憶があっても、
当時のことを正しく理解できていたかはわからない。さらにその後の未来を考えると不安になる事は多い。



第1章 台湾人の出産

2012年06月12日 | 台湾風俗誌
台湾風俗誌 第一集

第一章 台湾人の出産




第1節 病囝 (ビイキア)つわり

婦人懐胎の始めを病囝 と称する、これ内地(日本の事)の「ツワリ」なり、病囝 婦人の身体生理状態は内地婦人のツワリと異なるところは無く、唾液は頻りに出て酸味を欲し時々頭痛あり、又悪寒嘔吐を催し、心気万事に懶き等皆同じ。



第2節 迷信

病囝 より臨月に至るまでの間、衛生上の注意としへて別に記すべきことなし、ただ迷信的注意が二三あり、胎児は胎神(タイシヌ)なる神の支配を受け居るものなれば、若し此の怒りに触る時は胎児を奪われると云う。
この胎神は妊婦の居住する家屋内に在りて或時は箱、或時は桶、籠などいずれの所に居るや一定せず、もし不知の間(知らない間)に妊婦が此らに触る時は、胎神怒りて妊婦を病ましむ、此時妊婦は道士と称する祈祷者を呼び来り、「安胎」(アヌタイ)と称する祈祷をなす、道士は病囝 者(妊婦の枕辺)にて鉦笛を鳴らし数時間にわたって読経した後ち符(フ)と称する呪文を書きたるものを床柱或いは門柱に貼布し、尚お呪文を唱えつつ、湯または水を飲ましめ、之を以って胎神去り、胎児安全を得たるものとなす風習あり、
又「換斗」(オアタウ)という語あり、これ己に懐胎せる胎児を祈祷の結果女の子または男の子に変胎せしむるものなりと云う、その方法は先ず「青瞑」(セエメエ)と称する盲目の祈祷者又は、道士に請い、米桝に根ある芙蓉花を植え祈祷者と共に神廟に持ち行き、牲醴香燭を供え、道士神前にて読経し、婦人はその傍らに香を焚き紙を焼き(銭紙と称するもの)三跪九拝し心中に換斗(変胎)を祈り、数時にして家に歸る。これより三日間室内に於いて祈祷を繼續し、のち芙蓉花を庭前に植え以て變胎し終わりたるものなりと言う。
此時詣づる廟は臨水婦人廟(リムツイフジンビオ)又は「註生娘娘」(ツウシイニウニウ)の廟にして此れ等の神は胎児を授けるの神なりという。
妊婦室内に於いて物品を縛する時は手足灣曲せる俗に茗荷児(ミョウガジ)なるもの生ず、又剪刀を以て挟む時は無耳児(ムジジ)生じ、錐(きり)又は針にて物を貫けば盲目児(モウモクジ)、物を焼けば焼爓児(ショウランジ)、傀儡戯(クワイライギ)を観れば無骨児(ムコツ)、牛を牽く縄を跨ぐ時は12ヶ月にして児生まれ、喪家の演出したる芝居を観れば不吉なりと言う、又夜間外出すれば黒虎神に触れ必ず凶あり、盂蘭盆会(ウラボンエ)の時妊婦の腰桶を庭前に露出する時は普度公(ポオトオコン)の怒りに触れて凶あり。死人の棺に触れるれば、児夭折(ジヨウセツ)すると云う(其他迷信の部参照)



第3節 男子系統主義

何れの国の人と雖も出生を慶び、子孫を愛し、其増殖繁栄を希うは人類の通情なり、特に支那人種に於いて甚だ深きものあり、其亜流たる台湾人に於いて又異なる所なし、之れ古来より宗桃継承及祭祀(ソウテイケイショウサイシ)の制度を重んじたるに起因すべきも亦原則として系統主義にしてその系統に非ざるものは其宗桃(ソウテイ)を祭を得ず且つ男系主義にして宗を承け祭りを繼ぐものは必ず男子なり又嫡長主義にして長を尊び幼これに次ぐ又直系主義にして父の後を襲うものは子、子の後を襲うものは孫ならざるべからずと云うに起因するものなるべし、そうして婦女懐胎するときは常に孕婦の身体を安静にし精神の異常の感動を與へ身体に過度の勞を与うる如きを戒む、昔は儒教の教義により胎教と稱し、古人の教育を重んじ、胎内に在るときより已に其端を開く教育、即ち挙止端正に其見聞する所悉く禮(レイ)に合わしむる等の事ありしも今の台湾に於いては見る能はざる事なり。



第4節 臨月

臨月に近づけば産婦の房中は介抱の婦人のみ出入りし他人の往来を避けるものとす、但し下流の婦人は朝に田野に出で、夕べに家に帰るを常にするを以って以上の禁を守る事なし。
本島婦人の子女を産するに二様あり、一は眠床(ビヌツン)に於いてし、一は床下に於いてす。中流以下は多く床下に於いてなすものなり、床下に於いてなすモノは先づ床上に草蓆(ござ)を敷き更に破れたる布褌を重ね上に油紙を布きてなす、床外(ショウグワイ)に於いてするものは床外に枯草又は藁を布き産褥となし傍らに「子桶」(キアタン)と称する桶を置き臨産の時床より下り産褥に移りて産し汚物はこの桶の内に収む。
臨月に当たり突然腹痛起こり、或いは止み、或いは起こり、1、2日乃至4、5日にして胎水来たり腹痛止まざるものあり、之を弄産(ラヌサヌ)と云う、又臨産の一ヶ月前突然腹痛起こりて未だ出産せず、之を「試産」(チイゴエ)と云う如此き時は土人は十三味(ザプサアビイ)、又は成化湯(シエンホアタン)と
稱する安産の薬を用ふ



第5節 臨産

臨産に至れば産婆(只産に経験のある婆)及び近隣の婦女二三人産婦両肩及び腰辺を扶翼し、産婆は兒の出ずるのを待って手を以って之を接受し臍帯を断ちて布に包む、一面傍らの人、産婦を介抱し床上を清め産婦を被(ポエ)(布団)に靠らしむ、この時四壁風の入るの出ずるを防ぎ、力めて安静を保たしむ、産婦は逆上其他眩暈に陥り易きを以って酢を焼き之を嗅がせしむこと一日数回す、又未だ食物を取らざる幼児卽乳児の溺,(いばり:尿の事)に熱湯を混ぜて飲ませる、
之は精神を興奮して血暈にかからないようにする為の豫防(よぼう)なり、之を安胎薬(アヌタイイオ)と云う、又は人参を用いるものもあります。




第6節 産婆

産婆は「拾囝婆」(キノキアポオ)又は「收生婆」(シウシポオ)と云ふ、技術なく、免状なく、僅かに經驗あるものの之をなす、但し近来臺灣各地の醫院に於て助産婦(土人婦女)を養成しあるを以って将来大に區別あるを見るべし



第7節 胞衣

胞衣は瓶に収め紅紙を以て密封し庭隅又は宅前の畑中に埋む、若し火の為め焼くる(野焼ケ等)ことあらば其兒必ず火の為に死すとす云ひ又初産の臍帯を保存し置き他日成長の後他人と訴訟するに際し之を帯び行けば大膽となり必ず訴訟に勝つと云ふ



第8節 難産

難産なるに遇えば家人外に出で槌にて地を打つときは胎児乍ち生ると云ふ、又天公祖(チエヌコンソオ)に「求苦求難キウクキウナン」と稱す祈りをなし、尚ほ出生せざるときは胎神の祟りなりとし道士を請ひ「催生」(ツイシエン)と稱する祈祷をなす



第9節 俯伏産

小兒出産の際俯伏し出でたるものは親及び親族に祟りをなすと云ふ(明治41年臺南南梓仙渓里二重渓庄陳水連の妻張氏糟なるもの俯伏産をなしたるを以て大いに之を恐れ嬰兒を厭殺し罪人となりたることあり)



第10節 死産

胎兒死産なるとき又は産後直に死したるときは死兒を水中に棄てざれば鬼(クイ:怪物)と化し祟りをなすのみならず将来子を孕まずと云ふ



第11節 難産の種類

難産に種々あり「倒産」即ち逆産は足より出ずるもの土人之を「倒蹈蓮花」(トオタアリエンホエ)と云ふ、又「倒産」あり即ち手より生ずるもの土人之を「担横生」(タンホアシー)又は「討鹽生」(タウイアムシイ)と云ふ、「偏産」即ち頭編して一方にあるものにして土人之を「担欹生」(タンキアシイ)と云ふ、「坐産」即ち臀部を露すものにして土人之を「坐斗」(セエタウ)と云ふ、頭正産なるもい臍帯肩に絆はるに因り出でざるもの土人之を「帯素珠」(トアソオツウ)と云ふ



第12節 双兒

双生兒の場合は先出を長とし、後出を幼となすと云ふ、蓋し白虎通に「男子先生ヲ称シ 兄ト後生ヲ弟ト云々」と
之れ同日に生まれたるときも亦通用するものなりと云ふ、又『昔腠公一生二女、李黎生、一生、一男一女、竝以前生爲長』と云ふ、本島に於いても之に則れるものなる可く一生三兒、四兒皆之に倣ふと云ふ




第13節 妻妾の兒

妻妾同時に出産したる時は妻出を長とし、妾出を幼とす、兩妾同時に出産したるときは前妾の出を長とし、後妾の出を幼とす、又神廟(シヌビオ)に至りを擲筶(ポアポエ)行ひ長幼を決するものもありと云ふ



第14節 産湯

兒生るれば直に布に湯を含ましめ其身體を拭ひ甘草、糖水を飲ましめ、産婦にいは桔餅(キツビア)と稱する柑橘の糖漬を與ふ、而して臍帯は4、5日にして落ち去ると云ふ



第15節 産後の式

産後産婦には紅花(薬名)肉、胡麻油にて煎りたる猪の肝臓、酒少量、糯米飯等を與へ身體を安静ならしめ、
而して産後3日に至れば産婆が来たり浴せしめ、後ち命名し、親族朋友来たり祝意を表す、古之を三朝(サムチャウ)の禮と稱し、種々贈物をなす、今之を為すと雖も産家は油飯(イウブン)、米𥼚等を作り之を各家に分ち、富家は祝宴を開くのみ、俗に之を「湯餅」(ツンビア)と云ふ



第16節 月內(ゴエライ)

産後一箇月を「做月內」(ソヲゴエライ)と稱し、豚肉、鶏豚の腎臓、肝臓及び素麺等を胡麻油を以つて煮、酒を加へたるものを與ふ、之れ衰弱及び貧血を囘復せしめんが為なり



第17節 満月 (モアゴエ)

生後一箇月を「満月」と称す、祖母小兒の髪を剃る(又稀に24孝を因みて24日に剃るものあり)先づ洗面器に水を入れ石一箇、銭12文、葱少々、鶏卵一箇を入れ、葱を砕き其汁を髪に注ぎ、頭髪に卵の黄仁(キミ)を塗り温めて之を剃る、蓋し石は頭部の速かに強堅とならん為め、銭は成長の後福貴とならん為め、葱汁は毛髪濃黒とならんむる為め、卵は胎垢(タイコオ)を去らん為めなりと云ふ、髪を剃り終わりて小兒を抱き戸外に出で「鶏箠」(ケツエ)と稱する割竹を於いて地を打ち左の童歌を歌ふ
肉鳶々々(バツヒオバツヒオ)、飛上山(ポエチウソア)、囝仔快做官(ギンナアコアイソオコア)、肉鳶飛高高(バツヒオポエコアコアヌ)、囝仔中狀元(ギンナアチオンナオンゴアヌ)、肉鳶飛低低(バツヒオポオケエケエ)、囝仔快做父(ギンナアコアソベエ)(鳶よ鳶よ汝飛びて山に上らば小兒もち大官にならん、汝飛びて高く上らば亦狀元とならん、汝飛びて低く下らば小兒も亦父とならん)
蓋し其小兒の将来を祝ふの意に出づ、若し女子ならんか只「肉鳶肉鳶」と云ふのみなりと云ふ
此日親戚朋友慶祝の為小兒の衣服、帽、履、銀牌、獅帽(鳳又は獅子の飭ある帽子)、又芭蕉、蝋燭、紅龜(アンクワ:亀の形の餅)、紅餅(アンビア:紅き餅)等を贈る之を満月(モアゴエ)の禮と稱す
産家に於ては菓物又は紅龜の其十分の八を取り、十分の二を贈家に返戻す、又別に油飯、(イウブヌ)米𥼚、(ビイコオ:砂糖を入れたる硬飯)を作り答禮す、産後一箇月に満たらざる間は決して外出せず、若し出づるときは神佛の怒に觸れ必ず病む、
之れ身體の汚れあるを以てなりと云ふ、家人も又其室に出入りせず、只掃箒の下婢及び食事を持ち運ぶもののみ其室に入るものとす



第18節 収涎(シウノア)

小兒産後4箇月に至れば産家より「収涎餅等」(シウノアビア)と称する菓子を製して各家に送る、蓋し小兒の涎を止むるの意より出づ、其他親族朋友の贈物は1箇月の際と略ぼ同一なり


第19節 週歳
小兒一箇年に至れば之を「做週歳」(ソオシウホエ)と云ふ(一に試し週うの禮と云ふ)卽ち第一囘の誕生日なり、此日親戚故来たり祝し書畫、筆、墨、紙等の十二種の物品を送る、此時小兒を正堂に連れて行き、祖先の神靈を拝せしめ、後十二種の物品を篩の中に入れ小兒をして之を取らしむ、第一に取りたるものを以て其兒の将来を祝するものとす、例えば筆、墨、書畫、雞肉、鶏腿、豚の肉、算盤、秤、銀、葱、田土、包布等にして 若し算盤、秤等を取れば商人となり、筆墨と取れば能書となり、鶏肉を取れば大食にて身體健全なり等の縁起を祝ふものなり
又此の日は最終の祝日なるを以て盛んに宴を張り人を招待す、若し初産なるときは生後十二日に於て盛んなる祝慶をなす















沖縄、琉球新報と森永信一と台湾の空気

2012年05月30日 | Weblog
今回も片岡巖から脇にそれてしまいますが、琉球新報の5月13日の記事について

内容は前回4月21日に行った
「台湾竹村小85周年記念式典について」です。
記事の投稿は沖縄の職業能力開発大学校の林文彬教授です。
林教授も台湾人で竹村小校の卒業生。

竹村小学校の教師だった祖父、故森永信一の代理として行ったおば夫婦と僕は
楊承淑教授と伊原大作教授に案内してもらい、光栄にも来賓として迎えられました。

叔母はお祝いの言葉を壇上にて述べ、その時朴子の空気を感じたまま気持ち良さそうに話していました。
僕はもしかして自分にも回って来たらどうしようかと考えましたが、
その時は、曽祖父森永信光の詠んだ朴雅吟社の漢詩をお伝えしよう、、、。
幸い僕には回ってこなかったからその心配は杞憂に終わりました。

さて記事の最後は、安谷屋長也(アダニヤ)先生の事が書かれていました。
沖縄の出身の安谷屋長也先生は一度だけ竹村小学校へ行ったのですが、その後、
行方不明で音信不通になってしまっているようです。
誰か心当たりの人がいたら教えて欲しいという旨で文章は締めくくられていました。
安谷屋長也先生は竹村小学校の校歌を作曲者でも有り大変生徒の信頼が篤かったようです。

生徒に親のように慕われていた安谷屋長也先生を探す、林教授の気持ちがすごく良くわかります。

沖縄には、小学生の頃隣に住んでいたJALに勤めていた家族が沖縄に転勤したときに夏休みに遊びに行ったのと高校3年生の修学旅行で西表島、翌年に同じく8月~9月までの間に友人3人で西表島でキャンプ生活をしていました。
晴れた日には台湾が見えました。
また沖縄には友人もたくさんいます。
今回の記事を読んだ友達もいるかもしれません。
日本よりアメリカに近い沖縄はその分、就業率(失業率)の事を考えても、日本に先んじて問題が顕在化していたと思います。だからこそ日本の近い将来が見える沖縄の職業能力開発はとても興味があります。
そして長寿の沖縄、例えば定年後の人もまだまだ新しい可能性があると思います。

林文彬教授も健康で100歳ぐらいまで一緒に元気に頑張りましょう!



大正12年の台湾

2012年05月07日 | Weblog
この間、赤羽に居らっしゃる大叔母さんの所へ遊びに行きました。
そもそも、今年のはじめに大叔母さんよりお手紙を戴いて
何やらいろいろ話しておきたい事が有るから一度車でおいでなさい。との事。
時期も4月の終わりごろがよろしいでしょう。と
母と一緒に相談して日程を調整して大叔母さんへ電話、4月30日にしましょうと確認を取ると
電話に出たお嫁さんは何も聞かされてなかった様でびっくりされて居ました。
けれども事情がわかると何よりも喜んでくれました。
トリコさんは7月で90歳(大正12年うまれ)になる、結婚記念日は6月で70年の節目に当たる。
当日午後に赤羽に着くと、以前の40年以上の昔、母が独身時代にお世話になった大叔母さん夫婦
の話を聞く。森永歯科は西が丘で戦前から営業をして居た。戦後は下宿人もたくさんの出入りして居た事

でも、今回は、それに加えて、森永信光の事をお話してもらえた。
仲人は森永信光であったと言う事が判明(森永信光の当時の友人を介して)
お見合い写真は、(割烹着)写真屋さんに遊びに行った時に撮った写真、
偶然間違えて渡してしまった所、逆にこれがいかにも働き者に見えて気に入られたそうです。(実際、働き者で信光以外にも大変多くの方がお世話になりました)
そうしたお話のあと昭和16年の森永信光の写真を(目黒の雅叙園での結婚式の時のを)見せてもらった。。

福井県、殿下(てんが)に本家がある森永与右衛門の次男森永信光は、拓殖大学を出て、台湾へ行き
日本に終戦前に帰ってきて居た。
台湾の役職を退いたのは、大正12年3月1日とある、そこで思い出したのが、もう一人の曾祖父である片岡巖。
彼も同じく大正12年5月1日に地方法院通訳を退官している。

大正12年3月1日と5月1日両方とも4月を挟んではいるが、同じ様な年度変わりの時期で重なる。
この奇妙な一致した偶然に何か裏付ける理由が有りそうだと感じた。


何かが変わった大正12年(1923年)、何が変わった台湾。

1、まずは、台湾総督府
1921年に委任立法制度となる。
文官時代の総督、田健二郎から内田嘉吉へ
皇太子(後の昭和天皇)の台湾訪問4月17日~26日(台南の成功大学にガジュマルの樹を植えられた。)
翌大正13年(1922年) 皇太子ご成婚
2、次に、台湾人の環境
林献堂たちによる台湾文化協会が1921年10月発足
台湾人による 台湾の歴史、漢文や公衆衛生、法律講座、経済学講座などを地域社会に広める。

3、当時の日本政府の政治の面
関東大震災9月1日
虎ノ門事件12月27日→山本内閣総辞職

4、西洋の動向
前年の1922年のアイルランド内戦を経て、アイルランドが独立した。
ネパールもイギリスから独立

うーん。
まだまだわからない事も多いけれど、何か激動の昭和の入り口が見えてきた時期。
台湾人にとっては、武力抵抗にとってかわる独立心、自立が目指された時期だと思う。
今から振り返ると、歴史の折り返し地点でもあるような気がする。


4月19日~23日 台湾旅行の報告

2012年05月03日 | 台湾ー郡山

今回の旅行の目的は二つ
【日本に帰ってから一度も行ってない叔母さん夫婦を台湾に案内する事】
【半年前に行った時に約束した朴子竹村國小学校85周年文化祭に日本人教師の子孫として出席】

23日、朝一番の飛行機で台北を発ち無事に日本に帰ってきました。
おば夫婦も17時ごろ福島郡山の自宅へ帰宅。

思いだして振り返ると
今回も楊教授にとってもお世話になりました。
19日午後に空港について、楊承淑先生のご案内で台北に着いて、
すぐに101に行き鼎泰豐で小籠包。その間に地下に停めていた車の整備。
その夜は国軍英雄館で宿泊

20日、台北国軍英雄館での朝食。天気は曇り
伊原教授と彰化へ向かいながら車内にて台湾の歴史及び台湾人と台湾語について講義を伺う。
彰化国小で片岡克巳の関連したことを伺えて良かった。
員林の夜市はとても美味しかったです。(鶏スープ店の小姐さんは僕の顔を憶えていてくれた!)

21日、朝には夜の雨がすっかりやんで晴れて、朴子に向かい小学校へ。
助手の雅芬女史と合流し竹村國小学校85周年文化祭に出席。
美味しい精進料理をみんな(300人くらい)でビッフェ(精進料理は美味。日本の台湾料理のお店もやるべき!)
校長先生のお部屋にてお茶を頂き、祖父の教え子さん方とお話が出来ました。
   放課後、森永先生の家に行って蓄音機をみんなで聞いたらしいです。
1980年代にやった同窓会の話もしました。
また朴子の市役所へ行くと休日出勤の課長さんが快く対応してくれました。
(朴子の郷土史の入ったDVDを頂きました、こちらは曾祖父森永信光の写真と直筆の漢詩をコピーしてお渡しする)
台南に移動してからは、安平の夜市へ向かいながら林徳政教授に伊原先生を通じてお話が出来たので嬉しく思いました。台湾の中の京都で有る台南にて、台南と仙台の関連性をお話しました。
安平ゼーランダ城や赤嵌樓の壮大な歴史に片岡巌や森永信光も何を見ただろうかと思いを馳せ、

22日、片岡巖の晩年に住んでいた法院職員の公舎跡に隣接する娘の薫が通って居た
今も現役の台南公園國小学校も風情が有りました。

そういえば成大会館ホテルの縦に寝ても横に寝ても同じく大きな正方形のベッドも良かったです。

22日の朝食前に(朝6時30分)同じ台南東区の龍山寺通の友人サニーさんのマンションにトランクを返しに行き地図を見ながら土地の感覚を養えました、
10時出発、車の整備をしてから嘉義に叔母さんの生まれた場所を探しに行きました。
今は大通りに面した商店街の一角で雑居ビルが立って居ましたが住所は間違いなく、しかも叔母さんも記憶を思い出し、二階でハンモックに揺られて寝てたら窓越しに隣の男の子が顔を出してたそうです。

叔母夫婦と楊承淑教授と伊原教授は嘉義から台北へそのまま車に乗って、僕は嘉義~新營の単独行動、日本の大塚にある台南料理のお店「秀美」の女主人洪秀美さんがお兄さんの49日で実家に居て、会いに行きお悔やみ申し上げると家族も喪があけて少し明るい兆しがあり、突然の来訪者を喜んでもらえて良かったです。
その晩は台北に20時30分に到着、地下鉄で輔仁大へ
輔仁大の教学会館も学生の元気な若さを感じ。
朝に楊教授の助手リャオさんの見送りで
無事に成田へ向かう飛行機に乗りました。
しみじみと楊承淑先生とまた台湾か日本にてお会いできると良いなあと思いました。

今回は90歳で亡くなった祖父森永信一の生徒さん(90歳以上!)に何人も会えて、本当に良かったと思います。
あと車での旅行が好きだった祖父、今回の旅行を車の中で喜んで居たに違い有りません。
ありがとうございました!

最後に帰国後竹村國小学校へ送ったメールを転記させて頂きます。

『 今回の85周年祝福します。
竹村國小学校の壮大な歴史に感無量です。
方校長先生の暖かな心に触れて伸びやかに育つ子供達と、
子供たちを強く優しく見守る卒業生の皆さん。
この素晴らしい環境がずっとずっと長く続きますように
そして更に朴子の悠久の時の流れと共に
日本にいる私たちも継がっている事がいつまでも出来ますように


またお会いしましょう
謝々』



台湾に。4月19日~23日

2012年04月24日 | Weblog
台湾から無事に帰って参りました。日本は寒いですね。
今回は、朴子竹村國小学校の85周年文化祭に出席の為に叔母さん夫婦と
彰化、朴子、台南、嘉義と回ってきました。楊承教授の車に乗ってご案内して頂きました。
まずは簡単ですがご報告まで。

第6節 薬を送る 『送薬』

2012年03月15日 | 台湾風俗誌
第6節 薬を送る

醫士あり、居を遷す、乃ち四隣に謂て曰く、向來不如意にして、別物の呈すべきなし、各位に藥一帖を呈せんと、隣人辭するに病なきを以す、醫士曰く否な、我れ藥を服すれば、自然に病を發し來ると

あるお医者さんがお引っ越し。近所の人に挨拶に行く時、「どうぞ何も用意してなかったので、別に差し上げるものはございませんが、お近づきのしるしに薬を差し上げます」と医者
近所の人は「エー、別に病気じゃないから、要らないよー」と言った。
医者は自信ありげに「いやいや、大丈夫です。私の作った薬を服すれば、自然に病気がやってきます」これには一同顔を見合わせたとさ。


有一位醫生搬家、臨走時對鄰居説、『幾年來一直打擾各位芳鄰、為了答謝各位的應、特別奉送各位每人一副藥。』鄰居都沒有病、因此就辭謝不收、可是醫生𨚫說、、、『各位就先收下吧、因為你們吃了我的藥、以後自然會生病的。』

死児の屍

2012年02月09日 | 台湾風俗誌
第5節 死児の屍
  一醫あり、投薬を誤り、人の愛児を死せしむ、主家之を詰まりて曰く、汝須らく為に殯殮(ひんれん;もがりおさめ)すべし、否らずんば之を官に訴えん、醫已む無く許諾し、依て児屍を薬箱中に匿して携へ帰る中途に又一家に邀(むか)へられ、往いて箱を啓(ひら)き、薬を用うる時、誤りて児屍を露はせり、家主驚き問う、答えて曰く、此れは是れ別人の医者の殺せるもの、我れ携へ帰りて蘇活せしめんとすと

 或るところにお医者さんがありました、薬を間違えて、人の大事な子供を死なせてしまいました。
親は怒って、お医者さんに葬儀を出すように言いました。「約束をやぶったら役所に訴えます!」と。
お医者さんはやむなく、「わかりました、すみませんでした」と言って死んだ赤子を棺の代わりに薬箱に入れてしまいました。
又他の家族から「ちょっと先生、家族の者を診察して下さい」と言われ、そこの家に行って診察をする事になりました。
診察をして薬箱を開けて薬を出そうとした時に、間違えて死んだ赤ちゃんが見えてしまいました。
家の者が驚いて「先生それは??」と、
お医者さんはシドロモドロにこう答えました。「う、これは別の医者が死なせてしまい、これから我が治療院に戻ったら蘇生を試みようと思っているところです」


 コメント:原文では、葬儀では無く、殯殮(ヒンレン、もがり、おさめる、)と有ります。
脱線になるのですが、これは古代の死生観。
人が死と言う事を理解する為に、死体が腐り、白骨化するまで、そっと棺などにおさめておく事を言います。
あまりにも悲しくて死んでしまったなんて信じられず本当に死んでいるか覗いて見たりしてしまう人もいたでしょうか。
日本でもあった、古い風習です。
そうしてちゃんと頭も心もその人が亡くなったの理解していくのでしょう。

もがりという言葉だけ探すと最近「もがりの森」と言う映画も有りました。

大化の改新の時に「薄葬の令」という法律が有りました。爾来、仏教の伝来と共に、火葬などに変わり簡略化が進みました。
でも仏教の供養で七七日(49日)や百か日などに故人の霊が段階を踏んで霊界に赴くという考え方も、この殯殮にもとを辿って見る事が出来るかもしれません。
台湾の風俗風習は道教や仏教などたくさんの宗教、宗派がありますが、人の死は簡単に宗派によって分けられるものでは無く、共通して悲しい時はみんな悲しいです。
うまく結論は出ませんが、人は悲しみを越えるためには時間がかかるのでないでしょうか。


死児屍
 有一個醫生、由於用薬錯誤、而把入家的愛子給治死、苦主威脅他説…『你一定要為我愛子辦理喪事、否則我就到衙門去告你!』醫生只好承諾、於是就把死屍放在手提箱𥚃帶走、可是途中他又到另一家去出診、當他打開箱子取藥時、不小心把死屍露出來、這家患者看到就很鷲恐的問、醫生回答說⋯『這是別的醫生治死的、我準備帶回家給他治活。』

台湾人の一口噺 ノコギリを使って矢を切る。

2012年01月25日 | 台湾風俗誌
第4節 鋸(のこぎり)を用(もち)いて箭(や)を切る  


 一人演武場に於いて誤りて飛箭に中(あた)る、外科醫を迎へて之を治せしむ、醫曰く、易事(えきじ・たやすきこと)のみと、乃(すなわ)ち小鋸(このこぎり)を用いて、其の外部の箭のみを裁り去り、依りて謝儀を求む、内部の箭は如何んと問へば、答へて曰く、是れ内科醫の事なりと

  ある人が演武場で誤って弓矢の矢にあたってしまい、刺さって抜けず、
急いでお医者さんを呼びました。駆けつけたお医者さんは
「大丈夫、簡単です。」と言って、
ささっとノコギリを出して刺さった矢の外部だけ切り取ってしまいました。
そして診療報酬を求めたので、
「ええっ! 体の中の矢の先は…。」
と問いただすとお医者さんは言いました。
「あっ、ココから先は内科医の仕事になります。」

用鋸截箭
 有一個人在演武塲誤被飛箭射中,於是他就請一位外科醫師來為他診治,醫師看了看傷口說,,『這很簡單!』說完就拿起一把小鋼鋸,把留在傷口外部的箭柄鋸斷,患者問他射在肉裏的箭怎麼辧,他的回答是,,『我是外科醫生只能治外部,射進肉𥚃的箭你要請內科醫師來治。』

台湾人の一口噺 のんきな子とせっかちな子・性急急緩

2012年01月24日 | 台湾風俗誌
第3節 性急急緩 のんきな子とせっかちな子
 某子 性(しょう)極めて緩慢なるあり、嘗て一足靴を新調す、其の友の一人、性甚(はなは)だ急なり、之を見て問ふらく、靴の價幾何ぞ、某子片足を揚げ、徐(おもむ)ろに示して曰(いわ)く、六角半なり、友 忽(たちま)ち怒りて曰く、彼の狡商、余の靴を新調するに、正に其の二倍を収めりと、某子徐に制して曰へらく、慢慢聴!他方の片足の靴も、亦(また)價六角半なりと

ある呑気な性格の子がいました。一足靴を新調しましたが、それを見てせっかちな性格の友達が聞きました。
「その靴いくらで買ったの?」
のんきな子は片足を揚げておもむろに
「六角半だよ」と言いました。
「ズルい商人め!騙された!」友達はたちまち怒り出しました。
だって自分の靴は二倍の値段で買ったのだから。
のんきな子は制して曰く、
「まあまあ、ちょっと聴いてよね。もう片方の靴もまた、六角半だったんだよ」と。

有一個慢性人,某日買了一雙新鞋穿著,途中遇到一個性急的朋友,就問他這雙鞋多少錢,他慢呑呑的伸出右脚說,,「六角半」、急性的朋友很生氣的說,,『唉呀!我被奸商騙了,我這雙鞋跟你的完全相同.可是竟然用了一元三。』這時熳性的才又伸出另一隻脚説、、『這一隻的價錢,也昰六角半。』

台湾人の一口噺 第2節 馬を借りる

2012年01月22日 | 台湾風俗誌
第2節 馬を借りる    借馬

一富翁あり、文に通ぜず、一日友あり、手紙を寄せて馬を借らんとす、書中に曰ふあり、僕偶(た)ま他出せんとす、乞う俊足一乗を借らんことをと、翁怒りて曰く、我も亦只だ足二本を有するのみ、如何ぞ其の一足を他に借すを得ん、一人傍に在り、解して曰く、俊足とは馬足なり、怒るを休めよ、
翁益々怒りて曰く、咄何ぞ無禮(ぶれい)の言を為す、我も馬足ならば、彼奴は驢(ろば)脚ならんのみと

お金持ちの爺さんが一人居た。あんまり文字は読めなかった。
ある日友だちが馬を借りようと手紙を書いた。手紙にはこう書いてあった。
『たまには遠出しようと思って、そこで、俊足を一乗り、借りれませんか?』
爺さんは怒りながらこう言った。
「ワシもあいつと同じ二本の足を持っている、その足を一つ、人から借りようなんて!」
そばに居た人がこれを聞いて、「まあまあ爺さま、怒らないでよく聞いてください。俊足、とは、馬の足の事ですよ。」
爺さんはますます怒ってこう言った。「ワシの足を馬扱いしおって、ワシが馬なら、、彼奴は足はロバの足だ!」
(教訓;なんでも人から借りないでなるべく自給自足で行こう!)

 有一個不認識字的富翁、某日朋友寫信向他借馬、朋友在信中説、、、『因為我有外出、請借俊足一乗以代歩。』富翁聴了這話很生氣的說、、『我只有兩條腿,又怎能借給他一條!』這時在旁的一位管家釋說、、『「駿足」並不是指䐚,而是指馬足,請老爺息怒!』不料富翁聽了更加氣憤說、、『他也眞是太沒禮貌了,竟然說我是馬足,那他是驢足了!』