(珠弾)
泥濘におちた金子を腰屈めひろう手つきが様にならない
「泥濘におちた金子を腰屈めひろう手つきが様にならない」と言うことですが、そこで予め、念の為にお聞きしておきますが、作中の「金子」とは、「かねこ」という日本人の姓では無く、<お金>のことを少し気どって<きんす>と言っているのだ、と評者は解釈して居りますが、作者としてはいかがなものでありましょうか?
もしそうだとすれば、そうした「手つき」が「様」になるのは、一月に15,000,000円ものお小遣いをママから頂戴している鳩山さんちのお坊ちゃまぐらいのものであり、月給30万円そこそこの中から毎月二万円のお小遣いをひねくり出して、慾の目に眩んでせっせせっせと競馬場通いをしていらっしゃる、本作の作者・珠弾さんクラスの、下々の人間ではどだい無理な話ですから、最初から諦めましょう。
そもそも、通常の人間の取るスタイルの中で一番「様」になるのは、おしっこをする時のスタイルと食事をする時のスタイルぐらいのもので、それ以外のスタイルは、腰つきにしろ、顔つきにしろ、手つきにしろ、それが「様」になっているという段階に到達するまでには、ざっと見積もっても、最低半世紀ぐらいの月日を要するものだと言われております。
そういう事ですから、毎週一度の競馬でコテンコテンに負け、オケラ街道を辿っている時に、前を歩いている人のポケットから落ちた百円玉を、「腰」を「屈め」て「泥濘」から拾い上げようとするような「手つき」をしようものなら、「様にならない」どころか、たちまち<拾得物隠匿罪>で御用になりますから、止めておきなさい。
人には、生まれついての<分>というものがありまして、あなたの<分>は、出来るだけ競馬場に近づかない事と、毎日一度、「臆病なビーズ刺繍」をチェックした上で、あなたの全頭脳をフル回転させて、他人に読ませる価値のあるような短歌を作る事でありましょう。
したがって、それ以外の「手つき」、腰つき、頭突きなどは、一切<ノー>と心得、ひたすら詠歌に励みましょう。
それはそれとして、今回の作品はなかなかの傑作ですよ。
〔返〕 「洋食のフォーク持つ手が様になり妻を射止めた男」の従弟 鳥羽省三
学覧を腰だめにして穿くさまが様にならぬと交際を已め 々
(時坂青以)
いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだからそう見えるんだ
「金歯」もまた、「泥濘におちた金子を腰屈めひろう手つき」と同様に、なかなか「様」にならないものでありましょう。
それはそれとして、本作は、「いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだからそう見えるんだろ」となっていますが、「そう見える」とは、一体全体<どう>見えるんですか?
〔返〕 いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだから歯科助手に見え 鳥羽省三
いやらしく見える金歯のじいちゃんと仲良くしたら遺産どっさり 々
(高松紗都子)
金色に滴るひかりにとかされて思い出となる蓮華メレンゲ
横浜中華街で<ふかひれスープ>でも啜っていらっしゃるのでありましょうか?
〔返〕 夕暮れの順海閣で君待てば上海蟹がもぞと這い出す 鳥羽省三
(冥亭)
金雀枝に抱かるる耶蘇に焦がれつつ逝きし波郷を妬めり邦雄
塚本邦雄氏が、名著『百句燦燦』の冒頭に掲げて絶賛しているのが、あの石田波郷の句「金雀枝や基督に抱かると思へ」なのである。
私は石田波郷の作品に詳しく無く、ましてや、あの塚本邦雄が何故に自著の冒頭にこの句を掲げて絶賛しているか、という点については疑問すら感じているから、この作品について、これ以上の詮索をすることは、墓穴を掘ることにもなりかねませんから止めておくことにしようと思います。
〔返〕 十字架にまさに架かるとせん時に耶蘇は思ひぬ金雀枝抱くと
(ふうせん)
金魚草ゆれる朝(あした)はどこまでも澄み渡る空ひときわ高く
よくよく考えてみると、この一首の内容は、<朝の空はどこまでも澄み渡っていてひときわ高い>と言うだけのことである。
だが、お題「金」を「金魚草」という可憐な草花の中の一字として採り入れて、爽やかな朝の空気を醸し出したのはなかなかの工夫である。
〔返〕 メダカ二尾藻草に遊ぶこの宵に耶蘇はまさしくピエタとなりぬ 鳥羽省三
(青野ことり)
暗闇で獣のかたちしたものが金の眼で我を窺う
本作の作者・青野ことりさんは、多分、風俗筋のスカウトにでも「眼」をつけられたんだろうと思われます。
彼らの「眼」は一種独特、まるで「暗闇」で、豹か虎といったような猛獣が睨みつけるように、「金の眼」でこれといった獲物を睨みつけますから、美少女の外出は危険です。
ああ、危なかった、危なかった、危機一髪とはこのことです。
〔返〕 金の眼で睨まれるのも美しく魅力あるからなどと金髪 鳥羽省三
金の眼で睨まれるのも時々はスリルあってとことりも言って 々
(鮎美)
黄金のインカを目指す航空機見上げてゐれば部屋翳りゆく
「黄金のインカを目指す航空機」とありますが、私の記憶するところに拠ると、現在、成田から南米リマへ一足飛びに飛んで行く、定期便・直行便の航空機は無いと思われますがいかがでしょうか。
大抵は、ロサンゼルスかサンフランシスコに立ち寄って、それから南米の各地に向かうものと思われますが、最近は事情が変わって、南米リマへの定期・直行便が飛んでいるのでしょうか?
それはともかくとして、「黄金のインカを目指す航空機見上げてゐれば部屋翳りゆく」という一首は、言葉遊びの短歌としてはなかなか面白い。
尤も、「航空機」を「見上げてゐれば」「部屋」が「翳りゆく」のは、その行き先が北京であろうと北極であろうと当たり前のことですが。
〔返〕 タイ行きの飛行機の客視ていたらお粉をやってるような奴居た 鳥羽省三
パリ行きの客は全員離陸後にパリパリパリパリ煎餅食べた 々
(理阿弥)
暁のなか卯で五輪の賭け金を分けるホストらその額たるや
北海道帯広市白樺16条西2丁目の<なか卯・帯広白樺店>は、二十四時間営業ですから、「暁のなか卯で五輪の賭け金を分けるホストら」に、本作の作者・理阿弥さんが目を見張るのも当然のこと。
彼ら(彼女ら、と言うべきか?)の賭け金の「額たるや」、あの琴光喜も真っ青。
〔返〕 大関の琴光喜関超デブで相撲辞めてもホストになれぬ 鳥羽省三
男の値目方で量れるものならば元大関の浮かぶ瀬もあれ 々
(揚巻)
こんにゃくで金剛石が割れたってあなたを好きになる日はこない
相手にも選ぶ権利がありましょう。
「<総角>は好きだけど<揚巻>や<揚げ出し>は大嫌い」って人だって沢山居りますよ。
〔返〕 綿菓子でダイヤモンドを割れたって揚げ出し豆腐でハートは射せぬ 鳥羽省三
(牛 隆佑)
放たれる僕のお金よ見も知らぬだれかをせめて幸せにせよ
ハチンコ屋の販売機に一万円札を入れる時などは、真実、「放たれる僕のお金よ見も知らぬだれかをせめて幸せにせよ」といった気にもなりますね。
〔返〕 パチンコはまだまし配当率がいい国営賭博の宝くじ最悪 鳥羽省三
(中村あけ海)
金色の招き猫にも管財の備品シールは貼ってあります
時折り、神保町の古書店で「管財の備品シール」が貼られている書籍を見掛けることがあります。
あのシール一枚で、販売価格が一桁下がるのでしょうが。
〔返〕 給料が一億以上の役員に備品シールを貼ったらどうか? 鳥羽省三
(髭彦)
黄金のジパンゴめざす幻想の果ての果てなる今しこの世は
「果ての果てなる」に現実感が在る。
大航海時代と呼ばれた時代や、その後の探検時代は未だ少しはましだったんですね。
それから後は、欲の皮が突っ張るばかりの時代であると仰りたいのでしょう。
〔返〕 あの本田圭佑われらの喜望峰想えば遠くへ来てしまったね 鳥羽省三
(西中眞二郎)
娘住む町にてあれば金沢の天気予報に目を凝らしいぬ
全く同感です。
私も「天気予報」と言えば、新旧の居住地とそれに、息子の単身赴任先の大阪のそれに注視してしまいます。
〔返〕 小絵ちゃんが「大阪晴れ」と言うだけで息子は元気と思ったりもする 鳥羽省三
小絵ちゃんが「横浜晴れ」と言うだけで息子が元気になったりもする 々
(古屋賢一)
「世の中ね顔かお金かなのよ」という回文の誉めどころをあげよ
「長き夜の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな(ながきよのとおのねむりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな)」とは、事新しく評者ごときが解説するまでも無く、何方でもご存じの<回文和歌>の傑作である。
私の知人の中古文学の専門家のお話に拠ると、回文で和歌を作ろうとする試みは、既に平安末期頃から行われていたらしく、前掲の作品などは、その一環として江戸時代に創作されたものらしい。
ところで、本作は、「世の中ね顔かお金かなのよ」という、その昔の蒲田の歓楽街に屯していた淫売紛いの女性の口から漏れてしまった科白のような<カタコト回文言葉>を示して、その「回文の誉めどころをあげよ」という、傲慢かつ虫のいい話なのである。
当然のことながら、「世の中ね顔かお金かなのよ」といったような中途半端な「回文」の「誉めどころ」を挙げることなどは、何処の何方にも出来ません。
それどころか、したり顔してそんなことを仰る、本作の作者の品性の卑しさを指摘してそれでお終いにされるのが<落ち>でありましょう。
そこで、評者から作者へ、一つ提案がありますが、この際どうでしょうか、あなたは、「題詠2010」のお題の全てを織り込んだ百首の短歌をお作りになって、この催しに再チャレンジなさってはいかがでしょうか。
何卒、宜しくご努力の程を。
〔返〕 回文は一文全てを回文にしてこそ意味のある試みだ 鳥羽省三
(ひじり純子)
金銀の色鉛筆がほしけれど欲しいと言えぬ子どもであった
「金銀」の「色鉛筆」や<くれよん>への憧れは、昭和二十年代に小学校に通っていた子供なら、何方でも持っていたことでありましょう。
本作の作者・ひじり純子さんが、「金銀の色鉛筆がほしけれど欲しいと言えぬ」のは、ご両親の質素な暮らし向きを知っていた「子どもであった」からでありましょうか?
ところで、本作はもう少し手を入れて「金銀の色鉛筆が欲しくても欲しいと言えぬ子どもであった 」となさったらいかがでしょうか?
〔返〕 ブランドのハンドバツクが欲しければ直ぐに買わせる女になった 鳥羽省三
(行方祐美)
金雀枝の箒に乗つて出掛けよう湖水も光る春の夜には
「金雀枝の箒」とは、大変素晴らしい思い付きです。
住宅の植え込みの生えていて、春になればいち早く金色の花を咲かせる、あの「金雀枝」こそ正しく、結社誌<水甕>きっての才媛・行方祐美さんが、<はんなりと桜も過ぎた>「春の夜」に「乗つて出掛けよう」とするに相応しい「箒」の材料になりましょう。
〔返〕 「あら魚」の優しいおばちゃん黄色好き 金雀枝クロッカス水仙も好き 鳥羽省三
泥濘におちた金子を腰屈めひろう手つきが様にならない
「泥濘におちた金子を腰屈めひろう手つきが様にならない」と言うことですが、そこで予め、念の為にお聞きしておきますが、作中の「金子」とは、「かねこ」という日本人の姓では無く、<お金>のことを少し気どって<きんす>と言っているのだ、と評者は解釈して居りますが、作者としてはいかがなものでありましょうか?
もしそうだとすれば、そうした「手つき」が「様」になるのは、一月に15,000,000円ものお小遣いをママから頂戴している鳩山さんちのお坊ちゃまぐらいのものであり、月給30万円そこそこの中から毎月二万円のお小遣いをひねくり出して、慾の目に眩んでせっせせっせと競馬場通いをしていらっしゃる、本作の作者・珠弾さんクラスの、下々の人間ではどだい無理な話ですから、最初から諦めましょう。
そもそも、通常の人間の取るスタイルの中で一番「様」になるのは、おしっこをする時のスタイルと食事をする時のスタイルぐらいのもので、それ以外のスタイルは、腰つきにしろ、顔つきにしろ、手つきにしろ、それが「様」になっているという段階に到達するまでには、ざっと見積もっても、最低半世紀ぐらいの月日を要するものだと言われております。
そういう事ですから、毎週一度の競馬でコテンコテンに負け、オケラ街道を辿っている時に、前を歩いている人のポケットから落ちた百円玉を、「腰」を「屈め」て「泥濘」から拾い上げようとするような「手つき」をしようものなら、「様にならない」どころか、たちまち<拾得物隠匿罪>で御用になりますから、止めておきなさい。
人には、生まれついての<分>というものがありまして、あなたの<分>は、出来るだけ競馬場に近づかない事と、毎日一度、「臆病なビーズ刺繍」をチェックした上で、あなたの全頭脳をフル回転させて、他人に読ませる価値のあるような短歌を作る事でありましょう。
したがって、それ以外の「手つき」、腰つき、頭突きなどは、一切<ノー>と心得、ひたすら詠歌に励みましょう。
それはそれとして、今回の作品はなかなかの傑作ですよ。
〔返〕 「洋食のフォーク持つ手が様になり妻を射止めた男」の従弟 鳥羽省三
学覧を腰だめにして穿くさまが様にならぬと交際を已め 々
(時坂青以)
いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだからそう見えるんだ
「金歯」もまた、「泥濘におちた金子を腰屈めひろう手つき」と同様に、なかなか「様」にならないものでありましょう。
それはそれとして、本作は、「いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだからそう見えるんだろ」となっていますが、「そう見える」とは、一体全体<どう>見えるんですか?
〔返〕 いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだから歯科助手に見え 鳥羽省三
いやらしく見える金歯のじいちゃんと仲良くしたら遺産どっさり 々
(高松紗都子)
金色に滴るひかりにとかされて思い出となる蓮華メレンゲ
横浜中華街で<ふかひれスープ>でも啜っていらっしゃるのでありましょうか?
〔返〕 夕暮れの順海閣で君待てば上海蟹がもぞと這い出す 鳥羽省三
(冥亭)
金雀枝に抱かるる耶蘇に焦がれつつ逝きし波郷を妬めり邦雄
塚本邦雄氏が、名著『百句燦燦』の冒頭に掲げて絶賛しているのが、あの石田波郷の句「金雀枝や基督に抱かると思へ」なのである。
私は石田波郷の作品に詳しく無く、ましてや、あの塚本邦雄が何故に自著の冒頭にこの句を掲げて絶賛しているか、という点については疑問すら感じているから、この作品について、これ以上の詮索をすることは、墓穴を掘ることにもなりかねませんから止めておくことにしようと思います。
〔返〕 十字架にまさに架かるとせん時に耶蘇は思ひぬ金雀枝抱くと
(ふうせん)
金魚草ゆれる朝(あした)はどこまでも澄み渡る空ひときわ高く
よくよく考えてみると、この一首の内容は、<朝の空はどこまでも澄み渡っていてひときわ高い>と言うだけのことである。
だが、お題「金」を「金魚草」という可憐な草花の中の一字として採り入れて、爽やかな朝の空気を醸し出したのはなかなかの工夫である。
〔返〕 メダカ二尾藻草に遊ぶこの宵に耶蘇はまさしくピエタとなりぬ 鳥羽省三
(青野ことり)
暗闇で獣のかたちしたものが金の眼で我を窺う
本作の作者・青野ことりさんは、多分、風俗筋のスカウトにでも「眼」をつけられたんだろうと思われます。
彼らの「眼」は一種独特、まるで「暗闇」で、豹か虎といったような猛獣が睨みつけるように、「金の眼」でこれといった獲物を睨みつけますから、美少女の外出は危険です。
ああ、危なかった、危なかった、危機一髪とはこのことです。
〔返〕 金の眼で睨まれるのも美しく魅力あるからなどと金髪 鳥羽省三
金の眼で睨まれるのも時々はスリルあってとことりも言って 々
(鮎美)
黄金のインカを目指す航空機見上げてゐれば部屋翳りゆく
「黄金のインカを目指す航空機」とありますが、私の記憶するところに拠ると、現在、成田から南米リマへ一足飛びに飛んで行く、定期便・直行便の航空機は無いと思われますがいかがでしょうか。
大抵は、ロサンゼルスかサンフランシスコに立ち寄って、それから南米の各地に向かうものと思われますが、最近は事情が変わって、南米リマへの定期・直行便が飛んでいるのでしょうか?
それはともかくとして、「黄金のインカを目指す航空機見上げてゐれば部屋翳りゆく」という一首は、言葉遊びの短歌としてはなかなか面白い。
尤も、「航空機」を「見上げてゐれば」「部屋」が「翳りゆく」のは、その行き先が北京であろうと北極であろうと当たり前のことですが。
〔返〕 タイ行きの飛行機の客視ていたらお粉をやってるような奴居た 鳥羽省三
パリ行きの客は全員離陸後にパリパリパリパリ煎餅食べた 々
(理阿弥)
暁のなか卯で五輪の賭け金を分けるホストらその額たるや
北海道帯広市白樺16条西2丁目の<なか卯・帯広白樺店>は、二十四時間営業ですから、「暁のなか卯で五輪の賭け金を分けるホストら」に、本作の作者・理阿弥さんが目を見張るのも当然のこと。
彼ら(彼女ら、と言うべきか?)の賭け金の「額たるや」、あの琴光喜も真っ青。
〔返〕 大関の琴光喜関超デブで相撲辞めてもホストになれぬ 鳥羽省三
男の値目方で量れるものならば元大関の浮かぶ瀬もあれ 々
(揚巻)
こんにゃくで金剛石が割れたってあなたを好きになる日はこない
相手にも選ぶ権利がありましょう。
「<総角>は好きだけど<揚巻>や<揚げ出し>は大嫌い」って人だって沢山居りますよ。
〔返〕 綿菓子でダイヤモンドを割れたって揚げ出し豆腐でハートは射せぬ 鳥羽省三
(牛 隆佑)
放たれる僕のお金よ見も知らぬだれかをせめて幸せにせよ
ハチンコ屋の販売機に一万円札を入れる時などは、真実、「放たれる僕のお金よ見も知らぬだれかをせめて幸せにせよ」といった気にもなりますね。
〔返〕 パチンコはまだまし配当率がいい国営賭博の宝くじ最悪 鳥羽省三
(中村あけ海)
金色の招き猫にも管財の備品シールは貼ってあります
時折り、神保町の古書店で「管財の備品シール」が貼られている書籍を見掛けることがあります。
あのシール一枚で、販売価格が一桁下がるのでしょうが。
〔返〕 給料が一億以上の役員に備品シールを貼ったらどうか? 鳥羽省三
(髭彦)
黄金のジパンゴめざす幻想の果ての果てなる今しこの世は
「果ての果てなる」に現実感が在る。
大航海時代と呼ばれた時代や、その後の探検時代は未だ少しはましだったんですね。
それから後は、欲の皮が突っ張るばかりの時代であると仰りたいのでしょう。
〔返〕 あの本田圭佑われらの喜望峰想えば遠くへ来てしまったね 鳥羽省三
(西中眞二郎)
娘住む町にてあれば金沢の天気予報に目を凝らしいぬ
全く同感です。
私も「天気予報」と言えば、新旧の居住地とそれに、息子の単身赴任先の大阪のそれに注視してしまいます。
〔返〕 小絵ちゃんが「大阪晴れ」と言うだけで息子は元気と思ったりもする 鳥羽省三
小絵ちゃんが「横浜晴れ」と言うだけで息子が元気になったりもする 々
(古屋賢一)
「世の中ね顔かお金かなのよ」という回文の誉めどころをあげよ
「長き夜の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな(ながきよのとおのねむりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな)」とは、事新しく評者ごときが解説するまでも無く、何方でもご存じの<回文和歌>の傑作である。
私の知人の中古文学の専門家のお話に拠ると、回文で和歌を作ろうとする試みは、既に平安末期頃から行われていたらしく、前掲の作品などは、その一環として江戸時代に創作されたものらしい。
ところで、本作は、「世の中ね顔かお金かなのよ」という、その昔の蒲田の歓楽街に屯していた淫売紛いの女性の口から漏れてしまった科白のような<カタコト回文言葉>を示して、その「回文の誉めどころをあげよ」という、傲慢かつ虫のいい話なのである。
当然のことながら、「世の中ね顔かお金かなのよ」といったような中途半端な「回文」の「誉めどころ」を挙げることなどは、何処の何方にも出来ません。
それどころか、したり顔してそんなことを仰る、本作の作者の品性の卑しさを指摘してそれでお終いにされるのが<落ち>でありましょう。
そこで、評者から作者へ、一つ提案がありますが、この際どうでしょうか、あなたは、「題詠2010」のお題の全てを織り込んだ百首の短歌をお作りになって、この催しに再チャレンジなさってはいかがでしょうか。
何卒、宜しくご努力の程を。
〔返〕 回文は一文全てを回文にしてこそ意味のある試みだ 鳥羽省三
(ひじり純子)
金銀の色鉛筆がほしけれど欲しいと言えぬ子どもであった
「金銀」の「色鉛筆」や<くれよん>への憧れは、昭和二十年代に小学校に通っていた子供なら、何方でも持っていたことでありましょう。
本作の作者・ひじり純子さんが、「金銀の色鉛筆がほしけれど欲しいと言えぬ」のは、ご両親の質素な暮らし向きを知っていた「子どもであった」からでありましょうか?
ところで、本作はもう少し手を入れて「金銀の色鉛筆が欲しくても欲しいと言えぬ子どもであった 」となさったらいかがでしょうか?
〔返〕 ブランドのハンドバツクが欲しければ直ぐに買わせる女になった 鳥羽省三
(行方祐美)
金雀枝の箒に乗つて出掛けよう湖水も光る春の夜には
「金雀枝の箒」とは、大変素晴らしい思い付きです。
住宅の植え込みの生えていて、春になればいち早く金色の花を咲かせる、あの「金雀枝」こそ正しく、結社誌<水甕>きっての才媛・行方祐美さんが、<はんなりと桜も過ぎた>「春の夜」に「乗つて出掛けよう」とするに相応しい「箒」の材料になりましょう。
〔返〕 「あら魚」の優しいおばちゃん黄色好き 金雀枝クロッカス水仙も好き 鳥羽省三