臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(11月10日掲載・其のⅢ・決定版)

2013年11月15日 | 題詠blog短歌
[大串章選]

(福津市・下村靖彦)
〇  子規の柿哀浪の柿捥ぎにけり

 作中の「哀浪」とは、若山牧水・北原白秋と共に「九州の三大歌人」として名を馳せた、今は亡き歌人の中島哀浪である。
 柿を愛した歌人・中島哀浪の旧宅・坐泉荘(佐賀市久保泉町)の庭には、今でも、柿の木が植えられているのでありましょうか?
 ところで、この度、インターネットで検索したところ、佐賀県杵島郡にて農業を営みながら九州地方の短歌の発展及び普及にご尽力なさって居られる歌人の塘健氏を中心として、佐賀県及び近隣県にご在住の歌人の方々が発行している歌誌『百合の木』の「2013年・第12号」に、同誌同人の大坪直樹氏の『田園茫茫』と題する短歌十五首と共に、『見えぬ脊振の峰』と題する随想が掲載されて居て、その随想には、件の柿の歌人・中島哀浪と柿との関わりが記されているので、本句鑑賞の指針にさせていただきたく、以下に、件の随想をそのまま無断転載させていただきますので、大坪直樹氏及び歌誌『百合の木』の同人の方々に於かれましては、何卒ご許容賜りたくお願い申し上げます。              

       『見えぬ脊振の峰』   大坪直樹
 脊振山系の山々の麓の集落には、至るところに柿の木が聳えていた。渋柿は正月用の干し柿にするのだが、甘柿は子どもたちの貴重な食料だった。どこの家のどの柿の木がごまが入っていて甘いなどと、子どもたちは情報交換。大人はお見通しなのに、さも大事を犯すように柿泥棒して自慢し合っていた。その甘柿は、佐賀県の山間部原産といわれる「伽羅柿」で、二〇メートル以上もあり、枝はとても折れやすく柿の木から落ちてけがをする者も多かった。
 わがふるさと久保泉の里山沿いの家々には、必ず伽羅柿が聳え、晩秋には登って竹竿でちぎったものだった。結構な高さで柿の木からは遠くまで見渡せた。郷土の歌人・中島哀浪師には、柿短歌が無数にあり、その代表歌「柿もぐと木にのぽりたる日よりなりはろばろとして脊振山みゆ」は、まさに伽羅柿をちぎろうと木にのぼった場面が想像される。見渡せばはるかに脊振山の峰が望めると誰もが想うだろうが、実は久保泉の山沿いからは近くの里山に遮られ、脊振の峰々は見えないのである。哀浪氏の息子であるエッセイスト草市潤氏は、「柿もぐと」の短歌は、大正十四年に若山牧水が博多を訪れた際の短歌会への哀浪出詠歌で、多分伊賀屋から乗車した車窓に望む脊振山と伽羅柿ちぎりのことを合体し歌にしたのだろうと分析している。
 この短歌はその短歌会で高い評価を得たらしく、哀浪師の代表歌になっているが、久保泉町の川久保周辺からは脊振山は見えないのである。  (転載・以上) 

 事の序でに申し上げますが、歌誌『百合の木』と言えば、私の歌友・今泉洋子さんも亦、同誌の同人としてご活躍になって居られると記憶している。
 今泉洋子さんからは、歌誌『百合の木』の「2011年号」及び「2012年」をご恵送賜るなど、私は、短歌道に就いてさまざまにご指導いただいていたのである。
 この頃、今泉洋子さんは拙ブロクにコメントをお寄せにならなくなってしまい、私も亦、欠礼させていただいている次第ではありますが、私の短歌道の良きライバル・今泉洋子さんは、ご息災でありましょうか。 
 〔返〕  恥づかしや伽羅の柿の実はつ契り佐賀の友垣息災ならむ


(長岡市・内山秀隆)
〇  露の世の聞き捨てならぬ文句かな

 季節柄なのか?
 今週の朝日歌壇の俳人たちは、「露の世」「露の世」と、「露の世」ばっかりを季題としてお詠みになって居られる。
 私の記憶している限りに於いては、「露の世」を口にする人間に限って、白寿を迎える程にも御長命で居られますから、本句の作者・内山秀隆さんも亦、今年白寿をお迎えになった御高齢者の方であると推測される。
 などと申し上げたならば、内山秀隆さんは「露の世の聞き捨てならぬ文句かな」とばかりに、この私をご叱責になるのでありましょうか?
 〔返〕  露の世の聞き捨てならぬ評言と叱られたくはないので候


(弘前市・木田多聞)
〇  反骨のペンは離さず文化の日

 「反骨のペンは離さず文化の日」とは、私の郷里のジャーナリスト・むのたけじ氏の生き様をも思わしめる一句である。
 むのたけじ(本名・武野武治、1915年1月2日 ~)氏は、御年・九十八歳にして未だご息災。
 ご執筆にご講演にとご活躍でいらっしゃいます。
 先年、私が現在地にUターンする前にお見掛けした折には、あの高からぬお身体を七重八重に折り曲げて、北都銀行横手支店の狭い椅子にお掛けになられ、預金通帳に記された数字をご点検になって居られました。
 〔返〕  反骨のペンは離さずむのたけじ郷里横手で炬火を掲げて


(東京都・三輪憲)
〇  蛇笏忌や故郷捨てたる悔深し

 飯田蛇笏も蛇笏のご子息の飯田龍太も、一旦は「故郷」を捨てようとしたのであるが、結局は境川村に戻って、旧地主家の家政を司り方々俳句三昧の生活をしていたのである。
 その「故郷」を捨て得なかった俳人・飯田蛇笏の忌日・「山廬忌」(10月3日)を迎えるに当たって、「故郷」を「捨てたる」俳人である三輪憲さんは、自ら故郷を棄ててしまった事を後悔して止まなかったのでありましょう。
 〔返〕  山廬忌や古希を過ぎての句狂ひを古里人は如何に思はむ   


(小樽市・伊藤玉枝)
〇  枯れてなほ大地の鼓動ありにけり

 折りが折りだけに地震かも知れません。
 〔返〕  辞めてなほ「原発止めろ」と口挟み小泉元総理再稼働かも?


(大阪府河南町・手嶋真津子)
〇  引く潮の音に秋思を深めたる

 「秋思」とは「秋に感じるものさびしい思い」、即ち「秋に直面しての感傷」の美称である。
 常人ならば、「感傷」とか「センチメンタルな気持ち」と云って済ませる場面を、文人(特に俳人)たちは、より文学的な言い方をしようとするのか?「秋思」とか「秋愁」とかと言って、格好付けているのである。
 「山塊にゆく雲しろむ秋思かな」とは、人口に膾炙した飯田蛇笏の傑作である。
 俳人の手嶋真津子さんは、「引く潮の音に秋思を深めたる」などと、文学的かつセンチメンタルなことを仰って居られますが、俳人であれ、常人であれ、凡人であれ、どちらかと言うと、満ち潮の時よりも引き潮の時の方が、よりセンチメンタルな気持ちになるのでありましょう。
 〔返〕  秋の夜は漂ひ行かむ引き潮にのたりのたりと眠り得ぬまま


(富士宮市・渡邊春生)
〇  木の実独楽廻るや山の風纏ひ

 ダイソーでわずか105円で買えるプラスチック製の独楽の方がよく廻るのに、俳人の方々は、独楽と言えば即「木の実独楽」を持ち出して来るのである。
 ところで、俳句には「木の実独楽」という季語は無く、秋の季語「木の実」に「独楽」を付けたのが「木の実独楽」なのかも知れません。
 ただ単に「独楽」と言えば、「凧」や「追い羽根」や「羽子板」や「歌留多」などと共に「新年の季語」になるのであるが、「独楽」の前に「木の実」が付いて「木の実独楽」となると、「秋の季語」扱いにされているのでありましょうか?

  つくるよりはや愛憎や木の実独楽   橋本多佳子
  木の実独楽ひとつおろかに背が高き  橋本多佳子
  夜は音のはげしき川や木の実独楽   桂信子
  木の実独楽自転に力尽しをり     小川立冬
  教科書を衝立にして木の実独楽    釣豊二
  木の実独楽父が回せばよく回る    山下敦子
  はじめから山へ傾き木の実独楽    山崎聰
  木の実独楽智恵うすき子に友のなし  成瀬桜桃子
  拗ること覚えし吾子に木の実独楽   小井出美沙
  木の実独楽すぐつまらなくなりにけり 小林廣芝
  木の実独楽造れり孫等遠くあり    高橋利雄
  木の実独楽遠く住む子へまはしけり  高橋悦男 
  児とけふの隙間埋むる木の実独楽   馬場移公子
  一芸に優れてまはす木の実独楽    杉若多美
  翻訳の辞書に遊ばす木の実独楽    角谷昌子
  木の実独楽マッチの脛を見せて孤独  細谷源二
  木の実独楽三つつくりて嫌になる   加倉井秋を
  木の実独楽人生傾斜して廻る     吉田未灰
  木の実独楽倒れる前ののゝ字書く   工藤いはほ
  お囃子の練習の間の木の実独楽    吉原文音
  木の実独楽廻してみたき仏足石    太田土男
  木の実独楽廻り澄むことなかりけり  成瀬正とし
  木の実独楽廻り続ける部屋を出る   上野龍子
  二三度は回つて倒れ木の実独楽    木下野生
  目の前の木の実独楽とは回したく   稲畑汀子
  回はらずにガタゴト走る木の実独楽  三浦如水
  斑鳩の子等は木の実の独楽まはす   有馬朗人
  戦争もテロも知らぬ子木の実独楽   影島智子
  全身にかすり傷あり木の実独楽    坂口美代子
  教室の隅にころがり木の実独楽    猪俣洋子
  直感の芯を通せり木の実独楽     藤村真理
  山小屋に廻り疲れし木の実独楽    水原春郎
  木の実独楽一つは墓の子に供へ    井上比呂夫
  千年の伽藍の軋む木の実独楽     林友次郎
  いもうとの夢に幼し木の実独楽    佐野美智
  木の実独楽それも袴の穿かせあり   後藤夜半
  木の実独楽つくるに父の手をかしぬ  上村占魚
  木の実独楽力尽きては実にかへる   山本牧秋
  木の実独楽去年の一つが強かりき   中山允晴
  木の実独楽幼の指に応へざる     松尾緑富

 以上、「木の実独楽」を題材とした俳句を手当たり次第に並べてみたが、「木の実独楽」という題材から読み取れる季節感と共に、作者の人生観や境遇が伺われて、それぞれ味わいのある一句である。
 その中でもとり分け、才色兼備の女流俳人として知られた橋本多佳子作の二句が抜群に宜しい。
 「つくるよりはや愛憎や木の実独楽」と言い、「木の実独楽ひとつおろかに背が高き」と言って、作者の橋本多佳子は、たかが子供の玩具に過ぎない「木の実独楽」に、自分自身の境涯を剥き出しに曝け出しているのである。
 上掲の渡邊春生さんの御作に就いて申せば、「木の実独楽廻るや山の風纏ひ」というこの一句には、霊峰・富士山麓にお住いの作者の、穏かにして爽やかなるご性格がそのまま反映されているように思われるのである。
 〔返〕 我もまた廻してみむと木の実独楽バランス取れずに廻りはしない


(愛知県南知多町・山本翆玲)
〇  どんぐりを七つと決めて拾いけり

 「日曜日に一つ、月曜日に一つ、火曜日に一つ、水曜日に一つ、木曜日に一つ、金曜日に一つ、土曜日に一つ」と、日曜日に「七つ」拾った「どんぐり」を、毎日一つずつ食べるのでありましょうか?
 でも、作者の山本翆玲さんは、栗鼠でも羚羊でも熊でも無くて、正真正銘の人間ですから、「どんぐり」を食べるような事は決してしません。
 それにしても、「七つと決めて拾いけり」と言ったところが、風流を愛しつつも節度を失わない人間らしくて、なかなか宜しい。
 秋の山道を歩いていると、至る所に「どんぐり」が落ちているのであるが、それを一粒残らず拾う気にはならないし、かと言って、全然拾わないでも無い。
 結局のところは、気の赴くままに「七つと決めて」拾ったりするのである。
 〔返〕  盗むのは千両迄と決めて居り本格派盗賊・蓑火の喜之助


(松本市・唐澤春城)
〇  草競馬不揃ひなれど天高し

 「草競馬=地方競馬」。
 地方競馬ともなれば、観客も馬券の売れ行きも少ないし、賞金も少ないから、騎手の服装・装備から始まって、競馬場内の標識・施設、出馬する馬の年齢や馬体重など、何もかも「不揃い」なのである。
 それでも尚且つお天道様の恵みは平等であるから、秋競馬となれば「天高し」という具合になるのである。
 〔返〕  草競馬不揃いなのは宜しいがたまには馬券を的中させたい

 
(東京都・我妻勝美)
〇  不夜城をとほくに載せて虫の闇

 「不夜城」と言えば、新宿の歌舞伎町。
 その「不夜城をとほくに載せ」た奥多摩界隈の村里では、「虫の闇」といった風景が、夜な夜な展開されているのでありましょうか?
 〔返〕  新宿の歌舞伎町こそ真の闇 恐喝売春且つ殺し沙汰


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