臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の「朝日歌壇」から(9月19日掲載分・其のⅣ)

2016年09月22日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○  週末のスーツ姿の柔らかしケーキ二つを買いたる医師は  (横浜市)吉川米子

 昨今の都会地では至る所に隠し監視カメラが設置されていて、私のような風体卑しき者は、滅多矢鱈に街歩きも出来ません。
 作中の「ケーキ二つを買いたる医師」は、かわいそうなことに、その隠し監視カメラ網に引っ掛かるよりも先に、物見高い主婦の吉川米子さんの目に止まってしまったのでありましょう。
 本作の作者の吉川米子さんよ!
 あなたはいい年をして、なんてことを為さるんですか!
 いくら掛り付けの「医師」だからといって、たまの休みともなれば「スーツ姿」にもなりましょうし、「ケーキ」の一つや二つぐらいは買うこともありましょう!
 それなのに、「私の掛り付けの『医師』は診察室では薄汚れた白衣を着ていてむさ苦しいのに、先週の『週末』に横浜そごうの地下街でたまたま見掛けた時の『スーツ姿』は、いかにも清潔で柔らかくて、あの美男の紳士が私の主治医だと思うと、私は心の底から喜びが込み上げた来た」だの、「私の掛かり付けの『医師』は、ものすごい高給取りのくせして、横浜そごうで『ケーキ』をたったの『二つ』しか買わなかったのよ」だとか言って、まるでお茶する仲間で交わされる友達の噂話みたいなことを仰るなんて、あまりと言えば、あまりの仕打ちであり、これでは、帝政ロシアの秘密警察か、戦前の我が国の特高警察みたいではありませんか!
 「米子」なら「米子」らしく、鍬を担いで里山の開梱畑に足を運び、杉の根っこでも掘って粟の種を蒔くとか、小豆を蒔くとか、名前に相応しいことをして居なさいよ!
 俺様は、本当に怒ってんだぞ!
 怒りまくって、怒りまくって、ほんとに狂死にしそうになってんだぞ!(なんちゃったりして)
 〔反歌〕  二十二時 お喋りお米はサンクスで八割引のお寿司を買った  鳥羽省三
        

○  東京の真夏のコインランドリーうちとおんなじ洗剤の匂い  (富山市)松田梨子

 「うちとおんなじ洗剤の匂い」とありますが、富山市の松田さんちでは、「東京」の「コインランドリー」が顧客サービスとして店内に常置している業務用の缶入りの洗剤を使っているのでありましょうか?
 だとしたら、あの種の洗剤は、「落ち」がいいことは確かですが、どんな有害成分が含まれているか判りませんから、使用するに当たってはよくよく注意しなけれはなりません。
 〔反歌〕  午前九時ママのお出掛けデパ地下へ柔軟剤の香りお供に  鳥羽省三
       


○  パレスチナのオリーブオイル滴らすぬるま湯の国の小さき厨で  (福島市)美原凍子

 「元を正せば、財政破綻都市の住民が、いくら転居したからと言っても、自宅の『厨』で『パレスチナのオリーブオイル滴らす』なんて、贅沢にも度が過ぎ、あまりと言えばあまりではありませんか!それに、『パレスチナのオリーブオイル』といった言い方は、あの生意気な蓮舫さんみたいな、〈上から目線〉の言い方ではありませんか!一体全体、あなたはパレスチナ問題を何と心得とるんですか!イスラエル軍によるガザ地区への無差別攻撃に対して、あなたはどんなご意見をお持ちなんですか!肝心要のその点を明らかにしないで、人間としてのあなたご自身の考えや立脚点を曖昧にしたままで、『ぬるま湯の国の小さき厨で』などと言って誤魔化して逃げるなんて、大人の歌詠みとしては、あなたはあまりにも卑怯ではありませんか!自分が住んで居て、現に今、それに保護され、それから多大なる恩恵を受けている国を『ぬるま湯の国』と言えば、あなたという女性が、突如として正義の味方の月光仮面や鞍馬天狗にでも格上げになるとでも、あなたは心得とるんですか!だとしたら、勘違いもいいところです!あなたがあなたご自身の皺苦茶だらけの醜い身体に、『オリーブオイル』を滴らしているとしたら、あなたこそ『ぬるま湯』にどっぷりと浸かっていることになるんですよ!そんなことにも気がつかないで、被害者意識丸出しの短歌ばかりを詠むなんて!そのくせして、いつもいつも上から目線の表現をするなんて!私は、あなたと同じ日本語に依る表現者として、そんなあなたを、到底許すことが出来ません!夕張に居た時は居た時で、表面は財政破綻都市の哀れな住民を装って、福島に転居してからは転居してからで、表面は原発のメルトダウン事故で何もかも失い、尊い命までも失いそうになっている被災者を装って、そのくせして、見る物聞く物をなんでもかんでも短歌を詠む小道具として使いまくって居られる。あなたにとっての居住地の財政破綻や原発事故は、私から見ると、あなたに出来の良くない短歌を詠ませるために発生したかのように思われますよ。そんな思いを抱きながら、毎週、毎週、上から目線丸出しのあなたの作品を読ませられて、はらわたが煮えくり返るような思いをしている人が、私の周囲には、私以外にもごまんといらっしゃるんですよ!歌詠みとしてのあなたは、決して、決して、そうした厳正なる事実から目を背けてはなりません。」なんちゃったりしてしまったら、この国には、美原凍子ファンがごまんといらっしゃるから、私のブログには、たちまち抗議のコメントが殺到して、たちまちパンクしてしまうかも知れません。
 という訳で、彼の石原慎太郎氏の例に倣う訳ではありませんが、前言は、思わず知らずのうちに口から飛び出してしまった失言として取り消させていただきます。
 取り消すならば、取り消すなりの遣り方がありましょうが、この記事の当該部分を削除してしまえば宜しかろうとも思われますが、そんな姑息なことをしても、私が一度はこうした思いを抱き、こうした記事を書いたという事実を取り消す訳には行きませんから、抹消は抹消でも、我が国古来からの遣り方を踏襲して、「見せ消ち」という措置を採らせていただきます。
 
 ところで、私は、こうした記事を書くことを通じて、歌人・美原凍子さんの作品を批判することを唯一の目的としているのではありませんし、ましてや、彼女の生き方や生活心情を非難しようとしているのでは、決して、決してありません。
 短歌という短詩型文学は、小説や評論などとは異なり、その形式が形式だけに、極めて簡単に安易に取り組むことが可能である。
 従って、この世の中には、極めて安易なで、出鱈目に等しいような気持ちで詠まれた短歌が、まるで台風の後の河川や山麓に残された瓦礫や泥濘の如くにも堆積し、山積されているのである。
 私たち現代社会の日本人にとっての短歌は、伝統文芸という美名を背負い、きらびやかな衣装に纏ってはいるものの、それははあくまでも、安物のサテンで作られた三流芝居の役者の紛争姿のようなものであり、その内実は、それを掲載し発表する媒体が総合誌であろうと結社誌であろうと新聞歌壇であろうとインターネットの画面であろうと、本質的には何ら異なることなく、巷のレストランの真昼間に暇を持て余した主婦が群がって語り合う噂話や、その場に居合わせない主婦仲間の行状に就いての悪口雑言や、週刊誌ネタの安手の情報や軽口のエロ話のようなものであり、それが百年後、二百年後の後世まで残されて語り伝えられ、国語の教科書に掲載されることは、決して、決して有り得ないものと判断されるのである。

 「時事詠」という言葉が在り、短歌という短詩型文学の得意技の一つに「時事詠」があり、「短歌は時事詠に適した文学であり、毎日毎日起こる出来事を捉えて詠む機会詠である」とも言われている。
 短歌の本質をそのように捉えている人々にとっては、この夏に日本各地に襲来して、村落の街道や街角のあちらこちらや、大小の河川の河川敷に瓦礫の山を作った台風や福島原発のメルトダウン事故や未だに見通しの着かない財政破綻都市の財政事情や居住者の暮らし向きなどは、過日行われ、金メダルラッシュに湧いたリオデジャネイロオリンピックや卓球愛ちゃんの国境の垣根を越えた恋愛秘話などと同じように、「機会詠」としての短歌の格好な材料でしかないと思われているものと推測され、各種の新聞歌壇や結社誌には、そうした出来事の様子や顛末を歌材として詠んだ作品が、恰も毎週月曜日の川崎市の燃えるゴミ収集日のゴミ置き場のゴミの如くにも大量に投稿され、ある作品は紙面に掲載され、ある作品は掲載されないままに、単なる紙ゴミと化してしまったことと推測されるのである。
 事程左様に、現代社会に於ける短歌は、もはや短詩型文学の枠から排出されてしまっていて、せいぜい環境汚染の促進に貢献している消耗品としての役割りしか果たしていない、と言っても決して過言ではない。
 そうした中にあって、福島市にお住まいの優れた歌人・美原凍子さんの朝日歌壇への投稿作の多くは、朝日新聞の月曜日の朝刊の紙面に掲載され、多くの読者に賞賛され、多くの人々にそれなりの感激と勇気を与えたに違いないと推測される。
 しかしながら、そうだからと言って、否、むしろ、それだからこそ、朝日歌壇の鑑賞者の一人であり、鑑賞者の中の最も熱心な鑑賞者の一人であることを自認し、そのことを他の一部の人々からも認められている、私の鑑賞眼からすると、数多くの美原凍子さんの入選作の中に認められる、〈過剰なる被害者意識〉と〈上から目線〉及び、〈災害や不幸を単なる詠歌の材料にしようとする姿勢〉は、決して、決して見逃すことが出来ないのである。
 以上、あれこれと並べ立てましたが、作者の美原凍子さん及び読者諸氏に、お詫びするべき事柄に就いては深くお詫び申し上げた上で、敢えて、二言、三言提言させていただきました。


○  原発に追われし楢葉五年経て雨に点れる外灯一つ  (宮城県)須郷 柏

 「原発に追われし楢葉」なんておっしゃっていますが、その当時の政府や行政当局者からの退避の指示や命令が無かったら、須郷さんは、あの楢葉町に、今でも住んでいたとでも仰るんですか!
 その昔を振り返ってみれば、先々の事も碌々考えずに、欲の面を張って福島原発を誘致していい思いをしようと目論んだのは、他でもなく、あなたがた福島県民ではありませんか?
 もしかして、被災者・須郷柏さんにとっての被災地・フクシマは、詠歌の格好な材料になってしまっているのではありませんか?
 いつまでも、いつまでも、おんなじことばっかを詠みなさんなよ!(なんちゃって)


○  支えられ仰向けに寝て湯に浮かぶボランティアとの温泉旅行  (調布市)長山 弘

 「こんなにまで、能天気なことを仰っていて宜しいのかしら?」と、部外者の一人としての私には、とてもとても心配になります。
 それにしても、お金を持っていてこその、行政当局の適切かつ有効な施策が有ってこその「ボランティアとの温泉旅行」であるが、国民の全部が全部、「ボランティアとの温泉旅行」をすることが出来る訳ではありませんよ!
 その事をよくよく頭に置いた上で、余生を楽しく過ごして下さい。


○  美容室鏡の中に新しいショートヘアの私が微笑む  (芦屋市)室 文子

 さすが、元・宝塚市民!
 いま時の中学生は、生意気にも髪を切るぐらいのことで、美容室まで足を運んだりするんですね!
 しかも、高額の代金を支払ってまで!
 それはそれとして、本作の表現上の欠点を一つ指摘させていただきますと、三句目の「新しい」は不要でありましょうし、それに、五句目の「私が」も不要でありましょう。
 [改作案]  美容院 鏡の中の中一のショートカットが微笑んでいる
 如何でありましょうか?


○  隣家から聴こえくる「乙女の祈り」初めてつっかえず完奏  (神奈川県)九螺ささら

 「乙女の祈り」と言えば、ポーランド出身のピアニスト兼作曲家として有名なテクラ・バダジェフスカ作曲のピアノ曲であり、ピアノの独奏曲としては、演奏時間がわずかに三分半前後の短時間であることもあって、ピアノ演奏を習って間もない、少年少女がピアノ教室の発表会などでよく弾く曲として知られているのである。
 作者の九螺ささらさんは、「隣家から」ほとんど毎日のように「聴こえくる」この曲の演奏者が、口角の上がった可愛い顔の少女であることを知っていたので、幼い彼女の演奏が毎回のように「つっかえ」て途絶えるのを、その事の責任が自分にあるような思いで、耳を澄まして聴いていたのでありましょう。
 [改作案]  隣家から「乙女の祈り」が洩れて来る初めて完奏つっかえもせず 


○  突然に汚染基準が緩くなり底這ふ魚も市場に並ぶ  (いわき市)馬目弘平

 「突然に汚染基準が緩く」なった事が事実だとしたら、それは大問題であり、早速、その法規的な根拠を突き止めて、善処させなければなりません。
 もしも、それが事実でなかったとしたら、本作の作者・馬目弘平さんと選者の馬場あき子先生は警察に捕まる怖れがありますから、よくよく御注意なさって下さい。 
 よくよく考えてみると、いわき市の市場に底魚が並ぶようになったのは、自公民連立政権や福島県当局の悪巧みに因って「突然に汚染基準が緩く」なったからではなくて、被災地・福島が海の底の底まで、清潔で綺麗になり、底魚を食べても体内が汚染物質で汚れる怖れが無くなったからではありませんか?
 少なくとも、現・総理の安倍晋三閣下なら、そのように説明すると思いますよ。


○  口角をあげて鏡の我を見る笑い少なき独居房にて  (ひたちなか市)十亀弘史

 「口角」とは「唇の両脇の部分」を指して言う語であり、これを上げることに依って、「人間の顔が幸福顔に見えたり、美男美女に見えたりすることから、口角を上げる事は人に好かれたり、自らの人生に幸運を齎すことにも繋がる効果がある」という説が為されている。
 本作の作者・十亀弘史さんは罪を犯して独居房に繋がれている囚人。
 したがって、これまでの彼の人生は、決して、順調かつ幸福なものでは無かったはずである。
 その不幸な人生に喘ぐ彼が、独居房の「鏡」に「口角をあげ」た顔を映している光景こそは、「笑い少なき独居房」にあっては、毎朝行われる祝祭や祈祷にも似たものであろうと思われます。
 本作の鑑賞者としての私は、「彼・十亀弘史さんのこれからの人生に幸あれ。地獄の閻魔様よ、何卒、彼の犯した罪を許し給え」と祈らずには居られません。
 刑務所という暗い環境に身を置きながらも、ささやかな喜びにひたり、読者を笑わせようとする道化者的精神をお持ちになられている事こそは、なによりも尊い詠歌精神として称えられなければなりません。
 福島市の美原凍子さんや宮城県の須郷柏さんは、本作の作者の爪の垢を煎じて飲むが宜しい。
 ところで、この点に就いては、たったの今、気がついたのであるが、作者の現住地は、刑務所の「独居房」であり、決して、雑居房ではありません。
 そして、彼は、本作の四句目を「笑い少なき」としている。
 熟慮してみるに、「笑い少なき」とは、〈ごくたまにも笑うこともある〉ということである。
 独居房に繋がれている彼が、ごくたまにでも笑うことがあるとしたら、それはどんな時でありましょうか?
 その一つは、「口角をあげて鏡の我を見る」時でありましょうが、もしかしたら、彼・十亀弘史さんは、この夏に、独居房の冷たい板の間に身を横たえながら、「ああ、気持ちいいこと!三食昼寝付き、しかも、独居房だから邪魔者無しだ!私が今居る独居房こそは、この世の天国なのかもしんない」なんて嘯きながら一人笑いをしたのかも知れませんよ! 
 [反歌]  口角を上げて鏡を覗きたり日課の歌評上々の首尾  鳥羽省三


○  虎ノ門に一軒残る八百屋ありパソコン休ませ葱買いに行く  (調布市)柳沢英子

 東京都の郡部・調布市にお住まいの本作の作者・柳沢英子さんが、何が故に高い電車賃をかけて、都心の「虎ノ門」まで、「葱」を「買い」に出掛けなければならないのでありましょうか?
 識見の狭い私・鳥羽省三には、どうしてもその点に就いての理解が行き届きません。
 また、四句目が「パソコン休ませ」となっていますが、この七音は、単なる音数合わせの無駄句のようにも私には思われますが、その点に就いての、作者並びに選者のご意見を賜りたくお願い申し上げます。
 〔反歌〕 旬八は青山にある八百屋にてメリケンさんが葱買いに来る  鳥羽省三


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