○ すかんぽを折ればもれくる人の声だれかでんわをかけてはこぬか 佐怒賀弘子
何方の作品の場合でも同じことであるが、奥行が深く優れた一首から読み取れるものは、時にはお互いに裏腹な関係にあるものを含めて、色々様々であり、多岐に亘るのであるが、佐怒賀弘子作のこの一首から、「郷愁と人恋しさと幼児性と女性性と甘え」、そして「欠落感と寂しさ」を指摘のは極めて容易なことでありましょう。
私は、過日行われた麻生短歌会の九月歌会での彼女の詠草「ふりむけばだあれもいない炎昼よ極楽鳥花に狙われている」を解釈し批評するに際して、佐怒賀短歌のもう一つの特質であり魅力でもある「ナルシシズム・自己愛・自尊心」を、あまりにも声高に指摘したかったが故に、こうした要素と共に彼女の短歌のもう一つの特質であり魅力でもある、前述の「欠落感・人恋しさ・甘え・寂しさ」といった要素を指摘する事を忘れていたのでありました。
就きましては、この機会を借りて、私は、前掲「ふりむけばだあれもいない炎昼よ〜〜」という一首に就いての、そうした点に就いても指摘させていただき、深くお詫び申し上げます。
○ 誤植多き資料読み終え疲れたり春をのったり鎮める夕陽 寺戸和子
「誤植多き資料」を読むのは、如何なる場合に於いても、精神的にも肉体的にも「疲れ」るものであるが、本作の作者の場合は、その「誤植多き資料」の解釈などに就いて、さんざん悩まされ、ぶつぶつぶつと不平を言いながらも、とにもかくにも「読み終え」たのである。
ところが、豈に図らんや、「読み終え」て頭を上げた作者の視線の彼方に在ったのは、「春」景色の中を「のったり」のったりと「鎮」み行く「夕陽」だったのである。
ところで、件の「のったりのったりと沈み行く夕陽」は、疲れ果てた彼女の心にひと時の癒しを与えたのでありましょうか?
それとも、本作の作者・寺戸和子さんは、件の夕陽に向かって、「のったりのったりと沈んで行く、このうすのろの夕陽め!目障りになるから、あの山の西の端にさっさと立ち去れ!」とばかり、金切り声を上げて罵ったのでありましょうか!
○ 亀うらがへり濁る水槽青葉の日 こころが折れるといふ言ひ方きらひ 米川千嘉子
若かりし頃は、前途有望な一青年・坂井修一をして、「青乙女なぜなぜ青いぽうぽうと息ふきかけて春菊を食う」と詠わしめ、「水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器」と悩ましめた作者も亦、ご子息が自立し、遠く離れた地に赴任してしまうと、短歌を詠む以外に時間の潰しようが無くなってしまい、ご夫君と二人暮らしの我が家の「水槽」に「亀」を飼い、彼が裏返しになって泳ぐ様をひがないちんち眺めていたりするのでありましょう。
だが、本作の題材となっているのは、件の「亀」そのものでは無くて、せっかくの「青葉の日」だというのに、外出することも無く、例に依って例の如く,件の「亀」の奴が泳ぐ様を眺めていたところ、その「亀」が「うらがへり」になって泳いだことが因をなして「水槽」の水が濁ってしまった、と立腹して、「こころが折れ」てしまったのであるが、それでも尚且つ、強情にも「(私は)こころが折れるといふ言ひ方」が「きらひ」と言い張る歌人ご自身である。
世間一般に「才色兼備の熟女という者は始末に負えない生き物である」とは言うが、つくばみらい市の坂井家の場合は、同じ生き物のご主人様もなかなか大変であるが、それ以上に水槽の中に飼われている亀も大変である!
○ 青春は解けないテストの空らんを真夏で埋めていくような日々 貝澤駿一
「解けないテストの空らん」が「空らん」のままで終わる「青春」も在るが、本作の作者の場合は、そのままでは終わらずに「真夏で埋め」られたのであるから、一応は充実した青春であったのだろう。
ところで、「解けないテストの空らんを真夏で埋めていく」とあるのは、本作の作者の青春は、甲子園を目指したの野球練習に明け暮れした「青春」であったのであろうか?
手抜きをせずに「空らん」は「空欄」と漢字書きにするべきである。
○ 林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く 齋藤芳生
「齋藤芳生」も、昔はともかくとして、今は一応は福島県民であり、立派な被災者でもありますが、その福島県民としての被災者意識が、「こころさらしてみちのくは泣く」という、下の句の表現を齎したのでありましょうか?
「林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらして」という、四句目までの言葉の流れが素晴らしいだけに、それを受ける五句目が「みちのくは泣く」という、常套的にして安易な表現になっているが惜しまれる。
このような作品の解釈に当たっては、意味を追って行くことを重視する必要は無く、言葉の美しい流れに浸って詠むべきなのである。
○ 方形に留められたる牛乳のこの世のかたち提げて帰りぬ 辻 聡之
「方形に留められたる」、1リットル入りの「牛乳」パックの形こそは、正しく「この世のかたち」である。
その「この世のかたち」を「提げて」、辻聡之さんはご帰宅なさったのでありましょう。
ところで、辻聡之さんのお住まいは、「ⅠDKマンション」でありましょうか?
○ 蛇口から零れる光に差しいだす手のひらのなかに子の手を洗う 平山繁美
「(蛇口から零れる光に差しいだす)手のひら」とは、作中主体、即ち、本作の作者・平山繁美さんの「手のひら」でありましょうか、作中の「子」の「手のひら」でありましょうか?
仮に、件の「手のひら」が作中主体の「手のひら」であったとしたならば、この作品から読み取れるモノは、一に、作中主体の心を領している〈ナルシシズム・自己愛〉でありましょう。
○ 右胸に「ブラック・ジャック」の顔の瑕再建はせず女を徹す 石橋陽子
「『ブラック・ジャック』の顔の瑕」とは、乳癌の手術痕でありましょうか?
そうだとしたら、本作は、乳房を失った悲しみの情を詠った歌であると同時に、それとは裏腹な女性心理、即ち、「女性性としてのナルシシズム」を詠った歌でもありましょう。
○ 夕暮れをシチューの香りキッチンに満ちて「待つ」とは確かなかたち 池田 玲
「温かくて美味しいご馳走、即ち、『シチュー』を作って夫の帰宅を待つ事の嬉しさ、という、極めて普遍的な女性心理を詠った作品であり、深読みを許さない単純明解な歌である。
○ 「八重桜の木があつたのよ」無きものは夕べの庭に人を立たしむ 桜川冴子
件の「八重桜の木」は、かつては「庭」に立っていたのであるが、今、現在は「無き」が故に、「夕べの庭に人を立たしむ」るのである。
何かの喩えみたいな内容の歌であるが、深読みすれば、「人間も長生きしたいなどと欲張らずに、適当な時期になったら死ぬのが宜しい」とでも言っているような気がする。
何方の作品の場合でも同じことであるが、奥行が深く優れた一首から読み取れるものは、時にはお互いに裏腹な関係にあるものを含めて、色々様々であり、多岐に亘るのであるが、佐怒賀弘子作のこの一首から、「郷愁と人恋しさと幼児性と女性性と甘え」、そして「欠落感と寂しさ」を指摘のは極めて容易なことでありましょう。
私は、過日行われた麻生短歌会の九月歌会での彼女の詠草「ふりむけばだあれもいない炎昼よ極楽鳥花に狙われている」を解釈し批評するに際して、佐怒賀短歌のもう一つの特質であり魅力でもある「ナルシシズム・自己愛・自尊心」を、あまりにも声高に指摘したかったが故に、こうした要素と共に彼女の短歌のもう一つの特質であり魅力でもある、前述の「欠落感・人恋しさ・甘え・寂しさ」といった要素を指摘する事を忘れていたのでありました。
就きましては、この機会を借りて、私は、前掲「ふりむけばだあれもいない炎昼よ〜〜」という一首に就いての、そうした点に就いても指摘させていただき、深くお詫び申し上げます。
○ 誤植多き資料読み終え疲れたり春をのったり鎮める夕陽 寺戸和子
「誤植多き資料」を読むのは、如何なる場合に於いても、精神的にも肉体的にも「疲れ」るものであるが、本作の作者の場合は、その「誤植多き資料」の解釈などに就いて、さんざん悩まされ、ぶつぶつぶつと不平を言いながらも、とにもかくにも「読み終え」たのである。
ところが、豈に図らんや、「読み終え」て頭を上げた作者の視線の彼方に在ったのは、「春」景色の中を「のったり」のったりと「鎮」み行く「夕陽」だったのである。
ところで、件の「のったりのったりと沈み行く夕陽」は、疲れ果てた彼女の心にひと時の癒しを与えたのでありましょうか?
それとも、本作の作者・寺戸和子さんは、件の夕陽に向かって、「のったりのったりと沈んで行く、このうすのろの夕陽め!目障りになるから、あの山の西の端にさっさと立ち去れ!」とばかり、金切り声を上げて罵ったのでありましょうか!
○ 亀うらがへり濁る水槽青葉の日 こころが折れるといふ言ひ方きらひ 米川千嘉子
若かりし頃は、前途有望な一青年・坂井修一をして、「青乙女なぜなぜ青いぽうぽうと息ふきかけて春菊を食う」と詠わしめ、「水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器」と悩ましめた作者も亦、ご子息が自立し、遠く離れた地に赴任してしまうと、短歌を詠む以外に時間の潰しようが無くなってしまい、ご夫君と二人暮らしの我が家の「水槽」に「亀」を飼い、彼が裏返しになって泳ぐ様をひがないちんち眺めていたりするのでありましょう。
だが、本作の題材となっているのは、件の「亀」そのものでは無くて、せっかくの「青葉の日」だというのに、外出することも無く、例に依って例の如く,件の「亀」の奴が泳ぐ様を眺めていたところ、その「亀」が「うらがへり」になって泳いだことが因をなして「水槽」の水が濁ってしまった、と立腹して、「こころが折れ」てしまったのであるが、それでも尚且つ、強情にも「(私は)こころが折れるといふ言ひ方」が「きらひ」と言い張る歌人ご自身である。
世間一般に「才色兼備の熟女という者は始末に負えない生き物である」とは言うが、つくばみらい市の坂井家の場合は、同じ生き物のご主人様もなかなか大変であるが、それ以上に水槽の中に飼われている亀も大変である!
○ 青春は解けないテストの空らんを真夏で埋めていくような日々 貝澤駿一
「解けないテストの空らん」が「空らん」のままで終わる「青春」も在るが、本作の作者の場合は、そのままでは終わらずに「真夏で埋め」られたのであるから、一応は充実した青春であったのだろう。
ところで、「解けないテストの空らんを真夏で埋めていく」とあるのは、本作の作者の青春は、甲子園を目指したの野球練習に明け暮れした「青春」であったのであろうか?
手抜きをせずに「空らん」は「空欄」と漢字書きにするべきである。
○ 林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く 齋藤芳生
「齋藤芳生」も、昔はともかくとして、今は一応は福島県民であり、立派な被災者でもありますが、その福島県民としての被災者意識が、「こころさらしてみちのくは泣く」という、下の句の表現を齎したのでありましょうか?
「林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらして」という、四句目までの言葉の流れが素晴らしいだけに、それを受ける五句目が「みちのくは泣く」という、常套的にして安易な表現になっているが惜しまれる。
このような作品の解釈に当たっては、意味を追って行くことを重視する必要は無く、言葉の美しい流れに浸って詠むべきなのである。
○ 方形に留められたる牛乳のこの世のかたち提げて帰りぬ 辻 聡之
「方形に留められたる」、1リットル入りの「牛乳」パックの形こそは、正しく「この世のかたち」である。
その「この世のかたち」を「提げて」、辻聡之さんはご帰宅なさったのでありましょう。
ところで、辻聡之さんのお住まいは、「ⅠDKマンション」でありましょうか?
○ 蛇口から零れる光に差しいだす手のひらのなかに子の手を洗う 平山繁美
「(蛇口から零れる光に差しいだす)手のひら」とは、作中主体、即ち、本作の作者・平山繁美さんの「手のひら」でありましょうか、作中の「子」の「手のひら」でありましょうか?
仮に、件の「手のひら」が作中主体の「手のひら」であったとしたならば、この作品から読み取れるモノは、一に、作中主体の心を領している〈ナルシシズム・自己愛〉でありましょう。
○ 右胸に「ブラック・ジャック」の顔の瑕再建はせず女を徹す 石橋陽子
「『ブラック・ジャック』の顔の瑕」とは、乳癌の手術痕でありましょうか?
そうだとしたら、本作は、乳房を失った悲しみの情を詠った歌であると同時に、それとは裏腹な女性心理、即ち、「女性性としてのナルシシズム」を詠った歌でもありましょう。
○ 夕暮れをシチューの香りキッチンに満ちて「待つ」とは確かなかたち 池田 玲
「温かくて美味しいご馳走、即ち、『シチュー』を作って夫の帰宅を待つ事の嬉しさ、という、極めて普遍的な女性心理を詠った作品であり、深読みを許さない単純明解な歌である。
○ 「八重桜の木があつたのよ」無きものは夕べの庭に人を立たしむ 桜川冴子
件の「八重桜の木」は、かつては「庭」に立っていたのであるが、今、現在は「無き」が故に、「夕べの庭に人を立たしむ」るのである。
何かの喩えみたいな内容の歌であるが、深読みすれば、「人間も長生きしたいなどと欲張らずに、適当な時期になったら死ぬのが宜しい」とでも言っているような気がする。