神話の里高千穂に日がかたむき始める刻、今宵天下る神々の舞台を整えるかのように、奥の峰から徐に雲がわき出てきて麓の里に忍び寄ってくる。先触れとなる雲の切れ間にその姿がかいま見えそうで思わずシャッターを切った。
先日カメラ仲間と天草に撮影に行った時の分です。自転車で遊びに来ていた子どもたちはカメラを意識して行動が不自然でしたが、魚釣っているおじさんは自然体で、ちゃちゃとテトラポット毎に探りを入れて移動していきました。やはり人物が入るといいですね。個人が特定されないような配慮がいるので後ろ姿です。後ろ姿の方が語りかけることが多いことってありますよね。いつかそんな写真が撮りたいですね。
今年は去年ほど入道雲を見ていない。全体的に気温も昨年の体温近いものも少なかったし、長雨もあってその分発生数が少なかったのかもしれない。
見ているうちに姿を変えていくような、気合いの入った入道雲を見ると一気にテンションが上がって夏に生きているって気分になる。去年は学校に出ずっぱりで職員室の窓から外を眺めてばかりいたから余計に入道雲を探していたのかな?
で・・・明日は31日!いよいよ覚悟を決めなくてはいけないけど、年とって来るにつれて諦めが悪くなってくるような気がする。学校が動き出せばそれなりに頑張るであろう自分も分かっているけど、それまではじたばたするのもいいかな!?まだ自分の立ち位置が落ち着かないので困っている。
小学生の頃よく遊んだ通称「東の前」です。写真で見るとのどかな田舎の橋ですが、当時は周囲を鬱蒼とした木々が覆っていて、もっと水量も多く淵は得体の知れない主が潜んでいるみたいに緑の水をたたえていました。子どもの目には石組みの橋桁は力強く、水路は大がかりなものでした。そして水面に流れ落ちる堰の下は大きくえぐれていて、そこには大人ほどもある大きな鯉がいるとか、子どもを引きずり込む河童がいるとか信じていました。僕たちはそうした一種の畏れや聖域としてここで遊ぶ時は数人で遊ぶのがもっぱらでした。
今、周りの竹や木が伐採され、水量も少なくなったただの施設が夏の日差しの中にさらけ出されると、あの時みんなが畏怖した世界がこんなに狭い空間の中で成立していたのが不思議でもあり愛おしくもあります。ここを初めて見る人にとってはただの橋であり、農業用水の取り込み施設でしかないだろう。でも、この空間は狭いものになってしまったけど、今以上に想像の世界は広かったのは確かだった。
ここに精霊的なものの姿を見ることはないだろう。精霊と共に私たちの心のあるものも閉じてしまった気がした。
今、周りの竹や木が伐採され、水量も少なくなったただの施設が夏の日差しの中にさらけ出されると、あの時みんなが畏怖した世界がこんなに狭い空間の中で成立していたのが不思議でもあり愛おしくもあります。ここを初めて見る人にとってはただの橋であり、農業用水の取り込み施設でしかないだろう。でも、この空間は狭いものになってしまったけど、今以上に想像の世界は広かったのは確かだった。
ここに精霊的なものの姿を見ることはないだろう。精霊と共に私たちの心のあるものも閉じてしまった気がした。
高島野十郎の里帰り展が久留米であっていいるので、久しぶりに石橋美術館に行ってきました。
バラ(夏なのに)に囲まれた噴水では、白い鳥の口から一条の水が青空に微妙な放物線を描いていました。
野十郎の作品は色調が暗いのとねじれたような曲線が多くイラっとさせられるのですが、月とろうそくが好きなのでそこだけはしっかり見てきました。月は印刷された図録では分からないけど、実物は外縁部の深いグリーンがきれいでした。ろうそくは別館に集めて展示してあったのですが、暗い部屋に並べられたろうそく達がスポットで浮かび上がるように展示してあり、一瞬霊安室に入ったような気がしました。一つ一つのろうそくは希望を感じさせるものですが、並ぶと何とも陰鬱な気持ちになります。
その反動か外に出て暑い照り返しと夏空に白い雲がとての新鮮に思えました。
ネネ(♀5歳)です。遊びが本気なるタイプで、ネネとじゃれていると仕舞いにはガブリときます。向こう気が強く、きわめて攻撃的な性格で平和主義のニナは目が合うとスッとその場を離れる賢い対応を覚えました。そのあねさんネネもさすがにこの暑さは応えてるようで終日デレデレです。
今日も暑い一日です。熊本独特のムッと湿気が立ちこめたような…これが夕立になって一気に降ってくれればそれなりに涼しくなるのですが
ニナはエアコン入れていても舌出しっぱなしで荒い呼吸です。で30分ほど車を走らせて菊池川の上流まで行って川遊びです。幸い誰もいなくてノーリードでOK!ラッキーでした。水温は低めで私も水着で行ったのですが、腰までつかるだけで十分です。ニナはボールを取って戻ってくるのが大好きで何度も繰り返し要求します。川の中程は足が着く浅瀬があり、所々深みもありで泳ぎの練習も兼ねられていい場所です。おかげでラブなのに苦手だった泳ぎも少しずつ上手になってきてます。
冷たい水で低体温症にならないか心配でしたが、ニナにはそんなこと関係ないみたいでエンドレスで遊び続けて満足そうです。
ニナはエアコン入れていても舌出しっぱなしで荒い呼吸です。で30分ほど車を走らせて菊池川の上流まで行って川遊びです。幸い誰もいなくてノーリードでOK!ラッキーでした。水温は低めで私も水着で行ったのですが、腰までつかるだけで十分です。ニナはボールを取って戻ってくるのが大好きで何度も繰り返し要求します。川の中程は足が着く浅瀬があり、所々深みもありで泳ぎの練習も兼ねられていい場所です。おかげでラブなのに苦手だった泳ぎも少しずつ上手になってきてます。
冷たい水で低体温症にならないか心配でしたが、ニナにはそんなこと関係ないみたいでエンドレスで遊び続けて満足そうです。
年休で昼から帰ってニナを連れて鞍岳までドライブです。
昨日の雨と強い風で空気中のゴミがすっかりとれて、窓から見える木々は一面の緑!車を止めてヒグラシの鳴く木々を抜ける頃には軽く一汗かきました。草付きの草原に出ると所々にゆうすげやアザミが頼りなさそうに揺れていました。平日なので誰もいなくて全山貸し切りでニナもノーリードで走り回ってました。頂上からは金峰山の向こうに聳える雲仙から久住の煙までくっきりで近づいてくる雲の影が山肌に沿って様々に表情を変えるのを眺めたり、ぽっかり浮かんだ雲が形を変えていく様を横から眺めたりして過ごしました。こんな時ニナはそばでじっと付き合ってくれます。ありがとね久しぶりのなんかいい時間でした。
太陽がほとんど真上から照りつける時間に田舎の街角に車を停めてフラフラしてきました。「街」は賑やかな場所を表す言葉ですが、遠い過去にこの町はその最盛期を迎え、それからゆっくりゆっくりと朽ちていく「街」もまた街ですね。その街に暮らす人々の営みがたまらなく愛おしく思えます。住めばきっと色々なしがらみや愛憎がうごめいて、巻き込まれて心をすり減らして生きていくか、変人と呼ばれてもいいと開き直って生きる覚悟がないと難しいと分かっているけど…どちらの覚悟も持てない私はただ通りすがりに街の空気を身にまとい、強すぎる太陽光線が作り出す陰影の濃い街をしかめっ面で歩くだけです。
ニナの水遊び場を探してあちこち回っているうちに矢部で円形分水を見つけました。近くの川は残念ながら水遊びには、水質・周囲の状況等からあまり適していませんでした。かわいそうですがニナには退屈なドライブになってしまったようです。
円形分水は農業用水を各地区に一定水量毎にに割り振るためのものです。水路からサイホン式みたいに一度地下を通った水は円刑分水器の中央から湧き出します。均等に湧き上がった水は外周に7:3の比率になるような区分けに沿って溢れた水は、その比率によって外円内の水路をとおりそれぞれの用水路へ導かれていきます。
父の里は平野部で広々とした水田が広がる集落で、小学生の頃に川上の集落と水争いで石を投げ合ったという話を聞いた事がある。当時の人の「水は即命」に直結していたという事を思い出した。
私は様々な思いを宙に浮かべたまま、水の流れに飽きもせずに見入ってしまいました。
円形分水は農業用水を各地区に一定水量毎にに割り振るためのものです。水路からサイホン式みたいに一度地下を通った水は円刑分水器の中央から湧き出します。均等に湧き上がった水は外周に7:3の比率になるような区分けに沿って溢れた水は、その比率によって外円内の水路をとおりそれぞれの用水路へ導かれていきます。
父の里は平野部で広々とした水田が広がる集落で、小学生の頃に川上の集落と水争いで石を投げ合ったという話を聞いた事がある。当時の人の「水は即命」に直結していたという事を思い出した。
私は様々な思いを宙に浮かべたまま、水の流れに飽きもせずに見入ってしまいました。