小学生の頃よく遊んだ通称「東の前」です。写真で見るとのどかな田舎の橋ですが、当時は周囲を鬱蒼とした木々が覆っていて、もっと水量も多く淵は得体の知れない主が潜んでいるみたいに緑の水をたたえていました。子どもの目には石組みの橋桁は力強く、水路は大がかりなものでした。そして水面に流れ落ちる堰の下は大きくえぐれていて、そこには大人ほどもある大きな鯉がいるとか、子どもを引きずり込む河童がいるとか信じていました。僕たちはそうした一種の畏れや聖域としてここで遊ぶ時は数人で遊ぶのがもっぱらでした。
今、周りの竹や木が伐採され、水量も少なくなったただの施設が夏の日差しの中にさらけ出されると、あの時みんなが畏怖した世界がこんなに狭い空間の中で成立していたのが不思議でもあり愛おしくもあります。ここを初めて見る人にとってはただの橋であり、農業用水の取り込み施設でしかないだろう。でも、この空間は狭いものになってしまったけど、今以上に想像の世界は広かったのは確かだった。
ここに精霊的なものの姿を見ることはないだろう。精霊と共に私たちの心のあるものも閉じてしまった気がした。
今、周りの竹や木が伐採され、水量も少なくなったただの施設が夏の日差しの中にさらけ出されると、あの時みんなが畏怖した世界がこんなに狭い空間の中で成立していたのが不思議でもあり愛おしくもあります。ここを初めて見る人にとってはただの橋であり、農業用水の取り込み施設でしかないだろう。でも、この空間は狭いものになってしまったけど、今以上に想像の世界は広かったのは確かだった。
ここに精霊的なものの姿を見ることはないだろう。精霊と共に私たちの心のあるものも閉じてしまった気がした。
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