ただなんとなくね

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サクラ さくら

2009-04-08 | Weblog
ここ数日花冷えが続き、桜が散らずに咲いている。桜と言うと再春荘の桜を思い出す。
 再春荘は戦前から続く結核を専門とする病院である。桜の咲く時期に私は初任ではじめて隣接するその病棟を訪れた。当時の病院は今以上にサナトリウムの雰囲気を残していた。その時廊下で桜を眺めている老人に出会った。彼はどうやってここまで来ることができたのだろうかといぶかしく思えるほど枯れた手をしていた。しかしそこには穏やかな日差しが、彼の影を柔らかくリノリウムの床に落とし、ほとんど止まってしまったのではないかと思うほどゆっくりと流れる時間があった。病棟をつなぐ長い廊下を歩きながら、幼い時、入院していた母を面会に来て帰る時、寂しがる私に母が買ってくれた少年マガジンを手にずっと下を向いて歩いた長く青い床を思い出していた。
 世の中は全て始まりと終わりがあり、人には出会いと別れがありバランスが図られている。しかしここにある天秤はいささか別れの方に傾きすぎているようだ。
 再春荘にはたくさんの桜がある。しかも結構な年数を経た古木ばかりだ。しかもその枝は車いすに乗った人にも手が届くほど低く花を咲かせる優しい桜達だ。
 去年の春休み異動が決まった私は満開のさくらの下で、転勤までの日々を昼休みになると弁当を買ってお気に入りの桜の下のベンチに座り、勤務した12年間を振り返る時間にしていた。桜を見上げながら、自分のやってきた仕事・・・出会った人たち・・・愛したこと・・・憎んだこと・・・とりとめなく浮かんでは消えていく。今更答えを出すこともなく、殊更これからに思いをはせることもない時間。あの時廊下で出会った老人の気持ちが少し分かる気がした。
 山桜は数百年を生きるが、染井吉野の寿命は人間とほぼ同じらしい。私の好きな桜は私より長く生きてきたようで、近くにある別の桜と比べると花着きも若干少なくなり、樹勢の衰えは隠せない。この桜はあと何年花を咲かせることができるのだろうか。あと何年私はこの桜を見ることができるのだろうか。満開の桜の花に囲まれながら、私は別れの扉が開く刻を想像していた。
コメント
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