美しい海辺のリゾートへ旅行に出かけた失明間近の母とその息子。遠方の大学への入学を控えた息子の心には、さまざまな思いが去来する―なにげない心の交流が胸を打つ表題作をはじめ、11歳の少年がいかがわしい酒場で大人の世界を垣間見る「カフェ・ラブリーで」、闘鶏に負けつづける父を見つめる娘を描く「闘鶏師」など全7篇を収録。人生の切ない断片を温かいまなざしでつづる、タイ系アメリカ人作家による傑作短篇集。
古屋美登里 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)
いかにも文学的な、しかしとても繊細な小説群だ。
南国の熱気あふれる風景を描きながら、それとは裏腹のナイーブな感性に惚れ惚れとする。
すばらしい短編集と断言していいだろう。
まず冒頭の『ガイジン』からして、すてきだ。
タイは観光地として有名なわけで、そこには多くのガイジンたちが来る。
本作は、そんなガイジンたちをタイ人の視線から描いていておもしろい。
観光用に象を乗せる店の看板や、ココナツの木に登る主人公を見ていると、ガイジンたちがタイという国に望むのは、結局のところエキゾチシズムなのだ、と気づかされる。
現地の人間は、そんなガイジンたちが喜ぶようなことをし、欲求を満たしているわけだが、同時にそれが、うすっぺらい情緒でしかないことも見透かしているのだ。
そのどこか醒めた視点が良い。
主人公である「ぼく」と関係を持つ観光客も、異国でのアバンチュールを堪能したいだけで、深い関係を望んでいるわけではない。
彼らガイジンが、現地の人と結ぶのは、あくまで表層的な関係だ。
その結果、タイ人たちはガイジンに対して、相手の心に届かないというわびしさと、憎しみにも似た違和感を覚える。
その繊細な感情の機微を静かに描いており、一読忘れがたいものがある。見事な一品だ。
個人的には『プリシラ』が一番好きかもしれない。
カンボジア移民の少女と、少年たちの交流を描いた作品だがこれがまたいい。
この作品内で、カンボジア難民は、タイの下層階級からは目の敵にされている。
それは自分たちの生活の不満を、難民のせいにしたいからであり、不満を差別という形でぶつけたいからだろう。
しかし「ぼく」とドンのような子どもたちは、そういう不満とは無縁で、難民たちとケンカをすることもあるし、仲良くなることだってある。
そうして「ぼく」たちとプリシラとが仲良くなっていく過程が非常にすてきだ。
そこで描かれているのは、何気ない風景ばかり。けれど、そういった些細な描写を積み重ねることで、少年と少女との間に、友情めいたものが生まれる様子が伝わってくる。
その展開が、大変さわやかでさえある。
とは言え、大人たちは子どもと違い、難民に対して排他的に接する。
実際、大人たちが鼠の発生を難民にせいにしているところを、「ぼく」は聞かされたりもする。子どもに言うことじゃないよな、と思うけれど、これもまた一つの現実だ。
それに対して、「ぼく」が心の中でその偏見を否定する。その場面がなかなか良かった。
そこからは「ぼく」のカンボジア難民に対する愛着が見えるし、声を出して言えないというところには、子どもゆえの無力さも見えて、ぐっと胸に迫る。
そしてその無力さがラストの展開にも、つながるのだろう。
プリシラは、「ぼく」たちと別れるに際し、自分の金の歯をあげようとする。
それは文字通り、むちゃくちゃ痛い場面だ。だけどプリシラにとっては、それほどの苦痛をもってしても、「ぼく」に対して何かをしたかった。
これほどの明確な友情表現を、人はそうそうできるものではない。
それだけに、僕は読んでいてただただ感動するばかりだった。
そのほかにもすてきな作品が多い。
弟思いの優しい兄の態度と、兄が女と二階に行くときの不安そうな弟の姿が印象的な、『カフェ・ラヴリーで』。
不正を行なったがゆえ、友人に対して罪悪感を抱く過程を、丁寧に描いていてすばらしい、『徴兵の日』。
家を出たいと考えながら母のために家に残ろうとする息子の思いと、それを諭す母親の心情が胸に響く、『観光』。
一見気難しい老人が、異国の嫁と孫たちにシンパシーを抱き、息子たち家族を立派だと思うようになる様を、繊細に描いていて感動的な、『こんなところで死にたくない。
世の理不尽をカタルシス的な展開を排除して、徹底的に描いており、その苛烈さが切なくもあり忘れがたい、『闘鶏師』。
と、どれも粒ぞろい。
とにもかくにもハイレベルな作品集と思った次第だ。
現在著者は行方不明らしいが、ぜひともこの人の次作も読んでみたい。そう思わせるだけの力を持った一冊である。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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