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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『切れた鎖』 田中慎弥

2012-01-31 21:17:09 | 小説(国内男性作家)

海峡を目の前にする街に続く旧家・桜井家の梅代は、出戻ってきた娘美佐子と、幼稚園児の孫娘の三人で暮している。古びた屋敷の裏にある在日朝鮮人の教会に、梅代とその母はある憎悪を抱え、烈しく嫌ってきた――。注目の新鋭が圧倒的な筆致で描く芥川賞候補作。
出版社:新潮社




芥川賞の田中慎弥の受賞会見があまりにおもしろかったので、とりあえず一冊読んでみた。

外見からして、いかにも文士然とした感はあったのだけど、作品の内容もその風貌にたがわず、いかにも文学らしいたたずまいを見せている。
幾分古めかしくはあり、流行からはずれた作風だけど、その古風な味わいがまた良い。



表題作『切れた鎖』は、昭和の文学といった感じの作品である。
内容としては、没落しつつある旧家を舞台にした女系四代の話で、その負の連鎖を描いている。
その道具立ての時点で、いかにも古臭い。そしてそれゆえに、今読むと新鮮な気分になれる。

梅子、梅代、美佐子、美佐絵(もっと区別しやすくしてよ、と言いたくなるような名前だ)の四世代の女たちは、性的な鬱屈感と、他者(ここでは隣家の朝鮮系の信仰宗教団体)に対する憎しみを、負の連鎖のように伝えていっている。

たとえば、梅子は、となりの宗教団体の女(梅子は彼らの団体に根深い差別意識を持っている)に夫を寝取られた娘の梅代に対して、下品な言葉でののしっている。そしてそれがどうやら梅代にとって、トラウマになっていることが感じられる。
一方の梅代は、娘の美佐子に対して、隣の子(ひょっとしたら逃げて行った夫の子かもしれない)との接触を極端に制限するようになる。そしてそういった梅代の態度が、美佐子に隣家に対する差別意識と、性的にだらしない性格を形成する一要素になっていることが感じられる。
そして美佐子の娘の美佐絵は、いまだ無自覚ながら、性的に乱れた母に対し憎悪の芽のようなものを抱き始めている。そしてやはり先の世代と同様、隣家に対する謂れのない差別心を持ち始めている。

そんな四代の負のつながりを生み出したのは、旧家特有の抑圧なのだろう、と見えるのだ。
梅代も、美佐子も、母親からトラウマを植えつけられるような家庭に対して、居心地の悪さを感じていた。
だからか二人とも、その家から逃れたいようなことを口にする。そして二人は、本気でそれを願っていたのだ。
だけど結果的に、二人はその家から出て行けず、憎しみのような感情を、下の世代に伝えるだけで終わっている。その連関が、読んでいて痛ましい。

しかしラストは、ひょっとしたらその連鎖が終わるかもしれない、という淡い期待を抱かせるものになっている。
幼い美佐絵は、ラストで、自分の伯父かもしれない隣家の男に、差別的なふるまいをする。
それに対し、梅代は、「あんなこと、誰のためにもなりません」と言っている。
それをもって、これで負の連鎖が止まると考えるのは早計かもしれない。
だがそんな基本的な面を教えることから、物事に対する解放は始まるのかもしれない。そうも僕は感じられた。



併録作品では、『不意の償い』がおもしろかった。
恋人と初めてのセックスをしていた、まさにそのときに、親が焼死してしまった男を主人公にしているが、その心理描写がすばらしい。
男は、そんな重要なときにセックスしていた自分に罪悪感を覚えている。また結婚した後、欲望のまま妻とセックスして妊娠させたことに、いつまでもうじうじと悩んでいる。

そしてそんな男のうじうじが、やがて統合失調症気味の狂気に変わっていく過程がすさまじかった。
彼は男性的な要素にふり回される自分に対して、自己嫌悪を持っているのだろう。それが狂気に変貌していく様を無理なく読ませて、圧巻である。

だがそんなある種、男性的かつ理性的な感情も、子を産む、という女性的な行動によって、あっさり打ち砕かれてしまう。
その流れが、ちょっと爽やかでさえあり、深く心に届いた。



『蛹』もおもしろい作品だった。
みんなが地上に出て行く中、からを突き破れず、戦いの場に出られない。その理由を、言い訳がましい言葉を連ねている点がおもしろい。
言い換えれば、これは引きこもりのメタファーなのだろう。
だがそれにとどまらず、同時に父性的要素に対する違和感も、丁寧につづっている点を興味深く読んだ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『蕎麦ときしめん』 清水義範

2012-01-22 21:32:26 | 小説(国内男性作家)

読者はパスティーシュという言葉を知っているか?これはフランス語で模倣作品という意味である。じつは作者清水義範はこの言葉を知らなかった。知らずにパスティーシュをしてしまったのだ。鬼才野坂昭如をして「とんでもない小説」と言わしめた、とんでもないパスティーシュ作品の数々、じっくりとお楽しみを。
出版社:講談社(講談社文庫)




清水義範の作品を読むのは初めてだけど、器用で、本当に笑える作品が多く、読んでいる間はニヤニヤしっぱなしである。
名古屋オリンピックの話とか、タモリのネタとか、古い部分は多いけれど、楽しい一冊である。

個人的に一番おもしろかったのは、司馬遼太郎のパロディである、『商道をゆく』と『猿蟹の賦』である。
この筆致が本当に司馬とそっくりですばらしかった。
脱線の仕方といい、そこから本筋にもどすときの言葉遣い、といい、本当に元ネタの特徴をよくつかんでいる。ほかにも改行の仕方や、独白の入れ方、歴史に対する考察の口調など、どれもいかにも司馬風。
本当に上手い人だな、と読みながら、感心することしきりであった。

そのほかには、『序文』もおもしろい。
学術書の序文タッチでありながら、ここまでおもしろい作品をつくるとは、本当に見事だ。
内容も良い。トンデモ学説すれすれの話でさえそれっぽく書けば正当化されてしまう。そういったことに皮肉を利かせているようにも見え、楽しい一冊であった。

また、納得できる部分もあり、おもしろくもある、『蕎麦ときしめん』『きしめんの逆襲』、
老人たちの会話やヘボ麻雀に笑い、意表をつくラストににやりとさせられる、『三人の雀鬼』、
とそのほかの作品もおもしろい。
個人的には納得の一冊であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『太陽の季節』 石原慎太郎

2011-12-07 19:54:28 | 小説(国内男性作家)

女とは肉体の歓び以外のものではない。友とは取引の相手でしかない……退屈で窮屈な既成の価値や倫理にのびやかに反逆し、若き戦後世代の肉体と性を真正面から描いた「太陽の季節」。最年少で芥川賞を受賞したデビュー作は戦後社会に新鮮な衝撃を与えた。人生の真相を虚無の底に見つめた「灰色の教室」、死に隣接する限界状況を捉えた「処刑の部屋」他、挑戦し挑発する全5編。
出版社:新潮社(新潮文庫)




毀誉褒貶。
石原慎太郎を評する言葉を探すなら、この言葉が一番適切だと僕は思う。
その行動力に対する世評は高いし、露悪的とも取れる言動には非難も多い。
彼のデビュー作『太陽の季節』は、ある意味、そんな石原慎太郎らしさがよく出た作品と感じる。


『太陽の季節』は露悪的な作品である。
少なくとも倫理的観点からすると、眉をひそめたくなるような内容だ。

主人公の竜哉は、英子という女性に惹かれ、彼女をものにしようと奔走する。それが物語のきっかけだ。
そう書くといかにも青春小説的な出足だが、少し事情が異なるのは、竜哉が彼女に惹かれた理由が、彼に対して「抵抗」する女だからという点にあるだろう。
彼は、そんな風に抵抗する女を手に入れることに喜びを感じるタイプの人間なのだ。
だからだろう。やがて彼は英子を抱くが、一回ものにした途端、彼の愛情は醒めてしまうのである。

そこからの竜哉が本当にひどい。
竜哉はそれ以降、女の愛情をひたすら試すような行動に打って出る。英子を自分の兄に抱かせるところなどはいい例だ。
サディスティックと言えばそれまでだけど、竜哉はことによると、女の心を支配しているという状況が楽しいかもしれないな、と読んでいて感じる。
そして竜哉はそういう風にしか、女を愛せない人間なのだろう。

そんな竜哉のいちいちが本当に不快でたまらなかった。
彼は支配欲が強く、暴力的で、刹那的で、退廃的で、虚無的で、変に計算高く、基本的に身勝手なのである。男根主義とも言えるかもしれない。
また物事に反発する場合でも、明確なビジョンの元で反発するわけではなく、反発するために反発している感が強い。
そういう点、彼はどうしようもないくらいに未熟なのだろう。
子どもに関する部分なんかは、そんな彼の側面が端的に現われたものだと思う。

しかし、そんな風に最悪な人物を主人公にしているのに、ふしぎと楽しく読むことができた。
それはそんな不愉快な青年の心理を丁寧にあぶり出しているからにほかならない。
ここまで不快に感じるのも、それだけ主人公の存在感にリアリティがあり、彼なりの論理を追体験できるからだと思う。

挑発的な作風ゆえに叩かれやすいし、僕個人、絶対に人には勧めないが、これはこれで決して悪い作品ではない。そう思う次第だ。


併録の作品も、基本的にろくでもない主人公ばかりだが、それなりにおもしろい。
『処刑の部屋』は、最後のリンチシーンに漂う、凄みと鬼気迫る雰囲気が忘れがたい。
『ヨットと少年』は、主人公のガキくささと、悪たれっぷりを描く、筆致の丁寧さが印象に残っている。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『夜と霧の隅で』 北杜夫

2011-11-11 20:26:18 | 小説(国内男性作家)

第二次大戦末期、ナチスは不治の精神病者に安死術を施すことを決定した。その指令に抵抗して、不治の宣告から患者を救おうと、あらゆる治療を試み、ついに絶望的な脳手術まで行う精神科医たちの苦悩苦闘を描き、極限状況における人間の不安、矛盾を追究した芥川賞受賞の表題作。他に『岩尾根にて』『羽蟻のいる丘』等、透明な論理と香気を帯びた抒情が美しく融合した初期作品、全5編。
出版社:新潮社(新潮文庫)




表題作の『夜と霧の隅で』は、非常に恐ろしい作品である。
そう感じた理由は、作中に漂う狂気じみた空気によるところが大きい。

この作品には、いくつかの狂気が登場する。
ナチス政権下の精神病院を舞台にしているということもあり、精神病質の狂気、そして時代の狂気などはその典型だ。
しかしこの作品において、本当にこわいのは、使命感という理念により、自己正当化された狂気である。


ナチスドイツの時代を描いているためか、作中では狂気じみた考えがそこかしこで見られる。
ユダヤ人迫害がいい例だ。
「ユダヤに対するナチの考えは妄想じゃないのか」とユダヤ人を妻に持つ日本人の精神病患者は問いかけているが、ドイツ人医師は、それをまちがったことと思っていない。
そう信じている点を見ても、この時代が全体的に狂っていたことがよくわかる。

だがそんな彼らでさえ、遺伝因子やらを建前に、不治患者を断種することには抵抗があるらしい。
そういう点、思想の狂気性はあれ、人間としてはきわめてまっとうで、正気ではある。


そしてそれはケルセンブロックという医師も同じなのだ。
彼は患者と接するより、顕微鏡をのぞいている方が好きな学究的な人物だけど、そんな内にこもりがちな彼でも、SSのやり方には衝撃を覚えている。
ひょっとすると彼は、研究室にこもって不治患者を救おうとしなかった自分に後ろめたさがあるのかもしれない。
だからだろうか、彼は患者を救うため、一か八かの博打に打って出る。


だが彼の行動は、はっきり言って異常と断言せざるをえない。

不治患者と見なされていた患者に、手術や薬剤を投与し続ける彼の行動は、彼なりの正義感や義務感からのものかもしれない。
しかし彼の手法と人体実験との間には、どれほどの差があると言うのだろう。

薬剤を大量に投与し、電気ショックを過剰に与え、脳の部位を大量に切除する。
そんな彼の姿は鬼気迫っており、読んでいて恐ろしくなってしまう。
しかも結果的に彼は、大半の患者の症状を悪化させてしまうし、ときには廃人にまで追いやっているのだ。
その結果に、暗澹たる思いを抱かずにはいられない。


そう考えると、正気と狂気との差は紙一重なのかもしれない。
そんな正常と異常のぼやけてしまった雰囲気が、一読忘れがたく、寒気を覚える。
本作はまちがいなくすばらしい作品である。そうここに断言しておこう。



ほかの作品では、『岩尾根にて』もすばらしかった。
冒頭の死体のシーンからショッキングだけど、その後の展開にもぞくりとさせられる。
彼らが惹かれているのは、死、ではないだろうか。そして彼らは恐らく、正気のときであれ、狂気のときであれ、死を追い求めずにはいられない。
そんな朦朧とした感覚が恐ろしく、落ち着かない気持ちにさせられた。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの北杜夫作品感想
 『幽霊 ―或る幼年と青春の物語―』

『樹影譚』 丸谷才一

2011-11-09 21:10:32 | 小説(国内男性作家)

壁に映る樹の影というイメージへの偏愛から、はるか幼少時の記憶にまでさかのぼっていく、「川端康成賞」受賞の名篇「樹影譚」他、精緻きわまる文体を大胆自在に駆使した三つの短篇を収録。いずれもこの作家の奥行きの深さを思わせて、しかもおもしろさ抜群。小説の醍醐味をたっぷり味わうことができるだろう。
出版社:文藝春秋(文春文庫)




『樹影譚』を読もうと思ったきっかけは、丸谷才一が文化勲章を取ったから、ではなくて、ずいぶんむかしに読んだ、村上春樹『若い読者のための短編小説案内』が心に残っていたからというのが大きい。
僕がここで記す以上の深く、するどい読みがされているので、この文章を読むよりも、そちらを読むことを強くお勧めしたい。
以下の文章は自己満足だ。


さて、『樹影譚』を読んで感じたことは、この作品はあらゆる解釈を受け入れているようで、その実、あらゆる解釈を拒否しているのではないか、という疑念である。
それは本作が、読み手の解釈というものを念頭に置いた作品だからかもしれない。


内容自体は、実に凝っている。
物語は、作者が樹の影になぜか興味を惹かれると語るところから始まる。そこから樹の影についての小説を思いついたが、先行作品があるのではないか、という懸念が生じる。しかしそれを覚悟で、自分が考えた小説の筋を、作家は語り始める。その内容とは、ある作家を主人公にしたもので、樹の影に執着するその作家は、ある老女から謎の手紙をもらうことになる、ってな話である。
小説内小説内小説という複雑な入れ子構造になっており、かなり発想がおもしろい。

だが、この作品でおもしろいのは、ラストを大半の人が考えているところからはずしているところだと思う。


この話の真相はどこにあるかは、読んでもはっきりとはわからない。
俗っぽい解釈をするなら、老女は作家の親族であることはまちがいなく、作家は継子である、といったところだろうか。
ある小説(たぶん『暗夜行路』)をわざわざ持ち出し、継子に関する考察をさせ、「あの本は性に合はな」いと語る辺りはいかにも思わせぶりだ。

だけど、そういう解釈がいかにもしっくり来ないのは、主人公の古谷自身が、そんな自分の生い立ちなど最後はどうでもいい、と感じていることだろう。
そのために、そのほかの解釈を持ち出そうとしても、どれもしっくり来ないように感じてしまう。


でも思うのだけど、どの解釈もしっくり来ないという点こそが、この小説の意図なのでは、という気もしなくはないのだ。

まずそもそも、『樹影譚』という作品は、なぜ最初に、小説ができる過程を書いているのであろうか。
それは、己の記憶はあいまいで、完全なものではない、ということをほのめかしているのではないだろうか。

そしてそれは作中小説の主人公、古谷も同じなのだろう、と思う。
古谷はその老母の言葉を解釈しようにも、己の記憶がぼやけたものでしかないため、解釈できずにいる。言うなれば、解釈しようにも、その依って立つ基盤に乏しい、とも言えるだろうか。
その結果、世界は一元的解釈に帰結できず、多義的解釈を生み出すものへと変貌してしまう。

そのように、意味を奪われたような、宙ぶらりんの状態が個人的にはおもしろい、と感じた。


併録の二作品もそれぞれ味があって、おもしろかった。
ともあれ、ハイレベルな作品ということなのだろう。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『取り替え子 チェンジリング』 大江健三郎

2011-10-04 20:01:08 | 小説(国内男性作家)

国際的な作家古義人の義兄で映画監督の吾良が自殺した。動機に不審を抱き鬱々と暮らす古義人は悲哀から逃れるようにドイツへ発つが、そこで偶然吾良の死の手掛かりを得、徐々に真実が立ち現れる。ヤクザの襲撃、性的遍歴、半世紀前の四国での衝撃的な事件…大きな喪失を新生の希望へと繋ぐ、感動の長篇。
出版社:講談社




ずいぶん読みづらい作品である。
本当に久しぶりに大江を読んだので忘れていたけれど、彼の文章には癖があって、すらすらと読み進めることはできない。少なくとも片手間に読むタイプの本ではない。

しかしそんな文章のわりに、ふしぎと退屈と感じることなかった。
それは物語の展開や、知的な考察などが、個人的には楽しく、部分部分で変なパワーもあったのが大きいのかもしれない。個人的には、スッポンを解体するシーンが好きだ。


さて、そうして語られるお話の内容は、大江の私生活を否応なく想起させる。
物語は、作家である古義人の、十代からの友人であり、義兄であり、映画監督の吾良が飛び降り自殺をするところから始まる。
言うまでもなく、古義人は大江であり、吾良は伊丹十三を髣髴とさせる。
物語そのものは、フィクションだろうが、それでも世間から好奇の目で見られかねない題材だ。

そんな話を大江が描いたのは、彼なりに友人である伊丹の死について、総括したかったのかもしれない、なんて思ったりする。


友人の吾良が死んでから古義人は、田亀と呼ばれるヘッドホンを使って、吾良が残したテープを毎日聞くようになる。そのテープを通じて、彼は生前の吾良と会話をしているのだ。
だがもちろん、死んだ人間が生前に残したテープに向かって、返答するという行為は、会話とは呼ばない。
古義人自身が認めているように、それは「自分単独の精神の遊戯」にすぎないのだろう。

そう気づいていながらも、古義人がその行為に「惑溺」するのは、十代のころからの友人で、精神的に深いつながりのあった吾良の自殺に戸惑っていることが大きい、と思う。
そして吾良が自殺した理由が、古義人にもまったくわからないからではないだろうか。

とは言え、テープと会話するという行為が異様なものであることは疑い得ない。おかげで妻や息子から心配される始末だ。
そのため、古義人は、田亀の会話を「Quarantine」(遮断とかそういう意味)しようとする。

しかし田亀を離れても、古義人が考えるのはあくまで吾良のことである。
そこからは古義人の吾良に対する思い入れが強く伝わってくるかのようだ。古義人にとって、吾良はそれだけ重要な友人だったのだろう。
そして吾良と過ごした過去の記憶や、自殺の原因について、古義人なりにいろいろと思いをめぐらせている。


そしてその過程で、古義人は、過去に起きた、忘れられない一つの事件をふり返る。
その事件は二人の間では、トラウマだったらしく、真正面から受け入れることができていなかった。
だが吾良は、死を前に、過去の事件を受け止めるようになっている。
そのことを田亀を通じて聞いた古義人も、吾良と同様に、その事件をしっかりとふり返ることとなる。

その行為は、言うなれば、事件の言語化とも言えるだろう。
そしてそのようにして、事件を捉えることで、二人はようやくそのトラウマティックな過去から解放されたのではないか、と僕には見えた。

その言語化するという行為が、「取り替え子」というモチーフと、子どもの質問に答える形で述べた、ラストの古義人の考えともリンクしてくるのだ、と思う。
そこにあるのは、大事な人の死を悼み、受け入れるまでの、一つの物語だ。

そしてそれゆえに、本作には、ある種のポジティブなメッセージも感じられるのである。
その予感が印象に残り、静かな気持ちで本を置くことができた。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『鼓笛隊の襲来』 三崎亜記

2011-08-19 20:42:49 | 小説(国内男性作家)

赤道上に発生した戦後最大規模の鼓笛隊が、勢力を拡大しながら列島に上陸する。直撃を恐れた住民は次々と避難を開始するが、「わたし」は義母とともに自宅で一夜を過ごすことにした。やがて響き始めたのは、心の奥底まで揺らす悪夢のような行進曲で……(『鼓笛隊の襲来』)。ふと紛れ込んだ不条理が、見慣れたはずの日常を鮮やかに塗り替えていく。著者の奇想が冴えわたる、驚異の傑作短編集。
出版社:集英社(集英社文庫)




シュールな設定の短篇集である。
本書には、二十ページほどの短篇が9つ収められているが、どれも変てこな設定の作品ばかりだ。

自分のなくしたものが展示してある展覧会や、覆面をかぶって生きることが普通になっている社会、人語も解する生きた象が滑り台になる世界など、どれも普通とはかなりずれた世界が描かれている。
それらのアイデアはどれもおもしろく、よくこんなアイデアから、ストーリーをつくれるものだと感心してしまう。
発想力のおもしろさは、一つの魅力だろう。


しかしそこで語られる物語自体は、きわめてオーソドックスと言っていい。

たとえば、表題作の『鼓笛隊の襲来』。
これは、台風をモチーフにした鼓笛隊の集団が登場する話だ。鼓笛隊は、台風と同じように北上し、その音楽を聞き続けていると、多くの人は幼児退行を起こしてしまう。
その鼓笛隊の造形はかなり奇妙だ。本作中で、設定は一番変てことだと僕は思う。

だが書かれている内容は嫁姑問題と、至極まっとうである。
鼓笛隊という異常時を通して、嫁姑関係が和解に向かい、古い知恵が次世代へとつながっていく、という話になるが、その過程は非常に好ましい。
ラストもほんのりとした温かみを感じられ、優しい気分になれる一品であった。


そのほかの作品も、奇抜な設定が盛り込まれている。
そして同時に、お話自体も充分魅力的な作品ばかり。

謎めいた雰囲気と、記憶というものの危うさが感じられて心に残る、『彼女の痕跡展』。
覆面をかぶるという行為から、実存やアイデンティティの問題が立ち上がってきておもしろい、『覆面社員』。
紳士的で、みんなに芸を見せるなど、健気なところもある象の姿に惹かれる、『象さんすべり台のある街』。
SF風の女性の設定がおもしろく、個人のもろさを感じさせる、テーマ性が良い、『突起型選択装置』。
日常に現れる断絶を象徴的に描いたような家の設定と、感傷的な味わいが印象的な、『「欠陥」住宅』。
ラピュタっぽい街で、変てこな恋愛を続ける恋人たちの姿が忘れがたい、『遠距離・恋愛』。
ラストが不気味で、実に恐ろしい、『校庭』。
最後の恋人からのメッセージに、未来に向けての明るさが感じられ、胸に響く、『同じ夜空を見上げて』。
と、どれもおもしろい。


人間というものは、奇妙な世界の中に暮らしていても、普通の状態と何ら変わりなく、何かしらの喪失感を覚えたり、他人と関係を築きながら、それぞれの人生を過ごして行くということなのかもしれない。

アイデアはおもしろく、そんな世界に漂う、少しセンチメンタルな雰囲気と人間ドラマに惹かれる。
やや説明口調に過ぎるし、爆発力には欠けるけれど、独特の味わいをたたえた、良質の短篇集である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの三崎亜記作品感想
 『となり町戦争』

『箱男』 安部公房

2011-08-04 20:40:13 | 小説(国内男性作家)

ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものは? 贋箱男との錯綜した関係、看護婦との絶望的な愛。輝かしいイメージの連鎖と目まぐるしく転換する場面(シーン)。読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神溢れる書下ろし長編。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『箱男』とは、箱というメタファーを通して語られる、単純なシュールレアリスムの小説なんだろうなと、この本の1/4くらいまでの段階では思っていた。
実際、箱はどう見てもメタファーとしか見えない。
物語自体も、箱を、都会における無名性や、他者との接触の回避と絡めているように見え、暗示的である。

だけど物語は、そんなシンプルなメタファーの物語から、僕の予想を越える方向へと逸脱していく。
語り手はいつの間にやら、信頼できない語り手に変わり、物語の内容も、どこまでが現実なのか、どこからが空想の産物なのか、さっぱりわからなくなってくる。そして最終的には、メタ小説の境地に至ってしまう。

そんな後半の展開に、僕は呆然とせざるをえなかった。
この内容をどう捕らえればいいのか、わからず、難解だなという印象が強く残り、途方に暮れざるをえない。僕にはハードルの高い小説だったようだ。


しかし途方に暮れているだけで終わってしまうのも何である。
ついでなので、わからないなりに解釈というか、ざっくりとした読み解きにでも挑戦してみよう。


『箱男』は、ダンボール箱で体全体をすっぽり覆ってしまったカメラマンの話である。
彼の言によると、箱男は、都会ではよく見られる存在であるとのことらしい。そんな箱男に、一人の看護師が近づき、あなたの箱を買おうと提案する。女がその箱を買おうとするのは、彼女とつき合う医師を箱男にするためなのであった。

と、そういう話なのだが、その物語が現実に起こっていることなのか、箱男の妄想なのか、さらに突き詰めるなら、箱男の妄想ですらないのかということがわからない。
叙述されている内容は、時系列通りに追うと、かなり複雑だ。


主設定である箱男は、匿名的な存在であることが、早い段階から示される。
実際、自分の体を箱で覆ってしまえば、目の前にいるのが誰なのか、まったくわからなくなってしまう。

そんな匿名性を利用して、箱男たちが行なうのは、「覗く」ということであるらしい。
匿名性の影にかくれて、彼らは世界をのぞくのだ。

この物語で、「覗き」は主として性的な事象に集中されているけれど、同時に、人が相手を見るということ、人に自分が見られるということの関係性に踏み込んでいるようにも感じられた。
人は見ることに執着するけれど、自分が見られるということには嫌悪する。
人がそれを嫌うのは、見られるという行為が、一種の暴力的な行為(「晒しもの」の例証や、≪Dの場合≫から、そう感じる)でもあるからかもしれない。

つまるところ、人は匿名性の影にかくれていたいのだ。
箱男が虐待されるのは、見られることなく、見るだけに終始する卑怯に対して、糾弾しているということかもしれない。


そのように物語中で展開される、覗く、見る、見られる、という関係性から、僕は次のような印象を受けた。
それは、人は見られることによって、他者から認識され、そこで初めて存在を意識されるのではないか、ということである。
見られるという、一種の暴力的な行為を通じて、人は存在を獲得しているのかもしれない。踏み込み過ぎかもしれないが、僕はそう見える。
あるいは、覗きが性的な事象に集中しているのは、そのこととも関係しているのかもしれない。相手の中で、自分の存在が強く認識されるという状況は、恋愛にも通じることだからだ。

そして本作が、途中から誰が書いているのかわからなくなるのも、見られることによって、自己の存在を獲得する、ということと関係しているのだと感じる。

箱男と贋箱男は、自らの認識はともかく、他者から見れば等価である。
置き換え可能の、等価な存在になった二人なら、語りが置き換え可能になるのも、ふしぎではないのだ。
つまるところ、箱男という匿名性が、自己の存在を危うくしているのだ。
そしてその危うさから、逃れるために、彼は妄想の中に没入していくのである。そのように僕は受け取った。


そういう意味、この物語は、自分の中に閉じこもることでアイデンティティを見失いかける男の物語であり、そのアイデンティティの拠り所を、自身の思考(妄想)の中に求めていく物語、ということなのかもしれない。
そしてその妄想すら、他者と置き換え可能であり、自分を確立する境界は、結局のところ、きわめてあいまいなものでしかないということを記しているのかもしれない。

うん、ぜってぇちがうわ、これ。


きっと、『箱男』は、百人読めば百人の解釈や受け止め方があるのだろう。
本作は僕では到底受け止め切れない、小さな設定の大きな話ということのようだ。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『天地明察』 冲方丁

2011-04-26 20:46:42 | 小説(国内男性作家)

江戸時代、前代未聞のベンチャー事業に生涯を賭けた男がいた。ミッションは「日本独自の暦」を作ること―。碁打ちにして数学者・渋川春海の二十年にわたる奮闘・挫折・喜び、そして恋!早くも読書界沸騰!俊英にして鬼才がおくる新潮流歴史ロマン。
出版社:角川書店




日本人の手による最初の暦、貞享暦をつくった男、渋川春海を主人公にした小説である。
そう書くといかにも堅っ苦しい歴史小説を想像しそうだけど、本作に関しては、そんなものはかけらも感じられなかった。

それはすべて主人公である、渋川春海のキャラによるところが大きいのだろう。
史実はまったくわからないけれど、冲方丁が描き出した渋川春海は、とっても愛いやつなのだ。


渋川春海のキャラ属性は、濃すぎってくらいに濃い。

まず彼は泣き虫だ。仮にも二刀を差しているのに、悔しくて、悲しくて、うれしくて、人前で泣いたりする場面は結構ある。
加えて彼はドジっ子属性も兼ね備えており、あわてたりすると、ものにぶつかったり、転んだりもする。
それだけじゃなく、彼はヘタレでもあり、たとえば道策やえんに強く言われたりすると、反論もできず、はいはい、と押しきられてしまう場面が多い。
ゆえに見るからにとっても頼りない。そりゃあ、えんに限らず発破をかけたくもなるだろう。
それでいて、男女の機微に通じない朴念仁で、いかにも冴えない典型のようだ。

泣き虫でドジっ子で、ヘタレで、にぶちん。
まとめるとそういうことになるが、よくもこれだけのキャラ属性をつめこんだものだ、と感心してしまう。


そんな彼は律儀でマジメというキャラでもあり、その属性ゆえに自分の好きなことに、一所懸命ひたむきに取り組む側面も持ち合わせている。

彼は碁打ちのプロで才能もあるのだけど、彼の好きなものはあくまで碁ではなく、算術の中にある。
実際、関孝和に挑戦し、憧れ、算術の世界に惹きこまれていく春海の感情はとっても熱い。
ああ、この人は本当に算術が好きなんだな、というのが、本当にまっすぐ伝わってくる。

そんな風に、彼が真剣に好きなことに対して情熱を傾けているからこそ、彼の熱意に、読み手である僕も心を動かされてしまうのだ。
それはもう共感と言ってもいい。

だからこそ、僕は作中人物であるはずの渋川春海と共に、一喜一憂してしまう。
彼が関に挑戦して恥をかけば、一緒になって苦しくなり、えんに自覚のないまま、ときめけばこっちもときめき、改暦の儀をみなの推挙で命じられたときは、同じように震えてしまう。

そのようにして、読みながらにして、ときに感動を、ときにつらさや苦々しさを共有し、成長していく過程を追体験することができる。
こういう体験はなかなかできるものではない。
そういう点でも極めてまれで、同時に読書としては、幸福な体験でもあるのだろう。


ラストの方は、渋川春海の一生のダイジェスト版って感じで駆け足になってしまっている。そのため前半に比べると、失速している感は否めない。
それがとっても惜しいのだけど、前半部に感じた共感は、忘れがたく、深く心に響き、感動した。

一人のちょっと頼りない男の、成長と成功と挫折を、一緒になって感じることができる。
『天地明察』は、僕にとって、そういう作品であった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの冲方丁作品感想
 冲方丁『マルドゥック・スクランブル』



PS
この小説にはいくつかの数学の問題が出てくる。
1、2、4問目はすぐにわかるからいいとして、3問目の十五宿はかなり困った問題である。というのもネットで検索したところ、この問題、どうやらまちがっているらしいのだ。
これを解くのに、僕は1時間格闘した。
星の大きさの平均値から、箕か斗くらいに極大のある三次方程式だ、いやシンプルに二次方程式でいいのかな、とか、一つ一つの星ではなく、星のグループととらえてみてはどうだろう、とか、わけのわからない推論をいろいろ立てまくったものである。
しかしどう考えても、解はとんでもないものにしかならない。この手の小説に載っている以上、答えはシンプルだと思うのに、単純な答えにはいきつかない。
最終的に降参して、ネットで答えを調べ、そういうオチか、と愕然としたことを思い出す。
この感想を見てから、この本を読む人は(いるのか?)、真剣に答えを出そうとしないようにしましょう。

『神の子どもたちはみな踊る』 村上春樹

2011-04-11 19:44:10 | 小説(国内男性作家)

1995年1月、地震はすべてを一瞬のうちに壊滅させた。そして2月、流木が燃える冬の海岸で、あるいは、小箱を携えた男が向かった釧路で、かえるくんが地底でみみずくんと闘う東京で、世界はしずかに共振をはじめる…。大地は裂けた。神は、いないのかもしれない。でも、おそらく、あの震災のずっと前から、ぼくたちは内なる廃墟を抱えていた―。深い闇の中に光を放つ6つの黙示録。
出版社:新潮社(新潮文庫)




本作は阪神淡路大震災の翌月を舞台にした、連作短編集である。
どの作品も地震がモチーフになっているが、地震による直接の被災者は出てこない。

この作品において、地震はあくまで暗喩だ。
それは、人間を唐突に襲うような理不尽の象徴であり、同時に、自分の内側にひそむ負の要素を象徴するものなのだ、と個人的には感じる。
抽象的にざっくり言ってしまうなら、内因性、ないし外因性の闇、なのかもしれない。


本作には全部で6篇の小説が収められているが、どの作品もストーリー的に充分おもしろく、表面で見える以上に深いテーマを内包している。
総じてレベルは高く、満足のいくものばかり。特に『蜂蜜パイ』は傑作の部類に入ると思う。

そんな地震というメタファーに貫かれた6篇の作品は、以下の3つのグループに分けられると解釈する。

一つ目は、内因性ないし、外因性の闇が、日常生活に顔をのぞかせる作品、
二つ目は、内因性ないし、外因性の闇を、自覚し、認識し、受け入れる作品、
三つ目は、内因性ないし、外因性の闇に、立ち向かう作品、だ。


一つ目のグループとしては、『UFOが釧路に降りる』、『アイロンのある風景』 がある。
2作品とも、各人の抱えている暗い要素が、ふとした瞬間に顔をのぞかせている。

両作品とも、主人公はそれなりの問題を抱えている。
『UFOが釧路に降りる』の小村は、本人が思っているほど、妻との間にちゃんとしたきずなをつくれていないことがあらわになっている。
また、『アイロンのある風景』の順子は、毎日をそれなりに過しているけれど、家族がらみの会話や物語を読んでいると、どこかで孤独を抱えているように見えなくもない。

そんな自分たちの存在を、二人は「からっぽ」だと感じている。
それは、人との強いつながりを築けていない自分たちは、他人に対して与えられるものがない、ということかなと個人的には思ったが、もう少し広い意味があるような気もする。
何にしろ、それは自分の存在をゆるがすような、苦しい予感だ。
それだけに読んでいて、ぞくりとさせられ、少し悲しく、さみしい気分にさせられる。


そんな暗い予感に満ちた第一の作品群に対し、第二の作品群は、そのような闇(ただし闇の種類は、前者のものとは少し赴きはちがう)を受容しようという流れに向かっている。
具体的には、『神の子どもたちはみな踊る』、『タイランド』 があげられる。

この2作品に共通するのは、憎しみではないか、と読んでいて感じる。

『神の子どもたちはみな踊る』の善也は、妊娠していた母をあっさり突き放した父のことをたぶん憎んでいると思う。彼は、「父なるものの限りない冷ややかさ」を許せないタイプの人間だからだ。
また、『タイランド』のさつきは、むかし別れた男のことを、恐らく子どもがらみのことが理由で、いまでもその死を願うほどに憎んでいる。

だがそのような、負の要素にしばられてしまうのは、きっと不幸なことなのだろう。
暗い感情にしばられすぎると、心も身体も石のように硬直化してしまう。そんな状況に、明るい未来があるとは思えない。

人の「心は石では」なく、「邪念を抱く」ことも人間ならばありうること、そう受け入れることが大事なのかもしれない、と読んでいると思えてくる。
そんな憎しみや怒り、妄念のような、「自身が抱えている獣」もまた自分自身なのだから、だ。
そのようなことを訴えているように見え、前向きさも感じられ、心に響く。


そして、第三の作品群は、そこから一歩踏み込み、そういった闇に立ち向かおうとする姿を描いている。
具体的には、『かえるくん、東京を救う』、『蜂蜜パイ』 だ。

しかしそういった立ち向かうことに対し、ときとして迷いが生じることもある。
『かえるくん、東京を救う』で、善なるものの象徴(?)かえるくん(愛らしいキャラだ)は、闇なるものの象徴(?)みみずくんに立ち向かう。
そういう闇的なものは、前の作品群の流れから通じるように、「あってかまわない」ものだけど、それを放っておくわけにいかない場合も、もちろんある。

しかし、善悪、光と闇、正しい正しくない、の境目は、ときとしてあいまいなこともある。
かえるくんと、非かえるくんはときとして同質で、だからこそ、迷う場面だって出てくるのかもしれない。
そういう迷いを乗り越えるには、片桐のように、とにもかくにも応援してくれる、特定の誰かが必要なのだ。

そして、それを最終的に象徴するのが、『蜂蜜パイ』になるのだろう。
三角関係特有のもどかしさが、読んでいて心地よくも切なくもある作品だが、一番すばらしいのはラストだ。

『蜂蜜パイ』は以下の文章で締められている。
これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を。でも今はとりあえずここにいて、二人の女を護らなくてはならない。相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても。

この文章は、『蜂蜜パイ』という作品そのものだけでなく、6つの作品すべてを集約する言葉であり、答えであると思う。
そこにある、愛にあふれた決意の言葉に、明るい希望を見出すことができ、読んでいて胸は震える。


人間の生活はときとして、簡単にこわれる。しかしその先には再生も待っている。
そのような予感を、本作を読んで、感じた次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの村上春樹作品感想
 『アフターダーク』
 『1Q84 BOOK1,2』
 『1Q84 BOOK3』
 『海辺のカフカ』
 『象の消滅』
 『東京奇譚集』
 『ねじまき鳥クロニクル』
 『ノルウェイの森』

 『走ることについて語るときに僕の語ること』
 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』
 『若い読者のための短編小説案内』
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 (河合隼雄との共著)

『白痴』 坂口安吾

2011-04-07 20:54:37 | 小説(国内男性作家)

白痴の女と火炎の中をのがれ、「生きるための、明日の希望がないから」女を捨てていくはりあいもなく、ただ今朝も太陽の光がそそぐだろうかと考える。戦後の混乱と退廃の世相にさまよう人々の心に強く訴えかけた表題作など、自嘲的なアウトローの生活をくりひろげながら、「堕落論」の主張を作品化し、観念的私小説を創造してデカダン派と称される著者の代表作7編を収める。
出版社:新潮社(新潮文庫)




安吾の小説を読むのは久しぶりなので、結構いろんなことを忘れていたのだが、この作家の作品にはどぎつい個性があることを、本作を読むと思い出させてくれる。
特にキャラクターはそうで、登場する男女の多くはずいぶん特異で、ときにえらく退廃的だ。
男にしろ女にしろ、主要人物は性的にだらしがなく、いろんな点で奔放である。

だがそのような人物を多く登場させるのは、安吾が以下の二つのことを、真正面から描こうと思ったからでは、なんて思ったりする。
それは人間の生に対する渇望と、自由を求める感情である。


前者の作品としては、一番のお気に入り作品、『白痴』が挙げられる。

本作は、ブラックな語り口にキレがあるし、空襲のシーンはスピーディで臨場感に富んでいるし、で、非常におもしろい作品だ。
だがこの作品で強く心に残ったのは、そういうエンタメ部分ではないのだ。
僕が心惹かれたのは、人間の生きたいと願う意志と本能を、真正面から、パワフルに描いている点にある。

本作の主人公伊沢を取り囲む状況はろくでもないものばかりだ。
近所の人間はモラルも何もないし、伊沢当人も生活のために芸術を犠牲にし、その情熱をすり減らして生きていくしかない。
伊沢は空襲を望んでいるが、それはそんな彼の生活と無縁ではないのだろう。
きっと彼は死と隣り合わせの状況にしか、生の実感を得られないのだ

そんな伊沢の生活に白痴の女が紛れ込む。
本能むき出しに生きる女を、伊沢は醜いと思ってるが、それは理性や美学の目で見ると、本能はとかく醜いものでしかないからだ。
けれど、本能というプリミティヴなものほど、生を強く感じさせるものはない。
少なくともそこから人は、生きる意志を得る。

それを証明するのは空襲のシーンだ。
空襲という極限まで死が迫る中で、二人は必死に生きようとあがいている。
そしてそんな二人の生に対する渇望に、人間の輝きがひそんでいるように見え、心に響いた。


また後者の作品としては、『青鬼の褌を洗う女』がある。

この小説の主人公は、価値観や自身のこだわりや美学めいたものに興味はないらしい。
彼女はそういう自分の「自由を束縛する」ものを嫌い、他人から干渉されるのも避けている。
だから彼女は自分の周りに起こっていることや、自分の行動の意味についてそこまで考えることはない。彼女にとって、「現実はただ受け入れるだけ」のものでしかないからだ。

空襲後の破壊風景を見て、彼女はある種の期待を覚えるが、それはその破壊こそ、自分を枠の中に閉じ込めようとする、世間の価値観がリセットされるということを、意味しているからかもしれない。
彼女はその事実に、本質的な喜びを見出しているのではないだろうか。

そういう人だから、彼女はモラルについて縛られることはない。
彼女は男の妾だけど、同時に別の男と不倫をしている。しかしそういう立ち位置にいることで、相手の男を縛るわけでも、自分から縛られるわけでもないのだ。
彼女は誰とも、どこともつながれることはない。

それは見ようによっては、とてつもないくらいに虚無的なのだろう。
けれど流れるように、淡々と毎日を受け止め、生きている姿はどこかユニークだ。
これもまた、生きるという行為の一つの形かもしれない。


そのほかにも本作中には目を引く作品が多い。

「落伍者」であることを願いながら、世俗的な女と生きることとなり、「自分が自分の魂を握り得ぬ」状況に苦痛を感じている姿が印象的な、『いずこへ』。
孤独と表裏一体の絶対的な自由を求めているような感覚が心に残る、『私は海を抱きしめていたい』。
戦争の間だけ一緒に暮らすという、ふしぎな男女の関係を追っていて、退廃的でありながら、変にさびしい気分にさせてくれる、『戦争と一人の女』 など。

ときにパワフルで、独特な考え方を元に物語を積み上げている点がユニークで、人間の生に対して肯定的に描いている点がおもしろくもある。
坂口安吾はふしぎな存在感を放つ作家である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの坂口安吾作品感想
 『堕落論』

『わたしが・棄てた・女』 遠藤周作

2011-03-24 21:03:43 | 小説(国内男性作家)

2度目のデイトの時、裏通りの連込旅館で体を奪われたミツは、その後その青年に誘われることもなかった。青年が他の女性に熱を上げ、いよいよ結婚が近づいた頃、ミツの体に変調が起こった。癩の症状である。……冷酷な運命に弄ばれながらも、崇高な愛に生きる無知な田舎娘の短い生涯を、斬新な手法で描く。
出版社:講談社(講談社文庫)




自分が男だからというのもあるかもしれないが、読んでいる間、本作のもう一人の主人公吉岡に、僕はいらだってならなかった。

吉岡は体目当てにミツに近づき、一回寝ただけで棄ててしまう。後日、吉岡は再び棄てたはずのミツに近づくが、その動機も本命の彼女とセックスできないから、代わりに彼女と寝ようと考えてのものでしかない。
そんな吉岡の行動を読んでいると、アホか、と言いたくなるのだ。

吉岡の人間性を簡単にまとめるなら、エゴイスティックなやつということなのだろう。
他人を押しのけ、踏みつけることも辞さず、ミツを落とすためなら自分の小児マヒを武器にする程度に功利的な側面を持つ。
それでいて、抱こうとしている当のミツを彼はさげすみ、田舎女と心の中で罵倒しているのだ。
それだけでなく、そんな女を抱こうとする自分を「俺もおちたもんだ」と自己憐憫気味に思ったりもする。

作者の思惑通りとわかっている。それでも吉岡は本当にいやなやつだとつくづく思ってしまう。


しかしながら、吉岡が最低であればあるほど、その分、ミツの悲劇性がくっきり浮かび上がることになるのだ。

ミツは基本的にいい人だ。だがその底辺にあるのは、誰かに愛されたいという思いなのだ、という気がする。
彼女は、父親が後妻を娶った後、逃げるように実家を後にしている。つまり彼女は愛情に乏しい環境下で育ったということだ。
だからこそ初めての男に心底惚れてしまい、あそこまで思いつめたのだろう。

彼女にとって、吉岡がどういう人間であったかということは重要ではない。
自分は愛されていると、思えるだけの材料のそろっていることが重要なのだ。いいか悪いかは別として。


そんなミツはその後ハンセン病を疑われ、病院に入ることになる。
誰かから愛されることの少なかった彼女にとっては、悲劇の極みだろう。

しかしその中で彼女は、強く濃密な新しい人間関係を築くことになる。
彼女が求めていたのはきっとそういうはっきりとした強いきずななのだ、と思う。

「苦しいのは……誰からももう愛されぬことに耐えることなのよ」とハンセン病患者の一人が言っている。
ハンセン病患者は病院に入ることで、それまで築いてきた他人との関係性が絶たれていくからこそ出てきた言葉だ。
だが愛されることの少なかったミツは、逆に病院に入ることで、みんなから愛されることになっていく。
皮肉と言えば皮肉だが、そのときのミツはきっと幸福だったのでは、という気がする。


ところが、そんなミツの心の中にあったのは、あくまで吉岡の存在であったらしい。
彼女は最後の場面で、吉岡の名前を口にした。彼女にとって、本当に求めていたのは、自分が愛した吉岡の愛情なのだ。

僕から見ると、そんなミツの人生はあまりに憐れでむごいものに見えてならない。
けれど少なくとも吉岡への愛情を持ち続け、誰からも愛されたミツの心は平安なものだったのではと思う。
悲しい話なだけに、僕はそうであれかしと願うばかりだ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『苦役列車』 西村賢太

2011-03-22 19:41:24 | 小説(国内男性作家)

友もなく、女もなく、一杯のコップ酒を心の慰めに、その日暮らしの港湾労働で生計を立てている十九歳の貫太。或る日彼の生活に変化が訪れたが…。こんな生活とも云えぬような生活は、一体いつまで続くのであろうか―。昭和の終わりの青春に渦巻く孤独と窮乏、労働と因業を渾身の筆で描き尽くす表題作と「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」を収録。第144回芥川賞受賞。
出版社:新潮社




表題作『苦役列車』の主人公、北町貫多は、作者の西村賢太をモデルにしているらしい。
そういったいわゆる私小説がどの程度、現実をなぞり、真実を描いているのかわからないのだけど、小説を読む限り、主人公の北町貫多は、どーしようもないダメ人間だと思った。


北町貫多は十八か十九。中卒の彼を雇ってくれるところもないため、日雇い仕事で生計を立てている。
だが金は稼ぐそばから飲みなどに使い、お金を貯める時があっても、それは女を買うための貯金でしかない。家賃はしばしば滞納するし、そのために大家から追い出されたりもする。
そして唯一の仕事である、日雇い仕事ですら、金がないのに長続きもせず怠けてばかりいる。

それらの生活はなかなか生々しく、筆力もあって、かなり読ませる力がある。
とは言え、個人的な価値観からすると、もうちょっとしっかりしなよ、と言いたくなるようなひどい生活である。


そういった怠惰な部分を抜きにしても、北町貫多という人は結構めんどくさい人だ。

彼はひがみと、妬みと、卑屈と、被害者意識と、根拠のない自尊心の塊のような人である。
女房子ども持ちの高橋には持ち前の被害者意識から厭味を言って、遠ざけたりするし、バイトで親しくなった日下部とその彼女の美奈子と一緒に酒を飲んだときは、妬みとそねみと被害者意識もあって、攻撃的な言葉を吐いて、相手を不快にさせている。
日下部の言葉じゃないが、本当に「扱いにくい奴」で、その人間性のゆがみ方には、感心すらしてしまう。


だが彼が自虐的に、自分の劣等感をさらけだし、そのひがみ根性から、相手に対して呪詛の言葉を吐くたびに、妙なおかしみが浮かんでくるからふしぎなのだ。
彼の言葉は不愉快そのものだし、眉をひそめたくなるものばかり。だがなぜか変に笑えてしまう。

特に笑えるのが、日下部とその彼女に対する悪意に満ちた言葉の数々だ。
バイトで親しくなった日下部に、彼女がいるとわかった後の貫多の言葉は本当におかしかった。
貫多は彼女持ちの日下部に対してひがみ、羨望し、同時に彼らをとことん罵倒する。そしてその流れで、むかし喧嘩別れした女を未練たらたらと思い出す。
その場面での貫多は、本当にひどい言葉ばかり使っている。

しかし、それらの言葉は、あまりに露骨であるがゆえに、バカバカしくて、笑えてしまうのだ。
彼の行動も、自虐的な語りも、心情も、はっきり言って、むちゃくちゃ醜いものばかりだ。
だが醜いゆえに、それはとっても生々しく、どうしようもないくらいに滑稽なのである。

人生は見ようによっては仕様もないくらいに喜劇であるのかもしれない。
そんなことを本作を読んで僕は思った。



併録の『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』は、作家になった後の、北町貫多の日常が描かれている。
なかなかおもしろい作品なのだが、それはそれとして、基本的にこの人は20年以上経っても根本は変わっていないことがよくわかる。
相変わらずひねくれていて、つきあうにはなかなかめんどくさい。

こちらで描かれているのは、作家として文名を上げたいという貫多の切実な思いだ。
彼は編集者、評論家、読者をさんざん呪詛し、罵倒している。
けれどどれだけ誰かをけなしても、自分が作家として評価されずに消えてしまうのでは、という恐怖はあるらしい。

彼は堀木克三という、いまとなっては消えた評論家を、本作でさんざんバカにしている。
だが自分も堀木と同じような境遇になる可能性があることに彼は気づき、恐れてもいるのだ。
その恐怖心はなかなか切実で、リアルである。それだけに強い説得力があり、深く心に残った。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの芥川賞受賞作品感想
 第5回 尾崎一雄『暢気眼鏡』
 第75回 村上龍『限りなく透明に近いブルー』
 第126回 長嶋有『猛スピードで母は』
 第128回 大道珠貴『しょっぱいドライブ』
 第134回 絲山秋子『沖で待つ』
 第135回 伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』
 第136回 青山七恵『ひとり日和』
 第137回 諏訪哲史『アサッテの人』
 第138回 川上未映子『乳と卵』
 第139回 楊逸『時が滲む朝』
 第140回 津村記久子『ポトスライムの舟』
 第141回 磯憲一郎『終の住処』
 第143回 赤染晶子『乙女の密告』
 第144回 西村賢太『苦役列車』
 第144回 朝吹真理子『きことわ』

『百瀬、こっちを向いて』 中田永一

2011-02-06 18:07:14 | 小説(国内男性作家)

「人間レベル2」の僕は、教室の中でまるで薄暗い電球のような存在だった。野良猫のような目つきの美少女・百瀬陽が、僕の彼女になるまでは―。しかしその裏には、僕にとって残酷すぎる仕掛けがあった。「こんなに苦しい気持ちは、最初から知らなければよかった…!」恋愛の持つ切なさすべてが込められた、みずみずしい恋愛小説集。
出版社:祥伝社(祥伝社文庫)




『百瀬、こっちをむいて』を読もうと思ったのは、乙一のTwitterがきっかけだ。
そこで中田永一が、乙一の別名義と知ったからである。
そうでなければ読むことなど一生なかったかもしれない。僕は好んで恋愛小説を読む人ではないからだ。

乙一はこれまでも恋愛を感じさせる作品をいくつか書いているが(『暗いところで待ち合わせ』とか、『Calling You』とか)、中田永一名義では雑誌の要望もあってか、かなりストレートな恋愛小説を書いている。
これはこれですてきな作品集だけど、連続して読んでいると、少し飽きる部分もなくはない。
シチュエーションは異なれ、結局主筋にあるのは、誰かが誰かに恋をする、という展開でしかないからだ。
個人的な趣味を言うなら、恋愛主眼の話は物足りない。


それでもこの本には、作家特有の味が出ており、その個性が僕の心を惹いてやまないことも事実だ。

どの作品も、文章には独特の叙情があって忘れがたいし、ときどきくすりとさせられるような優れたユーモアがある点はおもしろく、読んでいて「切ない」と思えるようなシーンにはいくつも出くわす。
物語の構成も抜群で、その技術には読んでいても惚れ惚れとしてしまう。
また設定も微妙にひねくれており、恋人同士のふりをする話とか、カセットテープに吹き込まれた声から憧れの人物が作家として活躍していると知る話とか、なかなか楽しい。


個人的にもっとも好きなのは『なみうちぎわ』だ。

家庭教師の教え子である少年を助けようとして、海で溺れた少女が、五年後に意識を回復。家族や元教え子の助けを借りて、リハビリにはげむが……という話である。

普通にいい話なのだが、特にラストの海岸でたき火をするシーンが好きだ。
そこでやり取りされるユーモアあふれる二人のやり取りも好きだし、たき火をするシーンの叙情性なんかは美しいな、とすなおに思える。燃焼反応の化学式の使い方なんかはすてきで上手い。
またそこで明かされる真相もミステリ的な味わいがあっておもしろく、同時にずいぶんと切ない気分にさせられる。
ツッコミどころがないとは言わないけれど、前向きなラストと切なさが、非常に心に響く一品である。


そのほかの作品もすばらしい。

少年の繊細な恋愛感情の描写、四角関係の裏にかくされた真相、主人公の友人田辺の友だち思いの言動がすてきな、『百瀬、こっちを向いて』。
ミステリ風味もある、さわやかな一品の、『キャベツ畑に彼の声』。
オチはベタなのだが、美人すぎるがゆえのコンプレックスとトラウマを克服していく過程や、主人公を勇気づける地味な友人二人の姿にちょっと感動する、『小梅が通る』。

どの作品も、作中に漂う雰囲気や物語は、いかにもこの作家らしい。
読後感は良く、センスあふれる一冊である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『限りなく透明に近いブルー』 村上龍   

2011-01-13 20:43:01 | 小説(国内男性作家)
  
米軍基地の街・福生のハウスには、音楽に彩られながらドラッグとセックスと嬌声が満ちている。そんな退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく―。著者の原点であり、発表以来ベストセラーとして読み継がれてきた、永遠の文学の金字塔が新装版に!群像新人賞、芥川賞受賞のデビュー作。
出版社:講談社(講談社文庫)




『限りなく透明に近いブルー』を初めて読んだのは高校生のころだ。
そのときに思ったことは確か次のような感じだったと思う。

一つ目は、とってもエロい小説だな、ということ、
二つ目はドラッグに溺れるやつらがとってもこわいな、ということ、
三つ目は、悪くない小説だけど、よくわかんないな、ということだ。

32歳になったいま改めて読んでみたのだけど、再読しても上記の印象は変わらなかった。
結局僕にとって、本作はエロくて、こわくて、よくわからない小説であるらしい。
だがわからないなりに、これはなかなかいい小説じゃないか、と改めて感じる。
それは作中のそこかしこに漂う、作者のセンスによるところが大きいのだろう。


この小説を読んでいるときに、もっとも心惹かれたのは文体だ。

この小説に登場する若者たちは退廃的な日常を送っている。
麻薬を吸ってラリっているところや、酒を飲んで大量に吐きまくっているところ、乱交パーティでセックスをしまくっているところは、いかにも快楽主義的で、刹那的である。
しかも描写が非常にこまやかなため、異様なまでにリアリティがあり、映像が目に浮かんでくるかのようだ。

そういう若者が登場するためか、暴力的で残酷ななシーンも見られる。
電車の中で女にレイプまがいのことをする場面や、ガードマンの骨を折るところはその印象が強い。

そういったシーンはいま読んでも挑発的である。
だがそのような陰惨な内容にもかかわらず、それを記述する書き手の視点はどこか醒めているのだ。

この情景を描く「僕」ことリュウの視線はあくまで乾いており、観察する対象との間に、距離をとっている。
どんなにひどい場面であっても、リュウは目の前の情景を客観的に、冷静に、そして詩的なレトリックを使い、描写するだけで、目の前の事物に対し、判断を下したり、評価したりしないのだ。
それはどこか離人症めいた雰囲気さえあって、なかなかおもしろい。

そんな風に僕が感じたのは、次のセリフのせいもあるだろう。
「俺はただなあ、今からっぽなんだよ、からっぽ。(略)からっぽなんだから、だから今はもうちょっと物事を見ておきたいんだ」
その言葉がすべてと思うけれど、リュウはあくまで観察者の役割に徹しているのだ。


しかしそんな観察者的態度のせいで、リュウは目の前の情景に入り込めないのだろう、という気がする。
そして、そんな離人症めいた態度が、リュウから物事を現実のものとして捉える感覚を奪っているように見えてならないのだ。

誤読とわかりつつも、つっこんで語るなら、そこにあるのは存在に対する心許なさではないだろうか。

彼はそのような退廃的な世界に身を置いているけれど、なぜそんな世界に自分がいるのか、彼自身もわかっていない。そしてその事実に彼自身、必ずしもうまく適応しているわけではないのだろう。
彼が自らを観察者の立場に置いているのは、そうすることでしか、周囲の世界に適応できないせいかもしれない、なんて思ったりする。
そして自分の周囲に現実感を持てないからこそ、破滅的になり、ときに相手を殺したくなったり、死にたくなったりするのかもしれないのだ。

多分、解説の綿矢の読み解き方の方がよっぽど正しいだろうが、とりあえず、そう僕は思う。


だが、いつかはそんな一種のアイデンティティ・クライシスとも言うべき不安を乗り越え、それを受け入れることもできるのだろう。
そしてそのときには、一つの穏やかな地平を至ることができるのかもしれない。

そのようなつらさを彼が乗り越えたとき、彼は何がつらいのかを知ることができる。
アイデンティティ・クライシスの末、自己認識を確立したとき、離人症のように離れていた自我は、自己の元へと帰ってくるのだ。

そのときリュウは「自身に映った優しい起伏」と形容される、自分自身を発見するのだろう。
そしてその起伏はやがて、自分以外の誰か他人に提供できる日だって来るのだろう。優しさという形を通して。
少なくともリュウ自身はそう認識したのだと僕は感じる。

ラストは透徹し、どこか憂愁をたたえた、「限りなく透明に近いブルー」とも言うべき境地に達している。
その境地に至る過程の感覚が美しい。


ともあれ、わからないなりに非常にすばらしいと思うことができる。
村上龍のセンスがデビュー作の時点で、燦然ときらめいていたことをはっきりと示す作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの村上龍作品感想
 『盾 シールド』
 『半島を出よ』