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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン

2008-04-19 08:32:19 | 小説(海外作家)

二つの墓地のあいだを墓場クリークが流れていた。いい鱒がたくさんいて、夏の日の葬送行列のようにゆるやかに流れていた。――涼やかで苦みのある笑いと、神話めいた深い静けさ。街に、自然に、そして歴史のただなかに、失われた〈アメリカの鱒釣り〉の姿を探す47の物語。
大仰さを一切遠ざけた軽やかなことばで、まったく新しいアメリカ文学を打ちたてたブローティガンの最高傑作。
藤本和子 訳
出版社:新潮文庫


工学部という典型的な理系環境で過ごしてきたせいか、僕は物事の中にすぐ意味を見出そうとしてしまう。
それは何も学問の話だけに限らず、人間関係の場面にも人の態度に隠された心理を読み取り、それを自分の中で(幾分危険だと気付きながらも)カテゴライズしてしまうくせがある。当然小説においても同じで、物語に意味を見出し、メタファーを汲み取るという行為が習慣化してしまっている。

そういう人間には本作はまったく合わない、読み終えた後にはつくづく思い知らされた。
正直、僕は「アメリカの鱒釣り」という言葉の中にどのようなメタファーがあるかをいろいろ考えてしまい、そこから先に進むことができず、素直に物語を楽しむことができなかった。
わかったように語るならば、「アメリカの鱒釣り」はすでに失われたアメリカ的なる美的側面を表しているとも思うのだが、そう単純に割り切れないところも多く、各断章に流れる作品そのものの良さにまで目が届かなかったきらいがある。
またそれは僕が60年代のアメリカに対する知識に乏しいということも関係しているのかもしれない。

もちろんいくつかの面では目を引く部分もある。「クールエイド中毒者」やアル中、「<アメリカの鱒釣りホテル>二〇八号室」の男女に対する視点には温かいものが感じられるし、「アメリカの鱒釣りテロリスト」には多少の皮肉と物悲しさが漂っていて心に残る。「永劫通りの鱒釣り」のガソリンスタンドでの会話やラストの「マヨネーズの章」には何とも苦い笑いがあって笑ってしまう。
でもそういった良さを僕は表面的にしか受け入れることができず、それ以上のものが僕の心に訴えることはなかった。

断章形式で、物語そのものに深い意味がないという点では『家守綺譚』に似ているが、あの作品のように、理屈とか越えて、すっと心に沁み込んでこなかったのは残念としか言いようがない。だがこればかりは感性の違いなのだろう。

評価:★(満点は★★★★★)

『レベッカ』 デュ・モーリア

2008-03-23 15:56:24 | 小説(海外作家)

ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た――この文学史に残る神秘的な一文で始まる、ゴシックロマンの金字塔、待望の新訳。海難事故で妻を亡くした貴族のマキシムに出会い、後妻に迎えられたわたし。だが彼の優雅な邸宅マンダレーには、美貌の先妻レベッカの存在感が色濃く遺されていた。彼女を慕う家政婦頭には敵意の視線を向けられ、わたしは不安と嫉妬に苛まれるようになり……。
ヒッチコックによって映画化もされたイギリスの作家ダフネ・デュ・モーリアのゴシックロマン。
茅野美ど里 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


一人称で語られる心理小説に近い作品だ。
主人公である「わたし」の叙述は意識の流れを念頭に置いたものと思うのだが、どちらかというと、それは意識というよりも、妄想の流れと言った方が正しいのじゃないか、と僕には思える。
女中に笑われるのではないか、と考えそれを妄想する語りの長いこと。確かに一面では真実をつかんでいるが、それは被害妄想めいていて、卑屈で自信なさげで、それでいて自意識過剰な自己愛も仄見える。

男ということもあってか、僕はこの作品の主人公である「わたし」が苦手である。
確かに慣れない環境で、「奥様」として振舞わなければならないという状況は酌むべき点はあるが、ところどころでイラッときてしまった(ただし妄想のたくましさはちょっと笑える)。

それに「わたし」は敏感なくせして、変に鈍感なところもある。
ダンヴァーズ夫人が仮想パーティの衣装を勧めたときの態度を見て、いやいや変だと気付けよ、と本を読みながらつっこんでしまったし、「背が高くて頭が黒いの」と言ったベンの言葉を読んで、なぜあの女かと疑わない、と「わたし」に対してもどかしい気持ちを抱いてしまう。
もっとも「わたし」に限らずダンヴァーズ夫人も結構にぶい。「顔もわからないほどめちゃめちゃ」だと語ったレベッカの死体に疑問を抱かなかったのか、ふしぎに思う。

と、そんな思わせぶりな伏線にキャラが気付かないということもあって、プロットの展開にいくつか読める部分はあるのだが、それでいて僕はこの作品につまらないという感想を抱くことはなかった。むしろおもしろくて、ページを繰る手が止まらなかったくらいだ。
とにかくこの作品には読ませる力がある。

その理由のひとつに雰囲気のつくり方が上手いという点があるのかもしれない。物語に漂う不穏な空気を生み出す力にこの人は長けている。
ダンヴァーズ夫人がレベッカへの思いを語り、「わたし」に自殺を教唆するシーンの緊張感や、ファヴァルとの対決シーンでの雰囲気はたまらない。そのピンと張った演出力はすばらしい限りだ。

そして作中の底に漂うレベッカの存在感も忘れがたい。
どのキャラもレベッカの影に支配され、その影がラストに至るまで消え去ることがなかった点が不気味な味わいを産んでいたのではないかと思う。その雰囲気は個人的には好きであった。

また「わたし」の姿勢に途中から変化が現れた部分も、最終的に物語を楽しく読ませる一因になったと思う。レベッカの呪縛から多少は抜け出し、少女から大人へと変貌する姿はともかくもすばらしい。
そのきっかけは夫の愛というのは安っぽく見えるが、悪くはない。成長譚としての味わいはユニークだ。

「レベッカ」はなんともふしぎな作品だ、と僕は思う。文句はあるが個人的には好きなタイプの作品かもしれない。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『贖罪』 イアン・マキューアン

2008-03-18 22:38:17 | 小説(海外作家)

現代の名匠による衝撃の結末は世界中の読者の感動を呼び、小説愛好家たちを唸らせた。究極のラブストーリーとして、現代文学の到達点として――。始まりは1935年、イギリス地方旧家。タリス家の末娘ブライオニーは、最愛の兄のために劇の上演を準備していた。じれったいほど優美に、精緻に描かれる時間の果てに、13歳の少女が目撃した光景とは。傑作の名に恥じぬ、著者代表作の開幕。
イギリスのブッカー賞受賞作家イアン・マキューアンの作品。
小山太一 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


人によってはこの小説にもどかしさを覚える人もいるだろう。
第一部などは心理小説とも言うべき細やかな筆で人物の内面を描き出しており、物語の展開する速度は恐ろしく遅い。僕は逆にそれが心地よくすらあったが、たるいと感じる人もいるのではないだろうか。
それにラストは物語の真相が語られるわりにはカタルシスに乏しく幾分肩透かしを食わせる面もあるし、僕は実際そう感じた。

だがラストで明かされた物語の構造を頼りに一から振り返ってみると、この作品が恐ろしく緊密な構成のもとに書き上げられたものか気付かされる。
たとえば第一部の構成などはどうだろう。それは意識の流れを念頭に置いた細緻な小説であるが、それがそのような小説を求めていたブライオニーが書いた小説だとわかる、と仕掛けのスケールの大きさに圧倒される。
その才筆には脱帽するほかにない。

この作品は芸術家が自分の罪の確認のため、事実を再構成しつくり上げた執念の作品といえるだろう。

そういった面がわかってくると、いろんな点で第一部の文体以上に徹底した細部へのこだわりが見えてくる。
たとえば、第二部で、戦場にいるロビーを丁寧に映し出されているが、それも自分がそのような場所へロビーを追いやったという事実を後追いしたために、選んで書いているように見える。
特に「ブライオニーを憎むのは理性的でも正しいことでもなかったが、憎しみは駐屯生活を耐えやすくしてくれた」とロビーに思わせるところなどは、後ろめたさを抱きながらも、それを誠実に想像して書こうと試みている作家の姿勢が伝わってきて、背筋が震えるものがあった。

だが罪だけを執拗に描くだけではなく、芸術家の意地として物語に昇華しようとしている点がすばらしい。
たとえば最初の方で少女期のブライオニーに創作理論を語らせているところにその姿勢は見受けられる。
「人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生む場合もあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ」
という言葉には深い意味合いがあるのではないだろうか。

そしてだからこそ、「神でもある小説家」が若い二人を幸福にしたのは、胸を打つものがある。二人を救えるのは物語の中だけでしかないからだ。
「ふたりが二度と会わなかったこと、愛が成就しなかったことを信じたい人間などいるだろうか?」
「わたしの最終タイプ原稿がたったひとつ生き残っているかぎり、自恃の心強き、幸運なわたしの姉と彼女の医師王子は生きて愛しつづけるのだ」
という言葉はなかなか感動的である。
そしてそうしながらも、自分自身に贖罪を与えなかった作家の姿勢に深い誠意を見出すことができる。

しかし作家も人間であり、自分にだけ罪をかぶる真似ができるわけではない。
たとえばエミリーに語らせるローラ評には、ブライオニーの恨みつらみが見えるようだし、ロビーがフラマン女を思い返したときに「人間は、思い上がった自責の念ゆえに必要以上の罪を背負い込むこともある」と語らせるシーンには自己弁護が見えてくるようだ。
そしてそういった態度も含めて、ほぼ完璧に組み立てられていることにため息をこぼすほかない。

マキューアンという作家の大きさをこの作品を通して知らされた思いだ。
ブッカー賞受賞作の『アムステルダム』よりもこちらの方が断然好きである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのイアン・マキューアン作品感想
 『アムステルダム』

『供述によるとペレイラは……』 アントニオ・タブッキ

2008-03-16 18:25:23 | 小説(海外作家)

ファシズムの影が忍び寄るポルトガル。リスボンの小新聞社の中年文芸主任が、ひと組みの若い男女との出会いによって、思いもかけぬ運命の変転に見舞われる。タブッキの最高傑作といわれる小説。
須賀敦子 訳
出版社:白水社(白水uブックス)


供述体という一風変わった叙述でつづられる物語だ。
その不穏な文体は民族主義の足音高く、報道規制が布かれた時代の雰囲気とよくマッチしている。主人公のペレイラが中年の太り気味で妻に先立たれた男という、頼りなく冴えない男という点も、その文体に合っていると言えるだろう。
また供述体のクセして、オムレツの描写が非常においしそうなところもすばらしい。

そのペレイラは、時代や政治活動に対して、距離を取り平穏な日々を送っているが、やがて政治的には反体制の青年モンテイロ・ロッシに資金の援助をするようになる。
僕から見るとロッシは気弱で金だけをたかる図々しい男にしか見えない。読みながら僕はずいぶんいらいらもしたが、それでも彼を援助するペレイラの姿勢は変わらず、ときに危険な行為に手を貸す。
ペレイラはその理由をわからないと言っているが、意識的か無意識かは別として、ロッシに共感を持っていることは明らかだろう。

そう考えると元々社会部の記者だったというペレイラの過去はいろいろイマジネーションをかきたてられるものがあり、うまく造形したものだ、と感心する。庶民に隠され、新聞にも書けない事実が存在するということに、ペレイラは心の底では不満を覚えていたのだ、と推測できるからだ。

だからこそ、最後の選択には説得力が感じられる。
その行動は予想通りと言えば、そうなのだが、心情の変化を少しずつ段階的に描いていくことで、緊張感を生み出すことに成功している。ベタだとわかっていても、その緊迫した雰囲気にドキドキしながら読み進むことができた。
何よりそこに明日への希望めいたものと、人間の意志の強さを見るようで好ましい。

タブッキの小説を読むのは今回が初めてだったが、こんなすてきな作家がいたのか、と知ることができて非常にうれしい。大満足の一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『海の上のピアニスト』 アレッサンドロ・バリッコ

2008-03-11 19:04:37 | 小説(海外作家)

海の上で生まれ、一度も船を降りることのなかった天才ピアニストの伝説。彼が弾くのは、いまだかつて存在せず、ひとたび彼がピアノから離れると、もうどこにも存在しない音楽だった……。
イタリアの人気作家アレッサンドロ・バリッコの映画化もされた作品。
草皆伸子 訳
出版社:白水社


ジュゼッペ・トルナトーレによって映画化された作品だ。
主人公のノヴェチェントは船の上で一生を過ごすという風変わりな境遇の青年である。その奇抜な設定がまずおもしろい。そしてそのユニークな世界に合ったユニークなエピソードが展開される。

印象に残ったシーンはアメリカのピアニストとピアノ対決をするシーンだろう。
同名映画で見ているので、映像のイメージは湧くのだが、文章で読んでも、音楽が紙の上から浮かんでくるほどイマジネーションをかきたてられる。センスがよく、読んでいても非常に心地よいものがあった。
最後にピアノ線でタバコに火をつけるシーンも小粋である。

さらにこの作品はテーマ性も優れている。
そのテーマを示すのは、ノヴェチェントが船を降りようとして断念した理由を語るシーンにあるだろう。

「道ひとつとったって、何百万もある。きみたち陸の人間は、どうやって正しい道を見分けられるんだい」
「恐ろしいと思ったことはないのかい、きみたちは? そのことを、その果てしのなさを思うだけで、ただ思うだけで自分がバラバラになっていくという不安に駆られたことはないのかい?」

このセリフの哲学性は非常にすばらしいのではないだろうか。
多くの人は、目の前に茫漠と無制限に広がる世界に希望を見出すのかもしれない。
しかし彼はそこで違った視点を持ち込んでいる点が際立った印象を残す。
彼は「人間のほうは無限」で、世界は限定されているのを欲している。それは一人の人間の選択としては決して否定できないものだし、何よりこの世界の真理ともいうべき点を一面では突いているのだ。

だが世界を限定するということは、結果的に自分自身を限定することにだってなりかねない。
「ぼくにだって、夢はあったさ。でも、そいつは舳先と艫のあいだに収まる夢だった。無限ではない鍵盤の上で自分の音楽を弾く、それがぼくの幸せだった」と語らざるをえない彼の運命が、だからこそ悲しく感じられてならないのだ。
その限定された世界には、確かに彼なりの幸福があるだろう。しかし彼はどちらかと言うと、世界を限定せざるをえなかったという感じがして、それが何とも物悲しく感じられてならなかった。

個人的に必ずしも好みではないのだが、軽やかな物語に漂うほのかな悲しみが印象深い一品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『レ・コスミコミケ』 イタロ・カルヴィーノ

2008-02-19 18:55:44 | 小説(海外作家)

はるかな昔、うるわしき月がはしごを昇って行けるほど近くにあった時代の切ない恋の物語「月の距離」、ビックバン以前、誰もかれもが一点に集まっていた古き良き時代に思いをはせる「ただ一点に」など、宇宙創世以来のあらゆる出来事の生き証人Qfwfqじいさんが語る12の不思議譚。奇才カルヴィーノの最高傑作。
米川良夫 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


目を引くのはその発想の数々だ。Qfwfqによる科学的知識に裏打ちされた壮大なホラ話はどれも斬新で、豊かなイマジネーションにあふれている。
たとえば本作中の白眉、「月の誕生」はどうだろう。そこに描かれた月の引力が引き起こすいくつかの現象は美しくさえあり、特にとんぼ返りのシーンや、魚が宙に浮くシーンの鮮やかさは見事の一語に尽きる。

それにユーモアも交えて語られているので、ところどころでくすりとさせてくれる。
「水に生きる叔父」や「渦を巻く」などはあんたは魚かよ、貝かよと心の中でつっこみ、笑わせていただいた。
よくも大嘘をここまでおもしろおかしく語れるものだと関心する。

ストーリーそのものはいくつかの哲学性をはらんでおり、人間心情の変化を奇抜な設定の中に組み込み、語り上げている。
「恐龍族」で描かれた旧生物のプライドと、新生物の間で生きるがゆえにゆれる心の揺れは深みがあるし、「月の距離」や「無色の時代」で描かれた愛の終わりの姿は切ないものがある。

しかしそういった否定しようのないいくつもの美点を認めながらも、知的遊戯に終始している、という印象も同時に僕は受けた。その印象は最後までぬぐいさることができず、本作品集が僕の心に響くまでには至らなかった。
早い話、個人的に好みの作風でなかったということだ。残念ながらこればかりは感性の違いとしかいいようがない。残念な限りだ。

評価:★★(満点は★★★★★)

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー

2008-01-08 20:17:22 | 小説(海外作家)


好色にして粗野な地主フォードル・カラマーゾフにはミーチャ、イワン、アリョーシャの三人の息子がいた。妖艶な美人グルーシェニカと遺産問題を巡り、対立する父とミーチャ。婚約者カテリーナの金を横取りしたミーチャの金銭問題。カテリーナに寄せるイワンの愛情。そしてそんな家族に苦悩する修道僧のアリョーシャ。家族の種々の問題は、やがて父殺しにつながっていく。
ロシアの文豪ドストエフスキーの最後の作品にして最高傑作。
亀山郁夫 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)


『カラマーゾフの兄弟』は数年前に新潮文庫の方で読んだ。だがそのときはストーリーのおもしろさは理解できたものの、その哲学性まで正確に把握できたかはいささか自信がなかった。
しかし今回の亀山訳では、文章がすらすらとよどみなく入ってくるため、プロットだけでなく、そこに流れる哲学的なテーマまで、(自分なりにではあるが)以前よりも読み取ることができた。それに各巻の末尾にある読書ガイドと、最終巻の解題のおかげで、より一層、『カラマーゾフの兄弟』という作品の深淵に触れることができたと思う。
解説や、各巻のあらすじも含めて、初心者向けの優れた名訳であると言っても差し支えないだろう。
『カラマーゾフの兄弟』を初めて読むという人は、新潮でも岩波でもなく、光文社古典新訳の方を読むべきだ、とまず初めに声を大にして言いたい。


さて中身の方であるが、単純におもしろく、わくわくしながら作品を読み進めることができた。テーマ性、プロット、キャラクターなど(むかしの作品と言うこともあって展開に遅さはあるものの)、すべてにおいて一級の仕上がりになっている。

プロットとしては、哲学的なテーマをはらんでいるため小難しさはあるものの、恋の鞘当がどのような形で進んでいくのか、父殺しがどのように展開されていくのか、裁判がどのように進んでいくのか、などに興味をそそられて、飽きることがない。

キャラという観点から言えば、三兄弟はどれもすばらしい造形だ。
ミーチャの破壊的で直情的な行動力は見ていても小気味いいし、イワンのインテリらしいたたずまいと暗さは雰囲気があり、魔性的な思想はどこか魅力的だ。アリョーシャの偽善者すれすれの姿も好ましさがある。
またキャラにからむこととしては、人物の心理描写が上げられるだろう。心理描写はとにかく綿密で、多面的な人間像と複雑さにはぞくぞくするものがある。これぞ、ドストエフスキーの真骨頂だ。
特にカテリーナとグルーシェニカのふたりの心理描写が存在感を放っている。
第一部での女の争いは際立っているし、プライドの高いカテリーナの微妙な心理の移ろいなどは人間観察に優れたドストエフスキーらしく、一筋縄ではいかない複雑さをはらんでいる。カテリーナ当人でさえも多分わかっていないかもしれない心理描写を丹念に描き取った文豪の筆力に圧倒されるばかりだ。


テーマ的な面に目を向けてみると、やはり神を巡る議論と、父殺しが際立っている。

その一方のテーマである神を巡る議論を解くカギはまちがいなく、イワンの「大審問官」の中にある。
イワンという人は人間の残虐性と弱さを把握した理想主義者なのだろう。
イワンは天上のパンに象徴される高尚な存在に、大多数の人間は達することができないことに気付いていた。しかし天上のパンに達することができなければ、子どもたちに示すような残虐性を人間が発揮することを、人が本質的に悪を欲することも、彼は知っていた。
そこでイワンが得た結論は、天上のパンを得ることができる天才たちが、地上のパンしか得ることができない人間を導く、というものだった。それはそれなりに筋が通っているように見える。
しかしイワンの代弁者である大審問官の態度は、その苦悩は認めつつも、独善的で冷笑的で傲慢だ。ひと言で言えば、愛が足りないのである。

それは「民衆は神を信じている。神を信じない実践家は、どんなに誠実な心をもち、どんなに天才的な知性をもっていようと、何ごともなしえない」と語るゾシマの、ひいてはアリョーシャの思想と好対照を成していて、おもしろい。
そんなゾシマ側の思想を端的に言うなら、原罪を基にした謙虚な態度による博愛主義と言ったところだろう。
苦しんでいる人間に、一本の葱を差し出す。それをつかんでくれるという保証はないけれど、それを差し出すという実践的な愛の行為だ。行動の基盤が愛にある、という点がすばらしい。それが天上のパンをつかみうる天才の側のもうひとつの態度表明なのだ。
その主義主張は理想主義にすぎるきらいはあるけれど、むしろそういった偽善と見えかねない言葉を堂々と語る姿に、僕は好印象を持った。


父殺しもこの神の理論と密接に結びついていて、深い議論が展開されている。
ミーチャもイワンも、苦しんでいる子どものことを語ったり、夢を見たりしているが、これがフョードルからひどい扱いを受けてきた自分たちの象徴であることは確かだろう。ミーチャもイワンも父を憎み、殺してしまいたいという気持ちは少なからずあったし、そう思うのも自然な流れだ。
しかし裁判中でフェチュコーヴィチが語った理論と反するが、だからと言って、実際に父が殺されていいはずなどはなく、犯罪は犯罪として憎まなければならない。
理想ではあるが、イリューシャのように父を守るために、戦う姿こそが美しいのだろう。それをふたりともが気付いていたはずだ。
それゆえにミーチャもイワンも苦しむ結果となったのだ。その際、ミーチャはキリストに自身を重ねようとしているが、ミーチャは弱くそんな真似は不可能だし、イワンは性格的に狂気に陥るしかない。
そういう人たちのためにこそ、アリョーシャのような一本の葱を差し出してくれる存在が非常に重要なのだろう。アリョーシャの存在と思想が、父殺しという苦悩に満ちた問題に、光を与えており、幾分かの希望を感じられたのが心に残った。


蛇足ながら、スメルジャコフがフョードルを殺した理由を自分なりに考察したい。
実際の父親が誰かはともかく、スメルジャコフ自身は自分の親をフョードルと思い込んでいたのではないか、と思う。
そしてそう考えたとき、兄弟でもっともひどい扱いを受けているのは当然スメルジャコフだ。憎悪が生まれるのも必然であり、金銭的な絡みもあるだろうが、殺害を思うのも自然な流れとなる。
そして実際に父殺しを行なったスメルジャコフは、そんな自分の殺害の動機の言い訳に、イワンを利用したのではないだろうか。そうすることでミーチャとイワンという、同じ兄弟なのに、遺産を相続する可能性があるふたりに復讐を試みたのではないだろうか。
もちろん論駁可能な意見ではあるが(じゃあアリョーシャはどうなる、という話になる)、そういう発想もありかな、と思ったので付け加えておく。


何かまとまりを欠いている上に、ムダに長くなってしまったが、読み終わった後には多くのことを語りたくなる作品ということなのだろう。そういう作品をこそ傑作と呼ぶのだ、と僕は思っている。
『カラマーゾフの兄弟』は、まさに傑作とよぶに値する作品なのである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのドストエフスキー作品感想
 『悪霊』
 『虐げられた人びと』
 『白痴』

『ロリータ』 ウラジーミル・ナボコフ

2007-12-16 19:50:01 | 小説(海外作家)

中年男のハンバートは幼いころの恋人アナベルの死がきっかけとなり、幼い少女に対して倒錯した感情を抱くようになる。男やもめとなり、ニューイングランドにやって来た彼は、たまたま間借りした家で、ロリータという少女と出会う。ハンバートはひと目見てすぐに彼女にのめりこんでしまう。
ロシア出身の作家ウラジーミル・ナボコフの英語で書き上げた作品。
若島正 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


ロリータ・コンプレックスの語源にもなった著名な作品だが、この小説の主人公はロリータではなく、ロリータにのめりこむ中年男だ。
その主人公ハンバートは僕にはまったく理解できない存在だった。
彼のニンフェット(少女性の造語)に対する反応はどう見ても頭がおかしいとしか言いようがない。「ニンフェットに触れる機会を一度与えられるなら、何年懲役になってもかまわないという人間なのだ」という一文を読んだときは、お前はアホか、とどれほど叫びたくなったことか。
彼が持っているニンフェットに対する思いはほとんど妄想の域に達している。アナベルの過去に捕らわれている時点でそれも当然かもしれないが、ニンフェットに対するその執念は、妄想なくしては成立しないのかもしれない。

そんな彼がロリータに出会うのだが、僕にはロリータがそれほど魅力的には見えなかった。
ギャル語を使い、いかにも脳みそスカスカで、しかも風呂にも入らない。そんな少女を文学の引用を駆使し、フランス語を使いまくって読みにくい文体を使うインテリがなにゆえはまるのだろうか。
これもある意味ではハンバートの妄想の力のおかげとも言えるだろう。
正直、彼女の歩き方だけで興奮するハンバートのハイテンションにはついていけなかったが、寝ているロリータに手を出そうとしてうまくいかないところなんかも含めて、ある意味では滑稽に映った。

しかしハンバートの妄想は端から見ていると、あからさまに空回りしている。
確かにロリータを手に入れるために母親と結婚しようとしたり、結ばれた後は脅迫をしてでも彼女をつなぎとめる辺りの執着心はすさまじいが、それは壊れることがわかりきったものでしかないはずだ。そのことに気付こうともしなかったところが、ハンバートの悲しくも悲惨な点だろう。

個人的にはロリータと結ばれてからの第二部はそれほど楽しむことはできなかったが、第一部の妄想の過剰さと、自身の妄想に絡め取られて落ちていく過程は光っていたと思う。
世界的な名作と言われてもピンと来なかったが、佳品であるという印象を受けた。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『恥辱』 J・M・クッツェー

2007-12-01 21:43:27 | 小説(海外作家)

大学教授のラウリーは二度の離婚後、娼婦を買うなどして自身の性欲を処理してきた。しかしあるとき自分の受け持つ女生徒に手を出したことから事態は一変。査問会が開かれて教授を辞任する羽目になる。ラウリーは娘のいる田舎の農場に移るが、そこで新たな事件と直面する。
ノーベル賞作家J・M・クッツェーのブッカー賞受賞作。
鴻巣友季子 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


主人公のラウリーは共感できる要素の少ない人間だ。
自身の老いや醜悪さを自覚しながら欲望のままに走り、ひとりの女の心を傷つけている。メラニーに対する愛情も恋愛感情というよりも性欲にしか見えず、他人に対する視点や感情はきわめて冷めている。加えて独善と偏見の塊で、人を評する言葉は辛らつだ。娘に対する愛情は伝わるものの、少なくとも僕はこの男とは友達になりたくはない。
しかしラウリーの考えが徹底しているのは事実だ。
彼は教授の職を追われるとき、自分の職を守るチャンスもあったにも関わらず、その提案には乗らなかった。彼は自分の考えに反することだったり、自分の考えを変えなければならなくなったら、恥辱に追いやられることも辞さない男なのだ。賛成できるかはともかく、自分を貫こうとするその姿はある意味すごい。

ラウリーはその後、娘の元に身を寄せることになるが、そこでも恥辱に等しいできごとに見舞われることとなる。その事件を受け、父であるラウリーはレイプを受けた娘に対して、この土地から出ることを勧めている。
彼の意見は理解できるし、正論であろう。このままこの土地にいてレイプ犯の思惑通りの人生を選択することはないというのは筋が通っているし、少なくとも娘を思う気持ちはうかがえる。
たとえそれが自分自身に返りかねない言葉としても彼の言葉に何の間違いもない。

しかしその言葉に対して娘はノーと言う。その意見が僕には受け入れにくいものであった。確かに娘の論理はわかるけれど、僕にはそれが必ずしも正しいものとは思えない。
しかしそれも僕が平和な国に暮らしているから言えることなのかもしれない。大地と結びついた南アフリカでは南アフリカなりの生き方がある。彼女が語った通り、もっと上等な生活なんてどこにもなく、あるのはこの生活だけということなのだろう。
たとえそこに犬のような恥辱が待ち受けた最低限の生活であろうとも、この生活を生き、しっかりと踏みとどまって進まなければならないのかもしれない。理不尽が溢れたこの世界ではそれくらいの覚悟が必要なのだろう。

ラウリーは娘の意見に対して、少しずつ心境の変化が起こりはじめる。少なくとも途中まではそんな予感が伝わってきた。しかし多くの部分では彼は結局なにも変わろうとしなかったし、やはり自分の考えを変えることを拒否している。。
しかしこの理不尽な世界と、希望がないかもしれない状況下を、最後は彼も受け入れている。彼は本質的には何も変わらなかったが、それはある意味では変化と言えるのかもしれない。
その状況を希望とは言えないかもしれない。だが虚無からの出発とでもいうべきその姿にある種の感銘を受けることができた。

個人的には解説の解釈がおもしろかった。なるほどそんな見方もあるのかと驚くばかりだ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのJ・M・クッツェー作品感想
 『マイケル・K』

そのほかのノーベル文学賞受賞作家の作品感想
・1929年 トーマス・マン
 『トニオ・クレエゲル』
 『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』
・1947年 アンドレ・ジッド
 『田園交響楽』
・1982年 ガブリエル・ガルシア=マルケス
 『百年の孤独』
・1999年 ギュンター・グラス
 『ブリキの太鼓』
・2003年 J・M・クッツェー
 『マイケル・K』
・2006年 オルハン・パムク
 『わたしの名は紅』

そのほかのブッカー賞受賞作感想
 ・1983年: J・M・クッツェー『マイケル・K』
 ・1989年: カズオ・イシグロ『日の名残り』
 ・1992年: マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』
 ・1998年: イアン・マキューアン『アムステルダム』

『海に住む少女』 シュペルヴィエル

2007-11-28 20:47:49 | 小説(海外作家)

海に浮かんでは消える街に住む少女を描いた「海に住む少女」、イエスが誕生したときに居合わせた牛とロバの姿を描いた「飼葉桶を囲む牛とロバ」をはじめ10篇を収録。
ウルグアイ生れのフランスの詩人、作家、ジュール・シュペルヴィエルの短篇集。
永田千奈 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)


詩人ということもあってか、そのイマジネーションの鮮やかさに感服する。

たとえば表題作にして、本短篇集の白眉「海に住む少女」などはどうだろう。
海に浮かんでは消える街という時点でもすばらしいが、貨物船が通るとまどろんで波の下に消えるといった描写には幻想的な美しさがあふれていて、心踊るものがある。その発想にまずは素直に喝采だ。

ほかにも「セーヌ河の名なし娘」の溺死した娘が流されるイメージや、びしょぬれ男と光る者たちの存在感。
「バイオリンの声の少女」のバイオリンのような声というメタファーに富んだイメージ。
「ノアの箱舟」の冒頭に描かれた「全身が涙となって消えた」少女の姿や、砂漠の砂粒でさえ水を吐き出し続ける町の描写、等々。
幻想性に富んだイマジネーションはどれも惚れ惚れとするものばかりだ。

そのような幻想性の中から、どの作品にも共通して立ち上がってくるのはある種の苦々しさだ。それが幻想性に違った味を添えていて興味深い。

たとえば「海に住む少女」ならば、「助けて」という言葉と、波の力でも死に取り込まれることもできない様などはずっしりと重く、残酷でなんとももの悲しい。
また「セーヌ河の名なし娘」は死してなお『嫉妬』に追われる姿がせつないし、「牛乳のお椀」は母が死んでも長年続けてきた習慣をやめることができない姿にその人の喪失感を見る思いがする。

訳者も語っているように、ここに収録されているのはセンセーショナルな風潮に逆行するような作品ばかりだが、滋味にあふれた良質な作品ばかりである。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』 トーマス・マン

2007-11-10 21:58:12 | 小説(海外作家)

同級生のハンスに憧れを抱き、美しいインゲに恋をするトニオだが、芸術を愛する彼は、自分がハンスとインゲとは違う世界に属していることを悟り、苦悩する。芸術家となった青年の苦悩を描いた「トニオ・クレーゲル」と、ヴェニスに訪れた老作家が美しい少年と出会い、破滅していく姿を描いた「ヴェニスに死す」の二編を収録。
ドイツのノーベル賞作家、トーマス・マンの代表中篇。
高橋義孝 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


『トニオ・クレエゲル』は学生のころに読んで感銘を受けた作品のひとつだ。
僕はこれまで岩波文庫の実吉捷郎訳でしか、この作品を読んだことはないのだが、今回の高橋義孝訳は、実吉訳ほど『トニオ・クレーゲル』という作品世界に心を惹かれることができなかった。
その理由は、この作品を何度も読んだためということもあるし、もうトニオのように感じやすい年齢ではなくなったこともある。あるいは読んでいるときの環境が違っているのもあるのだろう。
だが、それと同時に訳者が違うということも大きいような気がした。使う言葉の微妙な違い、それが作品全体の印象に影響を与えているように感じられるのだ。

たとえばラスト、インゲがトニオの前で踊るあたりの文章を比べてみよう。

実吉訳では

「眠るのだ……動くとか踊るとかいう義務なしに、甘くものうくそれ自身の中に安らっている感情――全くその感情にのみ生きられるようになりたい、とあこがれるのだ。――しかもそれでいて、踊らずにいられないのだ。敏活に自若として、芸術という難儀な難儀な、そして危険な白刃踊りを演ぜずにはいられないのだ――恋をしながら踊らずにいられぬという、その屈辱的な矛盾を、一度もすっかり忘れきることなしに……」

となっているのに対し、高橋訳は

「ねむり……行為したり踊ったりするという義務を負うことなく、心地よく気だるくそれ自身のうちに休らっている感情、そういう感情に従って素朴に完全に生きて行きたいと願う心が一方にありながら――しかも他方では手抜かりなく気を張りつめて芸術というじつに困難な危険このうえもない白刃の舞を舞いおおせねばならぬ――恋をしながら踊らねばならぬということのうちに含まれている屈辱的な矛盾をすっかり忘れてしまうことは絶対になく。……」

となっており微妙に違っている。

これは感覚的な印象なのだが、実吉訳は全体的に情緒的というか、文章に青春期らしい情感が漂っているような気がする。それに対し、高橋訳は情感というよりも理知的な文章という感じを受ける。

『トニオ・クレエゲル』は青春期の懊悩を描いた作品だ。
そういう作品の性質上、理知的な文体よりも、情緒に訴える文体の方が強い印象を残すのは確かだろう。
そういった微妙なさじ加減が作品全体に対する印象を変えたような気がする。

訳者の文章でこんなにも印象が違ってくるのか、と素直に驚くばかりだ。外国文学を購入するときは注意しなければならないらしい。

作品全体の感想は実吉訳の『トニオ・クレエゲル』に記したので、ここでは割愛する。


『ヴェニスに死す』は岩波文庫で一度読んだことがあるが、やはり今回も前回ほどは楽しむことはできなかった。訳者の影響かは判断を保留しよう。

主人公のアシェンバハは、初めの方で若者と戯れる老人を醜悪だと感じている。そんな彼が美少年に魅入られ、陶酔し、徐々に壊れていく過程がおもしろい(おもしろいという言い方もどうかとも思うが)。
理性的に振舞ってきた男が、ストーカー行為を働く姿は醜悪そのもの。その自分の醜悪さに対してエロスの神を引き合いにして、もったいぶった自己弁護を行なう姿は見ていて悲哀すら感じられる。

しかしそこまで少年に耽溺するアシェンバハの視線は、少年そのものというよりも、少年がまとっている美的な雰囲気しか見ていないように感じた。
アシェンバハは少年を形容するとき、ローマの彫刻を引き合いに出しているが、それはある意味、偶像化した少年という存在をあがめていからだろう。そしてそれこそ、皮肉なことだが、アシェンバハが一流の芸術家であることを示しているのかもしれない。

そうして良心の側と、陶酔に溺れたいという側の境目をふらふらしていたアシェンバハはやがて破滅に至る。
だが、芸術を奉じてきた彼は心のどこかでそのように美に溺れたいという願望を持っていたのではないか、という気がした。ラストのパイドロスに語りかける口調には、その願望がにじみ出ているように僕には見える。
そういう風に考えるならば、すべての流れは必然だったと言えるだろう。
そうした自滅に至る心理を綿密で、これはこれでおもしろい。「トニオ」ほどではないが、この作品もなかなかの良作だと改めて思った。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのトーマス・マン作品感想
 『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫)
 『トーニオ・クレーガー 他一篇』(河出文庫)


そのほかノーベル文学賞受賞作家の作品感想
・1929年 トーマス・マン
 『トニオ・クレエゲル』
・1947年 アンドレ・ジッド
 『田園交響楽』
・1982年 ガブリエル・ガルシア=マルケス
 『百年の孤独』
・1999年 ギュンター・グラス
 『ブリキの太鼓』
・2003年 J・M・クッツェー
 『マイケル・K』
・2006年 オルハン・パムク
 『わたしの名は紅』

『スパイダー』 パトリック・マグラア

2007-09-14 22:51:49 | 小説(海外作家)

カナダから20年ぶりにロンドンへ帰国した「私」は生まれ育った街で子ども時代をふりかえる。それは配管工の父が娼婦のヒルダに入れ込み、優しい母を殺害するという忌まわしい事件だった。「私」はその事件を詳しく思い出し記述するが、やがて少しずつ叙述が狂い始める。
ゴシック小説を基盤に「信頼できない語り手」の小説を書き続けるイギリス出身の作家、パトリック・マグラアの長編2作目。
富永和子 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


一人称というのは厄介な代物だ。主観が入りまくった語り口であるため、真実を語っているという保障がどこにもない、いわゆる「信頼できない語り手」である場合が多いからだ。

本作、「スパイダー」も解説で触れられている通り、「信頼できない語り手」の系譜に連なる作品だ。
その予感は作品のかなり早い段階から知らされる。作品の前半部では父による母の殺人が語られるのだが、その語り口の異質さはいやでも気付かざるを得ない。
「私」は父の過去を想像して描いていることになっているが、そこでの父親の行動は想像とは思えないほどあまりに具体的で、それだけに実に胡散臭い。
加えて、ところどころにはさまれる被害妄想的な言葉、ガスに対する執拗な叙述など、語り手自身が病的であることも伝わり、読み進むにつれ物語に対する信頼は下がってくる。

しかしその神経症的な語り手のために、物語の叙述がどんどん混迷していく辺りはある意味圧巻だ。
そこで見られるのは分けておかなければならない事象の混在である。
時系列の混在はもちろん、記憶と現実、記憶と幻覚、人格と、あらゆる要素で、混乱と混在が見られ、読んでいる方としては非常に落ち着かなくなる。
しかしその混乱に満ちた文章は技巧的にすばらしく、刺激的だ。

さて、そういった奇妙な語り口の中で描かれるエピソードは平凡と言えば平凡だ。母に対するできごとなどは、すべては想像できなくてもある程度のことは大体の人にもわかるだろう。
しかしその内容は読み込むほど、いろいろな深読みが可能になってくる。それもすべての叙述の高い技巧性の妙にあることは言うまでもない。

たとえば母に対する「私」の感情の中には明らかに罪悪感も混じっている、と思う。
「私」は父に責任を転嫁するような内容を延々と語っているが、ならば、なぜジェブが「私」を糾弾した言葉や、真相を語るラトクリフの言葉を記すのだろう。本気で父に責任があると思っているなら、その言葉を記さずに無視すればいいだけの話だ。
しかしそれを記さずにいられなかったということは、「私」が本当は自分でも事件の真相を認めているという証拠にはならないだろうか。そしてそれを記したのは、やはり罪悪感から来るものではないだろうか。
まあそれはともかくとして、ほかにも真実の事件はどこまで語られているか、などを想像するだけでも楽しい。

この作品が世間的に受けるとも思えないが、この高い芸術性はすばらしいの一語につきる。深みのある物語を心から堪能し尽くした思いだ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『昨日』 アゴタ・クリストフ

2007-08-30 20:39:45 | 小説(海外作家)
   
村の娼婦の子だったトビアスは人を刺した後、国境を越えて工場労働者として働くことになる。毎日単調な生活を送る彼は、自分の空想の中に住む女リーヌがいつか現れることを夢見て生きていた…
『悪童日記』で知られるハンガリー出身のフランス語作家、アゴタ・クリストフの作品。
堀茂樹 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


この作品の中では、幻想とも個人の思索ともつかない抽象的な文章と、現実的な物語とが交互に語られている。
幻想的なパートはあまりにぼんやりとした雰囲気なのでわかりにくいが、主人公の心象風景であり、自身の心情を吐露している部分と見ていいだろう。
そういった幻想的な文章を通して、移民となってしまったトビアス(サンドール)の絶望が見えてくる。

トビアスは理由はあれ、自分の国を捨て、母語をも同時に喪失している(名前も失っているのが象徴的だ)。しかも移った町での工場労働は単調そのもので、生きる意味さえ見失いかねない環境だ。
そこに流れているのは、まぎれもなく絶望そのものであろう。同時に言葉を失うということはある意味、アイデンティティの喪失でもあり、根本に関わる絶望ということがうかがえる。
トビアスは文学を志しているが、それがそのような単調な暮らしを打破し、アイデンティティを回復するため、必要な行為なのだという風に、僕には感じられた。そうでなければ、捨てたはずの名前、トビアス・オルヴァを最初の本に署名するとは宣言しないだろう。文学を志すのは新しい国で、絶望に打ち勝つと同義なのだ、と僕には思えた。

だがそれでも、トビアスが故国に帰ろうとは思わないところが僕には興味深い。
もちろん、故国に帰らないのは自身の母の記憶もあり、それに対する恐怖があるからだが、それでもトビアスが故国に対してまったく郷愁がないとは、読んでいて僕には思えなかった。
多分、彼はリーヌを通して故国を取り戻したかったのだという気がした。つまり、リーヌは向き合わなければならない過去(国)と、過去に対する郷愁のメタファーなのだ、と思う。
つまり彼は新しい国で、新たなアイデンティティをつかみとり、自分の故国に対する郷愁を抱えていたかったのだろう。彼の行動はすべてそこに帰結するのだ。

しかし結果的には彼の希望は叶えられないまま終わる。その姿が僕にはあまりに苦しく、悲しく見えた。
捨てた国を手元に引き寄せることを真に願っているのに、結局それが不可能の愛でしかないのだとしたら、あまりに残酷ではないだろうか。
しかも最終的にトビアスは新しい国に同化し、ものを書くことまでもやめてしまっている。
つまり、トビアスは望んでいた二つのものを、両方とも手に入れることに失敗しているのだ。
その主人公の姿は疑いようもなく敗北の姿だ。その姿の苦々しさのために読み終えた後、僕はすっかり打ちのめされてしまった。

あるいは国を捨てるということはそれだけの犠牲を結果としてもたらすものなのかもしれない。日本に暮らしている限り、クリストフが味わった世界を真に悟ることはできないのだろうか。
ともかくも作中とラストに流れる絶望がギリギリと胸を刺し貫いてくる。『悪童日記』ほどではないが、それでも見事な作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのアゴタ・クリストフ作品感想
 『悪童日記』

『わたしたちが孤児だったころ』 カズオ・イシグロ

2007-08-20 20:16:29 | 小説(海外作家)

ロンドンで探偵を行なうクリストファーは少しずつ名声を獲得しつつあった。しかし彼の胸の奥には一つの事件の記憶が眠っていた。それは少年期を過ごした上海の租界で、両親が謎の失踪を遂げたということだった。長じて後、クリストファーは戦火に襲われた上海に戻り、両親の行方を追う。
日系イギリス人作家、カズオ・イシグロのベストセラーとなった作品。
入江真佐子 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


孤児となってしまった少年が長じて後、探偵となり、自身の親の行方を探るという話だ。
そういうプロットから判断するに、系譜としては自分探しの純文学ということになるのだろう。だが、この作品は、同時に(地味ではあるが)ミステリとしても読むことができる作品に仕上がっている。
個人的には、そのミステリ部分に心を惹かれるものがあった。特に租界の外で両親がいると思しき場所に向かう場面が好きだ。中国人中尉との会話のシーンや、アキラと出会い日本軍につかまるまでのシーンはなかなかスリリングで読み応えがある。
そういったエンタメ要素のため、多少敷居が低く、読みやすいことなっていることは好印象であった。

純文学的な部分としては、主観と現実との齟齬が、後半になるにつれて明確に立ち上がってくる様が刺激的であった。特に探偵として成功しながらも、それが実は誰かの犠牲の上に立っているかもしれないという事実が明かされる部分と、現実の基盤がそれによって揺らいでいく過程が読んでいても物苦しいものがある。

もちろん作品のメインテーマとも言える、ラストの独白もなんとも言えず切ない。
世の人の多くは彼と同じように孤児なのかもしれない、そんなことをこの独白を読んだときに僕は思った。つまり、人間は時に、孤児のように世界に立ち向かわざるをえない時が来るということなのだ。過去の記憶に振り回されてそれに立ち向かい、解決しなければならない(事の大小はともかく)瞬間は誰しも訪れる。
一言でいうならば運命ってやつなのだろう。その運命の苦みが余韻を成していたのが心に残る。

いささかまとまりを欠いてしまったが、良質な作品であることはまちがいないだろう。『日の名残り』には及ばないものの、カズオ・イシグロが優れた作家であることを示す一品だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのカズオ・イシグロ作品感想
 『日の名残り』

『うたかたの日々』 ボリス・ヴィアン

2007-07-27 20:44:57 | 小説(海外作家)


若き青年コランと美しい少女クロエ。二人は出会い、恋に落ち、結婚して幸福をつかんだかに見えた。しかしクロエは肺の中に睡蓮が生長する病気にかかってしまう。
ジャズ・トランペット奏者としても活躍した、フランスの前衛小説家ボリス・ヴィアンの代表作。
伊藤守男 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


一応ジャンル的にはラブストーリーということになるのだろう。
恋をしたい青年が美しい少女と出会う。恋に落ちた二人は結婚するが、少女は病気にかかり、死んでしまう――そんな大まかな流れだけ見ればよくあるラブストーリーだ。見ようによっては「セカチュー」とも構図は似ていなくもない。
だが言うまでもなく、オリジナリティという点では、どんなラブストーリーよりも際立っている。ともかくも風変わりな作品なのだ。

そして本書の最大の魅力はその風変わりな細部にこそある。
この小説でもっとも有名な肺に睡蓮が生えるという設定はもちろんのこと(クロエの胸に青い大きな花冠が浮き出る、という描写は詩的で好きだ)、演奏するとカクテルができるピアノ、卵を産み落とすスケートの踊り手、ぱちぱちという音を立てて凍りつく涙、レバーを引くと汚れた食器を片付けるテーブル、丸薬を作り出す獣など、その設定はシュールでおもしろい。特に人間のような動きをするハツカネズミは非常に愛らしく、独特の存在感を放っている。
言い回しもところどころ変わっていて印象に残る。ケーキを二つに割るとパルトルの論文とクロエとのデートが入っているという描写は個人的には好きだ。

そういった奇抜な細部描写は物語の主筋にも、独特の効果を及ぼしている。
たとえば、コランとクロエが最初のデートをするシーンで、「小さなバラ色の雲が一つ、空から降りてきて、彼らに近づいた。雲が二人をすっぽりつつんだ。中に入るとシナモン・シュガーの味がしていた。」といった描写がある。
そこに描かれている世界はまちがいなくシュールだろう。だがシュールながらもどこかキュートであり、男女の甘い雰囲気がその中から存分に伝わってくる。一読忘れがたい。

また病気になったクロエとコランとの会話もいい。
解説で小川洋子も書いていたが「彼は彼女を腕の中に強く抱きかかえた。彼女はなま暖かく、いい香りがした。白いものがいっぱい詰まった箱から出てきた香水の瓶だった。」というあたりのナイーブな描写はこの小説の中でも、一二を争う美しさだ。

そんな中、後半になるにつれて、物語は少しずつ暗さを増していく。
人間を殺す歯車や、無機的な工場の対応、心臓抜きによる殺人などどこか残酷であり、その残酷な幻想風景がナイーブな若者を苦しめていっているように見える。
そしてラスト、リストの中にクロエの名を見つけるシーンや、葬式のシーンなどは、そのナイーブな若者の心を決定的に踏みにじっているように見えて、読んでいてあまりに物悲しいものがあった。

と、すばらしい面の多々ある作品だが、この作品全体の雰囲気は決して僕の好みとは言えない。
だが、この奇抜さ、切なさは好みとは無関係に賞賛するほかないであろう。そう思わせる力のある作品である

評価:★★★★(満点は★★★★★)