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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『戦争の悲しみ』 バオ・ニン

2008-11-28 23:57:48 | 小説(海外作家)

凄惨な戦争を生きのび11年ぶりに再会した恋人は、芸能界の放埒な生活に身を委ねていた。心の傷を抱えながら失われた青春を取り戻そうとする二人――従来の戦争文学の枠を越えた傑作。
ヴェトナム戦争を内側から描き、多くの文学賞に輝いたヴェトナム人作家バオ・ニンの話題作。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅰ-06
井川一久 訳
出版社:河出書房新社


正直言ってこの作品は決して読みやすいわけではない。意識的に時系列がいじられた作品だけあり、事実の前後の関係性が後になるまでわからない部分もあり、読むのも時折だが、難儀に感じる。
だが読み進むにつれて、徐々に明らかになる事実や、タイトルにもなっている「戦争の悲しみ」が立ち上がってくる様は非常に刺激的である。

戦争文学としてはレマルクの『西部戦線異状なし』が有名だが、この作品でも『西部戦線』同様、戦争の後遺症によるPTSDが示されている。たとえば主人公のキエンが過去の戦争での情景を街の真ん中で思い出すシーンは言うまでもなくPTSDの症状だろう。
その症状が起こるのはもちろん戦争において、苛酷な体験をしてきたからだ。
戦時中には自分の後ろを歩いていた人間に銃弾が当たって死ぬこともあったし、部下を置いて逃げたこともあった。自分を助けるために、輪姦されて殺されたホアのような女性もいたし、ほかにも女性兵士の多くがレイプされたことが示唆されている(『性犯罪被害にあうということ』を読んだ直後だけによけいつらく思う)。それだけでなく戦争が終わった後も、彼は遺骨収集のために、多くの死を眼前に見ることになってしまった。
若いときは戦争に身を投じる覚悟を持ったキエンも、その後、自分だけ生き残ってしまったがゆえにかなり心を苦しめられる結果となっている。その事実があまりにも悲しい。

そして戦争という重たい現実は、キエン本人のみならず、フォンとの関係性においても影を落としている点があまりに重い。
キエンとフォンの関係が決定的に損なわれたきっかけは、戦争下における集団レイプにあるだろう。その後の水浴のシーンで生じた互いの感情のずれが後々まで二人の関係性を暗くしているようにも見える。
そしてその間に起きた戦争は、長い時間が愛し合っていたはずの二人の運命さえ変えてしまった。
運命という言葉を使うと安直に見えかねないが、そう呼ばざるをえない残酷な状況がそこにある。

それらの暗い記憶や、壊れてしまった関係を清算するためにもキエンは小説を書かなければならなかったのかもしれない。
だがその湧き続ける記憶にうながされるように書いてきた小説を、彼は最終的に全否定するかのように焼こうとしてしまう。そこにキエンの絶望のすべてを見る思いがする。
魂を込めて、記憶に苦しみながら書き続けた作品を焼かざるをえない。その行為には重苦しいまでの苦しさに満ちている。
だが、それもまた戦争が落とした影の一つでもあるのだろう。
戦争は生きている限り、どこまでもキエンに影のようについて離れてくれない。その事実が読み手の心に強く訴えかけてきてやまない。

この小説には、戦争の悲劇が現実的な爆撃や銃弾の中にのみあるわけではないことを、静かに伝えてくれる。まさに良質の作品である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


同時収録: 残雪『暗夜』

そのほかの『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』作品感想
 Ⅰ-05 ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
 Ⅰ-06 残雪『暗夜』
 Ⅰ-11 J・M・クッツェー『鉄の時代』

『暗夜』 残雪

2008-11-27 20:13:36 | 小説(海外作家)

人語を話す猿がいるという猿山への道、明けることのない闇夜に繰り広げられる出来事を描いた表題作の他、「痕」「不思議な木の家」「世外の桃源」など本邦初訳を中心に代表作7篇を収録。
全世界を揺るがした現代中国文学の鬼才、残雪のベスト作品集。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅰ-06
近藤直子 訳
出版社:河出書房新社


僕は理系ということもあってか、小説を読むとき、物語の構造を意識しながら読む癖がある。
このシーンはどういう意味があるのか、この展開は先のプロットにどうからんでくるかとか、この小説のテーマ性とは何か、とか、そういうことを考えながら、読んでしまいがちだ。言うまでもなく、それは窮屈な読み方だが、そういう性分なので仕様がない。

そんな僕のようなタイプの人間にとって、この残雪という作家はきわめて相性が悪い。
もちろん残雪なりに、小説の構造を意識して描いているとは思うが、構造よりも、どちらかと言うと、感性を前面に出しているという風に感じるからだ。そういう点、僕とは志向性は正反対である。

たとえば表題作の「暗夜」の場合。
小説は主人公の「ぼく」が老人と一緒に猿山に向かうという話であるが、その過程でたくさんの不可思議なイメージに遭遇するという作品である。
僕がこの作品を読んだときに真っ先に考えたことは、猿山とは何か、ということだ。
僕の解釈では、猿山は人間が持ちうる理想のメタファーであり、周囲の暗い夜という状況は現実という茫漠さに対する不安を示していると判断した。その他にもネズミ猿は襲い来る現実を描いており、血を流す雌馬は性欲を、亡霊は理想を追い求めた者の残滓を示しており、永植は理想のためにガムシャラに突き進む者を示しているように思う。
以上のことからして、「暗夜」という作品は、理想を目指しながら、怠惰な自己に気づかざるをえない、ゆれる思春期の少年の姿を描いた作品、というように僕は解釈した。それを不条理な設定が頻出する世界を舞台にすることで、理想を追い求めていくことに対する揺れをも象徴的に描き出しているとも判断できる。まあまずまちがいなく、誤読なのだが。

ほかの作品の解釈についても述べるなら、
「帰り道」は、自分の知らないところで、いつの間にか、理不尽な政治状況下に追いやられているという状況にも解釈できるし、「不思議な木の家」は権力者のメタファーとその堕落と解釈できる。
「痕」は自分という核を見失ってしまい、(古い言葉だが)透明な自分になってしまう自己を見出すが、その状況をあきらめて受け入れてしまった男の話という風にも見える。
作品そのものは多義的であるため、作品に対する解釈はいろいろ可能だ。

だが読み終わった後、そのような解釈が非常にむなしく思われてならないのだ。
そのような解釈に何の意味があるのだろう、という気がしてならない。

なぜなら、残雪の描く小説の力強さは作品の構造の中にはなく、不条理でわけのわからない細部描写の中に見られると感じるからだ。
彼女の小説に関する限り、小説世界は解釈されることを望んでおらず、不条理でわけのわからないものに満ちた、ずれた世界をそのまま鑑賞されることをこそ欲している。
まさに理性ではなく、感性で、小説を受け止めなければならないタイプの作品。原因には必ず結果があるというシンプルな構図を、これまでずっと扱ってきた僕にとっては鬼門以外の何物でもない。
一言で言えば合わない。

こればかりは相性だから仕方のないことではあるが、このような評価しかできないことが残念な限りである。

評価:★★(満点は★★★★★)


同時収録: バオ・ニン『戦争の悲しみ』

そのほかの『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』作品感想
 Ⅰ-05 ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
 Ⅰ-11 J・M・クッツェー『鉄の時代』

『鉄の時代』 J・M・クッツェー

2008-11-16 08:27:40 | 小説(海外作家)

反アパルトヘイト闘争の激化するケープタウン。黒人への暴力と差別を目の当たりにし、やがて一人のホームレスの男に看取られることになる女主人公が、娘への手紙として残した苦悩に満ちた手記。
ノーベル賞作家J・M・クッツェーの傑作を初紹介。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅰ-11
くぼたのぞみ 訳
出版社:河出書房新社


作者がクッツェーということもあり最初からわかっていたことではあるが、この作品も例によって決して読みやすい作品ではない。老女の遺書というスタイルをとっており、そこで描かれる心理は丁寧ではあるが、骨太な作風もあってか、噛み砕いて読むのは、正直言って骨が折れる。
しかしそれでもこの作品が僕の心を引きつけてやまないのは、アパルトヘイト撤廃前の南アフリカの状況が、鋭く描かれているからだ。

僕はアパルトヘイトについてはよく知らないが、ここで描かれる空気はかなり緊迫感に満ちている。
黒人と白人という二元論で分けられる世界は差別の塊だ。
警官は黒人を痛めつけ、黒人はそれに報復し、警察もそれを押さえつけようとする。まさしく悪循環。そしてそのような状況は情報統制がされているため、黒人メイドのフローレンスから聞くことでしか知ることはできない。老女は「この国の生活は、沈没寸前の船に乗っているのと、ひどく似ている」と語っているが、それも何となく納得できるような絶望に満ちた世界だ。

そんなアパルトヘイトをこの主人公である老女カレンは徹頭徹尾嫌っている。白人政治家をイナゴ一家と語り、「生命を食い散らしている」と述べるなど、その言葉は辛らつだ。
しかしどれほど辛らつに白人政治家を責めても、彼女も結局のところ白人でしかなく、黒人の側に属することができるわけではない。
ケガをした少年の手の甲に触れれば、身を硬くされるというほぼ拒絶の態度を受けるし、黒人メイドのフローレンスからは本当の名前を教えられるほど信頼されていない。また、フローレンスの息子ベキが殺害されたときは、ミスター・タバーネから白人に対する憎悪に満ちた非難を暗に浴びせられる始末。
フローレンスがカレンに向かって言うように、悪いのは全部、白人のせいだと思われていることもあり、白人であるという事実だけで、黒人にとっては憎しみの対象になる。

それらのすべては一面では正しいのだろう。
だが鉄の時代の比喩が示すように、黒人たちの態度はあまりに頑なでありすぎる。だがその頑なさこそ、この時代の南アフリカを適切に示しているのかもしれない。
白人と黒人同士がわかり合えないという状況において、主人公のカレンは二元論の境界上で右往左往するばかりだ。

そんな中でカレンが選択する方法は、彼女の正義感でことに当たるということだ。黒人には拒絶され、白人たちにバカにされ、恥ずかしい思いをさせられながら、彼女は彼女なりの行動をとる。
だがそれはどちらかの側に肩入れするわけでもない。
実際、黒人の行動には、「犠牲を呼びかける叫びが嫌でたまらない。若者たちが泥のなかで血を流しながら死んでいくことになる、あの呼びかけが」と言って、暴力による解放をうたう黒人たちの意見を否定している。
カレンが示したいのは、白人だからとか、黒人だからという単純な二元論の話ではなく、すべての暴力的なるものに対する反発なのだろう。それを示すためなら、他人からときに狂っているように見られても、それを恐れず、(本当は嫌っている)黒人の子どもの死に対して怒りの声を上げ続ける。
それは狂気に満ちた行動だが、狂気のような時代においてはそのような方法を取らざるをえないのかもしれない。

だがその狂気の時代の中で、救いを見出せるとしたら、ファーカイルとの関係性の構築にあるだろう。
ファーカイルは体臭がきつく、カレン自体、その臭気に対して不快感を持っているし、彼を信頼もしていない。倫理面はさておき、カレンに限らない南アフリカ白人が、黒人に対して感じる、それは自然な心理なのかもしれない、と思えてくる。
しかし「善良であること以上のものが要求される」空間においては、その信頼できないものを信頼しなければならない、という信念を持たざるをえないのかもしれない。
それはベキの友人に対して「愛さなければならない」と感じているのと同様、ある種の強迫観念すら仄見えてくる。そんなに無理しなくてもいいのに、と僕には見えるのだが、それだけの強い感情がこのような鉄の時代では要求されるのかもしれない。
だがそうしていけば、「我慢できないことにも、慣れ」、やがて互いに気遣いを見せ、互いに接近することもあるのだろう。そこにこそ暴力的な二元論を超えた救いと希望があるのかもしれない。
読みづらい作品ではあるが、やはり読んでよかったと思わせる優れた作品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

○追記
「未来は偽装してやってくるものだから、もしも未来が剥き出しの姿でやってきたなら、わたしたちはそれを見て、石のように動けなくなるはずよ」
という言葉が気に入った。南アフリカの状況をよく示しているが、そこだけを抜き出せばずいぶんペシミスティック。だがこの言葉はいまの日本でも通用するのではないか。


そのほかのJ・M・クッツェー作品感想
 『夷狄を待ちながら』
 『恥辱』
 『マイケル・K』

そのほかの『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』作品感想
 Ⅰ-05 ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

『巨匠とマルガリータ』 ミハイル・A・ブルガーコフ

2008-10-26 20:00:58 | 小説(海外作家)

作家協会議長の轢死を予告した魔術師が、モスクワ中に奇怪な事件を巻き起こす。悪夢のような現実をシュールにリアルに再構築した、20世紀を代表する究極の奇想小説。
作家として不遇な人生を送りながら、死後評価されたウクライナ出身の作家、ミハイル・ブルガーコフの作品。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅰ‐05
水野忠夫 訳
出版社:河出書房新社


この作品を一言で表すなら、奇抜、である。
冒頭から悪魔ヴォランドが出てきて物語を混乱へと押しやっているが、その混乱具合がまたグロテスクかつシュールなのだ。

たとえばグロテスクで言うなら、ベルリオーズの首が切断されてしまうところや、司会者ベンガリスキイの首がネコによってねじ切られるシーン、リムスキイとヘルラの対峙のシーンは読んでいても不気味であり、後にまで強烈なインパクトを残してならない。

またシュールで言うなら、悪魔に翻弄される人たちの行動はシュールで、その設定はともかくぶっ飛んでいる。
たとえば冒頭のイワンの行動などまったく意味がわからない。モスクワ河に飛び込むかと思えば、聖像画を身につけたりと、何がしたいのかさっぱりで、医者を相手の会話なんかあまりの噛み合わなさに思わず笑ってしまうそうになる。
またちょっとした欲を出したり、普通に日々を送っているだけの人間たちを翻弄していくコロヴィエフやベゲモートの姿も滑稽であり、風変わりだ(後でブルガーコフの人生や、池澤夏樹の文章を読み、なぜここまで人々が侮辱された扱いになっているのか知り、なるほどと思った)。
それらの奔放すぎるイメージのため、物語は混乱しており、まったくもって先が読めない。
だが同時に、それゆえ物語はむちゃくちゃ刺激的なのである。読んでいても非常に楽しくなるからふしぎなものだ。

しかもキャラが立っているから、よけいに物語は楽しい。
特にヴォランド率いる悪魔の五人が際立った印象を残す。どれも奇抜でインパクトは大だが、特にネコのベゲモートには打ちのめされてしまった。ネコのくせして人間のような行動を取り、人間たちを手玉に取っていく姿のおかしいことなんの。
先を読み進むのが本当に楽しくてならなかった。

とここまでほぼべた褒めなのだが、それも第一部までのことである。第二部になって、本書は残念ながら急にだれてしまう(個人的に)。

第二部だっておもしろいシーンはある。魔女として飛び回るマルガリータの描写などはおもしろいし、悪魔の舞踏会のグロテスクな雰囲気は好きだ。ピラトゥスの苦悩やユダに対する殺意の話も楽しめる。

だがそれでもだれた印象を持ったのは、おそらく理由は二つ。
一つはマルガリータと巨匠のキャラクターのせいだろうと思う。
マルガリータには個人的には悪魔たちほどの魅力を感じないし、巨匠には物語を牽引するほどの強烈な個性はない(というか周りが強すぎる)。彼らの運命にもいまひとつ心が揺さぶられない。
彼らのパートが主であるはずなのに、どうも弱いように思い、それが悪い印象を生んでしまった。

二つ目は単純に言えば宗教的なテーマだ。
アホなんで、幾分わからない部分もあり、ラストの一連の終わらせ方もそんなんでいいのかな、という気もしなくはない。一言で終わらせるなら趣味ではないのだ。

そのため、読後がピンと来ないのだが、少なくともできれば、いつかもう一度再読したいな、と思わせる力のある作品であったことは確かだ。多分もう一度読めば、ちがった印象を持つような気がするし、それが肯定的な印象に変わるという予感もする。
何はともあれ、個性的でパワーあふれる作品だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


● 長めの追伸(幾分文章が混乱気味)

この作品を読んでいるときに思ったのだが、この作品は悪魔が出て来る小説のわりに善なるものが欠けているという印象を受けた。何でも二元論で片付けるのは危険ではあるが、キリスト教圏の小説にしてはめずらしい。

もちろん小説内には究極善とも呼ぶべきヨシュアが登場するが、どちらかと言うと、それはピラトゥスの苦悩を浮かび上がらせるだけの存在でしかない。
ヨシュアはあくまで殺され、マタイは神に呪いの言葉を吐く。
そこには何かを守ろうという確固とした善が幾分欠け(例外はあるが)、その欠如がすでに自明になっているという印象すら受ける。

だからマルガリータが魔女になったのはある意味では必然であったのだろう。
善の欠如が自明の世界において、彼女には最初から悪以外を選択するルートが残されていなかったからだ。

だが悪が行なうのはあくまで混乱を引き起こすことである。
人生は巨匠に限らず、ただでさえままならない。それにプラスして悪魔的なまでに理不尽なできごとだって降りかかることがある。
それを克服するため、彼女は自らも悪になる立場に回らずをえなかったのかもしれないとしたら、皮肉なことではないか。

とはいえ彼女が選んだ悪にさえ、多少の思いやりはある。
実際フリーダに対して赦しを与えることを懇願したり、ピラトゥスを罪悪感から解放しようとする。それこそが本書においては一つの答えを提示していると言えるのかもしれない。

つまり、現実を乗り越えるため、悪を抱え持たなければならない。しかしそこに愛と赦しを忘れてはいけない。そういうことである。
それが僕がこの作品を読み終えた後に得た解釈だ。

しかしだ。そう考えると、一つの疑問が浮かび上がってくるのである――

ブルガーコフはソビエトという国に翻弄され、検閲を受け、不遇のうちに没するという一生を送った。そんな人生を送っていたのなら、ソビエトという国を恨んでいた可能性だってあるだろう。
だが彼が悪と幾分かの善意で現実を乗り越える、という見方を持っていたと仮定すれば、彼の人生をどう捉えればいいのだろう。

ここからは少し飛躍した論理になるが、ひょっとしたらブルガーコフは社会主義という機構を恨みながら、それを信じたいという願望を持っていたのかもしれない、という風に僕は思った。
悪の許容は、自分を押さえつけたソビエトへの対抗であると同時に、飛躍的に見ればソビエト政府の容認と見えはしないだろうか。
そして幾分かの善意をマルガリータたちに仮託したのは、その善意をソビエトが持ってほしい、というちょっとしたメッセージと僕には映ったがどうだろう。

まあまちがいなく誤読なのだが……
何はともあれ、いろんな読み方が可能なのだろうな、とはつくづく思う次第だ。

『どちらでもいい』 アゴタ・クリストフ

2008-10-18 09:29:39 | 小説(海外作家)

もはや来ることのない列車を待ち続ける老人の狂気と悲しみを描く「北部行きの列車」。まだ見ぬ家族から初めて手紙をもらった孤児の落胆を綴る「郵便受け」。まるで著者自身の無関心を象徴するかのような表題作「どちらでもいい」ほかに加えて、単行本未収録の初期短篇「マティアス、きみは何処にいるのか?」を収録。筆を折り続ける著者の絶望と喪失感が色濃く刻まれた、異色の掌篇集。
ハンガリー生れのフランス語作家、アゴタ・クリストフの作品。
堀茂樹 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


ほかの人がどう言うかは知らないが、少なくとも僕は、アゴタ・クリストフの『悪童日記』は世界文学史に残る大傑作だと思っている。とにかく僕の心に深く響き、強いインパクトを残す作品であった。
それほどの作品を書いた作家なだけに、本短篇集を期待しながら読んだのだが、期待が大きかったせいか、残念ながら読後には物足りなさしか覚えなかった。

もちろん本書の中にはいい作品もある。
「ある労働者の死」には『昨日』を思わせるような工場生活が見られ、虚無と怒りが漂い、すごみがあるし、「郵便受け」には、人間の感情というものや、親という存在に対する憎しみのようなものを見出せるようだ。
「間違い電話」は孤独な人間の心理を見るようで興味深いし、ラストの残酷さは印象的だ。
「街路」では主人公の人生の意義について思わずにいられないし、「私は思う」の孤独感に対する切実さが伝わってくる。
「わたしの父」の最後一行には、主人公の願望とそれが叶わなかった悲哀と絶望を見る思いがする。

それら作品の良さは確かなものだ。
透徹した不気味さと虚無と孤独が漂っていて、独自の味わいを生んでいる作品も多く、余韻だって残す。
しかしやはりこれらは結局のところ小品でしかないのだ。短いがゆえに食い足りなく、そのために心に届く一歩手前で踏み止まってしまう。
完成度にもバラつきがあり、これはどうもなあ、と感じる作品もはっきり言うが見られる。それらの事実はあまりにいい印象を残さない。

しかし『悪童日記』にとことんはまったという人間だったら、この作品集は読んでみる価値はあるのだろう。
特に「マティアス、きみは何処にいるのか?」は『悪童日記』ファンなら、読んでみて損はあるまい。『悪童日記』三部作とのつながりを見つけるだけでも楽しい時間を過ごせることは確かだ。
だがそれ以外の人は特にこの作品集を勧める気にはなれない。本書を読むのなら、『悪童日記』をくりかえし読めばいい、と僕個人は思うだけだ。

評価:★★(満点は★★★★★)


そのほかのアゴタ・クリストフ作品感想
 『悪童日記』
 『昨日』

『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ

2008-09-25 21:00:21 | 小説(海外作家)

優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力らを入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく――
全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家カズオ・イシグロの新たなる代表作。
土屋政雄 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)


冒頭からなかなかスリリングな作品だ。
ヘールシャムという謎の場所で、子どもたちが過ごしているのだが、そこには大きな秘密があることが思わせぶりな筆致で書かれている。子どもたちを恐れるマダムや展示館など、そこでの雰囲気はとにかく奇妙だ。その謎とは何だろう、と読み手をやきもきさせながら進めていく手腕はなかなかだ。
その謎はかなり早い段階で明かされる(そしてそれはほぼ想像のとおりだ)のだが、その後も「ポシブル」等を始め全体像が見えてこない部分があり、それらの謎でもって最後まで読ませる力がある。

だがカズオ・イシグロが書きたいのはそのような謎にあるのではないということは、読んでいる最中、何度も感じられた。
彼が書きたいのはあくまで普通の人間と人間との間に立ち上がる感情の機微にあるのだろう。

特に主人公であるキャシーとルースとの関係は微妙でおもしろい。
彼女らは互いに友情を感じているのだろうが、暗黙の了解で成立していることを、互いに壊そうとするところなどは、やや陰湿さが仄見え、微妙な意地の悪さがある。筆入れといい、テレビドラマの物まねの行為といい、それを暴き、互いに傷付けようとする行為はなかなか男ではわからない世界だが、それを追う筆はとにかく丹念だ。

しかもそれが微妙なゆがんだ世界の中で描き出される点がおもしろい。
セックスをしても子どもができず、ほかの人とはどうもちがうらしい存在だからこそ、覚える不安を、当たり前の人間関係の中に浮かび上がらせるというアイデアはユニークだ。
特殊な環境下に彼らの存在はあろうと、あくまで普通の人間であることをそこからは感じ取ることができる。ラストにトミーが見せる絶望に満ちた感覚も、やけっぱちの気分も、ルースが最後まで感じ続けた後ろめたさも、そこにあるのは人間の感情だ。
それを精緻に伝える筆の冴えていることは否定できないだろう。

だがそのユニークな舞台設定が同時に、この作品に壁をつくってしまっているように見えてならない。
この手の心理描写が丁寧な作品は、主人公に寄り添うようにして読まなければ作品の良さを充分に感じ取れないものだと僕は思う。しかしその特殊な設定のため、読み手は必ずしも主人公に寄り添うようにして読み進むことができなくなっているきらいがある。
大きな謎を配しているために、読み手である僕は一歩引いた位置から小説を読んでしまい、主人公の心理を外郭からながめる形になってしまった。それがこの小説に必ずしもはまりきれなかった要因になっているように思う。
趣味もあるかもしれないが、個人的にはちょっぴり惜しい作品になってしまったという思いで一杯だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)


そのほかのカズオ・イシグロ作品感想
 『日の名残り』
 『わたしたちが孤児だったころ』

『ボヴァリー夫人』 フローベール

2008-08-20 20:58:24 | 小説(海外作家)

田舎医者ボヴァリーの美しい妻エマが、凡庸な夫との単調な生活に死ぬほど退屈し、生まれつきの恋を恋する空想癖から、情熱にかられて虚栄と不倫を重ね、ついに身を滅ぼすにいたる悲劇。厳正な客観描写をもって分析表現し、リアリズム文学の旗印となった名作である。本書が風速壊乱のかどで起訴され、法廷に立った作者が「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったのは、あまりに有名である。
フランスの写実主義文学を代表する作家、ギュスターヴ・フローベールの作品。
生島遼一 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




不倫の果てに身の破滅を招く女性を描いた作品と聞いて、正直読む前はどの程度楽しめるのか、不安な部分もあった。
だが、読んでみると、これが予想以上におもしろい内容だったので驚いている。
なるほど100年以上の長きに渡り読み続けられるわけだと変に納得してしまう。


おもしろく感じた最たる要因は、やはり主人公のエマ・ボヴァリーのキャラクターに尽きるだろう。

エマという女性は空想癖のあるロマンチストだ。
結婚しても恋に恋するところがあり、退屈な日常を許容できない。加えて派手好きな部分もあり、金銭を浪費する。
その人物像はリアルそのものだ。それもこれもエマの心理を丁寧に追っているから、そう感じられたのだろう。

たとえば、エマは最終的に不倫に走るが、彼女だって最初からそんな行動をとろうと思ったわけではない。
最初の方は飽きっぽい性格ゆえ、単調な毎日に嫌気が差し、熱情に憧れているだけでしかない。
すてきな男性に出会い、彼らと恋に落ちたらどうだろう、と空想する姿はエマのキャラクターからすれば変でもないと思う。それに夫の醜さに嫌気も覚えるのも、そんなにめずらしいことでもないと思う。

だが、ロドルフという行動的な男の登場で、彼女は実際に不倫の道へと踏み出してしまう。
そしてそこから自身の派手好きのために破産に至る流れが手にとるように伝わってくるのだ。
すべての流れには無理がなく、丹念であるだけに恐ろしく説得力がある。
その的確な描出力には感嘆とするばかりだ。


しかし、ロドルフにしろ、レオンにしろ、仮にエマが実際に彼らと結婚したとき、彼女はいつまで彼らを愛せただろう。結構すぐに破たんしたんじゃないかな、と僕としては思うのだ。

彼女は恋に恋しているだけである。
だから彼女は、不倫という隠れて行なう恋愛でなかったら、彼らをそこまで愛せたかは疑問だと思う。
彼女が求めたのは結局、男(恋愛)にしろ、お金にしろ、派手さだったのではないか、と僕には見えてならない。

それを愚かだと断じるのは簡単なのだろう。
しかし愚かと一言で終わらせるわけにはいかない力強さとリアリティがこの作品には漂っている。
それがいまになってもこの作品が評価される所以なのだろうとつくづく思い知らされた。


ところで同じ男ということもあってか、夫であるシャルルのキャラクターが僕の中では強く印象に残った。

彼は妻に裏切られるのだが、彼に落ち度があるかと言ったら、そういうわけでもない。
実際、彼は妻のことを愛しているし、思いやりを持った行動をとっている。こういう男性を求める女性もいるのだろう。
しかし彼は、エマが求めるタイプの男ではなかった。

彼に罪があったとしたら、それは平凡すぎたということなのだろう。
言うなればエマとの相性が悪かったと言えるのかもしれない。
派手好きな彼と、鈍感でエマが求めるような過剰な情熱を持ち合わせていないシャルルと方向性が違うのは明らかだ。

とはいえ、それだけで片付けるにはやはりラストは哀れすぎる。
人の出会いというもののふしぎを、シャルルというキャラを通して考えさせられた次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『夷狄を待ちながら』 J・M・クッツェー

2008-08-03 08:34:08 | 小説(海外作家)

静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた夷狄の少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄と通じていると疑いをかけられ拷問に…。
南アフリカのノーベル賞作家、J・M・クッツェーの作品。
土岐恒二 訳
出版社:集英社(集英社文庫)


作者のクッツェーがどのような意図でこの小説を書いたかは知らない。
帝国という枠組みからして帝国主義に対する批判かもしれないし、作者が南アフリカ出身であることから考えて、帝国と夷狄というメタファーを通してアフリカーナーと黒人との対立を抽象的に描いた作品なのかもしれない。

しかし僕個人の印象としては、この作品はナショナリズムの勃興と、それに追随する民衆、そしてそれに抵抗しようとするも、その限界に直面する知識人という話と受け取った。


まずナショナリズムの勃興という視点から見てみよう。
この物語に登場する帝国は帝国の周囲にいる夷狄と敵対している。だが帝国が夷狄と敵対する理由は「私」という存在に寄り添って見ているせいか、さして根拠があるようには見えなかった。
もちろん文化が違うということもあって、町の住民たちも文明化していない夷狄に対して不快感を持っているし、商売のときには彼らを軽んじる行動を平気で行なう。
そしてそれは夷狄に対してシンパシーを持っている「私」でさえもそうで、夷狄の漁民を保護のため中庭に入れながら、彼らの行動に不快感を覚えることもないわけではない。

僕は思うのだが、帝国が夷狄と敵対する論拠は、相手のことを理解し合えそうにないことからくる不愉快さに由来するのだろう。
その不愉快さを基盤にして、自分の周りに敵を築き、帝国ひいては自分たちの結束を硬くしようと努めているように(深読みかもしれないが)、僕には見える。それが僕がナショナリズムと見いだした理由だ。
最後の方に帝国の一地域が洪水に見舞われるシーンがあるが、悪いことはすべて夷狄のせいにして逃げているように見えなくもない(もちろん本当に夷狄のせいなのだろうけれど)。

ともかくも帝国側の行動は偏見もあるが、僕には考えの足りないだけのナショナリズム的な行為にしか映らなかった。


そしてそんなナショナリズムに民衆は何の批判もなく追随してしまう。

たとえば物語の中盤以降で夷狄に対する虐待シーンが出てくる。
両頬と両手を針金で結ぶという痛々しい姿や、夷狄に対するむち打ちはえぐいの一語に尽きるだろう。読んでいてつらく感じることは確かだ。
しかし群集はそれを止めようとしない。ジョル大佐の行為に喝采し、止めようとした「私」に平気で虐待を加え、見下した行動を取ろうとする。
その自己の行動に疑問を持たない民衆の行動は寒気がするばかりだ。


そんな群集に、それでも「私」は彼なりの行動で批判を試みている。
「私」という人間には弱い側に対するシンパシーの念が強いからだろう。
それに倫理観も(幾分保身の念も強いけれど)ある。後半に登場する「いままさに犯されようとしている暴虐に自分まで染められてはならないし、またその加害者に対する無力な憎しみから自身を毒するような行為に走らないことである」という言葉は幾分の留保がつくけれど、彼なりの倫理観を示すし、「夷狄のために正義の大義名分を護ることよりも頭を断頭台の上に載せるほうががたやすい」という言葉も彼なりのポリシーを示すようだ。

しかしそこに何の迷いもないわけではない。
先にも触れたが、彼自身、夷狄の風習には眉をひそめているし(その感情を偽善ぶらず真正面から書いているところがすばらしい)、彼自身、夷狄の人間ではなく、所詮帝国側の人間に過ぎないからだ。
そしてそれこそが彼の限界でもある。

それを象徴するできごとは夷狄の女が、彼の元を離れた場面にあるだろう。
そのとき「私」は彼女の前してそれとなく自分の元に残ってほしいと語っている。しかし夷狄の女は「私」の言葉をあっさり拒絶し、夷狄の側に戻っていく。また交渉に現れた夷狄の男に「私」は銀を奪われただけで終わってしまう。
そこには相手にシンパシーを覚えながらも、それを根拠に相手の側と理解しあうことができるとは限らないという、苛酷な現実をうかがわせるようで興味深い。
そしてそれらのできごとこそが、「私」が帝国の論理に完全に組み込まれることもできないし、夷狄の側に入ることなどもっと不可能だ、ということを強く示唆しているのだ。


だがもちろんそれは「私」という人間に要因があることも否定できない。
たとえば後半になって、「私」が夷狄の女を手元に置き、中途半端な性的交わりを行なうのは、欲望を装った憐憫であるということが明らかになる。
それは裏返せば、彼にとって、女との関係は、所詮夷狄に対するシンパシーの代替行為でしかなかったということなのだ。

もっと別の言い方で語るなら、「私」は夷狄の女に対して、観念的な意味合いでしか接してこなかったということでもある。
つまり「私」にとって女はあくまで夷狄のメタファーでしかない。彼は夷狄の女と接触を持ったが、彼女本人と正確な意味で、コミュニケートできていたわけではないのだ。
「こんなにも長い間、無為に夕べを過ごしていないで、あの女に現地語を教えてもらうこともできただろうに」と悔いを見せるシーンがあるが、それは夷狄の女をメタファーとしてではなく、個人的な存在として接していればという悔いのように感じられなくもない。
そしてそこに気づかなかったことこそ、「私」という人間の真の限界があるのだろう。

そしてひょっとしたら帝国と夷狄の側を結びつける何者かがあるとするならば、その限界を越えた先にこそ答えがあるのかもしれない。そしてそれは口で言うほど簡単ではないのだろう。


とどうも無駄に長くなってしまったが、すばらしい作品ということは言い切っていい。以前読んだときは、この作品の良さを理解しきれなかったきらいがあるが、再読してこの作品の良さに気づくことができたと思う。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのJ・M・クッツェー作品感想
 『恥辱』
 『マイケル・K』

『法王庁の抜け穴』 アンドレ・ジイド

2008-07-21 09:20:13 | 小説(海外作家)

無償の行為を実践して意味なき殺人をするラフカディオ,奇蹟により改宗したアンティムの破綻,地下室に幽閉されている法王を救い出すためと称して詐欺を働くプロトス…….複雑多岐な事件の発展の中に,人間の行為の底にひそむ偶然と必然の問題が明快に描き出される.近代小説に新たな展開をもたらした作品.一九一四年作.
フランスのノーベル賞作家、アンドレ・ジイドの作品。
石川淳 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




この作品を読み終えた後で、感じたのはカミュの『異邦人』との相似である。
太陽がまぶしかったから、という理由で殺人を犯したムルソーと、ラフカディオとの間には共通する面はいくつかある。

ラフカディオは列車に乗っている最中、殺人を犯す。
だがラフカディオには、殺した相手であるフルーリッソアルを殺す理由はない。利害があるわけでも、恨みがあるわけでもなく、必要に迫られてもいない。
ただラフカディオの前にたまたま殺人を犯すにうってつけの機会が転がっていたというだけにすぎないのだ。
ムルソー同様、それは不条理で現代的な殺人とも言えるだろう。

ただ、ムルソーとラフカディオには大きく異なる点がある。
それはムルソーが自分自身に対してすら無関心であるのに対し、ラフカディオは本質的に殺人に対して罰せられることを欲しているという点だ。そして多少の自己顕示欲もあるという面もそうだろう。
それゆえ、ラフカディオにはムルソーほどの凄みが足りず、物足りなさを覚えたことは否定できない。
しかしその中途半端さが、逆にいまの時代の殺人と近いように思え、印象的に映った。


物語の方は、そんな殺人を犯したラフカディオに対して、教会にすがるよう勧める展開になっている。
しかしこの物語に描かれていることこそ、そのすがるべき教会の腐敗である点が皮肉だ。

ジュリウスが義兄アンティムを救うため、ローマ法王に訴えるシーンなどはそれを端的に示すだろう。
そこにある権威主義的な行為は俗物的で、信者を顧みない姿勢などはあまりに愛がない。
法王をだしにプロトスなどは詐欺を働いているが、そういうことに利用されかねない要素が教会側にはあったのだということかもしれない。

しかし現実的な問題、たとえ腐敗していようと、罪を犯した人間はそんな教会にすがらざるをえない。
だが恐らくそのような腐敗っぷりでは人間の心を救えないことなど明白で、そこには明らかな矛盾がある。


そのような中、ラストでラフカディオとジュヌヴィエーヴが結ばれるシーンに大きな意味があると思った。
つまり彼女の存在こそ、ラフカディオにとっては教会に代わりうる救いなのだ、ということである。
人の心を救うのは組織ではなく、個人の愛でしかない、そういうことだ。

それはベタな誤読かもしれないが、僕はこの作品からそのような結論を受け取ったがどうだろう。


ともかくも本作はいろいろなことを考えさせてくれる作品ということは確かだ。
文章が少し硬く、やや読み進みにくい部分はあり、幾分ご都合主義的だが、それなりに興味深い作品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかのアンドレ・ジイド作品感想
 『田園交響楽』

『木曜日だった男 一つの悪夢』 チェスタトン

2008-06-19 21:56:52 | 小説(海外作家)

この世の終わりが来たようなある奇妙な夕焼けの晩、十九世紀ロンドンの一画サフラン・パークに、一人の詩人が姿をあらわした。それは幾重に張りめぐらされた陰謀、壮大な冒険活劇の始まりだった。日曜日から土曜日まで、七曜を名乗る男たちが巣くう秘密結社とは。
ブラウン神父シリーズで名高いイギリスの作家、G・K・チェスタトンの幻想小説。
南條竹則 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)


ストーリーの出足自体はオーソドックスで、潜入捜査を依頼した暗闇の男など、謎に関してはわかってしまう部分はある。
だが無政府主義者の会合に潜入捜査するという展開や、そこから二転三転していくストーリーは探偵小説らしい骨格を保っていて興味深い。

しかし本作はそういったオーソドックスな骨格にとどまらない展開へとなだれ込んでいる。そのため読み終えた後には、ずいぶん変てこな作品だな、という印象を持った。
たとえば刑事たちが無政府主義者に追われる展開など、探偵小説のくせしてきわめてのんきな雰囲気がある。銃で撃たれて、車をぶつけてもいるのに、悠長に会話を交わしたりと、どこかとぼけた味わいがあって、妙な感じだ。
それに逃走する日曜日が投げつけるふざけた言葉も茶化したような味があってユニークだ。

そんな独特のテンポで進む物語は、思想小説的な不可思議なラストへと突入していく。
正直言って、僕はこのラストをうまく理解することができなかった。それもこれも日曜日というキャラのメタファーを読み取れなかったのが大きい。

そんな状況で、誤読を恐れずに言うならば、この小説は自伝的な青春回顧小説だろう、という風に僕は受け取った。
青春期は無政府主義的な思想に惹かれることもあったのかもしれない。だが最終的に世界そのものを肯定的に受け入れようとしている。そのような若き日の心理過程を、エンタメのオブラートに包んで、読者に提示した作品という風に僕は解釈した。

幾分抽象的な言葉も多く、正確に読み取ることができたとも思えないが、ずいぶん破天荒で独特の味があるのが印象深い。
必ずしも好みではないが、凡庸な作品よりもよっぽど幸福な読書時間を過ごせることはまちがいないだろう。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『エレンディラ』 G・ガルシア=マルケス

2008-06-01 18:05:41 | 小説(海外作家)

大人のための残酷な童話として書かれたといわれる六つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨な物語」を収める。『百年の孤独』と『族長の秋』の大作にはさまれて生まれたこの短篇集は、奇想天外で時に哄笑をもさそう。
コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短編集。
鼓直・木村榮一 訳
出版社:筑摩書房(ちくま文庫)


この作品集ですばらしいのはそのイメージの豊富さだ。
空想と現実が混在したいかにもマジックリアリズムと言うべき、シュールな世界観はすばらしいの一語である。その幻想とも現実ともつかない雰囲気を描き上げるガルシア=マルケスの筆はともかく冴えている。

たとえば「失われた時の海」のイメージはどうだろう。海から発するバラの香りや、海底に向かうというラスト近い展開などは想像力としてはおもしろい。
また「奇跡の行商人、善人のブラカマン」の蛇の毒で体が倍以上にふくれるなどの文章もユーモラスで、にやりとしてしまう。

また笑いの要素があるのもこの作品集の特徴だ。
「大きな翼のある、ひどく年取った男」の悪ふざけとしか思えない天使の奇跡はくだらなすぎて笑ってしまうし、「愛の彼方の変わることなき死」の南京錠の部分などは最高におもしろく爆笑ものだ。

しかし物語そのものはさほど心に響いてこなかった。
表題の「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」はマジックリアリズムのふしぎさが好印象で、叙事性と土俗性の混在した雰囲気もユニークだが、いまひとつ乗り切れない部分があった。

『百年の孤独』を読んだときにも感じたが、僕はガルシア=マルケスとは合わないのかもしれない。こればかりは感性の違いとしか言いようがないのが残念だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)


そのほかのガルシア=マルケス作品感想
 『百年の孤独』


そのほかのノーベル文学賞受賞作家の作品感想
・1929年 トーマス・マン
 『トニオ・クレエゲル』
 『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』
・1947年 アンドレ・ジッド
 『田園交響楽』
・1949年 ウィリアム・フォークナー
 『サンクチュアリ』
・1982年 ガブリエル・ガルシア=マルケス
 『百年の孤独』
・1999年 ギュンター・グラス
 『ブリキの太鼓』
・2003年 J・M・クッツェー
 『恥辱』
 『マイケル・K』
・2006年 オルハン・パムク
 『わたしの名は紅』

『かわいい女・犬を連れた奥さん』 チェーホフ

2008-05-31 11:19:36 | 小説(海外作家)

演出家の妻になると、夫と共に芝居について語り、材木商と結婚すれば会う人ごとに材木の話ばかり。獣医を恋人にもった魅力的なオーレンカは、恋人との別れと共に自分の意見までなくしてしまう。一人ぼっちになった彼女が見つけた最後の生きがいとは――。
一人のかわいい女の姿を生き生きと描いた表題作など、作者が作家として最も円熟した晩年の中・短編7編を収録。
小笠原豊樹 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


チェーホフの小説を読むのは初めてだったが、彼の小説の上手さには驚くほかにない。
理不尽な現実の中を生きる人間たちの姿を、ときにリリカルに、ときに哀愁をほのかににじませ、ときに登場人物なりの希望を描きながら、描く様は堂に入っており、その技術は際立っている。

たとえば、個人的にもっともツボだった「イオーヌイチ」。
この小説の主人公であるスタルチェフと、ピアニストになる夢を抱きそれに破れるエカチェリーナの対比が、とにかく抜群に上手いのである。
前半部では、スタルチェフもエカチェリーナも若く、人生に対して幻想を持っている点では共通しているし、後半部では人生に対して幻滅し、何か頼れるものにすがろうとする点で共通している。そして彼らが別々の時期ではあるが、相手に対して求婚する点でも共通している。
にもかかわらず二人の思いが最後まで重ならないまま終わるという点が、僕の胸を深く突いた。
幾分構図的な作品ではあるけれど、彼ら二人の悲喜劇には、人生の哀愁と、物にならない現実の真実を突いているように思えて、胸に迫るものがある。本当にすばらしい作品だ。

表題作の「かわいい女」も優れている。
構成に無駄がないということもすばらしいが、それ以上に、自分の意見が持てず、誰かの鏡になることしかできない女性の造形が光っていた、と思う。
確立した自己があることが必ずしも幸福であるという保証はないけれど、誰かに依存する以外の選択肢がないという状況は悲しむほかにない。実際、ラストの彼女は一瞬の幸福を得ているが、その幸福が遠からぬ将来に破滅することは目に見えている。
そのラストシーンからほのかに立ち上がる悲しい予感は一読忘れがたいものがあった。

上記以外の作品のレベルも非常に高い。
たとえば「中二階の女」などは緑色のランプの小道具がリリシズムを生んでいて美しい。
「犬を連れた奥さん」などは、人物の心理を丹念に追っていて描写には心震えるものがある。またその心理描写は深読みが可能であり、物語に見た目以上の奥行きが感じられる点が印象深い。
「いいなずけ」も、人物の心理の移ろいを抑えた筆致でほのめかす程度に記している点が、実にナイーブな印象を与えている。

現代の作家で、ここまで細やかに、べらぼうに上手く短編を書ける作家は、すぐには思いつかない。
チェーホフの作品が、現代においても読まれる理由を再認識させられた次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『サンクチュアリ』 フォークナー

2008-05-11 15:28:39 | 小説(海外作家)

ミシシッピー州のジェファスンの町はずれで、車を大木に突っこんでしまった女子大生テンプルと男友達は、助けを求めて廃屋に立ち寄る。そこは、性的不能な男ポパイを首領に、酒を密造している一味の隠れ家であった。女子大生の陵辱事件を発端に異常な殺人事件となって醜悪陰惨な場面が展開する。
アメリカのノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーが”自分として想像しうる最も恐ろしい物語”と語る問題作。
加島祥造 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


個人的にまず目を引いたのは文章だ。
その叙述は人物の行動を深い背景描写なしにただありのまま描き出し、心理描写をなるべく排除することに終始していて、読んでいると即物的という印象すら受ける。背後に隠された心理も自分自身で想像せねばならならないために実に読みづらい。しかしその厄介な文章にはクセになるような魅力があった。
たとえば車の事故のシーンや、ポパイがトミーを殺すシーン、テンプルが錯乱している姿、裁判で判決が下るシーンを描いた文章などはどうだろう。
その叙事的なタッチが力強い雰囲気を生み出しており、非常に印象深い。

そしてその叙事的な文章が陰惨な事件を描出するのにうまくマッチし、暗示的な効果を生み出すのに一役買っている。
特にテンプルを巡るシーンではその暗示的な雰囲気が上手く生かされている。
テンプルが襲われる直前の「何かがあたしに起るのよ!」と叫ぶ姿や、ポパイの車の中で「まだ流れているのよ、感じるのよ」と訴えるシーン、錯乱したように事件当時を回想し語るシーンの情景は、即物的であるだけに変に寒々しく、すばらしい限りだ。
またリーが虐殺されるシーンの冷静な文章は情景が陰惨なだけにより恐怖をかき立てるものがあった。

そしてそれらのシーンの中から、登場人物たちのリアルの不在が立ち上がってきているように僕には見える。
誤読を恐れずに言うならば、この小説の登場人物の多くは現実から遊離している、という印象を受ける。
放心したようなテンプルの姿も、衝動的な殺人をくりかえし、代替行為でしか性欲を満たせない殺伐とした雰囲気のポパイも、自分の弁護が容易にできないグッドウィンも、誰もがそうだ。
即物的な叙述の力もあるかもしれないが、彼らは人生や現実というぐちゃぐちゃなリアルとしっかり接することができていない。あるときは錯乱し、ときに投げ槍になることで、人生と現実から目をそむけているように僕には映った。

しかしその中で、しっかりとリアルに向き合う人物もこの小説の中には登場する。
裁判で無罪を勝ち取ろうと奔走するホレスも、生きるために身を売るより仕方なかったルービーもきっちり現実と向き合い、敗れるかもしれない現実と格闘している。彼らの姿に僕は読んでいてほっとしたし、一つの希望を見る思いがした。
また時折挿入されるバプティスト派に対する皮肉や、女性たちの言葉には作者のモラリズムが感じ取れて、陰惨な中にもある種の優しさを読み取ることができる。

際立った暴力のシーンが目立つ作品だが、その中で生きる人間を叙事的に紡ぎ出しているのが心に残る。
フォークナーは苦手な作家だが、この作品はわかりやすくて僕は好きである。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのノーベル文学賞受賞作家の作品感想
・1929年 トーマス・マン
 『トニオ・クレエゲル』
 『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』
・1947年 アンドレ・ジッド
 『田園交響楽』
・1982年 ガブリエル・ガルシア=マルケス
 『百年の孤独』
・1999年 ギュンター・グラス
 『ブリキの太鼓』
・2003年 J・M・クッツェー
 『恥辱』
 『マイケル・K』
・2006年 オルハン・パムク
 『わたしの名は紅』

『大いなる遺産』 ディケンズ

2008-05-08 19:19:33 | 小説(海外作家)

貧しい鍛冶屋のジョーに養われて育った少年ピップは、クリスマス・イヴの晩、寂しい墓地で脱獄囚の男と出会う。脅されて足枷を切るヤスリと食物を家から盗んで与えるピップ。その恐ろしい記憶は彼の脳裏からいつまでも消えなかった。ある日彼は、なぞの人物から莫大な遺産を相続することになりロンドンに赴く。優しかったジョーの記憶も、いつか過去のものとなっていくが……。
イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの後期を代表する長編小説。
山西英一 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




おもしろいか、おもしろくないかの二者択一で語るならば、迷わずおもしろいと言える小説である。
幾分訳が古く(いまどき、おらんだぜりなんて言葉を誰が使うか)、提示された伏線がわかりにくく、展開に無理があるところもあって、リズムに乗り切れないきらいもあるが、それらを辛抱さえすれば楽しめる。
主人公を取り巻く状況は様々に変転するし、多くのキャラが登場して、話を盛り上げてくれて飽きさせない。
これぞ古典的エンタテイメントだろう。


特にキャラ描写が丁寧で心に残る。

金を得たピップがジョーやビディを邪険にするあたりや、プロヴィスが現れたときの心境から仄見える高慢さ(理屈はわかるものの)、パンブルチュックのわかりやすいくらいの俗物っぷりなど、は読んでいてなんていうやつらだ、という腹立たしくなってくる。
また、エステラの高慢な姿にはもどかしいものがあるし、ビディやジョーの愛情深さは読み手の心を和ませる。
それらのキャラクターをつくり、説得力を持って彼らの状況や境遇を積み上げ、読み手の感情に訴えていく手腕はさすが文豪である。

キャラの面々の中で特に印象深かったのはミス・ハヴィシャムとピップである。
ミス・ハヴィシャムの造詣は個人的にはかなりツボだ。
男に裏切られた記憶から一人の少女の性格をゆがめるに至る心理や、その行為が長い時間を経て自分自身に返ってくる過程には運命の悲痛さと、人間の業を見る思いがする。
しかしディケンズは決して彼女を冷たくあしらうわけではなく、マシューとの和解を示しているところに、書き手なりの優しさを見る思いがする。

もちろん主人公のピップだって、人間造詣としては丁寧だ。
上流社会の生活に触れたことから、出世をしたいと願い、そこから運をつかんでのし上がるものの、贅沢に慣れて堕落するという姿はリアルそのもの。
また自ら選んでドラムルと一緒になるエステラの心情を知り、それに対して悲痛な訴えを行なう姿には、思いがまっすぐなだけに心を打つものがあった。


ラストがハッピーエンドにならなかったのが、個人的には少しさびしかったが、これはこれでありだろう。
古い作品ではあるが、現代にも通じる部分があり、古典の良さを改めて知らされた。満足の一品である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『地下室の手記』 ドストエフスキー

2008-04-23 20:30:55 | 小説(海外作家)

極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通して、理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する。人間の行動と無為を規定する黒い実存の流れを見つめた本書は、初期の人道主義的作品から後期の大作群への転換点をなし、ジッドによって「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と評された。
江川卓 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


この小説に出てくる主人公は小心者で独善的で自意識過剰な気分屋だ。
地下室に引きこもっている彼は手記というタイトルの通り、小説内で彼自身の思想を余すところなく伝えている。その思想は幾分偏屈な面はあるものの、核心をついているものも多い。
直情型の人間は壁にぶつかると本心から挫折するとか、人間が復讐をするのは、そこに正義を見出すからだとか、社会主義的な理性が生み出した理想主義は続かないという卓見や、人間が愛するのは太平無事だけではないとか、その視点は鋭い。彼自身が自負しているように決して頭が悪いわけではないのだろう。

しかしそれらは地下室という自身の楼閣の中でつくり上げたものであり、ただの脳内の運動が生み出した抽象的な言説だ。彼が一旦外の世界に出れば、そういった論旨の鮮やかさとは裏腹な空回りした行動を取るだけでしかない。
将校と肩をぶつけるという話や、シーモノフたちと酒を飲んで相手を侮辱したり、かまってほしくて、うろうろと歩き回る姿には本当にバカバカしくて笑ってしまう。
自意識を肥大化し、自分の誇りが傷付けられたのをいつまでも恨み、他人にどう見えるか異様なくらい意識し、それでいてさびしがり屋でもある小心者らしい行動だが、地下室に生きる彼はでかいことを言うが、決して器用に立ち回れることができない。こういうタイプの人間は現代にも多くいそうである。僕を含め。

彼の問題点は(偉そうで、人のことを言える立場でないことを承知で述べるならば)、他人の立場になって物事を考えられないことに問題があるのだろう。
それもすべては他人と、まともに真正面からぶつかったことがないことを意味しているのかもしれない。

たとえばリーザとの会話などはその典型ではないだろうか。彼は自分の意見を語りたいがために、リーザに向かってずいぶんひどい口を利いている。それでいて彼はリーザに自分がどれだけひどいことを言っているか最後の方になるまで気付こうとしない。
空気が読めない、と言えばそれまでだが、彼は結局のところ、自分のこと以外には思いが回らないのだろう。

そんな彼ではあるが、リーザに自分の本心をぶちまけるという、まさに他人と真正面からぶつかることによって、相手と心が通じ合いそうな奇跡的な瞬間が訪れる。しかし結局彼はそれを踏みつけてしまう。
僕はこの作品は再読ではあるが、そんな彼の姿を以前と同様、哀れだと思わずにはいられなかった。彼はそういう形で自分自身の心を守ることに汲々とすることしかできない人間なのだろう。そういう思考法に陥ることしかできない彼の姿に対して悲しい感情を僕は抱いた。

中篇であるが、ドストエフスキーらしさの出た優れた一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのドストエフスキー作品感想
 『悪霊』
 『カラマーゾフの兄弟』
 『虐げられた人びと』
 『白痴』