前回、旧暦の話を書いた時に、七夕つながりで、仙台の伊達政宗公のことを思い出しました。今回は、伊達政宗公の遺訓「朝夕の食事はうまからじとも、ほめて食うべし」について書きますね。本当に政宗公の遺訓かどうかは異論もあるそうで、他の人が作った言葉ではないかと言っている人もいますが、真贋の話はとりあえず横に置きます。今日ここに書きたいのは、食べものに関するイメージが、ほんの30年前と今でものすごく違っていることです。それを、政宗公遺訓として伝えられている文章を例に、説明したいのです。
昭和の頃には、この「朝夕の食事は美味しくなくてもほめて食べなさい。」という政宗公遺訓は、「だから節約しなさい」という意味でした。
と、書いても今じゃ、ほめて食べて節約って話、さっぱり訳がわかんないですよね。
このブログを見ている方には、若い方もご年配の方もいるでしょうから、双方向の理解のために、まず、現代の誤解を先に紹介し、次に昭和の頃の解釈を紹介しますね。
まず、現代のあるある誤解。
例えばあるネットの投稿ではこういうような内容でした。まずい料理でもうまいと言えば、料理人もやる気を出して、腕前が上がるという意味なんだよ、と。事前情報無しでこの解釈を聞かされれば、うっかり信じちゃうことでしょう。「なーるほど!政宗公は人を使うのが上手だね!そうやって相手を持ち上げて、旨い料理にありつけるように操縦してたのか!」とかなんとか感動しかねないなあ。
こういうもっともらしい解釈を言う人もいます。
「出された食事はまずくてもありがたく食べることで、相手と、命を与えた食べものへの感謝を示すことができます。」これも「なるほどそうか」と信じてしまいたくなりますね。でも、政宗公は感謝を示す目的で言ったのではありません。
実は、上に紹介した2つの誤解は、遺訓の前後の文章から切り離した解釈なのです。前後の文章を読むと、この遺訓は「節約の勧め」だったと分かります。
前後も含めた原文はこうです。(政宗公をおまつりしてる「青葉神社」様の公式サイト2016.09.04 記事から引用させていただきました。)
「氣長く心穏かにして、萬に儉約を用て金銭を備ふべし。
儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。
元來客の身なれば好嫌は申されまじ。」
青葉神社様の現代語訳も紹介します。(この場を借りて御礼もうしあげます!!)
「穏やかな気持ちで倹約し、蓄えをすることだ。
倹約とは、自分が不自由であることを我慢することである。
自分は、この世に来た客と考えれば辛いこともない。
食べ物がまずくても褒めて食え。客なんだから好き嫌いを言うな。」
「客だから好き嫌いはいえないって、どういう理屈!?」と頭がこんがらがりますよね。現代のお客様は、レストランであまりに料理が下手だったら、ウエイターさんに「済みませんが、これ冷めていますよ」とかなんとか言うのはごく普通ですものね。
でもこの文章は、江戸時代のVIP対ホストの関係を知れば、するん、と分かるんです。
伊達家レベルのVIPが来ると決まった。さあどうする。もてなす側は料理人に「失礼がないように、腕によりをかけなさい。」と命じて、準備させます。そのおもてなし料理を、VIPが召し上がって、「まずい」と言ったら?
そりゃもう大変な騒ぎですよ。ホスト側は慌てて料理人を呼んで土下座させて、料理人はたちまち失職、他の奉公人も陰で「うちの主人が客を怒らせちまった。」と動揺します。ホスト側が逆ギレして、「この料理の良さが分からないとは、とんだ悪ふざけを申される!」と後で面倒なことになる可能性も大。
「まずい」なんて言えば最後、そういう七面倒くさいことになるのは最初から分かっている。だから、大物は「客」として来ている時には「まずい」とは言わない。
だから遺訓で「節約するためには、自分はこの世にお客様としてやって来たんだと思え。」と諭したのです。
と言うわけで、政宗公遺訓の「朝夕のご飯が美味しくなくても褒めなさい」という言葉の意味は、「節約して貯金するため、高価な旨いモノを我慢しなさい。節約のこつは、この世にお客様に呼ばれたと思って不自由を我慢することだよ。」という文章なのです。(もちろん、節約術としてこういう考え方が正しいかどうかはちょっと疑問です。不自由を我慢しすぎて、突然ぱーっとお金を使ってしまう人もいますしね。)
昔と現代では、いろいろな感覚が異なるため、古い文献に書いてある、食の文章について、トンデモ解釈が生じやすいのです。それぞれの時代の人が、たべものについてどう考えていたか、正確に知ることが大事ですね。
昭和の頃には、この「朝夕の食事は美味しくなくてもほめて食べなさい。」という政宗公遺訓は、「だから節約しなさい」という意味でした。
と、書いても今じゃ、ほめて食べて節約って話、さっぱり訳がわかんないですよね。
このブログを見ている方には、若い方もご年配の方もいるでしょうから、双方向の理解のために、まず、現代の誤解を先に紹介し、次に昭和の頃の解釈を紹介しますね。
まず、現代のあるある誤解。
例えばあるネットの投稿ではこういうような内容でした。まずい料理でもうまいと言えば、料理人もやる気を出して、腕前が上がるという意味なんだよ、と。事前情報無しでこの解釈を聞かされれば、うっかり信じちゃうことでしょう。「なーるほど!政宗公は人を使うのが上手だね!そうやって相手を持ち上げて、旨い料理にありつけるように操縦してたのか!」とかなんとか感動しかねないなあ。
こういうもっともらしい解釈を言う人もいます。
「出された食事はまずくてもありがたく食べることで、相手と、命を与えた食べものへの感謝を示すことができます。」これも「なるほどそうか」と信じてしまいたくなりますね。でも、政宗公は感謝を示す目的で言ったのではありません。
実は、上に紹介した2つの誤解は、遺訓の前後の文章から切り離した解釈なのです。前後の文章を読むと、この遺訓は「節約の勧め」だったと分かります。
前後も含めた原文はこうです。(政宗公をおまつりしてる「青葉神社」様の公式サイト2016.09.04 記事から引用させていただきました。)
「氣長く心穏かにして、萬に儉約を用て金銭を備ふべし。
儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。
朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。
元來客の身なれば好嫌は申されまじ。」
青葉神社様の現代語訳も紹介します。(この場を借りて御礼もうしあげます!!)
「穏やかな気持ちで倹約し、蓄えをすることだ。
倹約とは、自分が不自由であることを我慢することである。
自分は、この世に来た客と考えれば辛いこともない。
食べ物がまずくても褒めて食え。客なんだから好き嫌いを言うな。」
「客だから好き嫌いはいえないって、どういう理屈!?」と頭がこんがらがりますよね。現代のお客様は、レストランであまりに料理が下手だったら、ウエイターさんに「済みませんが、これ冷めていますよ」とかなんとか言うのはごく普通ですものね。
でもこの文章は、江戸時代のVIP対ホストの関係を知れば、するん、と分かるんです。
伊達家レベルのVIPが来ると決まった。さあどうする。もてなす側は料理人に「失礼がないように、腕によりをかけなさい。」と命じて、準備させます。そのおもてなし料理を、VIPが召し上がって、「まずい」と言ったら?
そりゃもう大変な騒ぎですよ。ホスト側は慌てて料理人を呼んで土下座させて、料理人はたちまち失職、他の奉公人も陰で「うちの主人が客を怒らせちまった。」と動揺します。ホスト側が逆ギレして、「この料理の良さが分からないとは、とんだ悪ふざけを申される!」と後で面倒なことになる可能性も大。
「まずい」なんて言えば最後、そういう七面倒くさいことになるのは最初から分かっている。だから、大物は「客」として来ている時には「まずい」とは言わない。
だから遺訓で「節約するためには、自分はこの世にお客様としてやって来たんだと思え。」と諭したのです。
と言うわけで、政宗公遺訓の「朝夕のご飯が美味しくなくても褒めなさい」という言葉の意味は、「節約して貯金するため、高価な旨いモノを我慢しなさい。節約のこつは、この世にお客様に呼ばれたと思って不自由を我慢することだよ。」という文章なのです。(もちろん、節約術としてこういう考え方が正しいかどうかはちょっと疑問です。不自由を我慢しすぎて、突然ぱーっとお金を使ってしまう人もいますしね。)
昔と現代では、いろいろな感覚が異なるため、古い文献に書いてある、食の文章について、トンデモ解釈が生じやすいのです。それぞれの時代の人が、たべものについてどう考えていたか、正確に知ることが大事ですね。