本庶先生、ノーベル賞受賞おめでとうございます!
実は私の親戚にも、数年前にほんの短時間ですが、本庶先生とお話出来た幸せな人がおりまして、「いやあー、よかった~!」と感激しております。
袖触れ合うも多生の縁で、タミアも感激して昨夜のNHKニュース9を見ていました。
そのときの先生の厳然たるお言葉に、思わず姿勢を正してしまいました。
「教科書には間違いも多く載っている。科学者は、教科書を疑うことが大事なのです。」
少し違う台詞だったかもしれませんが、ほぼそういう趣旨の言葉でした。
そう、本当にそうです、科学は「良い意味での懐疑的発想」です。私はしみじみこの先生のお話をかみしめました。なぜなら、こういう大事な基本が、多くの人々にはきちんと知られてないため、それを手玉に取って、「神がかり的な代替医療本」、「西洋医学を否定してこれを食べたら癌が治った本」、などなどでは、次のような奇妙な言説を展開する事例があるからです。たとえばA氏という著名な方は昔こういう趣旨を書いていました。
A氏「読者のみなさんは、科学者の言うことが正しいと本気で思っているのですか?
じゃ、科学のすべての法則を学び、調べ、それが正しいと確認しましたか?
ほーら、確認してもないくせに、どうして科学が正しいなんて言えるんですか?科学が正しいなんて証拠がないんだから、科学が正しいと思う感覚自体が実は、ただの感情論なんですよ。同じ感情論で選ぶんだったら、科学的根拠の希薄な代替医療でもいいでしょ?」このAさんのようなでたらめな科学dis論を、本庶先生は根底からちゃぶ台返しして、ものすごいナイス発言をされたのです!
Aさんの論点の間違いを、本庶先生の発言を拝借して説明するとこうなります。
「科学の教科書はむしろ間違いも多く載っているッ!
だからすべての法則の正しさを確認するなど、無駄無駄無駄無駄無駄無駄ッ!!
A氏が科学と呼んでいる行為は、すでに科学ではないッ!
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・」
すいません、新国立美術館が展覧会を実施した国民的漫画のような台詞になりましたが、かえって分からないという方に、丁寧に説明しますですね(汗)。
科学というのは、自然現象についての法則を研究する「手法」の一種でして、まず自然現象が最初にありき、です。科学とは、その自然現象の謎について仮説を立てて、実験や、明らかに筋が通る論理で証明し、謎解きする「作業」なんですよ。科学者というのは、その作業のメンバーの一人なんです。従って、仮説を立てても調べて見たら間違いでした、ってケースがすごく多い。その間違いを見つけるのは、感情ではなくて、実験結果や、数学的計算の末だったりするわけです。
ですから、科学という「謎解きゲーム」への好き嫌いはあるとしても、科学という「手法」または「作業」とそこから得られた「論理体系」自体には、好き嫌いなどの感情論が入らない。
あえて科学の世界に感情を持ち込むとすれば、「俺は考古学が専門だから量子物理学はやらないけど、他の研究者が今の量子物理学の間違いを見つけてバージョンアップしてくれるだろうな。」「まさかあの先生はねつ造しないよな。」という信頼や、「ライバルより先にこの謎を解いてやる」という熱い情熱とか、そういう感情において科学は「人間賛歌」の学問です(やっぱJOJOかよ、の声が多数ありそう)。
人の誠実さや努力の素晴らしさは信じるけど、人の唱える理論は「もしかしたらあの仮説は間違いかも?」と考えてみる壮絶なゲームなんです、科学は。
じゃあ、なんでそういう学問に世界の国々が重きを置いているかというと、他の学問よりも、自然現象についてうまく説明できるメリットがあるからです。各国の政治家が「科学が大事だ」と言うのも、好き嫌いの感情論ではなく、自然現象が説明出来た結果の副産物としてガン治療薬が作られたり、自然環境が保護できたり、各種産業が盛んになるなどの、徹底したリアリズムが根底にあるのですよ。科学者本人は、役立つかどうかの議論よりも、純粋に自然の不思議を私が解明するんだと燃えて取り組む人が多いのですが。
音楽も、絵画も、宗教も、文学も、自然現象をそれぞれの形で表現してくれますが、よりユニバーサルに言語や文化を超えて人間どうしで共通理解できるのが、科学のよいところなのです。自然現象を他の学問を使って表現すると、言葉や文化の壁が色濃くてなかなか話が伝わらなかったり、お互いに理論が対立してどっちがよりよいのか分からなくて、分派をさんざん繰り返して挙げ句の果てに殺し合いになることさえあるでしょう?あ、他の学問にも良いところもたくさんあり、例えば苦しむ人の心を救ってくれるなどの素晴らしいメリットもあるのですが、今話しているのは、自然の不思議を解き明かす手法として、今日人間が知っている範囲では、音楽や絵画などより、科学という手法の方がうまくいっているという、それだけのことです。それぞれの学問が異なる方法論で成立しているので、科学と他の学問は対立項ではありません。ですから、よくある「宗教と科学はどちらが上か?」議論は、「柔道と書道はどちらが上か?」程度に残念な議論なのです。
そのような訳ですから、A氏のような科学否定論に惑わされないようにみなさんも気をつけてください。教科書を丸暗記して東大で物理やったけど、そもそも科学とはなんぞやが理解できなくてカルト宗教に入信した残念な人もいます。教科書の丸暗記なんて科学じゃありません。科学という学問がなにか、基本的なことを知ることはとても大切だと思います。
本庶佑先生、ご指導ありがとうございます。
心より、ノーベル賞受賞のお祝いの言葉と、ご指導へのお礼の言葉を申し上げます。
実は私の親戚にも、数年前にほんの短時間ですが、本庶先生とお話出来た幸せな人がおりまして、「いやあー、よかった~!」と感激しております。
袖触れ合うも多生の縁で、タミアも感激して昨夜のNHKニュース9を見ていました。
そのときの先生の厳然たるお言葉に、思わず姿勢を正してしまいました。
「教科書には間違いも多く載っている。科学者は、教科書を疑うことが大事なのです。」
少し違う台詞だったかもしれませんが、ほぼそういう趣旨の言葉でした。
そう、本当にそうです、科学は「良い意味での懐疑的発想」です。私はしみじみこの先生のお話をかみしめました。なぜなら、こういう大事な基本が、多くの人々にはきちんと知られてないため、それを手玉に取って、「神がかり的な代替医療本」、「西洋医学を否定してこれを食べたら癌が治った本」、などなどでは、次のような奇妙な言説を展開する事例があるからです。たとえばA氏という著名な方は昔こういう趣旨を書いていました。
A氏「読者のみなさんは、科学者の言うことが正しいと本気で思っているのですか?
じゃ、科学のすべての法則を学び、調べ、それが正しいと確認しましたか?
ほーら、確認してもないくせに、どうして科学が正しいなんて言えるんですか?科学が正しいなんて証拠がないんだから、科学が正しいと思う感覚自体が実は、ただの感情論なんですよ。同じ感情論で選ぶんだったら、科学的根拠の希薄な代替医療でもいいでしょ?」このAさんのようなでたらめな科学dis論を、本庶先生は根底からちゃぶ台返しして、ものすごいナイス発言をされたのです!
Aさんの論点の間違いを、本庶先生の発言を拝借して説明するとこうなります。
「科学の教科書はむしろ間違いも多く載っているッ!
だからすべての法則の正しさを確認するなど、無駄無駄無駄無駄無駄無駄ッ!!
A氏が科学と呼んでいる行為は、すでに科学ではないッ!
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・」
すいません、新国立美術館が展覧会を実施した国民的漫画のような台詞になりましたが、かえって分からないという方に、丁寧に説明しますですね(汗)。
科学というのは、自然現象についての法則を研究する「手法」の一種でして、まず自然現象が最初にありき、です。科学とは、その自然現象の謎について仮説を立てて、実験や、明らかに筋が通る論理で証明し、謎解きする「作業」なんですよ。科学者というのは、その作業のメンバーの一人なんです。従って、仮説を立てても調べて見たら間違いでした、ってケースがすごく多い。その間違いを見つけるのは、感情ではなくて、実験結果や、数学的計算の末だったりするわけです。
ですから、科学という「謎解きゲーム」への好き嫌いはあるとしても、科学という「手法」または「作業」とそこから得られた「論理体系」自体には、好き嫌いなどの感情論が入らない。
あえて科学の世界に感情を持ち込むとすれば、「俺は考古学が専門だから量子物理学はやらないけど、他の研究者が今の量子物理学の間違いを見つけてバージョンアップしてくれるだろうな。」「まさかあの先生はねつ造しないよな。」という信頼や、「ライバルより先にこの謎を解いてやる」という熱い情熱とか、そういう感情において科学は「人間賛歌」の学問です(やっぱJOJOかよ、の声が多数ありそう)。
人の誠実さや努力の素晴らしさは信じるけど、人の唱える理論は「もしかしたらあの仮説は間違いかも?」と考えてみる壮絶なゲームなんです、科学は。
じゃあ、なんでそういう学問に世界の国々が重きを置いているかというと、他の学問よりも、自然現象についてうまく説明できるメリットがあるからです。各国の政治家が「科学が大事だ」と言うのも、好き嫌いの感情論ではなく、自然現象が説明出来た結果の副産物としてガン治療薬が作られたり、自然環境が保護できたり、各種産業が盛んになるなどの、徹底したリアリズムが根底にあるのですよ。科学者本人は、役立つかどうかの議論よりも、純粋に自然の不思議を私が解明するんだと燃えて取り組む人が多いのですが。
音楽も、絵画も、宗教も、文学も、自然現象をそれぞれの形で表現してくれますが、よりユニバーサルに言語や文化を超えて人間どうしで共通理解できるのが、科学のよいところなのです。自然現象を他の学問を使って表現すると、言葉や文化の壁が色濃くてなかなか話が伝わらなかったり、お互いに理論が対立してどっちがよりよいのか分からなくて、分派をさんざん繰り返して挙げ句の果てに殺し合いになることさえあるでしょう?あ、他の学問にも良いところもたくさんあり、例えば苦しむ人の心を救ってくれるなどの素晴らしいメリットもあるのですが、今話しているのは、自然の不思議を解き明かす手法として、今日人間が知っている範囲では、音楽や絵画などより、科学という手法の方がうまくいっているという、それだけのことです。それぞれの学問が異なる方法論で成立しているので、科学と他の学問は対立項ではありません。ですから、よくある「宗教と科学はどちらが上か?」議論は、「柔道と書道はどちらが上か?」程度に残念な議論なのです。
そのような訳ですから、A氏のような科学否定論に惑わされないようにみなさんも気をつけてください。教科書を丸暗記して東大で物理やったけど、そもそも科学とはなんぞやが理解できなくてカルト宗教に入信した残念な人もいます。教科書の丸暗記なんて科学じゃありません。科学という学問がなにか、基本的なことを知ることはとても大切だと思います。
本庶佑先生、ご指導ありがとうございます。
心より、ノーベル賞受賞のお祝いの言葉と、ご指導へのお礼の言葉を申し上げます。