今日、12月2日は、父の命日です。
今から4年前、午後2時2分に亡くなりました。
享年75歳、脳腫瘍でした。
父は学者でした。
専攻は、日本近現代政治史。
日清・日露戦争から太平洋戦争に至る、ファシズムの研究。
日本の軍国主義が暴走し、戦争に至ったのは何故なのか、が主題でした。
論文や著作は、あまり多くなく、限られています。
一般に出版された本も、もうすべて絶版になっていると思います。
歴史学界のなかでは、もう顧みられることもない、古い学者なのでしょう。
やや偏屈で厳しい物言いが災いしてか、弟子と言える人も少なかったようです。
定年退官した後は、再就職の誘いを断り、ずっと家にいました。
コツコツと収集した史料を整理して、過ごしていました。
テーマごとの膨大なスクラップとノート、コピーとマイクロフィルムが残されました。
父が勤務していた研究所では、死去後、遺稿著作集を出版するのが慣例でした。
遺族が出資して自費出版し、お世話になった先生たちや図書館に寄贈するのだそうです。
父の書斎にも、そういった方々の本が、確かにたくさんありました。
その人の業績を、きちんと形にして、後世に残すという趣旨だと思います。
でも、母と相談し、そういった慣例だけの、無駄なことはやめようと決めました。
仮に3分冊でまとめて、500部だけ作っても、最低300~400万円必要です。
読まれることもない本を、今さら自費出版することは、馬鹿げていると思えたのです。
その代わりに、すべての著作をインターネットで公開することを、僕は提案しました。
学問や研究は、他者に共有され、活用されてこそ、意味があると思ったからです。
半年ぐらい経ってから、母と一緒に、亡き父のホームページ作りが始まりました。
母は、残された膨大な蔵書の中から、父の著作を探していきました。
背表紙に名前があるのは限られており、共著や分担執筆分は、探さないと出てきません。
古い雑誌や大学の紀要等も、目次を繰りながら名前を探しました。
おおよそ100編弱の論文・報告が確認されました。
すべての出版社に手紙を送り、遺族として趣旨を伝え、著作権上の配慮をお願いしました。
今のようにパソコン・ワープロで打たれたデータは、一切ありません。
すべて活字の文献を、改めてデータ入力しなければなりませんでした。
そこで、「あとりえトントン」所長の高久英夫さんに、協力をお願いしました。
ホームページの入力・管理を主業務に行っている、精神障害者の作業所です。
以前、僕が日本PSW協会や東京PSW協会のインターネット委員長をしていた時、
初期のホームページを一緒に立ち上げ、丁寧に作ってくれた人です。
その後、日本社会福祉士会や日本病院・地域精神医学会のHPも作っています。
高久さんは、二つ返事で引き受けてくれて、全体のウェブデザインもしてくれました。
しかし、データ入力作業は、予想以上に難渋を極めた作業になりました。
見慣れない人名や固有名詞、難解字や歴史的事項が頻出し、校正作業も大変でした。
作業所の利用者たちが、ふたり一組になって、読み上げ、入力し、校正してくれました。
色々すったもんだもあって、結局、作業は1年半近くかかりました。
父の命日、2008年12月2日に、ホームページ公開にこぎ着けました。
古い史料を扱う歴史学者の間では、ネット公開は、やはり極めて異例のことのようです。
母は、お世話になった方々に、父のホームページ開設の挨拶状を郵送しました。
結構多くの方が訪れてくれて、暖かい励ましや感謝のメールを頂きました。
学者であった僕の父の言葉は、今、ネット上に残っています。
どこかの本棚の片隅で埋もれてしまうより、僕としては、良かったと思っています。
伝えたい言葉、残したい言葉こそ、形のないネットにふさわしいと思っています。
権威や権力が嫌いだった、反骨精神旺盛な父も、案外喜んでくれているかも知れません。
手前味噌ですが、よろしければ、一度、のぞいてみて下さい。
父の「古屋哲夫」という名前で検索すると、ヒットするはずです。
HP『古屋哲夫の足跡』アドレス→ http://www.furuyatetuo.com/
※画像は、葬式にも使った父の遺影です。
晩年は、とても穏やかな笑顔の老人になっていました。
今から4年前、午後2時2分に亡くなりました。
享年75歳、脳腫瘍でした。
父は学者でした。
専攻は、日本近現代政治史。
日清・日露戦争から太平洋戦争に至る、ファシズムの研究。
日本の軍国主義が暴走し、戦争に至ったのは何故なのか、が主題でした。
論文や著作は、あまり多くなく、限られています。
一般に出版された本も、もうすべて絶版になっていると思います。
歴史学界のなかでは、もう顧みられることもない、古い学者なのでしょう。
やや偏屈で厳しい物言いが災いしてか、弟子と言える人も少なかったようです。
定年退官した後は、再就職の誘いを断り、ずっと家にいました。
コツコツと収集した史料を整理して、過ごしていました。
テーマごとの膨大なスクラップとノート、コピーとマイクロフィルムが残されました。
父が勤務していた研究所では、死去後、遺稿著作集を出版するのが慣例でした。
遺族が出資して自費出版し、お世話になった先生たちや図書館に寄贈するのだそうです。
父の書斎にも、そういった方々の本が、確かにたくさんありました。
その人の業績を、きちんと形にして、後世に残すという趣旨だと思います。
でも、母と相談し、そういった慣例だけの、無駄なことはやめようと決めました。
仮に3分冊でまとめて、500部だけ作っても、最低300~400万円必要です。
読まれることもない本を、今さら自費出版することは、馬鹿げていると思えたのです。
その代わりに、すべての著作をインターネットで公開することを、僕は提案しました。
学問や研究は、他者に共有され、活用されてこそ、意味があると思ったからです。
半年ぐらい経ってから、母と一緒に、亡き父のホームページ作りが始まりました。
母は、残された膨大な蔵書の中から、父の著作を探していきました。
背表紙に名前があるのは限られており、共著や分担執筆分は、探さないと出てきません。
古い雑誌や大学の紀要等も、目次を繰りながら名前を探しました。
おおよそ100編弱の論文・報告が確認されました。
すべての出版社に手紙を送り、遺族として趣旨を伝え、著作権上の配慮をお願いしました。
今のようにパソコン・ワープロで打たれたデータは、一切ありません。
すべて活字の文献を、改めてデータ入力しなければなりませんでした。
そこで、「あとりえトントン」所長の高久英夫さんに、協力をお願いしました。
ホームページの入力・管理を主業務に行っている、精神障害者の作業所です。
以前、僕が日本PSW協会や東京PSW協会のインターネット委員長をしていた時、
初期のホームページを一緒に立ち上げ、丁寧に作ってくれた人です。
その後、日本社会福祉士会や日本病院・地域精神医学会のHPも作っています。
高久さんは、二つ返事で引き受けてくれて、全体のウェブデザインもしてくれました。
しかし、データ入力作業は、予想以上に難渋を極めた作業になりました。
見慣れない人名や固有名詞、難解字や歴史的事項が頻出し、校正作業も大変でした。
作業所の利用者たちが、ふたり一組になって、読み上げ、入力し、校正してくれました。
色々すったもんだもあって、結局、作業は1年半近くかかりました。
父の命日、2008年12月2日に、ホームページ公開にこぎ着けました。
古い史料を扱う歴史学者の間では、ネット公開は、やはり極めて異例のことのようです。
母は、お世話になった方々に、父のホームページ開設の挨拶状を郵送しました。
結構多くの方が訪れてくれて、暖かい励ましや感謝のメールを頂きました。
学者であった僕の父の言葉は、今、ネット上に残っています。
どこかの本棚の片隅で埋もれてしまうより、僕としては、良かったと思っています。
伝えたい言葉、残したい言葉こそ、形のないネットにふさわしいと思っています。
権威や権力が嫌いだった、反骨精神旺盛な父も、案外喜んでくれているかも知れません。
手前味噌ですが、よろしければ、一度、のぞいてみて下さい。
父の「古屋哲夫」という名前で検索すると、ヒットするはずです。
HP『古屋哲夫の足跡』アドレス→ http://www.furuyatetuo.com/
※画像は、葬式にも使った父の遺影です。
晩年は、とても穏やかな笑顔の老人になっていました。