Pixysのポジティブライフ

困難に立ち向かうアラフィフの日常
働いて働いて働いて働いて、たまに旅に出る

記憶

2007-06-17 01:36:42 | 泣ける話
この歳になるとお葬式に行く機会も多くなる。年に数回は葬儀に参列しているような感じだ。けれど、なぜだか母が入院中だった昨年は誰も亡くなることがなかった。それどころかいとこに子供が産まれ、お祝いを贈ったっけ。だから、通夜などに行くのは久しぶりの事だ。出かける前日から、実に気がめいっていた。
話は聞いていたが、十数年前に会ったのが最後だったろうか。それ以来ご本人にお会いしていない。だから顔もおぼろげに覚えているくらい、話した記憶もなかった。それが葬儀場に行き、遺影を見た瞬間、当時の元気だった頃の姿が急によみがえってきた。頭の中のずっと奥にしまってあった記憶の扉が一瞬のうちに開いたような感覚、次から次へとその姿が頭の中をぐるぐると駆け巡る。「ああ・・・。」と小さな声がもれた。

私が1人暮らしを始めてから、何年も親に会っていなかった時期がある。その時も同じだった。母の顔も父の姿もうっすらとした記憶しかなく、ちゃんと思い出せなかった。思い出などは皆無だった。再開した時に昔の記憶がよみがえってきたのだった。通夜の席では、そんなことを思い出しながら、長い間会わないでいると記憶は、奥の奥のずっと奥にきれいにたたんでしまわれてしまうのだろうな、と変な事を考えていた。
ところが亡くなってしまうと、また新たな記憶が刻みこまれる。多くの写真の中から一番いい顔とされる遺影や走馬灯のようによみがえる優しかった姿、「人は死んで花になる」いや「星になる」のかもしれないけど、そういう意味があるのかもしれない。それぞれの人の記憶の中に美しく輝きよみがえる。
だから惜しんでも悲しまなくていい。自分の中にいることを知っているのだから、悲しまなくていいと思う。