フルートの、そして人生の師でもある植村泰一先生(88最)が16日に誤嚥性肺炎のため、ご逝去された、との連絡を受けたのはレッスン帰りの電車の中でした。
頭が真っ白になって、途中の駅で降り、知らせてくれたIくんに電話。
コロナ禍の中、レッスンも中断され、ずっとお会いしていなかったけれど、コロナも以前よりは落ち着きつつあるし、良い季節になってきたので、そろそろまた伺いたいなと思っていた矢先でした。
その夜は、何人かの関係者に連絡したものの、実感はなく、ただただ茫然、といった感。
翌日は、朝からいつも通りに掃除洗濯などしている自分が不思議な感じがしました。
フルートの練習も、普段通り。
最近は、お声がけいただき来年春に予定されているオペラ歌手の方々とのガラコンサートのアンコールの候補曲・フォーレのコンクール用小品をさらっているのだけれど、この曲を吹くたびに、植村先生の圧巻の演奏と、ご指導いただいた様々な言葉を想い出していた。
「フォーレが書いていないことはやらない。」
「シンプルに。何も足さない。何も引かない。」
それは、シンプルでも伝わる説得力のある音と音楽性を持て、という教えであったことを最近ようやく理解し始めてきたところ。
「うっすらと何か足りない、と思うから余計なことをやりたくなっちゃうんだよ。」
とも。
まさにそのあたりをずっと叱ってくださっていたレッスンだった。
だからずっと
「もっと人間を磨け!」
と仰り続けてくださっていたのかと思う。
余計な企みが無用な演奏。
だからこそ人の魂にダイレクトに働きかけることができる。
それが植村先生の演奏だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なにもかも普通通りなのに、時間が止まってしまったような感じのままの一週間でした。
本日、23日、お通夜に伺わせていただきました。
沢山のフルート関係者が次々と献花。
棺の中の先生と対面出来、ようやく現実なのか、と理解できました。
会場には先生が演奏されたバッハの無伴奏チェロ組曲第4番が、流れていて、こんな時なのに、そうか、ここはこうやって演奏されていたのか・・とついつい耳をそばだててしまう。
力強く芯のある、でも、とても暖かく優しい崇高なあの音色、響き、音楽が、もう実際には聞けないのだな、と思うと、悲しさ、無念さが改めてこみあげてきました。
最後にお会いしたのは、昨年の6月。
パラパラと小手調べ的に吹いてくださったフルートの音は、その後ずっと私にとっての「お手本」であり憧れの音となった。
お別れする時に、先生が求めてくださって、握手をしたのだけれど、
「ああ!こんなに温かい手なら大丈夫!」
と仰ってくださった。
コロナ禍の中、弟子の健康を気遣ってくださったのだろうか・・
そして
「楽しくて役に立つことをやっていこう!」
と仰った。
幾分、唐突な感じもして戸惑ったけれど、
師から直接聞くことが出来たの最後の言葉は最後の宿題となった。
・・・・・・・・・・・・
植村先生、22年間、ありがとうございました。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
写真は先生が亡くなった日に咲いた庭の矢車草。
頭が真っ白になって、途中の駅で降り、知らせてくれたIくんに電話。
コロナ禍の中、レッスンも中断され、ずっとお会いしていなかったけれど、コロナも以前よりは落ち着きつつあるし、良い季節になってきたので、そろそろまた伺いたいなと思っていた矢先でした。
その夜は、何人かの関係者に連絡したものの、実感はなく、ただただ茫然、といった感。
翌日は、朝からいつも通りに掃除洗濯などしている自分が不思議な感じがしました。
フルートの練習も、普段通り。
最近は、お声がけいただき来年春に予定されているオペラ歌手の方々とのガラコンサートのアンコールの候補曲・フォーレのコンクール用小品をさらっているのだけれど、この曲を吹くたびに、植村先生の圧巻の演奏と、ご指導いただいた様々な言葉を想い出していた。
「フォーレが書いていないことはやらない。」
「シンプルに。何も足さない。何も引かない。」
それは、シンプルでも伝わる説得力のある音と音楽性を持て、という教えであったことを最近ようやく理解し始めてきたところ。
「うっすらと何か足りない、と思うから余計なことをやりたくなっちゃうんだよ。」
とも。
まさにそのあたりをずっと叱ってくださっていたレッスンだった。
だからずっと
「もっと人間を磨け!」
と仰り続けてくださっていたのかと思う。
余計な企みが無用な演奏。
だからこそ人の魂にダイレクトに働きかけることができる。
それが植村先生の演奏だった。
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なにもかも普通通りなのに、時間が止まってしまったような感じのままの一週間でした。
本日、23日、お通夜に伺わせていただきました。
沢山のフルート関係者が次々と献花。
棺の中の先生と対面出来、ようやく現実なのか、と理解できました。
会場には先生が演奏されたバッハの無伴奏チェロ組曲第4番が、流れていて、こんな時なのに、そうか、ここはこうやって演奏されていたのか・・とついつい耳をそばだててしまう。
力強く芯のある、でも、とても暖かく優しい崇高なあの音色、響き、音楽が、もう実際には聞けないのだな、と思うと、悲しさ、無念さが改めてこみあげてきました。
最後にお会いしたのは、昨年の6月。
パラパラと小手調べ的に吹いてくださったフルートの音は、その後ずっと私にとっての「お手本」であり憧れの音となった。
お別れする時に、先生が求めてくださって、握手をしたのだけれど、
「ああ!こんなに温かい手なら大丈夫!」
と仰ってくださった。
コロナ禍の中、弟子の健康を気遣ってくださったのだろうか・・
そして
「楽しくて役に立つことをやっていこう!」
と仰った。
幾分、唐突な感じもして戸惑ったけれど、
師から直接聞くことが出来たの最後の言葉は最後の宿題となった。
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植村先生、22年間、ありがとうございました。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
写真は先生が亡くなった日に咲いた庭の矢車草。