『笛物語』

音楽、フルート、奏法の気付き
    そして
  日々の出来事など

フルート奏者・白川真理

直腸動物

2024-07-06 14:06:18 | 気付き
7月2日火曜日は、久しぶりに何も予定のないお休みとなったので、この15日にある生徒さんの発表会のための伴奏譜や、高校の同級生バンドWAYAZの課題曲にも手を伸ばして練習。

本業のフルートではなくピアノなので、結構大変ですが、とても楽しいです。
ピアノでの気付きや進展もフルートの進展に繋がるので、私にとっては必要な時間です。

でも、歌は・・・

大好きなのに、本当にヘタ。

コールユーブンゲン的なものはまだしも、みんながバンドやカラオケで歌うような歌い方が全くできない。

そんなこともあり、WAYAZで歌うことも少なくなってきた。

でも、今回曲決めの時に、他のメンバーからかつて私がボーカルを務めたユーミンや竹内まりやの曲のリクエストが沢山。

・・みんな気を使ってくれてるのだろうけど・・

「初見レベルに毛が生えた程度(練習すればいいのだけど・・)ピアノを弾きながら、覚えていない歌詞(覚えればいいんだけど・・)を見つつ、かつ英語の発音にまで気を配って歌うのは難しいし、忙しくて練習するヒマもないから、無理。
お気持ちだけ頂戴いたします。」

と断ったのだけれど、そのあと、フト、これならゆっくりだし、音域も狭いので、ピアノ弾き語りでもなんとかなるかも?
と、ムーンリバーをピアノで弾き語りして、その後転調して、ギター1本の伴奏でフルートでジャズバージョン、というのをやることにしました。

まあ、フルートの方は問題ないのだけれど、問題は歌。

ピアノ伴奏も、凝ったものにせず、コード進行だけ、ちょっとお洒落なものにして、あとはとてもシンプルなので、これなら出来そうと思ったのだけれど、やはりピアノを弾きながら歌おうとすると、ただ歌う時よりも喉が詰まった感じになって、出だしが特に難しい。

・・やっぱり歌はやめて、フルートだけにしようかなあ、とも思いつつ、かつてないくらい色々な声の出し方を試していました。

そして、変な話ですが、練習も終え、夕食後、トイレに立った瞬間に閃いた。
!そうだ、これって、英語、そして日本語と韓国語の母音の違いが大きいのではないか?と。
その途端、普通に日本語をしゃべっている時の上口蓋に変化が起きた。
自分の身体なのに、変な言い方になるけれど、瞬間にパっと変わったのでした。

それで歌ってみたら、胸部にも響いて振動している!?

こういう声は、てっきてり、しっかりした「お腹の支え」から出るものとばかり思っていたけれど、なんというか、お腹の状況は原因ではなく結果なのね、としみじみと判った。

ちょっとした口腔内の変化がお腹の状態に結びつく。

口、食道、胃、小腸、大腸、と色々と別れているみたいだけれど、人間も進化の最初は「直腸動物」だ。

つまり繋がっている、ってことは、とても影響し合っているのだね、と思う。
口腔内が変化した結果腸の状態も変わるのでは?
それが、所謂、「支え」と言われている、臍下三寸の腹の奥、丹田と言われている箇所にも影響を及ぼしているのでは?

と、勝手な妄想かもしれませんが、自分にとってはリアルな実感。
なんだかポヨンとしていたお腹がシャキっとなる。
力を籠めるとか入る、とかではなく、ただポジションが内側から変わるという感覚。

ずっと逆のことばかりやろうとしてきたのではないかしら?
腹に力を籠めると、横隔膜が硬くなるので、とっくの昔に却下していたと思っていたけれど、基本の考え方としては、「身体全体の釣り合いを整えて、腹に集める。しかる後演奏」だった。

腹からスタートしてたのが大間違いでした。

歌は大好きで、小学校の頃は合唱部。
音大でも、課題のドイツ歌曲などをフルートで演奏するのが好きだった。
ミュンヘンではオペラにドはまりして、仲間たちとオペラごっこなどして遊んでた。
帰国後は、藤原のオペラ歌手の先生に1年くらい教えていただいたこともある。
友人のオペラ歌手のレッスンを受けたことも。

と、こんなにやってきたのに、やっぱりヘタだった・・

それが、生まれて初めて、「なんて楽しいの?」
そして、「なんてラクなの?」という感じ。

何もかもがガラっと違って、ムーンリバーの英語の発音もマシになった。

そして、もちろん、フルートも。
水木、とこの状態で吹いたところ、全く違う。
でも、憧れていた師匠の音に少しだけ近づけた。
そうそう。これが欲しかったのよね。

歌はダメだけど、フルートなら、まあまあ、と思っていたのが大間違いだったことに気付かされました。

全く、まだまだだったじゃない!?

。。。。。。。
昨年59歳で弟が胃癌で逝ってしまってから、より人生の残り時間のことを考えるようになりました。気持ちも塞ぎ気味だったし、体調もイマイチだった。

元気な内に、もっと、親しい人達と過ごす時間を持っておきたい、と考え、
「もっと遊ぼう!」と決めた今年でした。

実際、夫と海外旅行など行くと、もうフルート引退して、呑気に遊ぶだけの暮しにしてもいいなあ、65歳だしなあ、と思うくらいだったのですが、これ程の喜びは、やはりフルートをやっていればこそ。

WAYAZメンバーから「真理ちゃんも歌いなよ!」と振られたことも大きなきっかけで、遊んでいたからこその、気付きでした。

フルートだけ真面目に吹いていたのでは、こうした質的変換って中々得られなかったのではないかと思います。

2003年、甲野先生に出会って、「ねじらない、ふんばらない、ためない」という術理をご教示いただき、実際に抜刀術などに触れ、結果フルートの構え方も変化し、生まれて初めて、フルートでの呼吸がラクになったことは、私にとっての大きな感動と喜びですが、今回の気付きはそれに匹敵するくらいのもの。

身体って本当、繋がっている。


出しゃばり

2024-06-29 22:42:37 | 気付き
身体の中で、最も出しゃばりなのは、脳だと思うけれど、その次は何と言っても、腕だよね、としみじみしておりました。

腕を操っているのは脳だから、まあ、この両者がタッグを組んでいるのだから、そりゃあ、それに抗うのは難しい。

思うに、フルートを始めた時、半世紀以上前から、「三点支持」というものに憑りつかれていて、そんなものは、もうとっくの大昔に振り捨てたと思っていたけれど、なんのなんの、しっかりでしゃばりさんの腕は「これこそは自分の仕事」とばかりに務めを果たしてた。

これに気付いたのも、「ため息」で吹くという変化があったからこそと思う。

より深いため息にするためには、肩は下がっていればいるほど良いのだから。

あれ?息が浅いぞ?とすぐに気付けるようになった(今頃!?)からこその変化です。

典型的なのが、緊張したり、不安になったり、またはその反対に調子に乗ってノリノリだったり、楽しく吹いたり、というのも同様。

よく、植村先生に叱られていたのは、「性格悪いぞ」だけれど、その次に「本番楽しむようじゃシロートだ!」というのもあった。

もちろん、楽しみ方にも色々レベルというものがある訳で、あくまでも私に向けられたのは低いレベルでの「楽しむ」だったのだけれど。

いずれも、肩を上げてしまうことにつながる。
それは殆ど、腕、特に左腕が出しゃばってくる。

私のやり方が一般向けとは決して思っていないけれど、もう20年くらい前?もっと前?とにかく「三点支持」は違う、という立ち位置だ。

一時はシーゾーの原理で、頭の重さを利用して左右の釣り合いを取っていたけれど、今はそれでもなく「三点載せ」。

頤、左人差し指の付け根、右手親指の三点に楽器を載せるだけ。右の小指は微妙なバランス調整を請け負う。

ずっと、これはやっていたのに、でもちゃんとやれていたのは、ゆとりがあり、自身の感情がニュートラルな時に限られていた。

テクニカルで難しい曲や本番、逆に気軽に楽しんでいる同期バンド・WAYAZで吹いている時、みな、感情が動き過ぎて、左腕が出しゃばり、「載せる」ではなくなって、先祖返りの「三点支持」ににじり寄っていた。

ここのところ、この大きな間違いに気づいて、「載せる」という稽古ばかりしていたのだけれど、なんと爽やかなことか!

大学生の時、合コンっぽい感じで初めてスキーに行った時、必要もないのにストックにしがみついてヘトヘトになったことが思い出された。

まさにそんな感じ。

「三点載せ」はフルートの重さ、重力の積極的活用になる。

でも「三点支持」はフルートの重さとの闘いだ。やれやれ。



ため息

2024-06-19 00:15:37 | 気付き
  • ギリシャ神話のパンとシランクスの話は昔から知っていた。

    小学生の頃、親から与えられていた少年少女世界の名作文学全集のギリシャ神話に様々な変身物語も載っていた。

    毎月1冊届くのだったかな?
    とにかく楽しみで、表紙は世界の名画になっていて、名画と画家の名前を自然に覚えられるようになっていた。文章も読みやすく、漢字には全てルビがふってあったので、一人でもどんどんと読み進めることができた。
    自室で夜、母が確認しに来た時、息をひそめて眠ったふりをし、去った後スタンドをつけて、この本を読むのが一番の楽しみだった。

    この50巻くらいの全集はずっと家にあって、大きくなってからも読み返していた。
    ある意味、私の教養の全てといっても良い本だった。

    でも、高校2年の時、父が亡くなり、大学入学と同時に、祖父の住む西鎌倉に引っ越すということになり、その折に全て処分した。父のコレクションのハヤカワミステリのSFの本などもみなこの時にお別れ。ちょっと後悔している。こちらも愛読していたのだけれど。

    今もあるのかな?と検索してみて、アッと驚く。
    こんな値段になっていたとは・・
    https://item.rakuten.co.jp/skymarketplus/b000jbppjg/

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    すっかり話題が逸れてしまいましたが、このギリシャ神話の変身物語をまとめたのが、オヴィディウスということを教えていただいたのは、ミュンヘンでお世話になったマリアンヌ先生からでした。

    ドビュッシーのシランクスのレッスンの折、パンのため息がシリンクスが変身した葦の束にあたって美しい音を奏でたというお話の後、こう仰った。

    「そしてね、mari、この御話しは、笛の音の原点を教えてくれているの。パンのため息で脚が鳴ったように、笛(フルート)は、ため息で響くのよ。コントロールされたため息で!」

    その言葉の意味がやっとわかった!?
    と思えたのは、フィンダ先生に御教えいただいて、当て位置が下がり、それに伴って息の方向も下になった時だったか?なので、もう25年くらい前?

    そして、植村先生、甲野先生のお陰で、どんどんと進化し、さらに息の方向は下に。

    なので、生徒さんにも、息の方向性としての「ため息」の話しかしてこなかった。

    つまり、何もわかっていなかったのだ。

    それが今回、ようやく、一か月くすぶっていた風邪が抜けてから気付く事が出来たのでした。

    ため息と吹く息では、息の出処も、質も温度も何もかもが、もう全然違うじゃない!?

    そして、それは2010年頃に気付いた「息を止めない」にも通じていた。
    なんで、あの時気付かなかったかなあ・・・

    息を止めたら深いため息は出ないでしょう?

    そして思い出すのは、よく植村先生が仰っていた言葉。

    「フルートはね、吹けば吹く程、鳴らない楽器だよ。」

    ロットのこととばかり思っていたけれど、ロットはもちろん、普通のフルートも、管楽器も、そして、歌、弦、ピアノ、もう全ての演奏者、パフォーマーに通じる言葉だったな、と認識。

    気管支や喉にずっと嫌な感じがあったので、あまり吹かなかった一か月だった。
    それでも吹きたい!と思った時に吹くと、練習時間は激減していたし、体力も落ちているはずなのに、調子が良いのが不思議だったけれど、喉に障るといやだから吹かなくなっていた、ということなのだと思う。

    ・・ああついつい「吹く」といってしまうのでややこしい・・・

    吹く息で吹くと息は浅い。
    ため息の息で吹くと身体の深いところから吹くことが出来る。

    ため息の息にすれば、喉に障らず、喉もさほど乾かず、何よりブレスが楽で、よりロングトーンも伸びる。

    それもウォーミングアップなしで最初から。

    ため息するためにウォーミングアップは必要ないもんね、ってことで。

    ただ、より深いため息をつくためには、それなりの身体も必要なのだろう。
    私はまだまだ、伸びしろ沢山かと思う。

    少なくとも、肩が上がっていたのでは、もう「吹く」しかない訳で。
    そして、それは肩、身体だけの問題ではなく、心、つまり、どう感じ、どう考えるか、ということがとても関わってきているように思う。
    心の「肩」が上がってちゃだめだろうね、と思う。

    植村先生が「もっと人間を磨け」と仰ってくださっていたのは、実はこのあたりの技術を伝承するには、結局はそこしかないから、ということだったのかもしれないなあ、と今、この文章を書きながらツラツラと考えています。




二頭の蝶 追記

2024-06-01 22:49:16 | 気付き
そういうことだったのか?

という気付きも、多分その時々のもので、また変化していくのだろうけれど、今回の二頭の蝶の向きを揃える、という気付きで吹いていると、

「そうだったのか!?」というものが諸々浮かんでくるので、記録。

まずは、『趺踞(フキョ)』。
 
そして

『虎落(モガリ)』

骨盤を蝶形骨の向きに揃えようとして動かすと、結果、これらの型になっていく。


更には、笛を吹くクリシュナの恰好とか。
これも、片足奏法、というよりは、フキョやモガリの延長というか、同じではないか?

骨盤の取り扱い方というのは、奥が深そうで、ここで一知半解的なことは言えないけれど、これらに共通する身体感覚を、今回の『二頭の蝶』で感じることが出来る様になったのは大きな収穫だった。

二頭の蝶

2024-05-26 21:51:35 | 気付き
久々のレッスン、久々のフルート。

健康が戻るって、なんて幸せ!?と病み上がりの時は思うけれど、すぐに喉元過ぎればで忘れてしまって、遊びすぎたり、練習しすぎたりして、病気になっている気もします。
いい加減に学習すればいいのに、とも思うけれど、後、何年元気でいられるのだろう?と思うと、以前よりも遊ぶことへの意欲は増えているかもしれません。

とはいえ以前より回復に時間がかかるようになっているのは確かなので、ここでこじらせては、といくつかの遊びの予定をキャンセル。

一つは6月2日にある高校の同期Gくん主宰の花火大会。
コロナ禍の時は中止になっていたけれど、彼が住むタワマンから横浜港の花火が良く見えるということで、毎年、同期の男女取り混ぜ10人前後で集まっていたもの。

Gくんは仕事は既にリタイアし、訳あって、今は独身。
何より、凝った料理が、これまた上手で、5年ぶりの花火宴会、とても楽しみにしていたのだけれど、ここで遊んで体調崩して、翌週の東京玉翠会総会での企画進行パートチーフとしてのミッションが遂行できなくなったら、大変、ということで泣く泣く断った。

バンド仲間「瀬戸内キャンディーズ」のHちゃん、Kちゃんとも久しぶりに会える、と楽しみにしていたのに。

お休みした音楽家講座の時に着る予定だった、夏塩瀬を着ていく予定だったのに・・

その連絡をした後のレッスンの最中、いつもより、しっかりと課題をやり込んできたのが良く分かる生徒さんの基礎を見ていて、あ!と思った。

昔はそれほど感じられなかった違和感多数。

「あ、ちょっといいですか?」

生徒さんは何故止められたんだろう?と怪訝な表情。

「すみません。いや、どこも悪くないです。ただ。ちょっとここをこうしてこうやってみてくださいますか?」

と気になった腰のポジションを修正したところ、ポーンとよりクリアで響く深い音になったのでした。

なんとなく気になってなんとなくご助言しただけなのだけど、そのあまりの違いに二人共びっくり。

「ちょっと待ってね。これ今思いついたんで、私もやってみるからね。」と今行ったことを自分でも修正したところ、生徒さん同様に、ポーンと出た。

「全身で手順を踏んだソの字立ち」
「ティーポットの気付き」
「2本脚で、合計足裏3点で立つ(これはやってるつもりだけだけれど、確実に違う)」
に加えての新たな気付きは蝶。

「そういえば蝶々って何羽?何匹?どっちだっけ?」と聞いたら、私よりも博学の生徒さんは「何故か知りませんが、蝶々は一頭、二頭、と数えるらしいですよ。」

まさに今回の気付きにもぴったりの数え方。

「二頭の蝶々の向きを揃えましょう!」

そもそも、甲野先生に抜刀術を教えていただいた瞬間、呼吸が深く、刀が軽くなったことに驚いたのが、私の奏法の変遷の始まりだった。

抜いた刀がそのままフルートに見えて・・・

当時専門誌の連載や「身体から革命を起こす」にこの新たな気付きと構え方を掲載したけれど、業界からは軽くスルー・・だった気がする。
そう、人ぞれぞれだしね。

でも、この体幹をねじらない構というのは私にとっては、まさに革命的出来事だった。

そう。足首、膝、股関節を駆使してフルートと身体が並行するように構えるやり方。

これは今も変わらないのだけれど、大きな落とし穴がまだあったことを本日自覚。

そう。確かに「体幹」はねじれなくなった。
でも、落とし穴はその体幹の外側、首との関係を取り持つ頸椎だった!?

昔、某身体系のインストラクターという方の講習会に参加したけれど、そこで「はい!あとは首だけこっちに向けて」とあって、心の中で「ハテ?それは違うのでは?」と思ったことがあったのだけれど、いわば50歩100歩だったということだ。

今日のレッスンで気付けたのも、おそらく、能楽堂会議室で、甲野先生の動きをみた瞬間に、スーっとしみ込んできた、あの印象のお陰か、とも思う。

まだ捻じれていたのは頸椎だった。

風邪で、後鼻漏みたいになり、鼻ばかりかんでいたのも影響しているかも。
大丈夫か?とネットで頭蓋骨の絵などみて、鼻腔周辺が、どうなってるの?と見たりしていた。
この頭の中にいる蝶々、その名も「蝶形骨」と、もっと大きな蝶々である「骨盤」の向きを揃える。

揃える時に役に立つ、というか必須なのはあの「見返り美人」
これも懐かしい構え方で、動きの基本になっているので、最早意識に上ることもなくなっていた構え方。

ソの字立ちで楽器を構えて、そのまま吹くだけでも、素晴らしい変化があったのだけれど、これだと、まだ頭の向きと骨盤の向きが僅かだが違う。

ということは頸その分椎が捻じれて負荷がかかっていた、ということ。

それを骨盤の向きを「見返り美人」を使って顔の向きに揃えてやることで、別世界に。
頸椎のねじれが取れて、肩の負荷が減る。
まさに、「肩の荷を下ろす」である。

骨盤を動かすことで、頸椎だけにかかっていた負荷が背骨全部に散る。

「部分でねじらないために万遍なくねじる」

わかりにくくて申し訳ないけれど、この言葉が一番適している。