雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

コルドバからバスでグラナダへ

2017-06-17 21:06:31 | 旅行
コルドバ駅の北にあるバスターミナルでタクシーを降りる。パスの出発時間まではまだ間がある。

パス指定券の予約は、ネットサイトのミューで行った。ネットによると、乗車券に2種類あり、普通シートとちょっと豪華シートがあるようだ。値段はさほど変わらない。ちょっと豪華シートで予約しようとした所、この日(5月12日)は14時過ぎの1本しかヒットしない。普通シートは何本もヒットした。娘はここコルドバでのより長い滞在を希望していたので、14時過ぎのちょっと豪華シートを予約した。私たち夫婦は、早めに移動して次のグラナダでの観光時間確保を希望していたので、普通シートで早め(11時頃出発)を選択した次第である。

パスが到着したので乗り込む。普通シートは本当に普通シートだった。前から2番目くらいの座席だったので、フロントウィンドウを通じて景色が比較的よく見える。

「魅惑のスペイン」には以下の記述がある。
「コルドバから東南方へグラナダに向かう国道432号線は、ローマ時代からの旧街道で、いかにもアンダルシーアらしい魅惑的な景観に恵まれているという点では、この地方随一だ。コルドバを出ると間もなく丘陵地帯に入り、夏ならば見渡す限りヒマワリの花の大海という感じである。そしてCu中では、アンダルシーア情緒満点の小さな町、小さな村が、次から次へと現れる。小高い丘の上に古城がそびえ、教会の鐘楼が見え、まわりの斜面に白壁の家々が群がっている美しい眺めは、いつまでも忘れられない。」

我々が乗るバスが、国道432号線を通るかどうかは不明だった。しかし、道路標識によると、まさに国道432号線を走っているようだ。「魅惑のスペイン」に書かれたような美しい眺めが出現するか、窓の外を眺めた。

季節は5月初旬であり、残念ながら「見渡す限りヒマワリの花の大海」は出現しない。周囲は丘陵地帯であり、一番多いのはオリーブ畑らしき低い樹木地帯、ときどきブドウ畑が見える。とにかく、背の高い樹木、それらが生い茂った林というものが一切見られない。ここスペインは、高い樹木が育たない気象風土なのだろうか。

はるか前方の丘陵の上に、古城らしき建物が見えてきた(左下写真)。持参したWi-Fiをオンにし、スマホのマップを立ち上げる。エスペホという町のようだ。今回ネットで調べたら、『報道写真家ロバート・キャパが1936年のスペイン内戦で撮った「崩れ落ちる兵士」の舞台。』という記述に出会った(ウィキ)。
バスはエスペホの近くを通り過ぎる(右下写真)。
  

バスは丘陵地帯を進む。遠くの丘の上、崖の上にはいくつもの古城が見え、過ぎていった。
下の写真はアルカララレアルである(ウィキ)。バスは、アルカララレアルの丘の上の城塞を回り込みながら、道をたどる。
 

グラナダのバスターミナルは、市街の西にあるグラナダ駅よりもさらに西にある。バスを降りるとタクシーを拾い、ホテル名を告げてホテルへ向かった。

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コルドバ市内

2017-06-15 22:21:05 | 旅行
コルドバでの訪問記として、パティオ祭りメスキータ・アルカサルはそれぞれ記事にした。ここでは、これら以外のコルドバ訪問記を記すこととする。

(地球の歩き方より)
「ローマ時代に築かれたコルドバは、756年から1031年まで後ウマイヤ朝の首都として栄華を極め、『西方の真珠』と呼ばれた。全盛期の人口は50万とも100万ともいわれ、」「イスラムの進んだ学問を学ぶためヨーロッパ各地から人々が集まった。」

《5月9日》
羽田からフランクフルト、マドリッドと飛行機を乗り継ぎ、マドリッドからは特急に乗ってここコルドバに到着した。出発に書いたとおりである。
滞在先のホテル・マイモニデスに到着したのは午後6時前であっただろうか。太陽は西に傾いているがまだ日中である。私は一人で、最初の市内観光に出ることとした。ホテルはメスキータの西端に位置している。ここから西へ行くとすぐに、旧市街の城壁に達する。まずはそこへ行くこととした。
アルカサルの北にあるセビーヤ門あたりを経由して、西端の城壁の外に出た。そこから城壁に沿って、アルモドーバル門まで北上する(下写真)。



上の写真がアルモドーバル門である(多分)。

アルモドーバル門から旧市街に入り、路地を南下していく。レコンキスタの前のイスラム時代はユダヤ人居住区だったようだ。パティオ祭り参加の青30番のパティオを見た後、途中の右側にシナゴーグ(シナゴーガ)(ユダヤ人の会堂)(下写真)がある。
「魅惑のスペイン」によると、14世紀に建てられたもので、トレドのシナゴーグと共にスペインでは貴重な遺構だそうだ。「ムデハル様式による壁面の漆喰細工が美しい」とある。
 

街のいろいろなところから、ミナレット(メスキータの尖塔)を見ることができる(左下写真)。右下写真は、狭い路地の間から見えた尖塔である。どこの尖塔かは不明であるが。
 
こうして、9日夕刻の散策は終わった。

《10日》
まずは3人でメスキータを訪問した。そのあと、妻と二人で、パティオ巡りをかねて市内散策である。
まずは、メスキータの北北東端から少し歩いた所にある「花の小道」だ。狭い路地を突き当たりまで進み、振り返ると、そこにミナレットが現れるという寸法である(下写真)。ただし実際には、路地は観光客の密集である。下の写真も、観光客がいる地面近くを除いてアングルを決めている。


ホテルでパティオ祭り地図をもらったのだが、白黒のコピーだ。そのため、青色マーク(パティオ)と茶色マーク(公共施設)の区別が付かない。さらに、後から確認してみると、この日歩いた地域(メスキータの北東方向)は茶色マークの施設ばかりであった。

《考古学博物館》
 
博物館の入口                           博物館の内部

 
「魅惑のスペイン」より
「パエス広場の一角に、16世紀中頃にできたルネッサンス様式のヘロニモ・パエス邸がそびえており、今では考古学博物館になっている。」「なかでも興味深いのはイベリア人が造ったライオンの石像、ローマ時代のモザイク(上写真?)、イスラム時代の陶器などである。」

白黒地図を頼りにパティオ祭り参加パティオを探すのだが、見つからない。この近くには茶色印しかないのであるから、無駄な努力ではあった。それでも、前述の青33番のパティオを見つけることができ、成果はあった。

こうして、10日午前の市内観光が終わった。一度ホテルへ戻る。

午後の市内観光は、ローマ橋が中心である。
グアダルキビール川の川岸に出て、ちょっと上流にあるろーま橋を目指す。途中、左下写真の水車の遺構が目に留まる。この水車は、アルカサルの庭園に水を汲み上げるのが目的だったらしい(魅惑のスペイン)。河原には別の遺構(土台のみ)が見られ、こちらは粉挽きのための水車跡だそうだ(写真なし)。
右下の写真は、ローマ橋の北詰に建つ建物である。後方はメスキータの南端である。
 

「ローマ橋は紀元前1世紀末アウグストゥスの治世に造られ、16のアーチを支えている橋脚の石組みは、洪水のときの激流に堪えられるように流線型になっている。戦乱のたびに、敵の侵入を阻止するためアーチの一つ二つを取り壊したり、また修築したりということが繰り返されたが、基本的にはローマ時代のままだ。」(魅惑のスペイン)
左下写真は北から見た橋の西側、右下写真は南のラ・カラオーラの塔の上から見た橋の東側(上流側)の写真である。
 
橋の南端は、左上写真に見えるように、ラ・カラオーラの塔が立ちはだかっている。昔は、塔の中央に設けられた出入り口からしか出入りできなかったのだろう。現在は、塔の東側に迂回路が設けられ、塔を経由せずに南岸に出られる。塔の内部は歴史資料館になっている。
南側から塔を見ると(左下写真)、まさに砦である。そして塔の南側を堀が取り囲んでいる(右下写真)。今は空堀だが、有事には水を満たすのであろう。グアダルキビール川の南から攻める外敵に対して、ローマ橋を守るための砦となっていることがわかる。
 

本日の夕飯は、市内で食材を仕入れてホテルの部屋で食する予定である。食材を売っている店を探すのだが見つからない。ラ・カラオーラの塔の頂上から南岸を見たら、近くにバールがあるようだ。行ってみた。しかし、欲しいものは見つからなかった。バーテンダーのお兄さんは「キッチンをクローズしたんだ」と申し訳なさそうだった。
バールの向かいに、軽食屋っぽい店を見つけた(左下写真)。いろんなおかずを売っている。「持ち帰りたいんだが」とジェスチャーすると、右下写真のお姉さんが「パッケージ?」という。「そうそう」と答えると、店の奥からパッケージを持ってきてくれた。3人分の夕食に足りるおかずをゲットできた。
 

《11日》
まずはアルカサルを訪問した。次いで、旧市街の南西端付近のパティオ巡りであるが、パティオが開く11時まではまだ間がある。近くに城壁が見えたので、城壁の外へ出てみた(下写真)。
 
11時からは、市街の南西端に密集するパティオを見て回った(前述)。どこも行列で、長時間炎天下で立ちづめとなった。
午後は、メスキータのミナレットの塔に登った(前述)。

《12日》
コルドバ滞在最終日である。
グラナダ行きのバスは、11時にバスターミナル(コルドバ駅の近く)を出発する。それまでの時間、私一人で最後のコルドバ歩きに出かけた。
コルドバ旧市街の東側はまだ訪問していない。まずは、南東端近くに出かけ、そこから北上することとした。
メスキータの北東端から東進すると、ポトロ広場に出る。ここに、旅籠屋ポトロがある(左下写真)。
「魅惑のスペイン」によると、「昔の旅館の造りがよく残っていてたいへん面白く、・・・。馬やロバをつないでおくのに使った細長い中庭を囲んで、二階建ての建物に部屋が並び、素朴な木造の手すりの付いた外廊下がめぐっている。セルバンテスもこの旅籠に泊まったことがあり、そのときの経験が『ドン・キホート』のなかで生かされているようだ。」とある。
左下の写真は、二階の外廊下から撮ったものである。
 
旅籠屋ポトロを後にして、北上してピアナ宮殿に向かう。ガイドブックの地図には、途中に「ローマ神殿跡」という表示がある。恐らく右上写真がそれであろう。石積みの土台が残っているだけだが、こんな街中に、よくぞ土台だけでも残ったものだ。

ピアナ宮殿と、その近くのパティオ祭り参加パティオの様子は、前述のとおりである。

ホテルへ帰り、荷造りと身支度をしてこのホテルから出発である。ホテルのフロントにタクシーを呼んでもらい、タクシーに乗り込んだ。このホテルはメスキータに隣接しており、つまり入り組んだ路地を通り抜けないと旧市街から出ることができない。バスターミナルは北西方向だが、タクシーは東へ進んだ。路地の一方通行の関係だろう。しかしメスキータを過ぎたあたりから、路地は渋滞で動かなくなった。ちょっとバスの時間が気になってくる。しかし、車がミラフローレス橋(グアダルキビール川でローマ橋の上流に架かっている)のたもとまで到達し、Uターンして川岸の道路を走り始めると、渋滞は解消し、車は高速で走り出した。こうなるとバスターミナルまではあっという間だ。

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メスキータ・アルカサル-コルドバ

2017-06-14 21:11:23 | 旅行
コルドバ滞在記として、前回はパティオ祭りを特集した。
ここコルドバの最大の観光ポイントはメスキータである。
今回は、メスキータ訪問記と、メスキータに隣接するアルカサルの訪問記をまとめる。

《メスキータ》
メスキータについて、下記の書籍から拾う。
添乗員ヒミツの参考書―魅惑のスペイン (新潮文庫)
メスキータとは、スペイン語でモスクの意味である。
西暦700年頃、西ゴート(キリスト教)にかわってこの地の支配者となったモーロ人(イスラム)は、キリスト教徒と話し合いの上で元々あったキリスト教会を買収し、新しくモスクを建設した。そのうち、当初の礼拝堂のみでは手狭になり、第1次拡張(840年代)、第2次拡張(960年代)を行った。このときまでは、モスクは左右対称で、メッカの方向を示すためのミフラーブはモスクの左右中央部に位置していた。10世紀末に第3次拡張を行うとき、もはや左右対称に拡張することが困難となり、ミフラーブ側から見て右側に拡張することになった。こうして990年頃、137m×174mの壮大なモスクが完成した。メッカのモスクに次いで2番目の大きさであった。中庭と礼拝堂を合わせて、一度に約6万人の信者が礼拝に参加することができたとのことであるが、本当だろうか。
ここコルドバは、当時の西カリフ帝国の首都であり、その当時のコルドバがいかに反映していたかが、このメスキータの大きさから知ることができる。
1234年、コルドバはキリスト教徒に再征服(レコンキスタ)された。
そして16世紀、カルロス一世の時代に、メスキータはキリスト教の大聖堂に転用するための大改造が強行されたのである。オーストリアのハプスブルク家寄りでよそ者のマンリケ司教がこの案を打ち出したのに対し、地元コルドバでは市民ばかりでなくキリスト教の聖職者たちも一致して猛反対したが、工事は強行された。
 
広大なメスキータの一隅に尖塔(ミナレット)がそびえている(上写真)。イスラム時代は、1日に5回、ムアッサンと呼ばれる役僧がその上に登り、礼拝を勧めるアザーンを唱えていた。キリスト教となった後、改築されて鐘楼となった。
下写真は、メスキータ外周の一つの角である。


5月10日の朝、メスキータを訪問した。



礼拝堂の中に入ると、無数の石柱が林立し、広い礼拝堂の天井を支えている(上写真、下写真)。キリスト教改装前、石柱の数は1012本であった。改装後も856本が残った。
メスキータ礼拝堂の天井は決して高くない。上写真に見られるように、二重のアーチの上に木製の天井が張られている。太い木製の梁を密度多く並べ、その上に天井板を張ってあるようである。





メスキータの南東辺の中央右に、メッカの方向を示すミフラーブが配置されている(上写真)。下は石柱越しに見たミフラーブである。





キリスト教の大聖堂は、イスラム教のモスクと異なり、天井が高い。メスキータの中央部分を大聖堂に改築する際、モスクの天井を撤去し、上に伸びた大聖堂が建設された(上写真、下写真)。



5月12日、メスキータのミナレットに登った。

  
ミナレットの塔の上からメスキータを展望すると(上写真)、イスラムの礼拝堂とキリスト教の大聖堂との関係がよくわかる。イスラム礼拝堂は、高くない三角屋根が整列している。礼拝堂のど真ん中に、背の高い大聖堂がニョキッと飛び出ている。礼拝堂の手前の緑の部分は、中庭である。イスラムの時代、この中庭は礼拝ができるように平滑な石を敷き詰めてあった。キリスト教化して、石は引き剥がされ、オレンジの木が植えられて、今のようなオレンジの中庭に変貌した。

ミナレットから街並みを眺める(下写真)。コの字、あるいはロの字の家の真ん中にパティオが位置しているのがわかる。


《アルカサル》
(「地球の歩き方」より)
「レコンキスタでコルドバを奪回したアルフォンソ11世が、イスラム王の宮殿跡に14世紀に建造。イスラムとキリスト教の建築様式が融合した、ムデハル様式の王宮だ。15世紀にはイスラム勢力の最後の砦グラナダを攻略する際の拠点となり、コロンブスは新大陸発見の資金援助を仰ぐためこの城でカトリック両王に謁見した。」

11日朝、アルカサルを訪問した。
 

アルカサルは、石造りの大きな建物(左上写真、下の2枚の写真)と、建物の西に広がる広大な庭園(右上写真)から更正されている。

 

 

ガイドブックには「ローマ時代のモザイクや石棺などを見学することができる」とある。左上の写真が石棺、右上、下の2枚がモザイクであろうか。

 

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パティオ祭り

2017-06-13 21:14:47 | 旅行
コルドバ滞在中は、パティオ祭、メスキータなどの有名観光地巡り、その他コルドバの観光地巡りである。滞在中はこれらをアットランダムにこなしているのであるが、以下、イベント毎に別々に記事にすることとする。
まずはパティオ祭である。

前にも書いたように、南スペインのコルドバやセビーリヤの旧市街には、パティオ(中庭)を囲むような造りの家が多いという。パティオの入口にはこれまたデザインに工夫を凝らした鍛鉄細工の透かし扉が付いており、通りからパティオを垣間見ることができる。
パティオのある家に住んでいる人たちが、パティオの美化に注ぐ情熱は大変なものだ。コルドバでは毎年5月の中頃に2週間にわたってパティオ祭があり、パティオのコンクールが催され、優勝したパティオの住人には賞金が贈られる。
「中庭方式は、夏のあいだ日射が強烈で空気が乾燥しきっているという気候風土に向いている。こういう地域では日光の直射や切り返しから遠ざかるほど、そして外気が直に吹きつけてこない所ほど、より涼しくて快適なのだ。暑い盛りには外気温が40度を超えることも珍しくなく、そうなると素肌に風を受けるとかえって厚い(下記著書より)。」
添乗員ヒミツの参考書―魅惑のスペイン (新潮文庫)
紅山雪夫
新潮社


コルドバの今年の
パティオ祭りは5月2日~14日であり、ちょうど我々の滞在期間に合致している。パティオコンクールに参加しているパティオは、期間中、だれでも自由に入って見学することができる。ただし、11時~14時、18時~22時のみだ。
見学者はパティオ祭りの地図をもらうことができる。下の地図は、配られた地図をベースとし、一部の見えなかった部分を付け足したものである。

地図には、青印の番号(1~45)と、茶色印の番号(1~14)が記されている。青印が、一般人のパティオで、今回の祭りに参加しているパティオである。茶色印は、博物館などの公共の施設である。

9日、ホテル到着は午後6時頃である。まだ太陽がかんかんと照らしている昼間だ。妻はホテルで休息を取り、私は市内見学に一人で出かけることとした。まだ、上記パティオの地図を入手していない。
 
コルドバ旧市街の西端、アルモドーバル門からシナゴーガ(ユダヤ人の会堂)へ向かう途中の路地で、観光客が出入りしているパティオに遭遇した(上写真と左下写真)。後からパティオ地図と照合した所、青30番のパティオであった。

 

翌10日、3人でメスキータを訪問した後、娘は一人行動、妻と私が2人で市内見学した。パティオ祭り地図を頼りに、まずは茶色9番の博物館(後述)を見た後、いろいろ探し回り、1箇所だけ青印パティオ(青33番)を見つけた。右上写真と下写真である。階段(下写真)が素敵だったので、交互に記念写真も撮影した。


11日、まずはアルカサルを見学した。そのあと、アルカサルの近く、旧市街の南西端にまとまって位置しているパティオを見て回った。パティオ開場は11時だが、まだ時間がある。もよりのパティオの入口前で開場を待った。本日は雨が降ったり止んだりである。入口前には、すでに開場待ちの観光客が群をなしている。11時ちょうどに、そのパティオ担当スタッフが到着し、鉄格子の透かし扉から中に入っていった。ほどなく開場である。パティオ内はあっという間に観光客に占拠される。
この地区には、37番から45番までのパティオがまとまっている。いずれも、入場するには長い列に並ばなければならない。炎天下、いくつの列に並び、いくつのパティオを訪問したか、もう忘れてしまった。取りあえずパティオ祭りの写真と照合してみた。


青37番





 





どこのパティオも、2階までの高い壁の一面に無数の植木鉢が飾られている。
先述の「魅惑のスペイン」によると、夏は気温が高くてしかも乾燥しきっているため朝夕2回の水やりはどうしても必要で、それだけでも大変な手間であるそうだ。一体どのようにて水やりを行っているのであろうか。
上の写真は、南西端地区で見つけた銅像である。子供がハシゴに登り、でっぷりした親爺から水桶を受け取って、高所の水やりを行っている情景であろう。このような働き者の少年がいればいいが、いなかったらどうするのであろうか。
下の写真のような道具を立てかけているパティオもあった。


ここアンダルシア地方の床面の特徴として、小石を縦に並べた床面がある。左下写真はその一例である。平べったい小石を用い、平べったい面を水平にするのではなく、平べったい面を垂直にして並べているのである。裸足で歩いたら足つぼマッサージになるであろう。さらに左下写真のように、色違いの小石を用いて模様を描いている。
 

この地区は、旧市街の南西端に位置している。旧市街の境界には城壁が健在である。右上の写真は、パティオの一方の壁として城壁を利用しているものであった。




上の写真のパティオ、植木鉢の数で勝負しているようであった。
数多くのパティオで、井戸がアクセントになっていた。本当の井戸かどうかは不明であるが。左下の写真(青44番)は、井戸を覆う屋根が特徴的であった。

 

この日訪問したパティオは、いずれも入場するまでに長い行列に並ぶ必要があった(右上写真)。

12日、まず妻と2人でミナレットの塔に上った後、1人で市内を巡った。まだ訪問していない、旧市街の東側を歩いて回った。
旅籠屋ポトロを過ぎた所で、パティオ地図を紛失していることに気づいた。あの地図がないと、パティオ祭り参加のパティオに辿り着くことができない。しょうがないので、まずはガイドブックに出ているピアナ宮殿を訪問し、そのあと、適当に歩いてパティオを探すこととした。

ピアナ宮殿は、ピアナ公爵の邸宅として14世紀に建てられたものだそうだ。一番の見所は、さまざまなスタイルに整えられた12ものパティオということだ(地球の歩き方)。左下の写真が宮殿の正面。見学者の出入り口はこの左側にある。
 
宮殿内を順路に従って歩いた。いくつものパティオを抜けていく(右上写真、下の2枚の写真)。
 

ピアナ宮殿の見学は終わった。予定ではこのあと、パティオ祭りに参加しているパティオを順に訪問する予定であった。ところが、パティオ祭りの地図をふんしつしてしまったので、どこに目的のパティオがあるのか、まったく手がかりがない。
唯一の頼みは、私がなくしたのと同じパティオ祭りの地図を持った人を探すことである。あっ、いた。そこで、その人がやっていた方向に歩き、その方角にあるはずのパティオを探した。一つの路地を曲がって目星を付けたところ、その路地の途中に一つのパティオを見つけた。たしかに祭りに参加しているパティオである。そして同じ路地には、続けて3箇所の祭り参加パティオが位置していた。そのうちの2箇所が、以下の写真である。
  
青14番     青12番


本日はグラナダに移動する日であり、もうあまり時間がない。ここは旧市街の北東の外れである。ここから南西方向にあるホテルまで歩かなければならない。地図を頼りに帰路についた。途中、祭り参加パティオに遭遇することを期待したが、残念ながら見つけることはできなかった。

こうして、私のパティオ祭りは終わった。

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出発

2017-06-12 19:28:12 | 旅行
前記のような準備のもと、いざ出発である。
今回は、羽田発の深夜便(00:50発)である。バスタ新宿から、予約したバネで羽田空港へ向かう。空港で娘と合流した。チェックインの前、グローバルWiFiでレンタル機器を受け取った。
飛行機では、離陸直後に食事が出るものと予測していた。しかしいざ出発してみると、食事は着陸前の朝食のみであり、それまでは希望者のみ軽食が準備されているのみであった。0時以降の出発だとこのような扱いらしい。離陸後すぐに就寝することを考えれば、妥当な扱いといえる。結局、軽食を頼むことなく、フランクフルトまでの飛行機の旅を終えた。

フランクフルト空港での長い待ち時間と、フランクフルト-マドリッド間の空の旅を経て、マドリッド・バラハス空港に到着した。ここから、まずはタクシーでアトーチャ駅に向かう。
今回は3人旅なので、タクシーに乗るときは私が助手席に乗ることとなった。「いくらですか」はスペイン語で「クアント クェスタ?」である。助手席に乗り込み、運ちゃんについイタリア語で「クアント コスタ?」と聞いてしまった。37年前に3ヶ月ほどイタリアに滞在していたので、いくつかのイタリア語を覚えているのである。
運ちゃんは料金メーターを指さしながら「トレインタ」と発した。メーターには「30」と表示されている。そういえば、ガイドブックには「空港から市内まで一律30ユーロ」と書いてあった。私は納得して「ああトレンタね」と相づちを打った。そういえばイタリア語で30はトレンタである。運ちゃんは、私がスペイン語かイタリア語がわかると早合点したのか、それからペラペラとスペイン語でまくし立ててきたが、当然ながら何も理解できない。
こうして、タクシーはアトーチャ駅に到着した。

アトーチャ駅でも待ち時間は十分にある。
妻と娘は、近くのデパートに出かけることになった。私は、駅の待合室で荷物の番をすることとした。
我々の特急はアトーチャ駅を出発し、無事にコルドバ駅に到着した。
ホテルは、メスキータの北西端のすぐ近くに位置している。コルドバ駅からホテルまではタクシーである。私は例によって助手席に座った。ガイドブックのコルドバ市街の地図を見ながら、左前方を指さして「ビクトリア?」と運ちゃんに聞いてみた。運ちゃんは私のガイドブックを手にとっておもしろがっていた。
ビクトリア広場横の直線道路を過ぎると、旧市街に入り込む。ごちゃごちゃした路地を通り、メスキータの横を通過して、ホテル・マイモニデスに到着した。

左下の写真はホテルの正面、写真の左端にはメスキータの北西端の壁が見えている。
 
ホテルのフロントでチェックインを済ませた。フロントから我々の部屋(地上階)へは、右上写真のパティオを経由していく。

こうして、無事に1日目の滞在地ホテルに到着することができた。

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