雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

ドイツものしり紀行

2008-05-31 12:54:34 | 旅行
ドイツものしり紀行 (新潮文庫)
紅山 雪夫
新潮社

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ドイツ旅行が終わってから、上の本を読んだ。
日本人が多く訪れるドイツの街々について、紅山氏がうんちくを語っている本である。
ロマンチック街道に半分近くのページ数を割いている。それだけ日本人が多く訪れるということか。
今回の旅行と関係する箇所について拾い読みした。

《ミュンヘン》
ミュンヘンはそんなに昔からある街ではない。
このあたりは古来有名な岩塩の産地がいくつもある。この岩塩の交易路であるイーザル川の橋を押さえていたのがフライジングの司教であった。
1142年からザクセンの大公だったヴェルフエン家のハインリヒ獅子公が、1156年にバイエルンの大公をも兼ねるようになった後、司教にただ儲けさせておく手はないということで、塩の交易路と課税をめぐって激しい争いを始めた。ハインリヒ獅子公は今までの橋を壊し、新たに自分の支配下にあったミュンヘンに橋や倉庫を造った。その後、ミュンヘンは大発展を遂げることになる。

新ラートハウス(市庁舎)の仕掛け時計は、1568年にバイエルン大公ヴィルヘルム五世とロートリンゲン公女レナーテが結婚式を挙げたときの行事を再現したもので、馬上槍試合で勝つのはバイエルンのシンボルである淡青と白の市松模様を付けた騎士だ。そのあとビール樽をつくる職人たちが踊りだす。
  
仕掛け時計 馬上試合        バイエルン騎士の勝ち!

《ライン川》
ライン川は長さ1320キロ、流域面積は22.4万平方キロで、日本の本州の面積にほぼ等しい。
ライン川は国際河川で、どの国の船でも自由に航行できる。

《ビンゲン》
町のすぐ後ろの高台にクロップ城がそびえているが、ローマ人がここに城塞を設けてビンギウムと名付け、麓の河岸に人が集まり済むようになったのがビンゲンの起源だ。
クロップ城はライン河谷にある他の多くの城と同じように、1689年のプファルツ継承戦争の際にルイ十四世のフランス軍によって破壊され、1875年に再建されて、今では郷土博物館になっている。


《ハイデルベルク》
(ハイデルベルク大学は)立派な門塀を構えたキャンパスがあるわけではなく、一般の建物に混じって街中に建っている。そして建物自体も割に小さくて、古ぼけて見える。
実はヨーロッパでは、歴史の古い大学は皆こういう感じなのだ。日本の大学のように、門塀を構えた一定のキャンパスの中に収まっているのは、ヨーロッパでは歴史の浅い新参の大学と相場が決まっている。

(学生牢の)牢内の壁にも天井にも、ろうそくの煤などで丹念にかかれた氏名、落書き、家紋、自画像などがひしめきあって残っている。ここの学生には名門貴族の子弟も多かった。
  

騎士の家 Zum Ritter St.Georg
スペインの迫害を逃れて、フランドルから移住してきた新教徒の富裕な商人シャルル・ベリエが、商館を兼ねた住宅として1592年に建てた。正面外壁がフランドル風のこった作りになっているのはそのためで、さまざまの楽しい彫刻で飾られている。棟上に悪竜を退治した聖ゲオルグの甲冑姿の胸像があるところから、「騎士の家」と呼ばれるようになった。
←これのことか?現在はホテルの1階にある
1689年に全市がフランス軍の焼き討ちにあったときも、1693年の大火のときにも無事だった貴重な建築である。
ホテルとしては、この建物だけではとうてい部屋が足りないので、隣接している家々を買い取り、壁をぶち抜いて中から往来できるようにして使っている。
  
         ホテル正面

ハイデルベルク城
城の外まわりが無残に破壊されたのはプファルツ継承戦争のときで、ルイ十四世のフランス軍のしわざである。
  
マルクト広場から      カール・テオドール橋から

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5月5日-ミュンヘンから日本へ

2008-05-25 09:03:19 | 旅行
いよいよ帰国の日である。

時間は十分にある。
まず一昨日訪れた三越を再訪し、買い忘れたおみやげを買い足すことにする。三越の開店は10時半だ。
ホテルをチェックアウトし、トランクをごろごろ引きながら三越へ向かう。開店時間より少し前に到着した。一昨日お世話になった支配人がおられ、「開店時間まで荷物を預かりますよ」と言ってくださった。お言葉に甘えることにする。

近くを散策して三越に戻り、手早く買い物を済ませる。本日の11時には、昨日見ることのできなかった新市庁舎の仕掛け時計を観る予定だ。
三越の支配人の方は、「荷物を預かっておくから観ていらっしゃい」と勧めてくれる。また甘えることにする。

三越から急ぎ足で新市庁舎に向かうとちょうど11時で、仕掛け時計の動きが始まるところであった。
  
新市庁舎は、上の写真でもわかるように装飾がこらされている。旧市庁舎の方がよほど簡素である。
ところがこの新市庁舎、20世紀になってから建設されたという。実に意外である。20世紀といったら、もうモダンな建築物の時代になっているものと思い込んでいた。
しかしよく調べたら、ケルンの大聖堂も、着工は1248年と古いものの、完成したのは1880年であってごく最近なのである。1907年に完成したミュンヘンの新市庁舎とほとんど変わらない。
だから、ケルンの大聖堂のように装飾をこらしたミュンヘンの新市庁舎であっても決しておかしくないのである。
  
仕掛け時計 馬上試合        バイエルン騎士の勝ち!

11時、仕掛け時計が動き始める。同心円で廻る内側の列(右回り)と外側の列(左回り)に、人形や馬上の騎士が次々と現れる。左の写真は馬上の騎士がすれ違うところ、そして右の写真は、勝負がついたところである。外回りの騎士が後ろにのけぞっている。内回りの勝利した騎士がバイエルン騎士である。この辺の知識は三越の人に教えていただいた。

時計見物も終わったので、三越に戻り、預かってもらっていた荷物を受け取り、空港へと移動する。マリエン広場の駅からSバーンに乗って空港に向かうのだ。
ミュンヘンのSバーンは、今回購入したユーレイルパスが有効である。5日間コースのユーレイルパスをまだ3日分しか使っていない。4日目に本日の日付を記入し、Sバーンで使うことにする。
空港へ向かう電車と行っても、ミュンヘン市街を一歩外れるとのんびりとした田舎を走る郊外電車となる。40分ほどゆられ、ミュンヘン空港に到着した。

ミュンヘンの空港は、第1、第2ターミナルがあり、第1ターミナルそれ自身が長細い。A~Eのゲートが横に並び、それぞれがチェックインカウンターを持っているようだ。われわれは一番左近くのDゲートでチェックインする。
そのまま荷物を預けずに受け取り、次はタックスフリーの手続をする。またトランクを転がして延々とBゲートまで戻る。そこにタックスフリーの窓口があった。今回、4枚の申請書がある。うち2枚は三越の買い物で、これはクレジットカードへの戻しのみである。残りの2枚はユーロの現金で受け取れるので、それを選んだ。ここまで運んできたトランクは、またDゲートまで持って帰る必要はなく、タックスフリー窓口で受け取ってくれた。
タックスフリー窓口の近くに換金窓口がある。そこへ行くと、2枚のうち1枚は換金できたが、残り1枚は別の銀行カウンターでないと換金できないという。1フロアー下に降り、その銀行を探した。さらに、クレジットカード戻しの2枚をポストに投函すべく、ポストを探した。
それらがすべて終わると、また延々とDゲートまで歩いて戻った。それだけで疲労困憊である。
免税店を冷やかし、アイスを買って食べていたらもう搭乗時刻である。

ミュンヘン空港の手荷物検査は、今までになくチェックが厳しかった。私のベルトのバックルが引っかかるし、肩に提げたパスポート入れのファスナーまで金属探知機に引っかかってしまった。

ミュンヘン-アムステルダム間は14時25分発:16時15分着、アムステルダム-成田間は20時15分発:翌14時30分着である。アムステルダムでの連絡時間が4時間もある、はずであった。

今回、ミュンヘン-アムステルダム間がKLM、アムステルダム-成田間がJALであり、会社が異なる。そのためか、ミュンヘンでの発券ではアムステルダム-成田間の切符が発券されなかった。そのため、アムステルダムの乗り継ぎカウンターで発券してもらわなければならない。指定されたカウンター(KLM)には窓口が4つぐらいあり、客がいないにもかかわらず、そこでは発券できなかった。そしてその隣にJALの窓口が一つだけある。そこには何人もの行列ができていた。さらにどういうわけか、一人ひとりの客の発券にとてつもなく時間がかかっている。
やっとわれわれの番が来た。やはり延々と時間がかかる。
われわれはエールフランスとKLMがやっているマイルを貯めている。JALも協賛であり、80%の率で貯めることができる、はずであった。ところがそのスタッフは、「JALは提携していないから不可能」と決めつけ、我々の言うことを聞こうとしない。さんざん言い合ったが結局埒があかなかった。
(帰国して調べてみたら、アムステルダム便についてのみはJALを利用してもマイルがたまらないことが判明した。)

スキポール空港での待ち時間が4時間もあると思っていたのに、手続が終わったのは出発1時間前であった。
さらにこの後、もう一仕事あった。
再度手荷物検査を受けたのである。それが搭乗の30分前である。


アムステルダム-成田間のJAL機は、またも空席が目立った。往路は3人掛けの座席を一人で占領したのに対し、帰りはそれほどの空席はなかったが、それでも3人掛けの座席を2人で使うことができた。ずいぶんと楽である。

自分の座席で見る映画の中に「母べえ」があった。折角だから見ようかと思ったが、やめた。主人公の夫が治安維持法違反で特高(特別高等警察)に逮捕されたという背景であり、それが辛くてどうしても見る気になれなかったのである。

成田に到着する。預けたトランクは無事に流れてきた。
ここで予期せぬできごとがあった。通関時に書類を書いて渡さなければならないのである。知らなかったが、昨年の夏から始まったらしい。機内でスチュワーデスが配っていたので、知っていれば機内で記入することができたのだが。

通関を完了し、借りていた携帯電話を窓口に返却する。
新宿行きのリムジンバスは、すぐに出発する便の座席を確保することができた。

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ドイツの白アスパラガス

2008-05-24 10:46:20 | 旅行
5月2日のハイデルベルクにも書いたように、ホテルのレストランで夕食を食べたおり、メニューのあるページに並ぶ料理の名称には、すべて「アスパラガス」の文字が入っていた。また、隣の人のところに運ばれてきたメインディッシュは、ウェイターが蓋を取ったところ、その皿に載っていたのは白アスパラガスだった。白アスパラガスが何本か、皿に載っている。ただそれだけである。
そのときから、「いったいドイツで白アスパラガスはどのような意味を持つのか」と疑問に思っていた。

そしてミュンヘンに移動し、5月4日にマリエン広場近くを見て回っていたところ、路上の屋台で白アスパラガスだけを売っている屋台がある。上の写真だ。結構多くの人がこのような店で白アスパラガスを購入している。


日本に帰って調べたら、いろいろとわかってきた。
例えば、ミュンヘン在住のカルカ麻美さんのページに、以下のように紹介されている
「ドイツではアスパラと言えば白アスパラ、というくらいグリーンアスパラより親しまれている野菜。ドイツ語でSpargel(シュパーゲル)というこの期間限定の味覚は、ドイツ人にとって春の訪れを実感できる特別な存在です。ゴールデンウィークのドイツ旅行では、シーズン真っ盛りのシュパーゲルがたっぷり楽しめますよ!」
「ドイツ人にとってシュパーゲルが特別な訳
春の市場はシュパーゲルでいっぱい!
シュパーゲルを楽しめる期間は短く、4月中旬から市場やスーパーマーケットに出始め、6月24日をもって出荷時期は終わりとされています。毎年最初のシュパーゲルを目にすると「ああ、春が来たんだなぁ」と、何ともウキウキした気分になります。冬が長いドイツに住む人々にとって、春の訪れは本当にうれしいもの。そんな特別な季節に登場するシュパーゲルだから、ドイツ人にとって、とっておきの存在となっているのです。」
「この時期は、どこのレストランでもシュパーゲルの特別メニューが用意されています」旅行前からそうと知っていれば、今回の旅行で食してきたのに!!
知らなかったとはいえ、残念なことをした。

そうこうするうちに、5月17日の日経夕刊にもドイツの白アスパラガスの記事が見つかった。
「ドイツ
4月の下旬から6月24日までは白アスパラガスのシーズン。『野菜の王様』と呼ばれる白アスパラの需要は増える一方で、昨年は十万トン近くが収穫された。収穫の担い手は主に国外からの季節労働者。だが、最近は人手確保が難しい。」
日光を浴びると変色する白アスパラは地面を探って手で収穫する。重労働だが時給は8ユーロ程度と安い。以前はスペイン人やポルトガル人が目立ったが、EU加盟後に生活水準が上がり、来てくれなくなった。去年はポーランド人が多かったが、ポーランドの賃金も上がり、今年は来てくれない。そのため、今年は人手が確保できず、アスパラが地中で腐った田畑もあったという。

こんなにも白アスパラの話題が豊富だったというのに、なぜこの歳になるまで気づかなかったのだろうか。不思議なものである。

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ドイツ博物館-Uボート

2008-05-23 20:18:31 | 旅行
私が持っていったガイドブック「街物語 ドイツ」(JTB)には、ドイツ博物館について詳しく説明され、「Uボートが展示されている」とある。

博物館の地下に、その潜水艦は展示されていた。
  
 船尾機関室                司令塔
  
 乗員居室                 魚雷発射管室
  Deutsches Museum

小さな潜水艦がまるまる展示され、側壁を開口して内部が観察できるようになっている。プロペラが2基設置され、それぞれに電動モーターと内燃機関が直結されている。内燃機関は1基のみ設置されていた。
説明板には「U1」と記載されていたようだ。そこで、どのような由来の潜水艦なのか、ネットで調べてみた。

青葉山軍事図書館の説明によると、
「<U-1級>:ドイツ海軍潜水艦第1号。ロシア海軍が1904年にクルップ社に発注した潜水艦の改良型である。長さ4.5mの潜望鏡を持ち、無線通信用の昇降マストも装備している。全長42.2m、全幅3.8m、水上排水量238トン、水中排水量283トン。主機はケーテン石油エンジン2基・電動モーター2基400馬力で、最大速度は水上10.8ノット、水中8.7ノット。航続距離は水上10ノットで278km、水中5ノットで92.6km。兵装は45mm砲1門と45cm魚雷発射管1門で、魚雷3本を搭載する。乗員12名。U-1が1906年に就役した。
<U-1>:第1次大戦時は訓練用に使用された。ミュンヘンのドイツ博物館に展示されている。」とある。

そもそも「Uボート」という名称は、ドイツ語のUnterseebootの略で「潜水艦」という意味である。従って、第一次、第二次大戦のドイツ軍のあらゆる潜水艦がUボートと呼ばれている。第二次大戦中だけでも、「初期の丸木舟と呼ばれたII型から大西洋を中心に各方面で活躍したVII型、さらに大型化したIX型、水中能力を高め大戦後の潜水艦設計の基礎となったXXI型、沿岸作戦用のXXIII型などがあった」(Wikipedia)とされる。
VII型は排水量800トン程度、IX型は1000トン程度ある。それに対し、ドイツ博物館に展示されているU-1は排水量280トンと小型だ。第一次大戦で使用されたUボートはだいたいそんな大きさだったようだ。

いずれにしろ、ドイツ海軍が第一次大戦時に最初に建造した潜水艦が、そのままの姿でドイツ博物館の地下に陳列されているということである。小さいので、内部構造を一目で確認することができる。潜水艦の何たるかを把握する上では好適な船であるといえるであろう。
ガイドブック「街物語 ドイツ」には「1923年に博物館に収められた。これに乗ると思うとぞっとする。」と説明されている。


  Deutsches Museum
Uボート展示の近くには、大昔の帆船の船室(砲室)の模型が展示されていた。

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ドイツ博物館-V2号ロケット

2008-05-22 21:01:01 | 旅行
ドイツ博物館シリーズは、前回のバイキング船に続いて、今回は第二次大戦中にドイツが開発・実用化したミサイルのV1号、V2号である。
V1号はバルスジェットエンジン推進、V2号は液体燃料ロケットエンジン推進で、ともに無人のミサイルだ。ロンドン市街の爆撃に用いられたことで有名である。

V1号は、巡航速度が当時のプロペラ機でも撃墜できる程度の速度であり、ほとんどが撃墜されたが、安価に製造できるメリットがあった。
V2号は、撃墜不可能な速度を有していたが、ロケット4機で爆撃機1機が製造できるほど高価であった。
ともにドイツ軍の戦果としては大きなものはなかったが、V1号は後の巡航ミサイルの元祖となり、V2号は後の弾道ミサイルの元祖となる。
また、V2号の技術、実物、技術者を米ソが競い合って獲得し、戦後の米ソにおけるロケット開発の基礎となった。

ドイツ博物館には、V1号が天井からつり下がっている。本物なのか、実物大模型か、縮尺模型か、判然としない。実物は全長7.9mとのことだ。
  
  Deutsches Museum

そしてドイツ博物館には、V2号も展示されているのである。こちらは本物のようだ。全長14mのロケットが直立し、博物館の2階から4階までを突き抜ける小穴の中に配置されている。そのため、全体を遠望することができない。2階から4階までらせん階段を上がりながら、部分部分をながめていく。
  
  
       ① 弾頭部               ② 燃料ポンプ

       ③ ロケットエンジン
  Deutsches Museum

V2号は、液体酸素と液体燃料をタンクに搭載し、これらは燃料噴射ポンプを経てロケットノズルを冷却した後にノズル内に噴射され、ロケット推進します。慣性誘導装置を備えていた。このように、原則的なところでは後のアポロ計画に使われたサターンロケットと同じ構造をすでに具備しているのだ。このV2号を参照できたからこそ、第二次大戦後の米国とソ連は急速に宇宙開発とミサイル開発に成功したのであった。
そのような由緒あるV2号の実物を間近に見ることができたのは、今回の旅行の成果であった。

ドイツのロケットV2号、そのV2号を作りだしたフォン・ブラウン博士は、私が小学生の頃は科学少年にとって著名であった。
ドイツを占領したアメリカとソ連は、それぞれ競い合ってV2号の知識を奪い取った。そしてその知識は、ソ連による世界初の人工衛星であるスプートニク1号として結実する。フォン・ブラウン博士は米国に渡り、米国の宇宙ロケット開発の中心を担ったようである。
第二次大戦後の冷戦及び米ソ宇宙開発競争にとって重要なエポックとなったV2号、そしてV1号を自分の目で見ることができるのがドイツ博物館である。連合国にとっては憎い破壊兵器の筈だが、それでもこのようにきちんと展示している。

その他、飛行機関係で撮った写真を載せておく。
  
  メッサーシュミット戦闘機        ユンカース輸送機

  
第二次大戦中の世界初ジェット戦闘機   戦後アメリカのF-104ジェット戦闘機
  (ドイツ)

アメリカのマーキュリー宇宙船
アメリカの有人宇宙飛行は、マーキュリー計画(一人乗り) → ジェミニ計画(二人乗り) → アポロ計画(三人乗り)と進み、アポロ宇宙船で人間の月到達を実現した。上の写真はそのうちのマーキュリー計画の宇宙船(の原寸模型?)だ。
こんな小さな容器の中に入って宇宙に飛び出すなど、よほどの勇気が必要だろう。
  Deutsches Museum

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