雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

ハンガリー

2009-06-30 20:12:10 | 旅行
ハンガリーの歴史について、加藤雅彦著「ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化 (岩波新書)」に基づいて復習しておく。

ドナウ流域をめざして、東方からアジア系の民が、9世紀までに3回にわたって侵入してくる。最初は5世紀にやってきたアッティラを王とするフン族である。彼らは、この地域に住んでいたローマ人の堅固な防衛線リーメスを突破し、ドナウ曲がりとパンノニア(現在のハンガリー)を征服し、ローマ帝国をうかがったが、やがて滅ぼされてしまう。次は7世紀にやってきた遊牧民のアヴァール族である。しかし彼らも、フランク王国のカール大帝に敗れて姿を消す。
最後に入ってきたのは、アルパート公に率いられたマジャール族ら7つの部族集団である。彼地は、ヴォルガ河とウラル山脈の間に住む騎馬民族であったが、コーカサスから、黒海に沿ってドナウ流域へと移動し、898年にドナウ流域を征服する。三度目の正直といおうか、マジャール族はこの地に定住するにいたる。そして彼らの呼び名「マジャール」はやがて民族全体の呼び名となり、国名ともなった。
彼らはやがてドナウ流域で、漁業、狩猟、牧畜、農耕を営むようになる。この騎馬民族の後裔たちは又、時には同盟軍として、時には戦利品目当てに、しばしばヨーロッパ各地に遠征した。しかし955年に彼らは、ドイツのアウグスブルク郊外のレヒフェルトの決戦で、ローマ帝国軍に敗れ、これが一つの転機となる。時の支配者ゲーザ公は、ハンガリーが生き延びるためには、キリスト教に改宗し、ヨーロッパ文明社会の一員となるより他に道のないことを覚ったのである。こうして彼の息子ヴァイクは、エステルゴムで洗礼を受け、ローマ法王から王冠を受け、キリスト教を国教とした。初代の王イシュトヴァーン1世である。1001年に戴冠式を挙げ、エステルゴムを都とした。

13世紀半ばのモンゴル人の来襲で、都はエステルゴムからブダに移る。

マーチャーシュ王の時代は、ハンガリー王国最後の輝ける時代であった。彼はボヘミア王を兼ね、ウィーンを占領して、一時この都に居城を置いた。
マーチャーシュ王の時代、ブダの王宮もルネッサンス様式による増築が行われる。
彼はさらに神聖ローマ皇帝の王冠を狙ったが、その志を遂げることなく他界した。マーチャーシュの死後、ドナウの下流からトルコの脅威が迫る。1592年モハーチの決戦で、ハンガリー軍はトルコ軍に大敗した。それは、ドナウが血でまっ赤に染まったと言われるほど、壮絶な戦いであった。この戦いでハンガリー国王ラヨシュ2世は戦死し、世継ぎがないまま、王位はオーストリアのハプスブルク家にわたる。そしてさらに都のブダが落とされた後、「ドナウ曲がり」から南のドナウ流域は、およそ150年間トルコの支配下に入るのである。

ようやく1686年に、ブダの都が異教徒から解放された時、ブダの宮殿は完全に瓦礫と化していた。当時ブダの町に生き残った住人は、わずか数百人を数えるのみであったという。
受難の時期は去ったものの、モハーチの戦いの後、ハンガリー王はハプスブルク王家の兼ねるところとなっていた。18世紀後半マリア・テレジアの下で、再び丘の上に王宮が甦る。この宮殿も第二次大戦でまたも破壊され、それが復旧されたのは、戦後やっと80年代になってのことであった。

ハプスブルク帝国は、1867年にオーストリアとハンガリーが実質平等な二重帝国へと生まれ変わるが、これがブダペストに、ダイナミックな首都作りを促すことになったのである。
二重帝国の成立は、政治的のみならず経済的にも、ハンガリーをオーストリアと対等にした。ブダペストは、ウィーン同様活気にあふれる都となり、ドイツ人、ボヘミア人、ユダヤ人、ポーランド人などが集まるコスモポリタンの町へと変わっていった。

こうして蓄積されたブダペストの活力は、世紀末から今世紀(20世紀)初頭にかけての急テンポの建設ブームとなって爆発する。
大聖堂、議事堂、科学アカデミー、音楽院、証券取引所、鉄道駅と、最高の建築家の手になる傑作が次から次へと出現した。それらは、クラシック、ルネッサンス、ネオ・ゴチックから、伝統に背を向けた機能主義、ゼツェッシオン(分離派)にいたるあらゆる様式で粋を凝らし、新しい都を飾っていくのだった。「ドナウの女王」ブダペストはこうして誕生した。

1989年の東欧自由化以来、「ドナウの女王」は急速にかつての輝きを取り戻しつつある。多くの建物の化粧直しに一段と力が入り、街並みがカラフルになって、社会主義時代に比べると、まるで別世界のようだ。

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スロヴァキア

2009-06-29 21:09:55 | 旅行
ここで、スロヴァキアの歴史について、加藤雅彦著「ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化 (岩波新書)」に基づいて復習しておく。

チェコ人とスロヴァキア人は同じ西スラブ族に属しながら、長い間それぞれ別の歴史の中で生きるうちに、気質から文化や言語にいたるまで、少なからざる相違を有無にいたった。

チェコ人とスロヴァキア人の祖先の西スラブ族は、5世紀頃からこの地に定住をはじめ、9世紀には大モラヴィア王国を建設した。当時はまだチェコ人とスロヴァキア人に区別はなかった。しかし10世紀にこの王国がマジャール人(ハンガリー人)に滅ぼされ、東半分がマジャールに併合されたことが、チェコ人とスロヴァキア人の運命を分けることになった。
このあとチェコスロヴァキアの独立する1918年まで、スロヴァキア人は長い屈辱と貧困の時代に入る。
それに対しチェコ人の住む領域は、ボヘミア王国として繁栄する。
第一次大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、チェコスロヴァキアは独立を達成する。しかし、1000年もの間ハンガリー領であったスロヴァキアは、教育水準の低い後進の農業地帯であった。彼らは、先進のチェコ人による支配を警戒し、チェコとの統合による独立には慎重であった。
マサリク初代大統領は、スロヴァキア人に対し独自の議会を持つ権利を約束したが、この約束は果たされなかった。当初から両民族間には深い溝が存在することになった。1939年には、スロヴァキアはナチスの保護のもとに一時独立した。
第二次大戦後チェコスロヴァキアには社会主義政権が樹立されるが、社会主義の下で、特にスロヴァキア民族主義は厳しく弾圧された。
1968年の「プラハの春」自由化運動の指導者ドプチェクは、戦後初のスロヴァキア出身の第一書記であった。この「プラハの春」はソ連の戦車の下に空しく散ったが、その翌年、はじめてスロヴァキア人とチェコ人が、それぞれ独自の共和国となって、連邦を形成し、一応形の上だけでは平等が実現された。
現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァで、1991年3月スロヴァキア人による激しい自立要求のデモが起きた。

以上が「ドナウ河紀行」(1991年刊)の記述である。
その後、1993年にチェコとの連邦を解消して独立し、現在の独立国スロヴァキアとなった。

ブラティスラヴァは、ハンガリーがトルコ軍に占領された16世紀から17世紀にかけて、ハンガリーの首都となったことがある。
聖マルティン教会は、多くのハンガリー王が戴冠式を挙げたことで知られている。ブラティスラヴァ城の塔も、かつてはハンガリー王家の宝物殿として使用されていたという。

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5月2日ブラティスラヴァ(2)

2009-06-28 09:32:13 | 旅行
両側に家が建ちならぶ細い坂道を、上へ上へと登っていく。しばらく行くと城門が見えてきた(左下写真)。そして上を見上げると城が見える(右下写真)。うわっ!、足場が架かっている。
  
ブラティスラヴァ城

ブラティスラヴァ城は、四角い城の四隅に塔が建っており、“ひっくり返したテーブル”と呼ばれているそうだ。日本人が見たら“ひっくり返した碁盤”である。
現物を見る前、写真で見たところではさほど大きな建物とは思っていなかった。しかし実物を見たら、その大きさに圧倒された。装飾が少ないので写真では小さく見えるが、実は大きいのである。
城の中には歴史博物館、音楽博物館、ホッケーの殿堂があるらしいが、今回は時間もないので、外観を見るだけにとどめた。

ブラティスラヴァ城

城山の南側をドナウ川が流れている。城からドナウ川を見下ろした風景が下の写真である。
  
ブラティスラヴァ城から見たドナウ川

城山から下り、お昼を取ることにする。聖マルティン教会そばにある小さなレストランSan Martin Bar & Restrantを選んだ。中に入ってメニューを見たら、イタリアンであった。われわれはペンネクリームソース、ミネストローネをひとつづつ頼んで取り分けて食べた。飲み物はカフェウィズミルクである。

ブラティスラヴァの街中には、銅像が多く見られる。見上げる高さの銅像ではなく、われわれの目線よりも低い位置にある銅像である。偉人の銅像ではなく、コミカルな銅像だ。
左のマンホールから覗いている銅像は、ガイドブックに載っていた。街中のどこにあるかがわからないので、見つけることはできないだろうと諦めていたのであるが、歩いていたら偶然に見つけた。チュミル(スロヴァキア語で“のぞき見する人”という意味)という名の架空の人物だそうだ。
  
街中の像

街中の像

聖マルティン教会から南東方向に歩くと、細長い広場に出る。緑地帯の端に建っているのがスロヴァキア国立劇場だ。
  
スロヴァキア国立劇場
広場横の南側にレドゥタと呼ばれる華麗な建物がある。この建物の上の方に“スロヴァキアフィルハーモニア”と書かれており、どうもフィルハーモニーコンサートホールであるようだ。レドゥタの広場に面する側に、右下写真の銅像があった。いかにも旧社会主義国っぽい銅像である。
  
レドゥタ            銅像

まだ時間は早いが、そろそろ引き上げることにする。レドゥタの南、ドナウ川の川辺に近いところにトラムの乗り場がある。ドナウ川の岸には残念ながら工事の仕切りがしてあり、ドナウ川を見ることはできなかった。
トラムはブラティスラヴァ旧市街の東半分を半周し、もと来た線路を逆にブラティスラヴァ中央駅に向かった。

駅の二階に待合室があった。ベンチは座椅子の高さが高く、日本人の足の長さでは地面に届かない。
待合室から見える丘の頂に高い塔が立ち、塔のてっぺんに像がある。この像も旧社会主義国っぽい。

丘の上の像(中央駅から)

ブダペスト行きの列車の切符はここブラティスラヴァ中央駅の窓口で購入した。1等を希望していたのだが、窓口で“2等しかない”といわれ、その切符を購入した。一人13.8ユーロであった。
ブラティスラヴァからブダペストまで約3時間である。
到着した列車に乗り込むと、その車輛はコンパートメントであり、けっこう混んでいた。別の車輛に椅子席があり、そちらは空いているようだ。そこで椅子席の車輛に移動した。着いてみると、その車輛は1等である。1等があったのだ。検札が来たら料金を払うことにしてその椅子席に落ち着いた。
検札がやってきたので、2等から1等に変更したいと交渉した。この列車はスロヴァキアとハンガリーを通過する。等級変更については、国毎に行う必要があるらしい。取り敢えずはスロヴァキア側について追加料金を払った。二人で7.3ユーロであった。
ハンガリー側についても無事に等級変更を行うことができた。

車窓から見た景色については、旅行から2ヶ月が経過し、すっかり忘れてしまった。

ブダペストは東駅に到着である。
ハンガリーの通貨はユーロではないので、現地通貨に両替しなければならない。駅に両替所がある。町中の両替所は一般にレートが悪いので、最小限の日本円1万円を両替した。1フォリントが0.562円であった。

ここからはメトロの2番に乗ってホテルに向かう。メトロの入口を探すのに、トランクを引きずりながらだいぶ苦労した。
ここブダペストでは、乗車券として回数券や3日券は購入せず、その都度1回券を購入することにした。
メトロの2番に乗り、デアーク広場駅で降りた。地上に上がってみると、交叉点の真ん中の離れ小島である。ホテルの方向がわからない。なんとか方向を見定め、歩き始めた。ホテルまでは600m以上ある。
ホテルは、ドナウ川の東岸沿いに建つマリオット・ホテルである。大きなホテルである。
部屋は西向きで、窓からはドナウ川と対岸の王宮がよく見える。そういう意味では最適のロケーションだ。ただし、午後に部屋でくつろぐときは、カーテンを全閉にしないと眩しくて部屋にいられない。
  
マリオット・ホテル外観          部屋の中

夕食は、ホテルの部屋でカップヌードルとバナナである。

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5月2日ブラティスラヴァ(1)

2009-06-27 14:29:23 | 旅行
スロヴァキアの首都はブラティスラヴァである。ガイドブックその他、“ブラチスラヴァ”と書いてあるが、綴りは"Bratislava"である。ウィーンでテレビ番組を見ていたら、「ブラティスラヴァ」と発音していた。そこで、ここでは“ブラティスラヴァ”と書くことにする。

本日は、ウィーンから鉄道でブラティスラヴァに行き、市内の見学をした後、鉄道でハンガリーの首都ブダペストに行く。本日はブダペスト泊である。
スロヴァキアの通貨は、ごく最近ユーロに変更になったようだ。ウィーンの後、両替の必要がなくなったので便利である。

朝食をホテルビュッフェで済ます。

ブラティスラヴァ行きの電車に乗るのはウィーン南駅である。
当初の予定では、来たときと逆にトラムで南駅まで行く積もりでいた。しかし急遽予定を変え、ホテルからタクシーで南駅へ行くことにした。

南駅に着いたら、まずはブラティスラヴァ行き電車の切符を購入する。等級は2等のみであった。値段は一人13.4ユーロである。

今回のウィーン滞在では、結局ドナウ川を見ていない。ドナウ川はウィーンから北に外れたところを流れているからである。
ブラティスラヴァ行きの電車がスタートしてしばらくしたら、大きな川にかかる鉄橋を通過した。ドナウ川に違いない。何枚か写真を撮ったが、いずれも写真の真ん中に鉄橋の骨組みが入ってしまった。一番ましな写真が左下の写真である。

ウィーン付近のドナウ川             
  
ブラティスラヴァ中央駅 正面             内部のホール
電車はブラティスラヴァ中央駅に到着した。左上の写真は中央駅正面、右上がホールから改札口を見たところの写真である。
地下の有料トイレで用を足し、荷物一時預かりに荷物を預けた。

中央駅から旧市街までは歩けないこともないが、トラムを利用することにする。まずは切符の購入だ。駅を出たところにある売店で、帰りの分を含めて切符を4枚購入した。

今回準備したスロヴァキアのガイドブックは、2005年4月発行のちょっと古い「地球の歩き方」である。この本によると、中央駅の前からトラムの1番に乗ればいいことになっている。しかし1番の乗車位置が見つからない。
たまたま到着したトラム(13番だったか?)の運転手に「ミハエル門に行きたい」と伝えたところ、私は気付かなかったが「この電車に乗れ」とジェスチャーしたようだ。そこで乗り込むことにする。
「ミハエル門に行くにはどの停留所か」と質問したら「ツェントラル」と答える。ツェントラルという停留所があるのだろうか。

トラム(中央駅付近)

トラムに乗り込んで切符に刻印する。トラムは走り出した。確かにガイドブックに書かれた路線を走っている。そしてミハエル門近くらしき場所まで到着したが、停留所名はツェントラルではない。降りずにしばらく様子を見ていたが、トラムはどんどん進行する。そろそろ降りた方が良さそうだ。目的の位置から南東の方向にずいぶん行きすぎてしまったが、停留所で降りた。運転手が行っていた「ツェントラル」とは、旧市街の中心部という意味だったようだ。

ブラティスラヴァでは、中央郵便局にも立ち寄ることにしていた。その中央郵便局が、降りた停留所からミハエル門に行く途中にある。
  
ブラティスラヴァ中央郵便局

中央郵便局は、普通の古びたビルである。"Posta"という小さな表示のみが郵便局の証である。
中に入ると、窓口はたくさんあるが、記念切手を販売していそうな窓口は一つ、そこに二人ほどが行列を作っていた。その行列に並び、延々と待たされた末に順番が来た。テーブルのガラスの下に購入できる記念切手が並べてある。その中から気に入ったのを選び、おみやげとして購入した。

昔は旧市街を城壁が取りまき、いくつかの門が設けられていたが、現在残っているのは北側のミハエル門のみである。タマネギ型の塔の下がミハエル門である。
  
ミハエル門の外側                  ミハエル門

ミハエル門をくぐり、旧市街の中心にある旧市庁舎に向かう。
陶器の招き猫が飾ってあったのは、みやげもの屋のショーウィンドウである。
    
旧市街の街並み
  
旧市庁舎前の広場                  旧市庁舎
旧市庁舎前の広場は、両側に土産物の屋台が並んでいる。

旧市庁舎から南西方向に歩くと、街外れに聖マルティン教会がある。ちょうど結婚式が催されていたようだ。残念ながら中に入ることはできなかった。
  
聖マルティン教会
  
聖マルティン教会での新郎新婦      聖マルティン教会近くの城壁跡
聖マルティン教会の西側を自動車道路が走っており、そのガード下を通り抜けると、その向こうに山がある。この山の頂がブラティスラヴァ城である。
山への登り口から今来た側をふり返ると、聖マルティン教会の近くに城壁跡らしき構造物が見える(右上写真)。
山腹からは城は見えない。行き先表示に従って道を上っていった。

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5月1日ウィーン(5)シェーンブルン宮殿

2009-06-26 21:29:25 | 旅行
午後はシェーンブルン宮殿へ行く。
朝も利用したカールスプラッツから、メトロのU4に乗ってシェーンブルン宮殿まで移動する。Uバーンで6駅である。

シェーンブルン駅を降りると、延々と歩いて宮殿の入り口に達する。
  
シェーンブルン宮殿 表

入場券売り場へ行くと、入場時間制になっており、今からだと1時間以上後の入場となる。しょうがないのでそれで予約した。
宮殿の外を回って宮殿の裏に出ると、そこは広い庭園である。はるか遠く、丘の中腹にネプチューンの泉があり、その向こうの丘の上がグロリエッテである。時間はあることだし、そこまで上がることにする。

  
シェーンブルン宮殿 ネプチューンの泉     ネプチューンの泉から
  
シェーンブルン宮殿 グロリエッテから     グロリエッテ
グロリエッテから宮殿を見ると、宮殿の向こうに街が広がっている。
  
グロリエッテ
    
庭園の彫像
  
庭園、ネプチューンの泉、グロリエッテ

宮殿内入場の時間が到来した。
中に入ると、日本語の説明ヘッドセットを借りた。部屋ごとの説明を聞きながら、宮殿内を回る。
残念なことに、宮殿内は写真撮影禁止である。写真がないと何も説明することができない。
この宮殿に住んだ最後の皇帝がフランツ・ヨーゼフとその妻エリザーベトであったためか、またフランツ・ヨーゼフがハプスブルク帝国最後の皇帝であり、皇后エリザーベトがシシィと呼ばれて親しまれていたこともあり、宮殿内には二人にゆかりの部屋が多く残されている。それ以前の皇帝の思い出はほとんど消されていると言っていい。

見学の途中、窓から外を見ると黒い雲である。雷鳴も聞こえる。そのうち、大雨が降ってきた。われわれは傘を持っていない。
これは困ったと思ったのであるが、宮殿の見学を終えて外へ出ると、雨はほとんど上がっていた。
来た道を戻り、Uバーンでカールスプラッツ駅で降りる。地上へ出たら方向が分からなくなったが、何とかホテルに帰り着いた。

宿泊しているホテルでは、部屋に毎日スイーツが置かれている。下の写真にあるようチョコレートである。


夕食:チキンラーメン、リンゴ
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