ハンガリーの歴史について、加藤雅彦著「ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化 (岩波新書)」に基づいて復習しておく。
ドナウ流域をめざして、東方からアジア系の民が、9世紀までに3回にわたって侵入してくる。最初は5世紀にやってきたアッティラを王とするフン族である。彼らは、この地域に住んでいたローマ人の堅固な防衛線リーメスを突破し、ドナウ曲がりとパンノニア(現在のハンガリー)を征服し、ローマ帝国をうかがったが、やがて滅ぼされてしまう。次は7世紀にやってきた遊牧民のアヴァール族である。しかし彼らも、フランク王国のカール大帝に敗れて姿を消す。
最後に入ってきたのは、アルパート公に率いられたマジャール族ら7つの部族集団である。彼地は、ヴォルガ河とウラル山脈の間に住む騎馬民族であったが、コーカサスから、黒海に沿ってドナウ流域へと移動し、898年にドナウ流域を征服する。三度目の正直といおうか、マジャール族はこの地に定住するにいたる。そして彼らの呼び名「マジャール」はやがて民族全体の呼び名となり、国名ともなった。
彼らはやがてドナウ流域で、漁業、狩猟、牧畜、農耕を営むようになる。この騎馬民族の後裔たちは又、時には同盟軍として、時には戦利品目当てに、しばしばヨーロッパ各地に遠征した。しかし955年に彼らは、ドイツのアウグスブルク郊外のレヒフェルトの決戦で、ローマ帝国軍に敗れ、これが一つの転機となる。時の支配者ゲーザ公は、ハンガリーが生き延びるためには、キリスト教に改宗し、ヨーロッパ文明社会の一員となるより他に道のないことを覚ったのである。こうして彼の息子ヴァイクは、エステルゴムで洗礼を受け、ローマ法王から王冠を受け、キリスト教を国教とした。初代の王イシュトヴァーン1世である。1001年に戴冠式を挙げ、エステルゴムを都とした。
13世紀半ばのモンゴル人の来襲で、都はエステルゴムからブダに移る。
マーチャーシュ王の時代は、ハンガリー王国最後の輝ける時代であった。彼はボヘミア王を兼ね、ウィーンを占領して、一時この都に居城を置いた。
マーチャーシュ王の時代、ブダの王宮もルネッサンス様式による増築が行われる。
彼はさらに神聖ローマ皇帝の王冠を狙ったが、その志を遂げることなく他界した。マーチャーシュの死後、ドナウの下流からトルコの脅威が迫る。1592年モハーチの決戦で、ハンガリー軍はトルコ軍に大敗した。それは、ドナウが血でまっ赤に染まったと言われるほど、壮絶な戦いであった。この戦いでハンガリー国王ラヨシュ2世は戦死し、世継ぎがないまま、王位はオーストリアのハプスブルク家にわたる。そしてさらに都のブダが落とされた後、「ドナウ曲がり」から南のドナウ流域は、およそ150年間トルコの支配下に入るのである。
ようやく1686年に、ブダの都が異教徒から解放された時、ブダの宮殿は完全に瓦礫と化していた。当時ブダの町に生き残った住人は、わずか数百人を数えるのみであったという。
受難の時期は去ったものの、モハーチの戦いの後、ハンガリー王はハプスブルク王家の兼ねるところとなっていた。18世紀後半マリア・テレジアの下で、再び丘の上に王宮が甦る。この宮殿も第二次大戦でまたも破壊され、それが復旧されたのは、戦後やっと80年代になってのことであった。
ハプスブルク帝国は、1867年にオーストリアとハンガリーが実質平等な二重帝国へと生まれ変わるが、これがブダペストに、ダイナミックな首都作りを促すことになったのである。
二重帝国の成立は、政治的のみならず経済的にも、ハンガリーをオーストリアと対等にした。ブダペストは、ウィーン同様活気にあふれる都となり、ドイツ人、ボヘミア人、ユダヤ人、ポーランド人などが集まるコスモポリタンの町へと変わっていった。
こうして蓄積されたブダペストの活力は、世紀末から今世紀(20世紀)初頭にかけての急テンポの建設ブームとなって爆発する。
大聖堂、議事堂、科学アカデミー、音楽院、証券取引所、鉄道駅と、最高の建築家の手になる傑作が次から次へと出現した。それらは、クラシック、ルネッサンス、ネオ・ゴチックから、伝統に背を向けた機能主義、ゼツェッシオン(分離派)にいたるあらゆる様式で粋を凝らし、新しい都を飾っていくのだった。「ドナウの女王」ブダペストはこうして誕生した。
1989年の東欧自由化以来、「ドナウの女王」は急速にかつての輝きを取り戻しつつある。多くの建物の化粧直しに一段と力が入り、街並みがカラフルになって、社会主義時代に比べると、まるで別世界のようだ。
戻る 続く
ドナウ流域をめざして、東方からアジア系の民が、9世紀までに3回にわたって侵入してくる。最初は5世紀にやってきたアッティラを王とするフン族である。彼らは、この地域に住んでいたローマ人の堅固な防衛線リーメスを突破し、ドナウ曲がりとパンノニア(現在のハンガリー)を征服し、ローマ帝国をうかがったが、やがて滅ぼされてしまう。次は7世紀にやってきた遊牧民のアヴァール族である。しかし彼らも、フランク王国のカール大帝に敗れて姿を消す。
最後に入ってきたのは、アルパート公に率いられたマジャール族ら7つの部族集団である。彼地は、ヴォルガ河とウラル山脈の間に住む騎馬民族であったが、コーカサスから、黒海に沿ってドナウ流域へと移動し、898年にドナウ流域を征服する。三度目の正直といおうか、マジャール族はこの地に定住するにいたる。そして彼らの呼び名「マジャール」はやがて民族全体の呼び名となり、国名ともなった。
彼らはやがてドナウ流域で、漁業、狩猟、牧畜、農耕を営むようになる。この騎馬民族の後裔たちは又、時には同盟軍として、時には戦利品目当てに、しばしばヨーロッパ各地に遠征した。しかし955年に彼らは、ドイツのアウグスブルク郊外のレヒフェルトの決戦で、ローマ帝国軍に敗れ、これが一つの転機となる。時の支配者ゲーザ公は、ハンガリーが生き延びるためには、キリスト教に改宗し、ヨーロッパ文明社会の一員となるより他に道のないことを覚ったのである。こうして彼の息子ヴァイクは、エステルゴムで洗礼を受け、ローマ法王から王冠を受け、キリスト教を国教とした。初代の王イシュトヴァーン1世である。1001年に戴冠式を挙げ、エステルゴムを都とした。
13世紀半ばのモンゴル人の来襲で、都はエステルゴムからブダに移る。
マーチャーシュ王の時代は、ハンガリー王国最後の輝ける時代であった。彼はボヘミア王を兼ね、ウィーンを占領して、一時この都に居城を置いた。
マーチャーシュ王の時代、ブダの王宮もルネッサンス様式による増築が行われる。
彼はさらに神聖ローマ皇帝の王冠を狙ったが、その志を遂げることなく他界した。マーチャーシュの死後、ドナウの下流からトルコの脅威が迫る。1592年モハーチの決戦で、ハンガリー軍はトルコ軍に大敗した。それは、ドナウが血でまっ赤に染まったと言われるほど、壮絶な戦いであった。この戦いでハンガリー国王ラヨシュ2世は戦死し、世継ぎがないまま、王位はオーストリアのハプスブルク家にわたる。そしてさらに都のブダが落とされた後、「ドナウ曲がり」から南のドナウ流域は、およそ150年間トルコの支配下に入るのである。
ようやく1686年に、ブダの都が異教徒から解放された時、ブダの宮殿は完全に瓦礫と化していた。当時ブダの町に生き残った住人は、わずか数百人を数えるのみであったという。
受難の時期は去ったものの、モハーチの戦いの後、ハンガリー王はハプスブルク王家の兼ねるところとなっていた。18世紀後半マリア・テレジアの下で、再び丘の上に王宮が甦る。この宮殿も第二次大戦でまたも破壊され、それが復旧されたのは、戦後やっと80年代になってのことであった。
ハプスブルク帝国は、1867年にオーストリアとハンガリーが実質平等な二重帝国へと生まれ変わるが、これがブダペストに、ダイナミックな首都作りを促すことになったのである。
二重帝国の成立は、政治的のみならず経済的にも、ハンガリーをオーストリアと対等にした。ブダペストは、ウィーン同様活気にあふれる都となり、ドイツ人、ボヘミア人、ユダヤ人、ポーランド人などが集まるコスモポリタンの町へと変わっていった。
こうして蓄積されたブダペストの活力は、世紀末から今世紀(20世紀)初頭にかけての急テンポの建設ブームとなって爆発する。
大聖堂、議事堂、科学アカデミー、音楽院、証券取引所、鉄道駅と、最高の建築家の手になる傑作が次から次へと出現した。それらは、クラシック、ルネッサンス、ネオ・ゴチックから、伝統に背を向けた機能主義、ゼツェッシオン(分離派)にいたるあらゆる様式で粋を凝らし、新しい都を飾っていくのだった。「ドナウの女王」ブダペストはこうして誕生した。
1989年の東欧自由化以来、「ドナウの女王」は急速にかつての輝きを取り戻しつつある。多くの建物の化粧直しに一段と力が入り、街並みがカラフルになって、社会主義時代に比べると、まるで別世界のようだ。
戻る 続く