雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

2010年ベルリン・ドレスデン・プラハの旅

2010-08-29 21:05:29 | 旅行
2010年のゴールデンウィークは、ベルリン・ドレスデン・プラハの旅である。

まずプラハが決まった。もう一つの都市として、地図で見るとドレスデンが近い。ドレスデンとプラハは同じエルベ川沿いでもある。プラハ付近で川の名前はヴルダヴァ川(モルダウ川)だが。
日本からドレスデンを訪問するには、ベルリンまで飛行機で飛び、ベルリンから列車でドレスデンに移動する必要がある。そこで今回の旅は、ベルリン・ドレスデン・プラハの旅と決まった。

5月1日(土)出発
 成田13:30 KL862 - 18:05スキポール20:35-KL1835-21:50ベルリン
 ベルリン:Westin Grand Berlin泊
5月2日(日)ベルリン鉄道-ドレスデン
 Taschenbergpalais Kempinski Dresden泊
5月3日(月)ドレスデン滞在() 同上泊
5月4日(火)ドレスデン-鉄道-プラハ(チェコ)
 The Iron Gate Hotel & Suites泊
5月5日(水)プラハ 同上泊
5月6日(木)プラハ 同上泊
5月7日(金)帰路
 プラハ14:15-KL3124-15:45スキポール17:40-KL861-(5月8日)11:40成田

河口マーン惠美「ドレスデン逍遙」ドレスデン大空襲アウグスト強王聖母教会

旅人 家内と私
                  以下、旅行記の詳細に続く
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「ドレスデン逍遙」~聖母教会

2010-08-14 23:58:18 | 旅行
ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)の第3回である。
 
フラウエン教会(聖母教会)

ドレスデンの旧市街を代表する建物の多くは、暗く重厚な建物だ。ドレスデン城、旧宮廷教会、ゼンパーオペラのいずれも、黒っぽく変色している。そんな中で、聖母教会だけはクリーム色の明るい系統で、ひときわ高くそびえ立っている。

ザクセン王であったアウグスト強王が、ポーランド王になりたいがために新教からカトリックに改宗したことは以前アウグスト強王の時代で述べた。そのくらいだかから、当時のドレスデンに新教徒が大勢いてもおしかくない。
この聖母教会は、プロテスタントの教会として1743年に完成した。権力者アウグスト強王とその息子は、ローマ法王の不興を買ってまでも、このプロテスタント教会の建設を黙認し続けたとのことだ。ただし資金援助は一切しなかったが。

教会を設計しその工事を監督したのはベーアという建築家である。ドレスデン市の大工長だった。当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都である。従ってドレスデンには行政組織として、王国の宮廷と市の行政府が共存していたのである。聖母教会を建設したのは市だった。
1725年、それまで存在していた新教の教会が老朽化したため、市議会は大工長のベーアに新教会の設計を依頼する。紆余曲折の末にベーアの設計案が採択されるが、その後資金難が続き、完成までに17年を要した。
教会の丸屋根について当初計画では、当時のドイツにおける教会建築の主流と同じ、すべて木組みでその上を銅板で覆うことになっていた。しかしベーアは密かに石積みの丸屋根を計画する。資金難で何度も工事が中断される中、ベーアの「銅板よりも石組みの方が安価である」との主張が認められ、最終的に現在われわれが見る形で1743年に完成した。ベーアはその5年前に亡くなっていた。

1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の空襲によって焼き尽くされる。聖母教会も内部に火が回り、2日間燃え続けた。そして15日朝、丸屋根はついにゆっくり崩れ始める。後にはひときわ高い瓦礫の山と、その瓦礫の山から、崩れ残った壁の残骸が二箇所、天空に向かって突き出していた。
聖母教会の廃墟、1991年
東ドイツは最初から最後までSED(ドイツ社会主義統一党)の一党独裁の国だった。聖母教会を元通りに復元しようとする市民の考えに対し、SEDは逆に聖母教会の跡を更地にして大文化ホールを建設しようとする。1962年には、やはりドレスデンに廃墟となって残っていたソフィア教会が爆破され、本当に更地になってしまった。
しかし、お金がないことが幸いして、瓦礫は片付けられずに放置された。やがて東西ドイツ統一のあと、聖母教会の復元は市民運動から派生して力強い大波へと成長する。
1993年、瓦礫の山の調査が再開された。
5メートル高さの石のレリーフは、二千余りの破片が集められ、これらオリジナルの破片でレリーフを修復しようということになった(右下写真)。
18ヶ月の調査の末、目に触れる場所に使うことのできる石が8390個、目に触れない場所に組み込まれる石が93500個集められた。一番上の写真で、ベージュの建物のところどころに黒っぽい石が組み込まれているが、これがオリジナルの石だろうか。そして、左端にわずかに、一画の全体が黒っぽい壁があるが、ここは崩れずに残ったオリジナルの壁だと思われる。
コンピュータで強度計算した結果、ベーアが考え出した、丸屋根の重量を8本の柱を通じて逃がす工法は現在でもそのまま通用することが確認された。
工事は1994年に開始された。丸屋根のてっぺんに取り付けられる十字架はイギリスのケント公爵から贈与された。落成の大式典が行われたのは2005年だった。
   
教会前のルター像       フラウエン教会の屋根残骸   石のレリーフ

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「ドレスデン逍遙」~アウグスト強王の時代

2010-08-07 09:47:46 | 旅行
ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)の第2回である。

5月2日ベルリンからドレスデンへ5月3日ドレスデン(1)5月3日ドレスデン(2)5月4日ドレスデンからプラハへで紹介したように、ドレスデンの旧市街はバロック建築の宝庫である。この壮麗な建物群がどのようにできたのかをふり返ると、そこには必ずといっていいほど“アウグスト強王”の名前が出てくる。
ドイツがプロイセンの力によって統一されたのは1871年であり、それ以前のドイツは小国が分立していた。その小国の一つがザクセン王国で、ザクセン王国の首都がドレスデンであった。
1694年、フリードリッヒ・アウグスト1世は24歳でザクセンの選帝候になる。ザクセン王が神聖ローマ皇帝の選挙権を持っていたのでこう呼ばれている。
アウグスト選帝候はとにかく女性に目がなく、次々に側室を迎えては、その側室に子どもができる頃には飽きて次の女性に移っていくような人だった。また腕力が強かったらしく、アウグスト強王と呼ばれている。
その頃ポーランドは、貴族共和制という政治形態を取っており、先王に後継者がいなかった場合は立候補した候補者の中から次期王が選ばれていた。そしてアウグスト王がポーランド王に立候補するのだ。アウグスト王は新教だったが、ポーランド王になるにはカトリック教徒でなければならない。なんとアウグスト王はこのためにカトリックに改宗してしまう。また王は領地や不動産を売って大金を都合し、膨大な賄賂をばらまく。これによって見事にアウグスト王はポーランド王位を手にした。ザクセン王としてはアウグスト1世、ポーランド王としてはアウグスト2世でややこしいが。
このあとアウグスト強王は、スウェーデンに宣戦布告するという愚挙に出、その後21年間続く北欧戦争が始まった。ザクセン軍は終始大敗し、1706年に無条件降伏する。ポーランド王の地位も失った。しかし1年後にスウェーデン軍が去り、さらに2年後、アウグスト強王はポーランド王に返り咲く。

このアウグスト強王の時代に、現在のドレスデンの姿が現れた。まだ木造の家が多い小さな村であったドレスデンは、彼が死んだときには美しく壮大な石の町に生まれ変わろうとしていた。火災予防の観点から、市内の建設は石造りのみという命令を出したのがアウグスト強王だった。また彫刻など芸術的装飾をちりばめた豪奢な大建造物が造られたのも彼の治世下である。
 
エルベ川対岸からアウグストゥス橋とドレスデン旧市街

上の写真のアウグストゥス橋、下のツヴィンガー宮殿はアウグスト強王の命令で造られた。さらにその下のカトリック旧宮廷教会は、アウグスト強王の息子であるアウグスト2世の命令で造られている。アウグスト橋を渡り終えた新市街側には1736年より、アウグスト強王の金色に輝く騎馬像が建っている。
  
ツヴィンガー宮殿
  
アウグスト強王像              カトリック旧宮廷教会

磁器は、古く中国で始められ、1600年代には日本でも焼かれていた。しかしヨーロッパでは、18世紀になっても磁器が製造できず、王侯貴族は中国と日本からの輸入品を財宝のような高値で購入していた。
そのころのベルリンにボットガーという若者がおり、薬剤師の勉強をしていた。あるとき、彼が錬金術を発見したという噂が高まり、君主のプロイセン王に拘束される恐れをいだいたボットガーはザクセンに逃れる。これに目を付けたアウグスト強王が彼を招いて実験室を与え、金の鋳造を行うように勧められる。しかし成功するわけがない。6年後、ボットガーは磁器の製作に取りかかる。そして1年後、磁器の製造に成功するのだ。
喜んだアウグスト強王は、秘密の漏洩を恐れて工房をマイセンに移した。さらに実験を繰り返したボットガーは、1712年に正真正銘の白い磁器を製造することに成功した。
マイセンは今でも磁器の産地として有名だ。アウグスト強王はこのようなところにも名を残したのだ。

女好きのアウグスト強王は、次から次へと側室を代えていたが、その中で7年もの間アウグスト強王の寵愛を独り占めした女性がいた。コーゼル伯爵夫人である。
1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まる。ところがこのあと、彼女はそうそう簡単にアウグスト強王の手に落ちなかった。二人が交わした秘密契約では、当時の強王の正妻が死んだら彼女が正妻になるという約束も含まれていた。こうしてアウグスト強王はアンナ・コンスタンティアを手に入れる。そして彼女のためにタッシェンベルクに新宮殿を建造した。そしてコーゼル伯爵夫人の称号を得る。
聡明だったコーゼルは、王の側近や大臣を凌駕する地位を手に入れ、閣議にも出席して国政に関与する。しかしその行為は、コーゼルの地位を逆に脅かすものでもあった。二人の間が冷えると、疎遠になるだけではなく激しい応酬が始まった。強王は、現正妻の死後にコーゼルが正妻になるという証書を取り戻そうとし、コーゼルはそれを拒否する。最後にコーゼルは強王によって逮捕され、85歳で亡くなるまでシュトルペンの要塞に拘束され続けたのだ。

そのタッシェンベルク宮殿の現在の姿が、私達が今回宿泊したケンピンスキーホテルである。アウグスト強王の居城であるドレスデン城に隣接し、二階のところで可愛い空中回廊によって結ばれていた(右下写真)。
  
ケンピンスキーホテル        空中回廊(左がケンピンスキーホテル、右がドレスデン城)
ちなみにタッシェンベルク宮殿は、1945年の空襲で焼失したままになっていたが(下の写真)、東西ドイツ統一後オリジナルの通り復元され、現在のケンピンスキーホテルとなっている。

ケンピンスキーホテル空襲直後の姿

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「ドレスデン逍遙」~ドレスデン大空襲

2010-08-03 23:24:19 | 旅行
ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語
川口 マーン惠美
草思社

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今年5月のドレスデン訪問に先だって予備知識を得るため、上の本を読んだ。
著者の川口マーン惠美さんは、現在ドイツ・シュツットガルト在住の女性で、たまたま訪問したドレスデンに魅せられて、この本を執筆した。

主な内容は以下のようになっている。
○ 完膚なきまでの空爆~第2次大戦中のドレスデン爆撃
○ ドレスデンの歴史~特にアウグスト強王の時代
○ ゼンパーオペラ
○ 聖母教会の奇跡(破壊と再建)

まずここでは、第2次大戦中のドレスデン爆撃について紹介する。

最初のドレスデン訪問でこの街に魅せられた川口さんは、2回目の訪問であるペンションに滞在した。そこの女主人である70歳の女性と、もう一人双子の姉妹がドレスデン爆撃の体験者であることを知った。そしてこれらの体験者からの談話をもとに、ドレスデン爆撃の様子が語られる。

ドレスデン爆撃は1944年2月13日である。
すでに1944年10月にソ連軍がドイツになだれ込み、戦場となった東プロイセンでは住民たちが残虐に殺戮されていた。その様子を伝え聞いた東部の他地域住民は、一斉に西に逃げ始める。当時ドレスデンはまだ空襲を免れていたので、避難民はまずドレスデンを目指した。そのため、空襲当日のドレスデンには、住民の他に数知れぬ難民が滞在していた。

空襲の日、イギリス空軍からは陽動作戦を含めて合計1180機の航空機が投入された。このちう772機の四発ランカスター爆撃機と9機の木造機モスキートがドレスデン攻撃に充てられた。
まず先導のランカスター機が照明弾を投下して街を照らし出し、2分後に昭明部隊のモスキート8機が到着する。この昭明部隊が地表に赤い標示弾を落として正確な投弾の位置を知らせるのだ。攻撃目標には、オペラ座、ツヴィンガー宮殿、ドレスデン城、ブリュールのテラス、聖母教会、市役所、十字架教会などといった壮麗なバロック建築と旧市街がすっぽりと収まっていた。
午後10時30分、第1陣の243機のランカスター爆撃機が到着して爆撃を開始する。
爆撃の方法として、まず、高性能爆弾を投下し、建物の屋根を破壊して蓋を開けた状態にしておき、そこへ焼夷弾を落とす。すると火の手はあっという間に広がり、火の塊ができ、それが急激に上昇していく。そのため地表ではすごい真空状態が発生して周囲の空気を吸い込み始め、ここに火焔嵐(ファイアストーム)が起きるのだ。
3時間後に第2波として529機のランカスターが到着する。しかしドレスデンは予想以上の火勢で燃えていたので、爆撃隊は作戦を変更して爆撃地域を拡大した。

この2度の空襲で、ドレスデンには1477トンの爆弾と1081トンの焼夷弾が投下された。死者の数は未だに不明だが、3万5千人が妥当だろう、と川口さんは述べる。

川口さんの書籍では、実際に劫火の中を逃げまどった人たちの体験談が綴られる。この体験談を読んだおかげで、私は東京大空襲よりも詳しく、ドレスデン空襲の様子を追体験してしまった。
建物の地下室で空襲を避けていた住民は、爆撃によって建物が崩壊し、地下室に閉じ込められる。やっとの思いで突破口を見つけて外に出ると、今後は火の燃え盛った窯の中に飛び込んだようだ。「見わたす限り、火焔の嵐が吹き荒れていた。周りの建物全部が、1階から5階まで火に包まれ、まるで溶けた鉄のように輝いていた。どの窓からも、炎が吹き出している。自分の家がどうなっているかとふり返ったとき、私は目を疑った。家は崩れ落ちてなくなっていた。私達が地下室にいたあいだに、5階建ての建物が私達の上に丸ごと崩れ落ちていたのだ。」

私は、ヨーロッパの街は石造りだから、爆弾で建物が倒壊するだけで、日本が経験した空襲のような火災は起きなかったのではないか、と想像していたのだが、大きな間違いだった。爆弾で破壊した後の焼夷弾により、手のつけられない劫火が発生していたのである。

爆撃はこれで終わらず、翌14日、今度はアメリカ空軍が空襲した。474トンと爆弾と300トンの焼夷弾が投下された。さらにエルベ河畔で蠢いていた被災者が機銃掃射で狙い撃ちにされた。

当時、ドレスデンのエルベの北側にはドイツ帝国の中でも有数の大きな軍事施設があったが、不思議なことにここは爆撃の目標に入っていなかった。そして戦後、無傷のままでソ連の手にわたり、その後は東ドイツに譲渡されて軍事施設として利用され続けた。

空襲の後に残ったのは瓦礫の山である。それも半端ではない。何mもの高さで瓦礫が山になっている。一人では持ち上げられない大きな瓦礫が山積みになっているのだから、手がつけられない。街じゅうである。
本の中に、市庁舎の時計塔から撮った爆撃直後の街の写真が載っている。下の写真だ。
Deutsche Fotothek/Blick vom Rathausturm
街の4階建て、5階建ての建物は、一部の壁のみを残して完全に破壊され、建物があった場所には瓦礫が積み上がっている。

ドレスデンの人たちは、破壊され尽くした旧市街を元の通りに再建した。
著者の川口さんの心の中に疑問が生じる。「なぜドイツ人は、この気の遠くなるような瓦礫の大海原に立ったとき、これをまた元のように建ててやろうと考えたのだろうか。満足に住むところもない人たちが、悲しみと空腹を抱えながらこの絶望的な光景を見たとき、どこからそんな考えが湧いてきたのだろう。・・・ドイツ人とはいったい何者だろう?」それから川口さんは、この町に文字通り没頭してしまう。

現在のドレスデン旧市街の姿については、5月2日ベルリンからドレスデンへ5月3日ドレスデン(1)5月3日ドレスデン(2)5月4日ドレスデンからプラハへの写真をご覧いただきたい。
  
現在の聖十字架教会              聖十字架教会 空襲直後
アルトマルクト広場から。後方に見える塔は市庁舎の時計塔。

戻る                            続く
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