《7月17日》
昨日は、ブロワ城とアンボワーズ城を訪問した。これら2つの城はともに、1490年から1600年頃にかけて、フランス王の居城であり、従ってフランス行政の中心でもあったはずの城である。
本日訪問するシャンボール城とシュノンソー城は、上記2つの城と同時代のものであり、かつもっと有名な城であるが、王の居城や行政の中心ではない。シャンボール城は王が狩猟で遊ぶ際に用いる城である。またシュノンソー城は、歴代の王妃が用いた城である。
昨日は鉄道を利用して移動したが、本日はバスツアーである。トゥール駅前を13時に出発し、バスでシャンボール城とシュノンソー城をまわり、19時前に帰ってくる、というスケジュールである。バスの予約は3日前に現地で行った。
昼食は駅舎に接するカフェレストランのカフェ側でサンドイッチや甘いパンを食した。
出発場所は駅前のインフォメーションということであり、集合時間の前にインフォメーションの中で待っていた。時間が来ると、男性から「ナイトウ?」と呼び止められ、外に案内された。そこに待っていたのは、運転手を入れて9人乗りのミニバスだった。3列座席で各列に3人である。私はてっきり大型バスだと思い込んでいたのだが、思い違いであった。
運転手は若い女性である。われわれは前席の2人掛けベンチシートを勧められた。そんなに広い席ではない。小柄な日本人でないと無理だろう。前席の方が景色が見られるのでわれわれは歓迎だ。途中アンボワーズで二人増え、満席でシャンボールへ向かった。われわれの他は、東洋人男性が一人、あとは白人だ。
バスは、ロワール川沿いに走る。トゥールからアンボワーズ付近までは南岸(左岸)を走り、その先から北岸(右岸)に道が変わった。アンボワーズとブロワの中程の左岸に、ショーモン・シュル・ロワール城という古城がある。今回、走る車窓のガラス越しにその城を見ることができた。下の写真である。ロワール川の対岸に建っている。この城については、フランス王家の王妃と王の愛人との間の確執に関連してこのあとまた登場することとなる。
バス車窓からロワール川を隔てて見たショーモン・シュル・ロワール城
バスの進行方向、川の左に町と古城が見えてくる。昨日訪問したブロワ城である。ここでバスは右折して橋を渡り、そのあとロワール川を離れて一路シャンボール城に向かう。
シャンボール城の駐車場に到着した。
城の入場券は、バスの運転手が全員から現金を徴収し、発券所で購入してくれる。団体割引になっているようだ。
実は、「地球の歩き方」には、「バスツアーには城の入場料は含まれず、自分で購入しなければならない。現地で購入するよりもトゥールのインフォメーションで購入した方が安価である」と記載されていた。そこで事前にインフォメーションに行ったのだが、「バスの運転手から購入した方が安い」と言われて止めた経緯がある。実際、バスの運転手が団体割引で購入した方が安価であるようだ。
ここで1時間半の自由時間である。
その前に、フランス王家の系図を整理しておく。数字は在位の西暦である。
フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世は兄弟であり、カトリーヌ・ド・メディシスの子である。アンリ三世は男子がないままに暗殺され、死のまぎわにブルボン家のアンリ(アンリ四世)を後継フランス王として認めた。
(ヴァロア家)シャルル八世(1483-1498)
(ヴァロア・オルレアン家)ルイ十二世(1498-5154)
(ヴァロア・アングレーム家)
フランソワ一世(1515-1547)
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アンリ二世(1547-1559)-(愛人)ディアーヌ・ド・ボアティエ
| -(王妃)カトリーヌ・ド・メディシス
フランソワ二世(1559-1560)
シャルル九世(1560-1574)
アンリ三世(1574-1589)-(王妃)ルイーズ・ド・ロレーヌ
(ブルボン家)
アンリ四世(1589-1610)
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ルイ十三世(1610-1643)
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ルイ十四世(1643-1715)
《シャンボール城》
シャンボール城
駐車場から林を抜けるとシャンボール城が見えてくる(上写真)。
この城の全体的な構造は、やはり鳥瞰図か空撮写真でないとなかなかわかりづらい。ウィキペディアに空撮写真が掲載されていたので下に転載する。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/Chateau_Chambord.jpg/320px-Chateau_Chambord.jpg)
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空撮写真より一つ上の写真は、城の正面(空撮写真の右上方向)を見たところである。一方下の写真は、城の側面(空撮写真の左上方向)から見ている。外から見た写真と、実際の建物の構造との対応をわかっていただけるだろうか。
シャンボールは、もともと王の狩猟用の離宮として考えられていた。ところが1519年、フランソワ一世はシャンボール城の膨大な建設工事に着手する。イタリアのミラノに遠征したシャンボール一世は戦いで勝利を飾った。イタリアでルネッサンス様式の建築にふれた若き王は、フランスに帰国後、大きな野心と愛する狩猟のためにシャンボール城の建設に着手した。
城はフランソワ一世の在世中には完成せず、アンリ二世とルイ十四世によって現在の姿に整えられた。
王の居城でも行政府でもない、単なる遊びのための城として、よくもこのような豪壮で絢爛な城を建設したものである。
フランソワ一世は、ブロワ城にはフランソワ一世棟を建造し、アンボワーズ城にもフランソワ一世の棟を建造し、さらにシャンボール城である。ロワール川流域の古城群に及ぼしたフランソワ一世の影響力は絶大であった。
左上写真は中央の棟(主塔)屋上に立ち並ぶ塔、右上写真は中庭に面するらせん階段である。
主塔の中央部にはらせん階段が設けられている(上写真)。らせん階段は二重らせんになっており、一方のらせんを上り、他方を下りとしたとき、上り客と下り客は顔を合わせずに階段の昇降ができる、というものである。この設計にはレオナルド・ダ・ヴィンチが関わったというのが通説になっている。
天井には彫刻が施されている。フランソワ一世の王室文字である「F」と、火に棲むという伝説の生き物サラマンダーが見える。
見学は終わった。城から駐車場まではまた炎天下を歩かなければならない。途中の売店でアイスクリームを買い、木陰で食べた。
バスは出発した。ここからシュノンソー城までは、畑や林が続く田舎の道をひた走る。センターラインのない道路であるにもかかわらず、ものすごいスピードだ。メーターを見ると100km/hを超えている。
《シュノンソー城》
シュノンソー城の駐車場に到着した。ここでも1時間半の自由時間である。
駐車場から城までの並木 城門とマルク家の塔
並木を抜けると、庭園の向こうに塔と城が見える(右上写真)。城は、シェール川の上をまたいで対岸まで続いている。対岸に渡り、日が射している側から写真を撮影した(下写真)。
シュノンソー城は、3人のフランス王妃と王の愛人によって彩られている。
この地域はシャルル八世の侍従であったトマ・ボイエの所有となり、妻カトリーヌ・ブリソネとともに城の一部を構築した。
ボイエの債務のため、城はフランソワ一世に献上された。息子のアンリ二世には、20歳年上の愛人ディアーヌ・ド・ポワティエがおり、フランソワ一世亡き後、アンリ二世はこの城をディアーヌ・ド・ポワティエに贈った。
ディーアーヌ・ド・ポワティエはアーチ型の橋を建設し、城をシェール川の向こう岸と結んだ。庭園に花や野菜、果樹なども植えさせた。
アンリ二世の王妃はカトリーヌ・ド・メディシスである。アンリ2世が1559年に死ぬと、カトリーヌは次の王の摂政となるとともに、シュノンソー城からディアーヌを追い出し、カトリーヌがこの城の主となった。このとき、カトリーヌはただディアーヌを追い出すのではなく、代わりの城として、ショーモン・シュル・ロワール城をディアーヌに与えた。この記事の一番上に写真がある、バスの車窓から眺めた城がそれである。
カトリーヌは、ディアーヌの橋の上に建物(ギャラリー)を建造した。これによって、現在のシュノンソー城の外形ができあがったのである。カトリーヌは自分の庭園も造った。
カトリーヌが1589年に死ぬと、城はアンリ3世の妻でカトリーヌにとっては義理の娘になるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相続した。アンリ三世は暗殺されると、ルイーズはシュノンソー城に引き籠もり、白い喪服を着てこの城で過ごしたという。
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋 カトリーヌの肖像画
城内には、この城の主にちなんだ部屋が並んでいる。
左上の写真はディアーヌの部屋である。なぜかその左上(暖炉の上)には、カトリーヌの肖像画がかかっている(右上写真)。
このほかにも、緑の書斎(摂政カトリーヌの執務室)、フランソワ一世のサロン、ルイ十四世のサロン、カトリーヌ・ド・メディシスの居室、ルイーズ・ド・ロレーヌの居室などがあるが、残念ながら写真は撮ってこなかった。
カトリーヌ・ド・メディシスの庭園 ディアーヌ・ド・ポワティエの庭園
カトリーヌとディアーヌの名がつけられた庭園が、城の前に広がっている(上の2枚の写真)。
こうしてシュノンソー城見学は終わった。駐車場までの道は、往きに通った並木ではなく、その横の林の中の小径を経由した。途中には「16世紀の農場」というエリアがある。カトリーヌ・ド・メディシスの厩舎で構成されているとの説明だ。
バスが出発する。
アンボワーズまでは田園地帯をひた走る。スピードはやはり80~100km/hである。アンボワーズで2人が下りると、そのあとはロワール川沿いにトゥールまで走った。トゥールで解散したのは19時を過ぎていたであろうか。
本日の夕食は、ホテルの部屋である。まだ即席ラーメンが残っていたので、お湯を沸かして即席ラーメンをつくり、それに駅の売店で買ってきたサンドイッチである。
戻る 続く