雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

フランス・ロワールの旅

2013-08-31 15:13:20 | 旅行
毎年ゴールデンウィークに海外旅行をするのが恒例だったが、今年は連休中に用事があったため、7月の海の日を利用してフランスに出かけた。主にロワール川流域の古城巡りである。

この計画が持ち上がるまで、私はロワール川の存在も、ロワール川流域に古城がたくさん残っていることも全く知らなかった。行くことを決めてから詳細の検討を始めたのだが、とにかくイメージがつかめない。ガイドブックを読む限りでは、トゥールを拠点として見て回れば良さそうである。
まずは航空券を確保した。次に、パリの着時間、発時間に対応して、1泊目と最終日はパリ泊とし、その中間は一泊だけ古城ホテルに泊まり、それ以外はトゥール泊とすることとした。古城ホテルとしては、シノン郊外のシャトー・ド・マルセイを選んだ。というより、HISの担当者が選んでくれた。

鉄道乗車券として、フランスレイルパスセイバー5日間を入手した。行程から考えてお得かどうかはわからないが、いつも乗車券を保持しているという安心感はある。14日のパリ-トゥール間の座席指定のみは日本で予約しておいた。

さて、古城巡りの計画をどうするか。
シノンに一泊するので、その前後にシノン城に行くことは決めた。
ガイドブックやネットの案内(例えばこちら)を参考にして、訪問する古城を選んだ。無理をせずに代表的な古城を訪問する計画として、シャンボール城シュノンソー城ブロア城アンボワーズ城の4箇所を選んだ。

トゥール発着のミニバスツアーで、シャンボール城とシュノンソー城を回るツアーがある。1日はそれを利用しよう。そしてもう1日は、鉄道を利用してブロア城とアンボワーズ城を訪問することとする。バスツアーの予約は現地で行うこととした。

7月13日(土)出発 成田11:55-AF275-17:15パリ パリ(泊)
7月14日(日)
 パリ・モンパルナス12:13-13:28トゥール15:13-16:00シノン シャトー・ド・マルセイ泊
7月15日(月)
 シノン城訪問 電車でトゥールへ トゥール泊
7月16日(火)
 電車利用でブロア城とアンボワーズ城を訪問 トゥール泊
7月17日(水)
 バスツアーでシャンボール城とシュノンソー城を訪問 トゥール泊
7月18日(木)
 トゥール12:01-13:15パリ  パリ泊
7月19日(金) パリ23:25-AF278-(20日)18:00成田

旅人 家内と私

             以下、旅行記の詳細に続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス近世の王家系図

2013-08-15 11:12:21 | 旅行
数字は在位西暦年

(カペー朝)
  ├-------------------①┐
フィリップ三世(1270-1285)
  ├-----------------②┐
フィリップ四世(1285-1314) カペーの奇跡
  |
ルイ十世(1314-1316)
  フィリップ五世(1316-1322)
    シャルル四世(1322-1328)
  ┌-----------------②┘
(ヴァロア朝)   英仏百年戦争の始まり
フィリップ六世(1328-1350)
  |
ジャン二世(1350-1364)
  |
シャルル五世(1364-1380)
  ├----------------③┬④┐
シャルル六世(1380-1422)
  |
シャルル七世(1422-1461)  ジャンヌ・ダルク
  |
ルイ十一世(1461-1483)
  |
シャルル八世(1483-1498)  イタリア戦争
  ┌----------------③┘
(ヴァロア・オルレアン家)
ルイ十二世(1498-5154)
  ┌------------------④┘
(ヴァロア・アングレーム家)
フランソワ一世(1515-1547) イタリア戦争勝利
  |
アンリ二世(1547-1559)
  |  -(愛人)ディアーヌ・ド・ボアティエ
  |  -(王妃)カトリーヌ・ド・メディシス
フランソワ二世(1559-1560)
  シャルル九世(1560-1574)
    アンリ三世(1574-1589) 暗殺される
  ┌--------------------①┘
(ブルボン家)
アンリ四世(1589-1610)  ナントの勅令、暗殺される
  |
ルイ十三世(1610-1643)
  |
ルイ十四世(1643-1715)  ヴェルサイユ宮、絶対王政
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月19日 パリ、帰国

2013-08-12 00:04:10 | 旅行
《7月19日 パリ》

《オペラ座》
本日午前中の予定は、オペラ座(ガルニエ宮)見学である。
以下、入口でもらったパンフレットの記述に従って説明する。
ガルニエ宮の建設はナポレオン三世によって決定された。設計は公募され、35歳の無名の若手建築家シャルル・ガルニエの作品が選ばれた。工事は1860年から始まったが、普仏戦争、訂正の崩壊、パリ・コミューンなどに見舞われ、完成したのは1875年だった。
 
2000年、オペラ座のメインファサードは全面的に改修され、建設当時の彩色と彫像の金色が甦った(上写真)。

 
 
 
馬蹄形にデザインされたイタリア式の赤とゴールドのホール
  
緞帳には、ゴールドの縁飾りと玉房飾りをあしらいドレープを寄せたカーテンのように見えるだまし絵が描かれている(左上写真)。

  
巨大なクリスタルシャンデリアに照らされた、マーク・シャガールが手がけた天井画

 
 
2004年に改装されたグラン・フォワイエ
ポール・ボードリーが手がけた天井の絵は、音楽史をテーマとしている。竪琴が装飾のメインモチーフ。

ところで、オペラ座見学は思わぬところで中断させられた。最初に入場してすぐ、構内放送がなにやら大声の繰り返しを行っている。分けわからぬうちに、係員の誘導で外に出されてしまった。自動の非常放送だったのだろう。
いつ再開されるかわからない。どうしようかとうろうろしていたら、そのうちに再入場が可能になり、無事に見学を終えることができた。

オペラ座の次は、マドレーヌ広場にあるフォーションのお店にでかける。家内が買い物をしている間、マドレーヌ教会の外観を写真に収めた。
《マドレーヌ教会》
  

フォーションのお店はマドレーヌ広場の北端にある(下写真)。
  

こうして、オペラ界隈での観光は終了した。ホテルをチェックアウトし、トランクをホテルに預けて最後のパリ観光に出かける。
まずは、革製品のお店"Texier"だ。
昨日と逆コースでメトロを利用してサン・ジェルマン・デ・プレまで行く。切符購入も慣れてきたので自分たちでできた。

昼食は、サン・ジェルマン・デ・プレ付近のカフェで食べた。クラブハウスサンドだったか。

Texierへ行くと、まだ新製品への並べ替えが終わっていない。昨日と同じおねえさんが、慌てる風もなくゆっくりとやっていた。私はベルトを購入する予定にしていたが、どこにもベルトが展示していない。「ベルトはないのか」と聞いてみたら、「ありますよ」と言いながら引き出しからごそごそと取り出し、壁に10本ほどを飾り付けた。その中から適当に選んで購入した次第である。女性用のバッグ類については、家内が気に入った製品がいくつもあり、おみやげを含めいい買い物ができたようだ。

私はまだサント・シャペル(シテ島)を訪れたことがない。ここサンジェルマン・デ・プレからオペラまでメトロで帰る途中にサント・シャペルがある。そこで、まずメトロをシテで下り、サント・シャペルを見学し、シャトレでメトロに乗ってホテルに帰ることとした。

《サント・シャペル》
ルイ九世が、コンスタンティノープルの皇帝から買い求めたキリストの聖遺物、茨の冠や十字架の木片などを納めるために教会で、1248年に完成した。
  
サント・シャペルそのものは、こぢんまりした建物だ(左上写真)。最高裁の建物に囲まれ、最高裁の中庭に建っているような風情だ。
このサント・シャペルに入場するまでが大変であった。入場券売り場が長蛇の行列であり、その行列が外の炎天下なのである。何でこんな行列ができているのか不明であった。
やっと入場券を購入して構内に入る。一階部分は天井が低い部屋になっている(右上写真)。そこから階段を上がると、2階部分がステンドグラスに囲まれた広い部屋となっている(下写真)。ステンドグラスは聖書の絵物語になっているらしい。どうも改修工事中らしく、ステンドグラスの半分近くは仮設壁で覆われていた。
 
 

《最高裁》
  
サント・シャペルへ行く途中に最高裁の門の前を通る(上写真)。さらに北側のシャンジュ橋のたもと部分には、建物に下写真の壁時計が見られる。時計右側の像は天秤を持っており、裁判所の象徴であろう。
 

シャンジュ橋を渡る。
  
シャンジュ橋から 左写真左端はポンヌフ     右写真右にパリ市立劇場とサン・ジャック塔

帰国してからフランスの情報をいろいろ調べていたら、フランス観光開発機構のスタッフブログで「パリ・プラージュ Paris Plages 2013」の記事を見つけた。セーヌ右岸沿いの車道を1ヶ月間閉鎖し、西のポン・ヌフ橋Pont Neuf~東のシュリー橋Pont de Sullyまでの約1,2kmに人工ビーチをつくってパリ市民や観光客へ開放しているというのだ。今年のパリ・プラージュは2012年7月20日(土)~8月18日(日)の3週間だという。場所としては、われわれが渡ったシャンジュ橋のあたりがドンピシャだ。そして、われわれが渡った次の日から始まっている。ということは、左上写真に準備中の状況が写っているはずである。
ということで写真を拡大してみた。
 
写真の左端がポンヌフである。そして、あるある、ポンヌフの右側地帯に、デッキチェアと閉じたパラソルが並んでいる。現在はこの場所にパリジャンたちが集まって日光浴しているのであろう。ウィキペディアによると、「フランスの多くのビーチとは異なり、トップレスでの日光浴は禁止されている」そうだが・・・。

シャトレ駅でメトロに乗り、ホテルへ帰った。預けてあったトランクを受け取り、空港へと向かう。ホテルのすぐ近くからロワシーバスに乗車することができる。
ロワシーバスの車内は何と、冷房が効いていなかった。もともと冷房を備えていないのか、それとも故障しているのか。しかし乗客はだれも文句を言わない。何とか涼しい場所を求めて席を移動する客は、われわれ2人と、もう一人日本人らしい一人の女性だけであった。フランス人にとって暑い夏は我慢するのが当たり前になっているのであろうか。

シャルル・ドゴール空港に到着し、まずチェックイン、次にタックスフリーに出かけた。これも無事終了し、ユーロ現金で返還を受けた。
時間は十分にある。チェックイン時にもらったチケットに記入されたゲートが、その後変更になっていることに気づいた。取り敢えず飛行機は予定通り飛び立ち、無事に日本に帰着することができた。

戻る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月18日 トゥールからパリ

2013-08-11 00:38:56 | 旅行
《7月18日 トゥール → パリ》
本日はトゥールからパリに移動する日である。

午前中、サン・ガシアン大聖堂周辺を再度散策した。

パリ行きの列車座席指定券は4日前にトゥールで列車を乗り継いだ際に購入している。12時1分発-パリモンパルナス着13時20分の特急だ。

モンパルナスに到着すると、タクシーでホテル(オペラ座界隈)に向かった。エッフェル塔、士官学校、アンヴァリッド、アレッサンドロ三世橋と懐かしい場所を通過する。コンコルド橋でセーヌ川を渡河し、コンコルド広場を通ってホテルまではあっという間であった。4日前の「7月14日」にセーヌ川がなかなか渡河できずに大変な思いをしたのとは雲泥の差である。

ホテルに到着すると、まだ部屋の準備ができていなかった。そこでトランクを預け、町に出ることにした。
本日は、Texierという革製品ショップを訪問することが目的のひとつである。このショップは、何年か前にパリを訪問した際にも訪れたところだ。セーヌ川の方向から、ヴァンドーム広場へ向かう途中の路地を入ったところにあったことは覚えている。今回、トランクをホテルに預けて出てきてしまったので、ショップの住所を書いたメモがない。まずは当てずっぽうに行ってみることにした。
それらしい路地を歩いてみたが、ショップは見あたらない。お腹が空いてきたので、まずはお昼にすることとした。もよりのカフェに入る。
そこで、日本の家族に電話し、Texierの住所を確認してもらうことにした。電話ではなかなかスペルを正確に聞き取ることができないが、Saint Germain 127であるらしいことが判明した。「セイントゲルマイン?」もう一度ヴァンドーム広場手前の地域を歩いてみたが、そんな通りは見つからない。そこでさっき昼食を食べたカフェに戻り、店員さんに「この地名はどの辺か」と聞いてみた。すると何と、「セーヌ川の向こう側だ」というのだ。気を取り直し、地図を示して指さしてもらった。ここから歩けない距離ではない。それに、この道は昔歩いたことがある。サンジェルマン・デ・プレへ向かう道だ。"Saint Germain"、「サンジェルマン」? そうか、Saint Germainとはサンジェルマン大通りのことだったのだ。

歩けない距離ではないとはいうものの、炎天下のパリを歩くのはきつかった。ヴァンドーム広場手前からチュイルリー公園横、コンコルド広場を通り抜け、コンコルド橋を渡る。コンコルド橋の正面に見えるのは国民議会下院だ(左下写真)。橋を渡って左へ行くと、その先、ななめ右に入っていく通りがサンジェルマン大通りである。
  
国民議会下院                      サン・ジェルマン大通りへ
そして、サンジェルマン大通りに入ってみたら、この通りが並の通りではなく、「大通り」であることを痛感した。番地が240番台なのである。ここから127番地まで歩いて探さなければならない。延々と歩くこととなった。やっと店を見つけたが、そこはサン・ジェルマン・デ・プレ教会より(下写真)よりもさらに先であった。
 
サン・ジェルマン・デ・プレ教会

Texierの店は小さな店舗だった。数年前に訪ねたヴァンドーム広場近くの店よりも小さくなっている。店員も、前の店には数人いたが、ここはたった一人だ。おまけに、この日はエアコンが故障中で店内は涼しくなかった。
店員がいうには、明日の朝に新製品の展示を行うそうだ。そのため現在は品数が少ない。そこで、明日再度訪問することとした。

このTexierについて店のホームページで調べていたらすごいことがわかった。昨日まで滞在していたトゥールにも店があり(Corner TEXIER - Le Printemps de TOURS, 17 boulevard Heurteloup 37000 TOURS)、住所から検索したら、われわれが宿泊していたホテルと同じ道路沿いで10mぐらいしか離れていないというのである。ストリートビューで検索した写真がこちらだ。写真の右端近く縦書きで「HOTEL」とある看板がわれわれの宿泊ホテル、左端の「PRINTEMPS」が、多分Texierが出店しているデパートだ。出店と言っても、「Corner」だからわずかな展示だろうが。


ホテルまではメトロを利用する。サンジェルマンデプレ駅からメトロ4番に乗って、乗り換え一つでオペラまで行けそうだ。
まず券売機だ。板面には何やらローラーまでついていて訳がわからない。うろうろしていたら、そばにいたおじさんが手助けしてくれて、というか全部やってくれた。無事に2枚の切符を購入できた。オペラまで行く場合、路線図で見るとシャトレで7番に乗り換えれば良さそうだが、おじさんはもっと先まで行って8番に乗り換えるルートを教えてくれた。その方が乗り換え時の徒歩が少ないのかも知れない。それを採用することとした。

さて、ホテルに到着した。チェックインを済ませる。預けてあったトランクも部屋に到着した。一休みした後、再度買い物に出発する。
行き先は大手スーパー「モノプリ」だ。ホテルからオペラ大通りをルーブル方向に歩いたところに、モノプリのオペラ店がある。地下の食品売り場でいろいろと買い込んだ。驚いたのは、モノプリ地下の食品売り場の日本人密度が極めて高かったことだ。売り場の右にも左にも日本人買い物客がいる。この旅行中、日本人にはほとんどで会わなかったのに、何ということだろう。

モノぷりでの買い物を終え、ホテル方向へ向かう。
オペラ大通りを歩いていたら、突然黒人男性に大声で呼び止められた。大声でしゃべり続けている。どうも、「前を行く三人娘はピックポケットだ。気をつけろ!」と言っているらしい。たしかに5mぐらい前に若い女性3人が歩いている。こちらには、その3人娘よりも大声を出す黒人男性の方がよっぽど怪しげに見えたのだが。
取り敢えず、貴重品の入ったショルダーバッグを点検した。ファスナーの側は体側になっている。ファスナーは閉じている。黙って歩き続けたらその黒人男性はいなくなった。黒人男性が指さしていた3人かどうかわからないのだが、近くに女性3人組がいる。注目していたら、そのうちの一人がちらちらこちらを眺めている風ではある。気をつけていたのだが、こちらが大通りから別の通りに向きを変えたらいなくなった。今の騒動は一体何だったのだろう。

道路はオペラ大通りから左折し、ホテルへの最短道路沿いだ。食事時であり、たまたま通りがかったレストランに入ることとする。各自一品とデザートを頼んだ。それにグラスワインだ。
客は3組ぐらいか。店にはグランドピアノがあり、おじさんがピアノを弾いていた。ポピュラー曲だったように記憶する。私は、秋のピアノ発表会に向けて新しい曲の練習を開始したところだ。この旅行中は練習できずにいる。今回の旅行で練習が中断している。そんなことを考えながらおじさんの演奏を聞いていた。帰り際にピアノのおじさんにチップを渡した。

こうしてパリの一日は過ぎていった。

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月17日 シャンボール城、シュノンソー城

2013-08-10 12:54:51 | 旅行
《7月17日》
昨日は、ブロワ城とアンボワーズ城を訪問した。これら2つの城はともに、1490年から1600年頃にかけて、フランス王の居城であり、従ってフランス行政の中心でもあったはずの城である。
本日訪問するシャンボール城とシュノンソー城は、上記2つの城と同時代のものであり、かつもっと有名な城であるが、王の居城や行政の中心ではない。シャンボール城は王が狩猟で遊ぶ際に用いる城である。またシュノンソー城は、歴代の王妃が用いた城である。

昨日は鉄道を利用して移動したが、本日はバスツアーである。トゥール駅前を13時に出発し、バスでシャンボール城とシュノンソー城をまわり、19時前に帰ってくる、というスケジュールである。バスの予約は3日前に現地で行った。

昼食は駅舎に接するカフェレストランのカフェ側でサンドイッチや甘いパンを食した。

出発場所は駅前のインフォメーションということであり、集合時間の前にインフォメーションの中で待っていた。時間が来ると、男性から「ナイトウ?」と呼び止められ、外に案内された。そこに待っていたのは、運転手を入れて9人乗りのミニバスだった。3列座席で各列に3人である。私はてっきり大型バスだと思い込んでいたのだが、思い違いであった。
運転手は若い女性である。われわれは前席の2人掛けベンチシートを勧められた。そんなに広い席ではない。小柄な日本人でないと無理だろう。前席の方が景色が見られるのでわれわれは歓迎だ。途中アンボワーズで二人増え、満席でシャンボールへ向かった。われわれの他は、東洋人男性が一人、あとは白人だ。

バスは、ロワール川沿いに走る。トゥールからアンボワーズ付近までは南岸(左岸)を走り、その先から北岸(右岸)に道が変わった。アンボワーズとブロワの中程の左岸に、ショーモン・シュル・ロワール城という古城がある。今回、走る車窓のガラス越しにその城を見ることができた。下の写真である。ロワール川の対岸に建っている。この城については、フランス王家の王妃と王の愛人との間の確執に関連してこのあとまた登場することとなる。
 
バス車窓からロワール川を隔てて見たショーモン・シュル・ロワール城

バスの進行方向、川の左に町と古城が見えてくる。昨日訪問したブロワ城である。ここでバスは右折して橋を渡り、そのあとロワール川を離れて一路シャンボール城に向かう。

シャンボール城の駐車場に到着した。
城の入場券は、バスの運転手が全員から現金を徴収し、発券所で購入してくれる。団体割引になっているようだ。
実は、「地球の歩き方」には、「バスツアーには城の入場料は含まれず、自分で購入しなければならない。現地で購入するよりもトゥールのインフォメーションで購入した方が安価である」と記載されていた。そこで事前にインフォメーションに行ったのだが、「バスの運転手から購入した方が安い」と言われて止めた経緯がある。実際、バスの運転手が団体割引で購入した方が安価であるようだ。

ここで1時間半の自由時間である。

その前に、フランス王家の系図を整理しておく。数字は在位の西暦である。
フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世は兄弟であり、カトリーヌ・ド・メディシスの子である。アンリ三世は男子がないままに暗殺され、死のまぎわにブルボン家のアンリ(アンリ四世)を後継フランス王として認めた。

(ヴァロア家)シャルル八世(1483-1498)

(ヴァロア・オルレアン家)ルイ十二世(1498-5154)

(ヴァロア・アングレーム家)
フランソワ一世(1515-1547)
  |
アンリ二世(1547-1559)-(愛人)ディアーヌ・ド・ボアティエ
  |  -(王妃)カトリーヌ・ド・メディシス
フランソワ二世(1559-1560)
  シャルル九世(1560-1574)
    アンリ三世(1574-1589)-(王妃)ルイーズ・ド・ロレーヌ

(ブルボン家)
アンリ四世(1589-1610)
  |
ルイ十三世(1610-1643)
  |
ルイ十四世(1643-1715)

《シャンボール城》

シャンボール城
 
駐車場から林を抜けるとシャンボール城が見えてくる(上写真)。
この城の全体的な構造は、やはり鳥瞰図か空撮写真でないとなかなかわかりづらい。ウィキペディアに空撮写真が掲載されていたので下に転載する。
Elementerre
空撮写真より一つ上の写真は、城の正面(空撮写真の右上方向)を見たところである。一方下の写真は、城の側面(空撮写真の左上方向)から見ている。外から見た写真と、実際の建物の構造との対応をわかっていただけるだろうか。
 

シャンボールは、もともと王の狩猟用の離宮として考えられていた。ところが1519年、フランソワ一世はシャンボール城の膨大な建設工事に着手する。イタリアのミラノに遠征したシャンボール一世は戦いで勝利を飾った。イタリアでルネッサンス様式の建築にふれた若き王は、フランスに帰国後、大きな野心と愛する狩猟のためにシャンボール城の建設に着手した。
城はフランソワ一世の在世中には完成せず、アンリ二世とルイ十四世によって現在の姿に整えられた。

王の居城でも行政府でもない、単なる遊びのための城として、よくもこのような豪壮で絢爛な城を建設したものである。

フランソワ一世は、ブロワ城にはフランソワ一世棟を建造し、アンボワーズ城にもフランソワ一世の棟を建造し、さらにシャンボール城である。ロワール川流域の古城群に及ぼしたフランソワ一世の影響力は絶大であった。

  
左上写真は中央の棟(主塔)屋上に立ち並ぶ塔、右上写真は中庭に面するらせん階段である。

 
主塔の中央部にはらせん階段が設けられている(上写真)。らせん階段は二重らせんになっており、一方のらせんを上り、他方を下りとしたとき、上り客と下り客は顔を合わせずに階段の昇降ができる、というものである。この設計にはレオナルド・ダ・ヴィンチが関わったというのが通説になっている。
天井には彫刻が施されている。フランソワ一世の王室文字である「F」と、火に棲むという伝説の生き物サラマンダーが見える。

見学は終わった。城から駐車場まではまた炎天下を歩かなければならない。途中の売店でアイスクリームを買い、木陰で食べた。

バスは出発した。ここからシュノンソー城までは、畑や林が続く田舎の道をひた走る。センターラインのない道路であるにもかかわらず、ものすごいスピードだ。メーターを見ると100km/hを超えている。


《シュノンソー城》

シュノンソー城の駐車場に到着した。ここでも1時間半の自由時間である。
  
駐車場から城までの並木                 城門とマルク家の塔
並木を抜けると、庭園の向こうに塔と城が見える(右上写真)。城は、シェール川の上をまたいで対岸まで続いている。対岸に渡り、日が射している側から写真を撮影した(下写真)。
 
 

シュノンソー城は、3人のフランス王妃と王の愛人によって彩られている。
この地域はシャルル八世の侍従であったトマ・ボイエの所有となり、妻カトリーヌ・ブリソネとともに城の一部を構築した。
ボイエの債務のため、城はフランソワ一世に献上された。息子のアンリ二世には、20歳年上の愛人ディアーヌ・ド・ポワティエがおり、フランソワ一世亡き後、アンリ二世はこの城をディアーヌ・ド・ポワティエに贈った。
ディーアーヌ・ド・ポワティエはアーチ型の橋を建設し、城をシェール川の向こう岸と結んだ。庭園に花や野菜、果樹なども植えさせた。
アンリ二世の王妃はカトリーヌ・ド・メディシスである。アンリ2世が1559年に死ぬと、カトリーヌは次の王の摂政となるとともに、シュノンソー城からディアーヌを追い出し、カトリーヌがこの城の主となった。このとき、カトリーヌはただディアーヌを追い出すのではなく、代わりの城として、ショーモン・シュル・ロワール城をディアーヌに与えた。この記事の一番上に写真がある、バスの車窓から眺めた城がそれである。
カトリーヌは、ディアーヌの橋の上に建物(ギャラリー)を建造した。これによって、現在のシュノンソー城の外形ができあがったのである。カトリーヌは自分の庭園も造った。
カトリーヌが1589年に死ぬと、城はアンリ3世の妻でカトリーヌにとっては義理の娘になるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相続した。アンリ三世は暗殺されると、ルイーズはシュノンソー城に引き籠もり、白い喪服を着てこの城で過ごしたという。

  
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋              カトリーヌの肖像画
城内には、この城の主にちなんだ部屋が並んでいる。
左上の写真はディアーヌの部屋である。なぜかその左上(暖炉の上)には、カトリーヌの肖像画がかかっている(右上写真)。
このほかにも、緑の書斎(摂政カトリーヌの執務室)、フランソワ一世のサロン、ルイ十四世のサロン、カトリーヌ・ド・メディシスの居室、ルイーズ・ド・ロレーヌの居室などがあるが、残念ながら写真は撮ってこなかった。

  
カトリーヌ・ド・メディシスの庭園            ディアーヌ・ド・ポワティエの庭園
カトリーヌとディアーヌの名がつけられた庭園が、城の前に広がっている(上の2枚の写真)。

こうしてシュノンソー城見学は終わった。駐車場までの道は、往きに通った並木ではなく、その横の林の中の小径を経由した。途中には「16世紀の農場」というエリアがある。カトリーヌ・ド・メディシスの厩舎で構成されているとの説明だ。

バスが出発する。
アンボワーズまでは田園地帯をひた走る。スピードはやはり80~100km/hである。アンボワーズで2人が下りると、そのあとはロワール川沿いにトゥールまで走った。トゥールで解散したのは19時を過ぎていたであろうか。

本日の夕食は、ホテルの部屋である。まだ即席ラーメンが残っていたので、お湯を沸かして即席ラーメンをつくり、それに駅の売店で買ってきたサンドイッチである。

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする