雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

肥薩線一周ぐるりんきっぷの旅

2014-10-11 22:29:29 | 旅行
22日(月)朝、まずはホテルからの桜島遠望です。残念ながら天気はあまり良くありません。
 
桜島


《肥薩線一周ぐるりんきっぷの旅》
本日は、鹿児島中央駅を起点としてJR九州の観光列車を乗り継ぎ、一周して帰ってくる日帰りの旅です。

今回は以下の列車を利用し、時計回りに回ってきました。
○ 鹿児島中央9:25-11:08吉松 はやとの風2号
○ 吉松11:49-13:05人吉 しんべい2号
○ 人吉14:38-16:30新八代 SL人吉
○ 新八代-鹿児島中央 新幹線

このルートの回り方として、逆に反時計回りに回ることもできます。そちらの方が一般的なようです。当初、我々も反時計回りを計画したのですが、予約開始の数日後に予約しようとしたところ、最後の「はやとの風」で予約ができないことがわかりました。時計回りならば何とか予約可能ということで、今回は上のようなルートになったのです。
予約できたといっても、総勢8人のうち座席指定が買えたのは6人、残り2人は座席が確保できていませんでした。

予約は電話で行ったのですが、切符の受け取りはJR九州の駅でないとできません。前日、鹿児島中央駅で切符を受け取りました。そのとき、はやとの風の残り2名の座席が取れないか、確認したのですが、やはりだめでした。
当日の朝、再度みどりの窓口で確認したところ、何と座席指定券が取れたのです。

《はやとの風》
 
全員の座席指定が取れ、安心して電車に乗り込みました。
電車は2両編成です。自由席車両にも座れない人はいないようです。これなら、自由席乗車券のまま乗っても座席には事欠かなかったでしょう。
  
我々の車両                          別の車両

また、各車両の中央には、左右に展望席があります(左下写真)。ここは自由席で、我々グループが座りたいと思うときにはいつでも座ることができました。
  
車両中央の展望席                      車窓から桜島

鹿児島中央駅から走り出してすぐ、車窓からは桜島を望むことができました(右上写真)。

 
運転席                       

電車は、いくつかの駅で5~7分の間停車し、乗客は電車を降りて駅舎観光を楽しみます。最初は嘉例川駅です。10:20に着いて7分間停車しました。
嘉例川駅は1903年(明治36年)1月15日に営業を開始し、駅舎は開業当初からの木造建築ということです。築109年ですか。
  
嘉例川駅

次は大隅横川駅です。駅舎は開業時からのもので、鹿児島県では嘉例川駅のものと並び最古だとのこと。ホーム上の柱には、機銃掃射で打ち抜かれた弾痕が残っています(下写真)。この弾痕の大きさだと、何mm弾でしょうか。12.5mm程度でしょうか。
  
機銃掃射の跡(大隅横川駅)

高木敏子著「ガラスのうさぎ (フォア文庫)」では、主人公の母親は自宅での空襲で帰らぬ人となり、父親は駅舎に避難しているときに機銃掃射にやられて死亡しました。ここ大隅横川駅でも、機銃掃射を受けたときに犠牲になった方がおられるかもしれません。ご冥福をお祈りします。

はやとの風に乗っての1時間半、ずっと同じ車掌さんとCAさん(と呼ぶのでしょうか)のお世話になりました。下のお二人です。ありがとうございました。
  
車掌さん                     CAさん

はやとの風は吉松に到着しました。ここで40分ほど待って、次はしんべい2号に乗車します。

《いさぶろう・しんべい》
“しんべい”と“いさぶろう”が走っている区間(吉松-人吉)は、山間を走る区間であり、標高を稼ぐためにスイッチバックやループ区間を持っていることが特徴のようです。スイッチバックは2カ所あります。
 
最初のスイッチバックは真幸(まさき)駅です。下の地図が真幸駅付近の地図、上の写真が真幸駅に停車したしんべい2号です。真幸駅は、その名前から、入場券などで人気があるそうです。また、ホームの中程に「幸せの鐘」が置かれています。真幸駅は、このルートで唯一宮崎県内でした。

客車内の様子は、先ほど乗ったはやとの風と同様、木でデザインされています。
 
客車内

2つ目のスイッチバックは大畑(おこば)駅です。

上の地図にあるように、鹿児島から北上するとまずループの頂上に出ます。ループが交差するあたりから、大畑駅を見ることができます。下の写真です。
 
スイッチバック

この光景を見るために一時停車し、その後電車は走り出します。ループを回りながら下っていくのですが、ループの全体を見ることはできません。
ここは、スイッチバックが2カ所あります。スイッチバックのたびに運転手さんはブレーキハンドルを手に持って先頭から後端まで移動します。下の写真、左は最初のスイッチバックで社内を移動する運転手さんです。残念なことにブレーキハンドルが見えなくなる瞬間でした。右の写真は、大畑駅に停車し、車掌さんと一緒にホームを移動する運転手さんです。
  
スイッチバックで運転手さんが移動

蒸気機関車の時代、人吉から上ってきた蒸気機関車は給水の必要がありました。大畑駅は、そのためにつくられた駅ということです。スイッチバックを併せ持ったのは勾配途中に平坦な場所を設け、そこに停車場を建設するためだったとのことです。
  
大畑(おこば)駅                  球磨2号

大畑駅の駅舎には、名刺がたくさん貼ってあります(左上写真)。名刺を貼ると出世する、と言われているそうです。私も名刺入れを探しましたが、たまたま名刺が切れていました。これは出世できそうもありません。
 
いさぶろう・しんべい(右)と九州横断特急(左)のツーショット

しんべい2号は人吉駅に到着しました。ここからSL人吉号に乗り換えますが、1時間半待ちです。人吉の町に出て昼飯をとることにしました。
ここはもう熊本県です。
自衛隊の熊本地方協力本部では、迷彩くまもんが出迎えてくれました(左下写真)。駅の売店は、くまもんづくしです(右下写真)。
  
迷彩くまもん                     駅売店(くまもんづくし)

人吉温泉物産館に入って昼食としました。おしぼりももちろんくまもんです(右下写真)。
  
人吉温泉物産館                     くまもんおしぼり

 
人吉駅
人吉駅の駅前には、お城をかたどったからくり時計が立っています。昼食時間を調整し、2時に駅前に帰ってきました。2時になると、音楽とともに四方のお城の窓が開き、殿様やそのほかの人たちが元気に活動していました。
  

  

《SL人吉》
人吉から新八代までは蒸気機関車に引かれたSL人吉です。機関車のトップには「58654」のマークがあります。ウィキペディアの国鉄8620形蒸気機関車58654号機に説明がありました。1922年(大正11年)日立製作所笠戸工場製(製造番号 62)で、1975年(昭和50年)に廃車され、人吉鉄道記念館に展示されていました。廃車までに走行した距離は300万km余りでした。1987年に蒸気機関車を復活させることとなり、この58654号機が選ばれました。ボイラーは使えなくなっていたので新日本製鐵が新製したそうです。
2005年に故障し、修復不可能と判断されましたが、奇跡的にも日立製作所に製造時の図面があることが判明し、約4億円を投じて蒸気機関車や客車等を修復して現在に至るようです。
 

  
運転席                        列車の後尾(白石駅にて)

 

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鹿児島市~西郷遺跡巡り

2014-10-07 22:43:57 | 旅行
《21日(日)指宿→鹿児島(城山)》
指宿の宿からレンタカーで走り、まずはJR日本最南端の駅「西大山駅」から開聞岳を眺めましたが、残念ながらもやの彼方にうっすらとしか見えませんでした。
 
JR日本最南端の駅「西大山駅」北緯31度11分

昼食はそうめん流しです。
唐船峡そうめん流し鱒乃屋という店でした。私は、そうめん流しといったら、傾斜し竹割り樋を流れ落ちる途中ですくい取る方法しか知りませんでした。「歩留りはどのくらいなんだろう」とつぶやいたところ、「回転式だ」と聞いてびっくりしてしまいました。
 
ドーナツ状の水路に常に水が流れており、そこにそうめんを入れ、反時計回りに回転しているそうめんを箸ですくい取る、という方法です。私は左利きですが、手のひらを裏返して箸ですくい取りました。左利き用の逆回転台もあるようです。

今夜の宿舎は鹿児島市内城山観光ホテルです。早い時間に到着し、各自が自由に行動することとなりました。私は一人で、城山周辺の西郷遺跡を回ることにしました。しかしすごい雨です。ホテルでもらった案内図に従ってまわります。
《鹿児島 西郷遺跡》
ホテルから最初の遺跡である西郷洞窟に向かいます。雨にけむる道路もなかなか絵になります。
 
城山観光ホテルから西郷洞窟へ向かう

石仏十三体
 
『弘法大師の徳を慕う鹿児島市内の観音講の人々が、四国88カ所巡礼になぞらえ、大師の尊像88体を建立しました。城山には、昭和3年につくられた88体の石仏のうち、13体が安置されています。』
安置された像の数は13を超えています。一段高い台に安置された像が13体あったので、これが大師尊像でしょう。この写真も幽玄郷です。

曲がりくねった車道の途中、道ばたに洞窟はありました。このあたり一帯は、岩崎谷と呼ばれているようです。
《西郷洞窟》
 

  
西南戦争 最後の司令部
『1877年(明治10)9月24日 死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。』(説明文)
柵があったので洞窟の深さは確認できませんでしたが、せいぜい深さ1m程度のようでした。この洞窟に何人が過ごしていたのでしょうか。

さらに曲がりくねった車道を下り、平地に達したその先に、西郷隆盛終焉の地はありました。
西郷隆盛終焉の地「晋どん、もうここらでよか」
 
『2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を打ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏して拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877年(明治10)9月24日のことです。』(説明文)

「敬天愛人」トンネル
 
西郷隆盛が最も好んで使った言葉「敬天愛人」(意味は天を敬い、人を愛す)の文字が、JR日豊本線の城山トンネル鹿児島駅側入口に刻まれています。これとは逆に鹿児島中央駅側入口には大久保利通の政治信条「為政清明」 (意味は政治をするには潔白で隠し事があってはいけない)の文字が刻まれているのだそうです。

《私学校跡》
隆盛終焉の地から国道10号線に出ると、そこが私学校跡です。敷地内は、現在は鹿児島医療センターになっているようです。国道に面した石垣と、私学校の門のみが当時を忍ばせるようです。
 

  
私学校については、ずいぶん前に司馬遼太郎著「翔ぶがごとく」を読んだ記憶がかすかに残っている程度です。ホテルの説明書きでは「政界を退いた西郷隆盛と共に帰郷した薩摩藩士たちを指導統率するために、明治7年、鶴丸城の馬小屋跡に私学校が創設されました。」とあります。私学校生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった、ということで歴史上は有名であるようです。

石垣の上に「明治十年戦役弾痕」とあります。石垣の、どの穴が弾痕でどの穴が天然の穴なのか区別がつきません。ホテルの説明書きでは「私学校の石垣には西南戦争で政府軍が浴びせた銃砲弾の弾痕が今もなお残っています。」とあります。
 
石垣に残る銃弾の跡

私学校跡からさら国道10号とお堀の間を進むと、鶴丸城の大手門(楼門)に至ります。大手門から中に入ると、現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館が建っています。
  
鶴丸城跡入口            黎明館

さらに進むと西郷隆盛像です。
  
西郷隆盛銅像

これで、西郷遺跡巡りは終了しました。中央公園を経て、鹿児島市役所方面に歩いていると、前方に銅像が見えてきました。小松帯刀像です。
 
小松帯刀(こまつたてわき)像
「この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。時に小松33歳、慶応3年(1867)10月13日であった。」(説明文)

鹿児島市役所の本館に至りました。立派で趣のある建物です。
 
鹿児島市役所本館

戻る                            続く
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内之浦宇宙空間観測所

2014-10-07 00:18:47 | 旅行
9月19~23日、家族で鹿児島に旅行してきました。
19日(金)羽田から鹿児島へ飛行機で移動、レンタカーを借りてダグリ岬(志布志)へ
20日(土)ダグリ岬遊園地→内之浦宇宙空間観測所→根占→フェリー→指宿
21日(日)流しそうめん→鹿児島(城山)→西郷遺跡(城山周辺)
22日(月)鹿児島中央→はやとの風→吉松→しんべい→人吉→SL人吉→新八千代→新幹線→鹿児島中央
23日(火)鹿児島→羽田

まずは、20日(土)に訪問した内之浦宇宙空間観測所です。

内之浦の市街を経て観測所に近づくと、突然道ばたにアンテナが現れます。説明によると、昭和41年(136MHz)、44年(400MHz)に設置され、62年度まで人工衛星の軌道決定に活躍したアンテナということです。国産初の人工衛星「おおすみ」の電波を最初に受信しました。
人工衛星追跡用自動追尾アンテナ
  
左:400MHz  右:136MHz            136MHz自動追尾アンテナ

人工衛星「おおすみ」の像も建っています。

おおすみ
人工衛星は銀色の円錐台の部分だけで、黒い球形部分は切り離されずについてきた最終段ロケットです。

アンテナのすぐ横に、コンクリート製の古い洞窟が開いています。
 
『米軍オリンピック作戦(志布志湾上陸)に備えた内之浦砲台跡
この洞窟は、昭和19年第二次世界大戦のときに米軍の志布志湾上陸を阻止するために造られた砲台跡です。
「この陣地の大砲は、もともと佐賀関町に本部のあった豊予要塞砲を取り外してきたものである。」「砲台構築を目的とした有明作業隊が来たのが昭和19年9月」「そしてこの作業隊は海蔵から高崎へかけての砲台陣地と志布志湾に浮かぶ2つの島に10センチ加農砲2問と12センチ砲2門を据えつける砲兵洞窟陣地を完成させると、20年3月中旬、・・・次の築城場所である佐多の伊座敷へ移動していくことになった。」』(説明板)

「オリンピック作戦」ですか。突然ですね。
昭和45年8月にもし終戦を迎えていなかったら、連合軍(米軍)は日本本土上陸作戦を敢行するところでした。最初は九州、続いて関東です。九州上陸作戦を米軍は「オリンピック作戦」と読んでいましたが、これは終戦後にわかることです。
この話になると、堀栄三著「大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)」を思い出します(こちらの記事)。
堀氏は日本帝国陸軍の情報参謀で、ルソンの山下奉文司令官の情報参謀を経て、昭和20年に大本営に転属になりました。大本営で堀氏らは、米軍の九州上陸作戦(米国名オリンピック作戦)を
「米軍の九州への使用可能兵力は15個師団、上陸の最重点指向地点は志布志湾、時期は10月末から11月初旬の頃」
と予測し、これが実にピタリだったようです。関東への第二次上陸作戦についてもピタリと当てます。
終戦後、堀氏は連合軍総司令部(GHQ)から呼び出しを受けました。行ってみると、「日本はなぜ米軍のオリンピック作戦をこれだけ正確に予測できたか。米国の暗号が解読されていたのではないか」という疑問に対する尋問だったのです。
ここ内之浦は、その志布志湾の一部なのでした。
洞窟の説明書きによれば、この砲台は、堀氏が大本営で米軍志布志湾上陸を予測する以前から着工されていたようです。

《内之浦宇宙空間観測所》
 
内之浦宇宙空間観測所施設配置図

観測所入り口で入場の受付を済ませ、レンタカーでそのまま場内に入りました。
 
34mφパラボラアンテナ

門衛所から入ると、まず糸川英夫博士の像と人工衛星「おおすみ」打ち上げ記念碑です。やはり、内之浦にとっての最大のメモリアルは、糸川英夫博士と「おおすみ」なのでしょうね。糸川博士は、朝日新聞が掲載した記事が原因でバッシングを受け、東大を退官しました。おおすみの打ち上げ成功は糸川博士の退官後のこととなりました(糸川英夫氏生誕100年と朝日新聞)。
  
糸川英夫博士の像         人工衛星「おおすみ」打ち上げ記念碑

さらに進むとKSセンターです。コンクリート製の大きな構築物があります。どうもこれがランチャードームのようです。
 
KSセンター(観測ロケット打ち上げ場)ランチャードーム

一度門衛所まで戻り、別の道を進んでM(ミュー)センターへ行きます。
《M(みゅー)センター》
ここは、小惑星探査機「はやぶさ」を打ち上げたM-V(ミューファイブ)の打ち上げ場でした。そして現在は、イプシロンロケットの打ち上げ場になっています。
 
左:ロケット組み立て室  右:発射装置

 
左:ロケット組み立て室 右:衛星整備室 奥に発射装置

 
発射装置

ロケットは、各段ごとにロケット組み立て室で組み立てられるのでしょうか。衛星本体は衛星整備室で整備されるのでしょうね。そして個々に組み立て室から整備塔に運ばれ、この整備塔で全体が組み立てられる、という段取りだと思われます。
上の写真で、高い鉄骨構造物(やや古ぼけている)が整備塔、ちょっとだけ見える赤い構造物がランチャー、右端のコンクリート構造物が発射台と思われます。整備塔で組み上がったロケットはランチャーにあずけられ、そのランチャーが整備塔側からコンクリート発射台側にくるっと回転し、コンクリート発射台の上にロケットが載置されるのでしょう。

「はやぶさ」を載せたM-Vも、イプシロンの1号機も、同じこの整備塔で整備されて大空へ飛び立っていったのでしょう。

 
M-V-1(ミュー・ファイブ・1)模型

内之浦宇宙空間観測所の滞在時間は、30分程度でした。
午前中はダグリ遊園地で孫たちを遊ばせ、途中の道の駅でゆっくり昼食をとりました。そしてこのあと、根占からの最終フェリー30分前に根占につこうとすると、内之浦の滞在時間が30分しかとれないことがわかったのです。
雨も降ってきました。それもあって、内之浦の見学はそれこそ駆け足で、屋外の施設を写真に撮るだけに終わりました。

続く
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