雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

2016・カナダ東海岸の旅

2016-07-31 12:01:47 | 旅行
2016年6月 カナダ・東海岸の旅

6月8日(水) 羽田17:40-AC006-16:40トロント  トロント泊
6月9日(木) ナイアガラの旅1日ツアー()    トロント泊
6月10日(金)トロント9:20-鉄道-14:20モントリオール モントリオール観光 モントリオール90:00-夜行・オーシャン号-     車中泊
6月11日(土)-17:51ハリファックス着   ハリファックス泊
6月12日(日)ハリファックス8:20-AC750-8:56シャーロットタウン 赤毛のアンの家 シャーロットタウン泊
6月13日(月)オーウェルコーナー シャーロットタウン  シャーロットタウン泊
6月14日(火)シャーロットタウン6:00-7:20トロント13:30-AC005-15:35羽田(15日)

旅人:妻と私(現地で娘と合流)
                          続く
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シャーロットタウン

2016-07-13 21:18:19 | 旅行
オーウェルコーナー歴史村訪問を終え、シャーロットタウンに帰ってきた。
2日間借りていたレンタカーを返すときだ。ガソリンスタンドを見つけ、ガソリンを満タンにした。ついでに、クルマの写真を1枚撮っておいた(左下写真)。
レンタカーで借りていたクルマ                     ファウンダーズホール
  
レンタカー返却場からホテルまでは徒歩である。その途中、面白い建物を見かけた(右上写真)。ファウンダーズホールといい、連邦誕生記念公園の近くにある歴史アトラクション施設だという。

ホテルの部屋に落ち着いた。しばらくぼーっとした後、短時間だが市内を見て回ることとした。
ここシャーロットタウンについて、ガイドブックでは以下のように紹介されている。
『シャーロットタウンは、島内観光の拠点となる町。赤毛のアンやモンゴメリに関連したスポットをめぐるツアーもここから出発する。町の名前は、イギリスがフランスに変わって覇権を握った1763年に、時のイギリス国王ジョージ3世の妃シャーロットにちなんでつけられた。1864年にイギリス系の植民地から代表者が集まり、カナダ連邦に向けた会議が初めて行われた「カナダ連邦発祥の地」としても知られている。』

ホテル(デルタ・プリンスエドワード)を出てすぐ、教会らしき建物が見えてきたので行ってみた。
SDU PLACE(St. Dunstan's University)                  
 
二つの建物が並んでいる。まずはSDU PLACE(St. Dunstan's University)(上写真)、そしてセントダンスタンズ大聖堂(下写真)だ。
セントダンスタンズ大聖堂
 

 

祭壇(最後の晩餐)                           パイプオルガン
  

大聖堂前の銅像
 
二人の男性が樽をはさんでなにやら議論している。二人とも名前はジョン・ハミルトン・グレイJohn Hamilton Grayというらしい。同姓同名だ。
右のグレイは、プリンスエドワード島の政治家、左のグレイは、ニューブランズウィックの政治家らしい。
二人は、1864年9月、シャーロットタウン・コンフェレンスで顔を合わせたのだろうか。

プロビンス・ハウス
 
1847年に建築家アイザック・スミスによって建てられた州議事堂だ。1864年にカナダ連邦を結成するため、初の各植民地代表者会議が行われた。
手前の兵士像の台座には、
1914-1918 1939-1945 KOREA1950-1953
と刻まれている。第1次、第2次大戦に加え、朝鮮戦争も、カナダの人たちにとっては大きな犠牲を強いられた戦争なのだろう。

さらに、ガイドブックに記載されている2つの教会を訪問した。時間がなかったので前を素通りしただけだが。

Zion Presbyterian (シオンプレスビテリアン?) 教会
 

セントポール教会
 

  

プロビンスハウスから、ビクトリア・ロウ(通り)を歩く。南には、この前に訪問したセントダンスタンズ大聖堂が、優美な姿を見せていた。
 
セントダンスタンズ大聖堂を見る

ビクトリア・ロウから、クイーンズ通りに抜けるあたりまで含め、赤れんがの趣のある建物が建ち並んでいる。

ビクトリア・ロウ
 

左・ビクトリアロウ 右・クイーン通り 中央角・赤毛のアンの店
 

ビクトリアロウとクイーンズ通りの角にある「赤毛のアンの店」で家族と合流した。店の前には、椅子に座った男性の像が置かれている。

赤毛のアンの店                 赤毛のアンの店前の塑像 Sir John A. Macdonald
  
ウィキによると、ジョン・アレグザンダー・マクドナルド(John Alexander Macdonald、1815年 - 1891年)は、カナダの初代および第3代首相とある。
マクドナルドは北米のイギリス植民地を「カナダ」に連合する働きかけを続け、1864年9月にプリンスエドワードアイランドのシャーロットタウンで東部のみで連立しようとしていた東部大西洋地域の植民地代表に提案(シャーロットタウン会議)。1864年10月にはケベック・シティにてカナダ連合への計画を採択(「ケベック会議」)。1866年までにはブランズウィック、ノバスコシアが連合に合意。ニューファンドランドとプリンスエドワードアイランドは反対したが、最終的に合意。これに基づきイギリス議会は英領北アメリカ法を制定し、連邦制をとるひとつの植民地「カナダ自治領(Dominion of Canada)」を形成することを決定した。この法律は「1867年カナダ憲法」として現在でも効力を持つ。ヴィクトリア女王は連邦形成の貢献者として、自治領成立の1867年7月1日に「聖マイケル・聖ジョージ勲章」をマクドナルドに授与した。また同年8月の選挙でマクドナルド率いる保守党が政権を取り、カナダの初代首相となった。

さて、プリンスエドワード島での最後の夕食である。クイーンズ通り沿いにあるMerchantmanという店に入った。

Merchantman
  
                                   店内

こうして、今回のカナダ旅行は終わりを告げた。

翌6月14日の早朝、ホテルからシャトルバスでシャーロットタウン空港へ向かう。
日本までの行程は以下のとおりだ。
シャーロットタウン6:00-7:20トロント13:30-AC005-15:35羽田(15日)

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オーウェルコーナー歴史村

2016-07-12 21:59:37 | 旅行
6月13日、シャーロットタウン滞在2日目である。本日は、まずシャーロットタウン近郊(東方向)のオーウェルコーナー歴史村を訪問する。レンタカーで1号線から4号線の道路を走る。オーウェルコーナー歴史村の前をまずは通り過ぎ、その先のポイントプリムという岬にある灯台を訪問する。

ポイントプリム灯台
 

  

本日のポイントプリム灯台とオーウェルコーナー歴史村については、
europe58さんの記事がとても参考になった。それによると、右上の写真にあるものは、ロブスターの仕掛けらしい。

さて、灯台の見学も終わったので、車で元来た道を戻り、途中にあるオーウェルコーナー歴史村へと向かう。
歴史村の入口から駐車場方向を振り返った風景が下の写真だ。このようなのどかなところに歴史村が位置している。
 

まずは歴史村の説明だ。日本語の説明を受け取ったので、その中からかいつまんで説明する。
オーウェル村は、19世紀の初めよりアイルランド人、アメリカからのロイヤリスト(アメリカ独立戦争時の英国支持者)、高地スコットランド人たちが移住してきた。19世紀の終わりには開拓の苦難から比べればより近代的な生活ができるようになったが、生活の基盤はまだその土地と伝統に根ざしていたそうだ。

最初にある建物が、下の写真のプリンスエドワード島農業歴博物館だ。受付を兼ねている。
 
建物の中には、昔使っていたのだろう農機具が所狭しと並べられている。
  
下のトラクター、McCormik-Deeringと書かれている。50年ぐらい昔、大学生の頃、北海道の牧場に短期滞在したことがあった。そのときその牧場で使っていた大型トラクターに、"International","McCormik"との表記があった。世界最大の農機具メーカーであるアメリカのインターナショナルハーベスターのトラクターであることを後から知った。
こちらによると、
『インターナショナル・ハーベスター
アメリカのトラック,農業機械,建設機械の大手メーカー。農業機械,建設機械では世界最大級。本社シカゴ。略称IH。1902年,当時アメリカ最大の農機具メーカー,マコーミック・ハーベスティング・マシーン社,第2位のディアーリング社など大手5社が合併し,インターナショナル・ハーベスター社の名でニュージャージー州に設立されたことに始まる。』とある。博物館に展示されていた下のトラクターは、1902年の合併前の製品であろうか。
 
農業歴史博物館を後にする(下の写真)。
 

その先に進むと、右側に学校(壁が茶色)が見え、その向こうに公会堂(壁が白)が見えてくる(下写真)。
 
説明によると、オーウェル学校は、1895年に開校し、小学1年から高校1年の過程までを教える学校であった。
学校に入ってみる。
 
建物全体で一つの教室となっている(上写真)。
教卓には石盤が置かれ(左下写真)、生徒の机には無数の彫り物が残っている(右下写真)。生徒の机中央の円い穴は、インク壺を入れる穴のようだ。
  

続いて公会堂だ。最初の公会堂は1950年代に焼失し、現在の建物は1970年代に建て替えられたものだという。この公会堂では伝統的な催しが現在でも行われているという。
公会堂 外から                               内部
  
公会堂の正面壇上にはアップライトピアノが置いてあり、蓋が開いて弾ける状態にある。ピアノの前に張り紙がしてあり、「このピアノはおもちゃではないのでめちゃくちゃに弾いてはいけない。ただし、うまく弾けるのなら弾いても良い。」といった趣旨のことが書いてあったと思う。「私は弾いて良い人に該当する」と勝手に解釈した。そして、徐にトロイメライの冒頭を弾いてしまった。聞いていた人は一人もいなかったが・・・。

クラークストア(雑貨屋)
  
説明書きによると、クラークストアは、1856年にアイルランドから移住してきたクラーク兄弟が、オーウェルに移って開いたジェネラルストア(雑貨屋)ということだ。左上の写真はその外観、右上は1階の奥にある部屋(クラーク家の家屋)だ。
入口から入ったところは雑貨屋の売り場だろうか(下の2枚の写真)。
  
2階、といっても半分屋根裏部屋は、裁縫部屋になっている(下の2枚の写真)。裁縫師のイザベラ・ラトロープの住まいでもあったという。いつ頃の時代かはわからないが。
  

鍛冶屋
  
クラークストアの近くには、鍛冶屋の建物がある(左上写真)。建物の中に入ると、おじさんが一人、鍛冶のために炉で火をおこし、鉄製品の加工を見せてくれた(右上写真)。

家畜小屋
 
村の一番奥には、いくつかの家畜小屋が並んでいる(上写真)。
その一つには、ヤギが飼われていた(左下写真)。こちらを見ながらぶるぶる震えていた。どうしたのだろうか。右下写真は馬小屋のようだ。馬はどこかに行っているらしく、小屋の中は空っぽであった。
  

元来た道を戻ると、教会と墓地がある。
教会
  
オーウェル村に殖民してきた長老教会派の人たちは、1861年にオーウェル長老教会を建設し、ゲーリック語と英語で礼拝が行われいていた。現在の教会は、1930年代当時のように再現されている。

墓地
 

ここオーウェルコーナーは、20世紀の初めまでは活気ある村だったが、島の活動の中心が田舎から徐々に大きな町、島の中心へ移るにしたがって、このような小さな共同体の重要さ、役割が減少していった。オーウェルコーナーは、1973年にセンテニアル委員会からの出資にて、同年7月に公開されたそうだ。

ガイドブック(地球の歩き方2014~15)を見ると、プリンスエドワード島の地図上にこのオーウェルコーナー歴史村の所在が描かれているものの、歴史村を紹介する記事はどこにも記載されていない。しかし、こうして訪れてみると、はるばる日本からここプリンスエドワード島を観光で訪問するのなら、見落としてはいけない場所と思う。
最大の目的地であったキャベンディッシュ(赤毛のアンの家)は、人工的な施設であって観光地化が激しかった。それに対してこの歴史村は、実在した村が現存した建物とともにそのまま保存・公開されているのであって、この島の昔(赤毛のアンの舞台だった頃)を最も良好に再現していると思った次第である。

戻る                            続く
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赤毛のアンの家

2016-07-11 00:13:11 | 旅行
まず、プリンスエドワード島について説明しよう。
ガイドブックには以下のように紹介されている。
『ルーシー・モード・モンゴメリ(1874~1942年)の小説「赤毛のアン Anne of Green Gables」の舞台であるプリンス・エドワード島は、セント・ローレンス湾に浮かぶ面積約5660m2(四国の3分の1)ほどの小さな島。アンが暮らすアヴォンリー村のモデルとなったキャベンディッシュ周辺には物語で描写された場所がいくつも存在する。』
シャーロットタウンについては、『島内観光の拠点となる町。赤毛のアンやモンゴメリに関連したスポットをめぐるツアーもここから出発する。』と紹介されている。

ここプリンスエドワード島では、レンタカーを予約している。まずは空港でレンタカーを受け取った。娘が運転する。なんとか無事にシャーロットタウンの滞在ホテル(デルタ・プリンスエドワード)に到着した。

本日は、赤毛のアンに関連する観光地を訪れることとした。
レンタカーに乗り、地図を頼りにキャベンディッシュに向かう。

キャベンディッシュでの観光の中心はグリーンゲイブルス(赤毛のアンの家)だ。
ビジターセンターに車を停め、中に入る。
説明板
 
①案内所 ②ギフトショップ ③納屋 ④穀物倉 ⑤まき小屋 ⑥グリーンゲイブルス ⑦お化けの森 ⑧Balsam Hollow trail

最初に見えるのは納屋である(下写真)。
  

そして、お目当てのグリーンゲイブルス(アンの家)だ(下写真)。
この家は、ガイドブックによると、赤毛のアンの『物語の中で、孤児院から引き取られたアンが、少女時代を過ごした「グリーンゲイブルス(緑の切妻屋根)のモデルとなった家。白と緑の木造家屋は、物語そのままの姿だ。実際はモンゴメリの祖父のいとこに当たるマクルーニ兄妹が、モンゴメリと同い年の養女マートルと暮らしていた。ここからほど近い祖父母の家に住んでいたモンゴメリは、この家を取り囲む森や林など自然環境に強い親しみを抱き、たびたび訪れてはマートルと遊んでいたという。』とある。
 

ダイニングルーム(多分)
 

マシューの部屋
 

2階のアンの部屋(左下写真)には、マシューが買ってくれたパフスリーブのドレスがかかっている。壊れた石盤も置かれているということだが、わからなかった。
アンの部屋                         裁縫室
  

マリラの部屋
 
マリラの部屋には、めがね、黒いショール、紫水晶のブローチが飾られているという。全体写真に加え、部分写真を2枚アップした。左下写真の机の上に見えるのが紫水晶のブローチだろうか。
  

Balsam Hollow trailから恋人の小径
 
グリーンゲイブルスの南西方向の森の中が、Balsam Hollow trail、そして恋人の小径だ(上、下の写真)。

 

グリーンゲイブルス
 

グリーンゲイブルスの正面(お化けの小径へ)
 

グリーンゲイブルスから東方向の森に入ると、お化けの小径だ。
お化けの小径
 

お化けの小径を進むと、ゴルフ場だ。そこを抜け、道路を横断するとその先は草原である(下の写真)。
 

草原から本屋へ行く途中に、モンゴメリの住居跡がある(下写真)。祖父母の家で育ったモンゴメリは、祖母が亡くなる36歳まではこの家で暮らしていた。現在は石の土台と当時の井戸だけが残っている。
 

グリーンゲイブルス郵便局 モンゴメリが暮らした祖父母の家の郵便局を再現した建物だという(下写真)。内部は博物館になっているとのことだが、このときはオープンしていなかったようだ。
 

郵便局の隣にはキャベンディッシュ教会が立っている(下写真)。広い自動車道(6号線)沿いだ。
 

6号線に沿って戻ると、十字路に共同墓地がある(左下写真)。この共同墓地にモンゴメリの墓があるのだ(右下写真)。モンゴメリは1942年にトロントで死去した。生前より「グリーンゲイブルス」の見えるこの場所で永眠することを望んでいたという。
  
                                 モンゴメリの墓
こうしてキャベンディッシュ付近の観光地を巡った。次はクルマで海岸沿いを走り、グリーンゲイブルス博物館へ向かう。この家は、モンゴメリの叔母さんの家で、現在もキャンベル家の人たちが暮らしているという。

グリーンゲイブルス博物館
  
                                 輝く湖水 Lake of Shining Waters

  
博物館内部                            

ここからまた車を走らせて、ケンジントン駅舎跡へ向かう。直線で内陸を経由する道もあるのだが、ガイドブックのお勧めの道は、海岸沿いにぐるっと回るルートのようだ。われわれもお勧めのルートを走った。

ケンジントン駅舎跡(下写真)は、1905年に建てられた旧駅舎で、モンゴメリも利用していたという。1989年に鉄道が廃線になり、現在は一部がバーとなっている。
 
 

こうして、プリンスエドワード島における赤毛のアンゆかりの地巡りが終わった。ケンジントンからシャーロットタウンまでは、広い2号線を真っ直ぐに走るだけだ。

戻る                            続く
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寝台列車オーシャン号

2016-07-10 12:40:21 | 旅行
6月10日にモントリオールに半日滞在した後、次の目的地はプリンスエドワード島だ。
われわれは、モントリオールからプリンスエドワード島のシャーロットタウンまで、次のような交通手段を選んだ。
6月10日モントリオール19:00-夜行・オーシャン号(車中泊)
6月11日-17:51ハリファックス着(ハリファックス泊)
6月12日(日)ハリファックス8:20-AC750-8:56シャーロットタウン

寝台列車オーシャン号(The Ocean)は、モントリオールを19時に出発したら、終着のハリファックスに到着するのは翌日の18時前だ。まる24時間近く、同じ列車に乗っていることになる。
われわれが利用するのは、二人の個室だ。
  
個室の座席                           個室の座席対面

寝台セット前は、左上写真のような座席になっている。個室は狭く、前の壁(右上写真)が迫っている。また、この座席の座り心地が悪い。座席の奥行きが少なく、どっかと座れないのだ。翌日の昼間はずっとこの椅子に座ってハリファックス到着を待たなければならない。
寝台は座席の背中に収納されている。日本の寝台列車と異なり、下の寝台も座席とは別に用意されている(左下写真)。さらに上の寝台をセットすると、もう寝台に横になるしかない(右下写真)。
  
下寝台をセット                         上寝台もセット

この個室は、シャワー兼トイレが設置されているのが特徴だ。期待して覗いてみたら、左下写真のような状況だった。シャワーを使ったら、トイレを含めて全体がびしょびしょになる。結局、シャワーは使わずじまいだった。また、通路が極端に狭い(右下写真)。人と人が行き違えないのだ。日本の寝台特急あさかぜの通路はもっと広かった。
  
個室のシャワー兼トイレ                     個室脇の通路

  
サービスカー                          食堂車

まるまる一昼夜滞在するこの列車で、食事は食堂車で供される。時間は二部制で、あらかじめ希望する時間帯を選択する。われわれの車両から食堂車までは、延々と長い距離、あの狭い通路を歩いて行く必要があった。サービスカー(左上写真)の次の車両が食堂車(右上写真)だ。
出発した直後、まずは夕食だ。出てきた食事が冷たいのにはびっくりした。電子レンジでチンするだけで良いのに、なぜ冷えた食事を出すのだろうか。それと、デザートのシュガーパイがめちゃくちゃ甘かった。シュガーのかたまりである。
しかし、翌日の朝食はちゃんと温かい食事が出てきた。昨日の夕食は何だったのだろうか。
昼食では、昨日のシュガーパイが甘すぎたので、それとは別の小さめのケーキを選択した。それがまたとびきりの甘さであった。カナダの人たちはとびきりの甘さが好みなのだろう。日本風の「甘さ控えめ」とは無縁の世界であった。
食堂車の厨房には、陽気なウェイトレスさん(左下写真)やコックさん(右下写真)が働いている。
  
ウェイトレスさん                        コックさん

このオーシャン号の最後尾には、「ドームカー」なる車両があるらしい。下の説明書の表紙に見られる。われわれは行かなかった。
 
オーシャン号の説明書

列車は11日夕刻、ハリファックスの駅に到着した。外から見たオーシャン号の客車写真を撮影した(左下写真)。機関車はとてつもなく大きな機関車が2両連結していた(右下写真)。
  
オーシャン号の客車                       オーシャン号の機関車


今夜宿泊するホテルはハリファックス空港のすぐ近くだ。駅から空港まで移動しなければならない。ガイドブックによると、ダウンタウンから空港までは、マリタイム・バスが運行するハリファックス・エアポート・エクスプレスががあるはずだ。22時まで運行しているという(片道$22)。駅舎の横に、マリタイム・バスのカウンターが見つかった。しかし、係員が言うには、本日はもう終わったという。考えてみれば、3人でバスで行くのもタクシーで行くのも運賃は変わらないだろう。ということでタクシーを利用することとした。
駅の近くにスーパーがあったので、まずはスーパーで買い物を済ませ、駅前からタクシーに乗った。
タクシーの運ちゃんはアフガニスタン人だと名乗った。当方が日本人だというと、その運ちゃんはおかしなことをしゃべった。「アフガニスタンは1919年に独立した。日本も同じ年に独立した。」というのだ。当方は「日本は昔から独立国だ。何かの間違いだと思う。」と答えたが、一体どんな勘違いなのだろう。
ホテルに着いてからネットで調べて謎が解けた。例えばこちらの記事である。
『アフガニスタンがイギリスから独立した都市が1919年8月19日。
そして、日本が日英同盟を破棄した日が同年1919年の8月17日でした。
要するに、アフガニスタンの人たちは、アフガニスタンの独立の日において、近い日に日本が日英同盟を破棄したことを日本が同様にイギリスから独立した日だと思っている人が多いそうです。』
日英同盟破棄は英国からの独立ではないし、実際に日英同盟を破棄した年は1919年ではないけれども、アフガニスタンの人は日本のことをこのように記憶していることがわかった。

翌6月12日、下記の飛行機を利用し、プリンスエドワード島のシャーロットタウンまで飛ぶ。
ハリファックス8:20-AC750-8:56シャーロットタウン

飛行機を見てびっくりした。下の写真にあるような、小さな双発のプロペラ機だった。
 

私の席は前から2番目だった。操縦席と客席の間は開放でよく見える(左下写真)。後ろを振り返ると、左右に1列ずつで、合計20人程度の定員であろうか(右下写真)。

  
客席から操縦席                         座席から後方を見る

ハリファックスのあるノヴァ・スコシア州は、カナダの大陸から張り出した半島にある。その北にプリンスエドワード島がある。ハリファックス空港を離陸したときは雨が降っていたが、半島と島を隔てる海まで出ると、雲が切れて島が見えてきた。飛行機は真っ直ぐに空港へ向かっているようだ。
操縦席前の窓から、空港の滑走路が見えてきた(左下写真)。そして滑走路へ無事に着陸である。扉を開けて前へ倒すと、扉がそのままタラップの階段となる(右下写真)。
  
着陸態勢~滑走路が見える                    スチュワードが扉兼タラップを開ける

  
シャーロットタウン空港で飛行機から降りる

こうして、シャーロットタウン空港に降り立った。

戻る                            続く
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