雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

5月7日プラハ~帰国

2010-07-20 22:01:02 | 旅行
プラハ最後の日である。本日、プラハ観光の後、帰国の途につく。

《ベツレヘム礼拝堂》
まずはホテルから南に向かい、ベツレヘム礼拝堂を目指す。路地が入り組んでいるので、ちょっと道を間違えた。
ベツレヘム礼拝堂、昨日話題にしたヤン・フスがチェコの民衆に向けてチェコ語で説教を行ったという礼拝堂だ(下写真)。元の建物は18世紀に全壊し、現在見られる教会は、資料を基に1950年頃に昔の姿に忠実に再現されたものだという。時間がないので外から写真を撮るに留めた。
 
《カレル橋》
カレル橋はヴルタヴァ川にかかる石の橋で、プラハを代表する建築物である。われわれもプラハを訪れた最初の日にこの橋をわたっているのだが、紹介するのが最後になってしまった。この橋は、14世紀後半から15世紀にかけて、カレル4世の時代に建造されたものだ。橋の両端に橋塔がある。下の写真は、東岸の旧市街側橋塔の上から見たカレル橋とプラハ城だ。
 
本日は、ベツレヘム礼拝堂を過ぎて西へ進み、カレル橋よりも南側でヴルタヴァ川東岸へ出た。そこから見たカレル橋が左下写真だ。北上してカレル橋近くまで行く(右下写真)。
  
ブルタヴァ側東岸からカレル橋           カレル橋東岸の南側

カレル橋の西岸、プラハ城の下の地区はマラー・ストラナ(小地区)と呼ばれる。カレル橋の西側橋塔が小地区側橋塔である(左下写真)。カレル橋の欄干には、合計30体の彫像が飾られている。そのうちの2つが下中央と右の写真だ。
   
小地区側橋塔               欄干の聖人像              欄干の聖人像

カレル橋からヴルタヴァ川の南側(上流)を見たのが左下写真だ。川の流れの様子から浅瀬であることがわかる。
左遠方に見える高い建物は国民劇場だ。長らくハプスブルク家がチェコを支配し、ドイツ語で支配されていたチェコ人が、「チェコ語によるチェコ人のための舞台を」というスローガンで寄付を集め、1881年にこの劇場が完成した。ホテルで市街地図をもらうとき、フロントの兄さんがマークした観光スポットの一つがこの国民劇場だった。チェコ人にとっては記念すべきモニュメントであるようだ。
本日は旧市街側橋塔に登る予定だ。10時ちょっと前でまだオープン前の時間だが橋塔の扉をあけて中に入る。上がれるようだ。らせん階段を上がっていくとてっぺんに出る。四方を眺めることができた。ここでは南の方角を見た写真(下中央写真)を挙げておく。
橋塔の前の広場にはカレル4世の銅像が建っている(右下写真)。
   
カレル橋から南方                  カレル橋旧市庁舎橋塔から   カレル4世像

《聖フランティスク教会》
広場を挟んで橋塔の向かい側に、聖フランティスク教会がある。特に有名な教会ではないが、一応のぞいておこう。外から見た正面はさほど豪華ではないが、中に入ってみると重厚な装飾がほどこされた立派な教会だった(下の写真)。
   

《クレメンティヌム》
カレル橋東端の東側に、クレメンティヌムがある。地図で見ると広大な面積を専有している施設だ。ガイドブックによると・・・
クレメンティヌムは、強大化する一方のフス派に恐れをなしたフェルディナント1世が、フス派に対抗する宗教勢力としてカトリックのイエズス会をプラハへ招き、1556年に修道院を創建したのがそもそもの始まり。1601年にはプラハで最初のイエズス会の教会である聖サルヴァートル教会を建てられた。ハプスブルク家の手厚い保護もあって2ヘクタール余りの敷地に3つの教会、礼拝堂、図書館に講堂、天文台、出版局などが次々と建設され、最終的にプラハではプラハ城に次ぐ規模を持つ巨大な複合建築となった。館内ガイドツアーでは、壮麗なバロック様式の図書の間や子午線観測室の象限儀を見学した後、天文台に上がることができる。
以上のようなガイドブックの記述を読んでいたので、ここクレメンティヌムで天文台を見に行こうと考えていた。敷地の内部に入ると多くの建物が入り組んでいる。やっと案内所のようなところを見つけ、聞いてみた。すると、現在は工事中で見学は中止しているとのことであった。残念である。それが前日のことだ。
本日、再度クレメンティヌムに入り込んだ。すると家内が思い出した。家内はプラハ訪問は2回目なのだが、前回訪問したときにこのクレメンティヌムに来たというのだ。天文台らしきものも見た記憶があるという。
下の写真は、クレメンティヌムの構内で撮った写真である。
  

こうして最後の日のプラハ観光も終わった。
ホテルに帰り、荷物をまとめてチェックアウトを済ませる。タクシーを頼んでもらった。フロントのあんちゃんが、「来るときはどの会社のタクシーだったか」と聞くから、「駅から歩いてきた」と答えた。適当にお薦めの会社を選んでもらう。

プラハ14:15-KL3124-15:45スキポール17:40-KL861-(5月8日)11:40成田

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月6日プラハ

2010-07-19 01:07:14 | 旅行
《旧市庁舎》
本日のプラハ市内観光は、旧市街にある旧市庁舎からだ。
旧市庁舎は、その外面に取り付けられた時計塔で有名だ(下中央写真)。この時計塔についてはまた後で。
   
外観            時計塔            ガイドツアー

ガイドブックによると、旧市庁舎にはガイドツアーが用意されている。行ってみると、中を見学するにはガイドツアーに参加する必要があるようだ。急ぐ旅でもないのでこれに参加してみることにした。もちろん日本語ツアーはなく、英語ツアーだ。ところが、ガイドという男性がやってきて、英語の団体が遅れているので、先にイタリア語の団体と一緒に出発してくれという。どうせ英語もイタリア語もわからないことに変わりはないので、オーケーした。その代わりというわけではなかろうが、手書きの日本語説明書を渡された。
そして、イタリア語ツアーの出発である(右上写真)。
ツアーは、旧市庁舎の中をあの部屋この部屋とまわり、地下の穴蔵のような所もまわり、わけが分からないうちに終了した。イタリア語だから当然だか。
そして出発地点に戻ってきた。これで終わりだろうか。外に出ようとしたら、英語ツアーのガイドが飛んできた。まだ何か残っているらしい。慌てている。
案内された部屋に行ってみると、そこは時計塔のメカニズムを中から見ることのできる部屋だった。

時計塔は、下の時計が黄道12宮を意味し、上の時計が地球の周りを回る天体を意味するらしい。そして上の時計のさらに上に、2つの小さな扉が見える。その扉が、毎正時に開き、中から12使徒が現れる仕掛けである(左下写真)。毎時、55分頃になると時計塔の下に観光客が集まってくる。扉が開くのを待っているのである。ところが、正時になって扉が開いても、中の人形がちらっと見えるだけで全然派手さがない。あっという間に終わってしまう。観客の間にがっかり感が漂う。
そのとき突然、時計塔のてっぺんからトランペットが響きわたる。ただのパフォーマンスと思うが、がっかり感の後だったのでほっとして拍手がわき起こるのである。
  
外側から                 内側から見ると

ガイドツアーの最後にメカニズム室に案内された時刻が、まさに正時だったのだ。ガラスの向こうには時計塔のメカニズムが回っている。12使徒の人形が位置を変え、一体ずつ開いた扉から見える位置に移動するのである(右上写真)。
このメカニズムを肉眼で確かめられることが、ガイドツアー参加の意義であった。
  
下の時計(黄道12宮)           上の時計(地球の周りを回る天体)

《旧市庁舎の塔》
ガイドツアーが終わった後、市庁舎の塔に登る。こちらはエレベーターだ。登り口から上を見上げると、旧市庁舎とは異質のモダンメカニズムが目に入った(左下写真)。
塔の上からは旧市街とプラハ城を一望のもとにできる。北西方にプラハ城だ(右下写真)。
  
塔を登るエレベータ             プラハ城を望む
旧市街広場の真北に見えるのが聖ミクラーシュ教会だ(左下写真)。教会の右側に見える街路樹の通りはパリ通りであり、高級ブランド店が並ぶ。旧市街広場の東に見えるのがティーン教会だ(右下写真)。その右後方には火薬塔が見える。
  
聖ミクラーシュ教会              ティーン教会

さて、旧市庁舎の観光を終わり、旧市街広場を歩いて回る。
広場の北西方にヤン・フスの像が立っている。
ヤン・フスは15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者である。カレル大学の総長とベツレヘム礼拝堂の説教師を兼ねていた。フスはローマ教会の堕落を厳しく批判したため、異端として1415年に火あぶりの刑に処せられてしまった。フスの処刑をチェコに対する侮辱と考えるチェコ貴族たち、カトリック教会とは異なる形での聖体拝領を実施する宗派が、フス派と呼ばれるようになり、15年にわたるフス派戦争が始まる。一時はプラハを中心とする国の中枢部をフス派が支配するまでになった。
その後、チェコ王となったハプスブルグ家のフェルディナント1世はプラハにイエズス会を招致した。17世紀にはチェコはカトリック支配となり、フスとフス派は異端ということになった。それが19世紀になると華々しい復活を遂げる。チェコの人々は、カトリック世界全体を相手に一歩も引かずに戦ったフスやフス派の時代こそ、チェコの歴史の頂点であったと解釈したのである。
1915年、フスの処刑後500年目の日に、フス像の除幕式が行われた。
下の写真は、聖ミクラーシュ教会の尖塔を背景としたヤン・フス像である。
 

聖ミクラーシュ教会
その聖ミクラーシュ教会は、旧市街広場の北に位置する。何度も建て直され、最終的に完成したのは18世紀初頭とのこと。現在はフス派の教会となっている。
   

聖ミクラーシュ教会の裏へ回ると、街角に“カフカの生家”というのがある。外から写真を撮るだけに留めた。そこからぐるっと回ってパリ通りへ出る。その一画にグッチの店がある。ここで自分たちと家族へのおみやげを買い求めた。
  
カフカの生家           パリ通りとグッチの店

この旅行に出発する前、過去にプラハを訪れた知人から教わったことがある。プラハでは街のいろんな場所で毎日ミニコンサートが開かれる。そのうちのどれかを聞きに行ったらいいと言うことである。確かに街を歩いていると、ひっきりなしにチラシを配る若者に出合う。その日のミニコンサートの宣伝をしているようだ。
そこでわれわれもチケットを購入して参加することにした。
たまたま旧市街広場東に位置するティーン教会に行ったとき、近くの一画にチケット販売所があった。ここでなら会場を選択して購入することができる。演目、時間などを考慮し、聖サルヴァトール教会のミニコンサートチケットを購入した。

《聖サルヴァトール教会でのミニコンサート》
  
聖サルヴァトール教会はカレル橋の旧市街側のたもとに位置する。左上写真は、カレル橋の旧市街橋塔の上から見た聖サルヴァトール教会だ。コンサート開始時間前に教会内に入ると、すでに人が集まっている(右上写真)。右側の真ん中片の席に座った。
さて、どの位置で演奏するのであろうか。教会の奥から楽団員が現れた。そして我々のすぐ右にある台の上で演奏の準備を始めたのである(左下写真)。ここで演奏するのか。演奏会が終了した後の写真を右下に示す。教会内での演奏台の位置が確認できる。
演奏は、さまざまな楽曲から1楽章を抜き出し、次々と演奏している模様である。知っている曲が何曲かあった。
会場がしんしんと冷えてくるのには閉口した。そういえば、聴衆はみなジャンバーなどを着込んで厚着してきている。
  

本日の夕食は、ホテルの西側の路地にある“ウ・クリーチュー”に行く(左下写真)。ガイドブックには、「1539年に造られたゴシック様式建物のワインセラーを利用したレストラン」とある。確かにその通りだ(右下写真)。カツレツなどのチェコ料理をオーダーした。
  

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月5日プラハ

2010-07-16 22:47:59 | 旅行
《プラハのホテル(The Iron Gate Hotel & Suites)》
このホテルについては、「値段が高い割にひどい。日本に帰ったらHISに文句を言おう」と最初は憤っていた。
ところで考えてみると、プラハのホテルについては、「できるだけ旧市街の観光スポットに近いところ」ということで選定していた。プラハの、それも旧市街に近い立地のホテルについては、値段が高い、という実情はあるようだ。また旧市街であれば、昔からある建物を利用してホテルとせざるを得ないので、大きなホテルは作れない。そうすると、今回のホテルも妥当なのかもしれない、と思い直した。
  
   中庭                  食堂

そうやって見直してみると、中庭(左上写真)はなかなか風情がある。居室から中庭を通って半地下の食堂へ行き、朝食をとる(右上写真)。この食堂も良い雰囲気ではないか。
居室はというと、次の間つきだ(左下写真)。ベッドは小さめだが、インターネットが使い放題であった。持参したノートパソコンがやっと役に立った(右下写真)。
そして何よりも良かったのは、旧市街を中心に市内観光をしていて、雨が降ってきたといってはホテルへ帰って一休みし、お腹が空いたといってはホテルへ帰っておやつを食べるという、非常に便利な生活を味わうことができたことだ。
  
   次の間                  寝室

さて本日の観光である。
まずはカレル橋をわたってプラハ城を訪問する。カレル橋については別のところで。

プラハには「王の道」と呼ばれる道がある。火薬塔から旧市街を通ってカレル橋からプラハ城に至る道であり、歴代の王が戴冠パレードを行ってきた道だ。
我々はカレル橋を渡った後、王の道よりも城側の別の道を通って坂を登った。
 
プラハ城正面

《聖ヴィート大聖堂》
プラハ城正面(上写真)から中に入ると、目の前に壮大な聖ヴィート大聖堂が現れる。正面前に広場がないので、大聖堂正面全体をカメラにおさめることができない(左下、下中央写真)。大聖堂の背面側は広場なので、全体を撮すことができる(右下写真)。外観はドイツのケルン大聖堂にとても似ている。
   
聖ヴィート大聖堂

聖ヴィート大聖堂の正面から見て右側、南側には、南塔とその下の黄金の門がある(下写真)。こちらがあたかも正面のようだ。なおかつ、黄金の門の上部は金色に輝くモザイクで飾られている。描かれているのは最後の審判の場面だそうだ。
聖ヴィート大聖堂の中には、聖ヴァーツラフ礼拝堂という特別に神聖な空間があるという。この黄金の門に連なる部分であろう。内部を見学していて、特別に大勢の人がのぞき込んでいる部屋があった。私は素通りしたのだが、おそらくそこが聖ヴァーツラフ礼拝堂だったのだろう。
  
南塔と黄金の門

《聖ヴィート大聖堂のステンドグラス》
この聖堂の3方は豪華なステンドグラスで囲まれている。
   

中でも大勢の人が集まっているステンドグラスがある。ムハ(ミュシャ)によるステンドグラスである。現物を見ているときには気付かなかったが、こうして写真で全体を眺めると、本当に変わったステンドグラスである。
 
ムハによるステンドグラス

 
内部中央            

《聖イジー教会》
聖ヴィート大聖堂の東側、広場を挟んで聖イジー教会が建っている。920年に完成した現存するもので場内最古の教会だそうだ。ただし現在の姿は火事の後1142年に再建されたものだ。それにしても古いものだが。内部は、決して大きくはないが、下の写真のように外からの光が良い具合に入ってきている。
  

《旧王宮》
旧王宮は聖ヴィート大聖堂の南側に位置する。16世紀までは歴代の王宮として使われたようだ。
下の写真はヴラディスラフホールと呼ばれ、縦62m、横16m、高さ13mの大ホールだ。天井に見える曲線は石のリブである。リブは装飾ではなく、あくまで天井を支える構造材だそうだ。このホールでは、舞踏会、戴冠式、さらには屋内乗馬競技まで行われたという。
 

昼食は、プラハ城内のカフェのようなところで食べた。ビーフシチューのようなチェコ料理である。
プラハ城は丘の上に立地しているので、東端に建つと街を見下ろすことができる。下の左の写真は東の方向を見ている。ヴルタヴァ川の下流方向が見える。右の写真は南のカレル橋方向であり、カレル橋の旧市街橋塔が中央に見える。
  
プラハ城の東端から街を眺める

プラハ城の見学は終わった。
下りについては、「王の道」をたどることにする。

《聖ミクラーシュ教会》
  
坂を下りきった右側にマラー・ストラナ広場があり、広場の向こうに聖ミクラーシュ教会が見える。左上の写真はマラー・ストラナ広場から聖ミクラーシュ教会を見たところである。外から見るとさほどではないが、内部は豪華絢爛たる教会であった(右上、下写真)。
 

さてこのあと、カレル橋を渡り、旧市街広場を突っ切り、さらにツエレトゥナー通りを経て火薬塔まで歩く。これぞ「王の道」の逆をたどる道だ。
火薬塔(左下写真)は、もともと旧市街を守っていた城壁の門の一つであった。17世紀に火薬倉庫として利用されたため、こう呼ばれるようになったという。
火薬塔の隣にあるのが市民会館だ(右下写真)。一見すると、歴史を感じさせる立派な建物だ。しかしこの建物が1911年にできたときは、賛否両論、反対の非難囂々だったようだ。古い景観をぶちこわすということらしい。
  
火薬塔              市民会館

《ミュシャ・レストラン》
夕食は、ホテルにほど近いミュシャ・レストランである。
壁にミュシャの絵が飾られ、天井の模様もミュシャっぽい。
メニューは、ポークを使ったチェコ郷土料理と、メロンの生ハム巻きである。
  
  

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月4日ドレスデンからプラハへ

2010-07-12 21:55:09 | 旅行
本日は、午前中にドレスデンの最後の観光を済ませ、その後鉄道でプラハへ移動する。

まずはカールシュタット・デパートでお土産の買い物だ。店内では、店員さんと言葉が通じなくて右往左往したが、やっとのことでおもちゃ売り場にたどり着いた。孫のためにぬいぐるみを購入するのだ。

ぬいぐるみ購入の後、家内は買い物を続け、私は別れて市内観光を行った。

第二次大戦時の空襲直後のドレスデン市街を撮した写真として、市庁舎の塔の上から撮影した写真を書籍で見た。今回検索したところ、ウィキ英語サイトで見つけることができた下の写真である。

Wikimedia Commons, Source : Deutsche Fotothek, Author : Richard Peter (1895-1977)

私はぜひ、その写真と同じ視角からドレスデンを眺めてみたいと思っていた。そのためには、市庁舎の塔に登らなければならない。

市庁舎に着いた。南側の入り口から入ると、そこは市庁舎として機能している。だから「旧市庁舎」ではない。しかし塔への登り口が見つからない。建物をぐるっと回ると、東側にも入り口がある(左下写真)。そこから中へ入ると、奥にホールがあった。丸天井である(中央下写真)。この丸天井の真上が塔に違いないと思われるのだが、2階までしか上がることができなかった。外から見る時計塔は右下写真である。時計塔がこれだけ黒いということは、空襲をまともに受けたそのままなのであろう。
   
正面                 内部のホール                 時計塔

市庁舎のすぐ西に聖十字架教会がある。アルトマルクト広場の東だ。建物に囲まれているので全体像はなかなか見えない。左下写真は、アルトマルクト広場から聖十字架教会の一部を見たところである。外観が真っ黒なのは、やはり空襲にあったそのままの姿なのであろう。
聖十字架教会
  
アルトマルクト広場から            内部

この教会の塔には階段で登ることができる。さほど高くないので、困難ではない。さっそく登ることにした。左下写真は東の方向、市庁舎の時計塔が見える。右下は北西方向、アルトマルクト広場だ。その後方にはドレスデン城と旧宮廷教会の塔が見える。
  
市庁舎方向                   アルトマルクト広場

教会には、空襲を受けた直後の写真が掲示されていた。右下写真だ。左下の現在の姿と見比べてほしい。聖十字架教会の外形と市庁舎の時計塔が倒壊せずに残っていたことがわかる。

                   アルトマルクト広場から聖十字架教会     
 
聖十字架教会 空襲直後

《ツヴィンガー宮殿》
市庁舎と聖十字架教会を駆け足出回り、ホテルに戻った。ここで家内と合流し、残った観光スポットであるツヴィンガー宮殿に向かう。
このツヴィンガー宮殿も、アウグスト強王の時代に建てられたものである。広い中庭の四周を建物が囲っている。左下写真は中庭の全景を見たところ。右下写真は多分東端の建物である。
  

ツヴィンガー宮殿の四周の建物のうち、北側については、ゼンパーオペラを設計したゼンパーがイタリア・ルネッサンス様式で増築した部分であり、アルテマイスター絵画館および武器博物館となっている(下の写真2枚)。
 
 
アルテマイスター絵画館を訪問した。
順路を進み、ガイドブックで紹介されていたいくつかの絵画、フェルメールの「手紙を読む少女」、ショルジョーネの「まどろみのヴィーナス」、ラファエロの「システィーナのマドンナ」などを見ることができた。

以上でドレスデン観光が終了した。
ツヴィンガー宮殿のすぐ隣にあるケンピンスキーホテルに戻り、荷物を受け取ってタクシーでドレスデン中央駅に向かった。
今回は特急の発車時刻まで十分に時間がある。ドレスデン14:36-プラハ17:27の特急である。
  
ドレスデン中央駅            エルベ川(ドレスデンからプラハ)

列車はエルベ川に沿って走る。
エルベ川について気付いたことがある。この列車沿いのエルベ川は川幅が狭いのだ。それに対し、さっきまで滞在したドレスデン、そしてこれから行くプラハのいずれも、川幅がとても広い。プラハはモルダウ川だが、それが下流でエルベ川になる。想像するに、“エルベ川の流域で、浅瀬の部分に都市が発達した”ということではなかろうか。浅瀬であれば川幅も広くなるだろう。浅瀬なら徒歩でも渡れるので、そのような場所が渡河地点として都市が発達した、という仮説である。

列車はプラハ本駅に到着した。
ホテルは旧市庁舎の近くにある。普通ならタクシーを利用するところだ。だがプラハのタクシーで不愉快な思いをするのがいやなので、歩いていくことにした。
駅からまず南西に向かい、ヴァーツラフ広場にぶつかったところで直角に曲がってヴァーツラフ広場を北西に向かう。さらに旧市街まで歩いていく。
日本のHISからもらったグーグルマップのコピーを頼りに、路地から路地へとたどり、目的地に到達した。といっても、ここも狭い路地である。
今回のホテル、ドイツのケンピンスキーホテル並の料金である。当然、でんと構えた大きなホテルで、近くに行けば必ず看板が出ているものとの先入観を持っていた。ところがどこにも、そのような大ホテルが見あたらない。
仕方がないので、路地をさらに先に進んだり、逆に旧市庁舎まで行ってそこからまた地図を頼りに歩いてみたり、ぐるっと一回りしてみたりしたが、やはり見つからない。近くの人に聞いても「そんなホテルは知らない、しかし通りの名前からするとこの路地で間違いない」という。途方に暮れてしまった。
ふと、今になってはじめて、番地を確認することを思いついた。そして建物の壁に書かれている番地をたどっていったら、あった。回りと同じような建物の一つであるが、入り口に確かにホテルの名前が書かれていた。左下写真である。
プラハのホテル
  
   正面                  中庭

びっくりしてしまった。あんな高い宿泊料でこんな小さなホテルか。
中に入ると、フロントでは愛想の良くないアンちゃんが一人である。フロントから部屋へ行くまでの間に中庭(右上写真)を通らなくてはいけない。雨の日は濡れてしまう。もうがっかりである。

取り敢えず部屋に落ち着いた。

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月3日ドレスデン(2)

2010-07-11 08:49:57 | 旅行
《フラウエン教会》
フラウエン教会(聖母教会)は、プロテスタントの教会である。アウグスト強王の時代の1726年に着工し、1743年に完成した。
当時、ドレスデンはザクセン王国の首都である。そしてフラウエン教会は、王国の宮廷が作ったのではなく、ドレスデン市が作ったのである。それまでのプロテスタント教会が老朽化し、その代替として計画された。
ところで、アウグスト強王はプロテスタントであったが、ポーランド君主になりたいがためにカソリックに改宗した王である。従ってアウグスト強王とその宮廷は、プロテスタント教会であるフラウエン教会の建設にびた一文出さなかった。一方で建設を黙認もしたので、この教会が完成したのである。

当初、教会のドームは木造で表面に銅板を葺く計画であった。ところが設計者のベーアは、現在見るような石造りのドームを目論んでいたのである。紆余曲折を経て、市の資金が底をついたときに「銅より石の方が安くできる」との論法で石が認められ、石のドームが完成した。

第二次大戦中の連合軍によるドレスデン空爆により、このフラウエン教会も崩壊した。そしてそのあと、廃墟のまま放置されたのである。廃墟写真を見ると、2方の壁が僅かに残り、中央は瓦礫の山となっている。1枚の写真は、手前にルター像が横たわっている。もう1枚の写真は、廃墟のすぐ近くで羊が草を食べている。
この廃墟を再建する計画が持ち上がったのは東西ドイツ統一後である。
1993年頃から計画が始まり、まずは瓦礫を徹底的に調べ上げた。そして再建され、落成したのは2005年であった。

下の写真が全景である。右端にルター像が見える。教会の左端部分のみが黒く、それ以外の部分はベージュ色である。恐らく黒い色の部分が、空襲で倒壊せずに残った部分であろうと思われる。
 

教会の側に、屋根部分の残骸が展示してあった(右下写真)。
  
教会前のルター像            フラウエン教会の屋根残骸

左下写真のレリーフは、2千余りの破片から復元されたという。
  
フラウエン教会内部

  
下から見た天井                 上から見た天井

この教会は鐘楼まで登ることができる。途中までエレベータがあり、その先は歩いて登る。
下から見ると丸天井が見えるのだが、これはドームよりも下にある天井である。左上写真は下から見た天井、これを上から見ると右上写真のように見える。
左下写真は、エレベータを下りたあたりから天井を見た写真、右下写真は同じ場所から下の方を見た写真である。こんな高いところまで参拝者の椅子が並んでいる。
  
フラウエン教会内部

さて、塔のてっぺんまでたどり着いた。市内が一望できる。
  
塔の上から 旧教会とアウグストゥス橋          芸術アカデミー

左上は、北西方向だ。エルベ川の下流方向に架かる橋はアウグストゥス橋だ。その左に旧教会が見える。左上は北東方向。エルベ川の上流側と、その手前は芸術アカデミーだ。川の対岸には左にザクセン州大蔵省、右にザクセン州首相府が見える。
左下は南方向だ。左の塔が市庁舎、右の塔が聖十字架教会である。右下は西方向。中央から左がドレスデン城、その右に旧宮廷教会が見える。
  
塔の上から 旧市庁舎と聖十字架教会        旧教会と君主の行列


《ゼンパーオペラ》
ザクセン州立歌劇場である。建設者ゼンパーの名前をとってゼンパーオペラと呼ばれている。
ゼンパーオペラは1841年に完成した。こけら落としはヴェーバーの「式典序曲」、翌年にはヴァーグナーの「リエンチ」と「さまよえるオランダ人」が初演された。その後、ヴァーグナーはゼンパーオペラの音楽総監督の地位を得ている。ヴァーグナーはドレスデン時代、「タンホイザー」と「ローエングリン」を完成し、「マイスタージンガー」の構想が練られ、「ニーベルンゲン」のスケッチもここで作られた。
このゼンパーオペラは、1869年に失火で全焼した。ゼンパーはすでに70歳、ウィーンで仕事をしていた。ゼンパーは設計はしたものの施行はゼンパー抜きであった。しかし出来上がった歌劇場は完璧だった。
その後、第二次大戦の空襲でゼンパーオペラも破壊された。その後、オリジナルに忠実に復元され、1985年に再び幕が開いた。1944年の終演も、21年後の開演も、同じヴェーバーの「魔弾の射手」であった。
 

ガイドツアーに参加した。言葉が分からないので皆について行くだけだ。
内部の装飾は見事である。
  
ゼンパーオペラ内部

下は観客席と舞台である。この部分、デジカメでオートで撮影すると、白色電球で照らされたような写真に仕上がってしまう。ホワイトバランスを自動調節しているためだ。しかし実際にはオレンジがかって見える。そこでホワイトバランスをオートから別のモードに変更して撮影した。下の写真がそれである。肉眼よりもオレンジが強調されすぎてしまった。
  
ゼンパーオペラ内部

内部の展示写真に、下の写真があった。多分第二次大戦の空襲後の写真であると思う。
 
ゼンパーオペラ 火災後の写真

ゼンパーオペラ正面の劇場広場には、この劇場の発注者のザクセン王ヨハンの騎馬像がある(下写真)。後方に見えるのは、右がドレスデン城、左が旧宮廷教会である。
 
劇場広場  ザクセン王ヨハン像と旧宮廷教会

夕食は、ガイドブックから市庁舎近くのゲンゼディープを選んだ。5月のドイツと言えばホワイトアスパラである。聞いてみたら“あります”ということだったので、オーダーした。
  
夕食                           ホワイトアスパラガス

おみやげ類の買い物は、アルトマルクト広場近くのアルトマルクトギャラリーをのぞいた後、さらに南のカールシュタット・デパートで主に済ませた。

《ドレスデン夜景》
そろそろ外が真っ暗になった頃、私一人で夜景を見に出かけた。
写真撮影を試みたが、これがなかなか難しい。カメラが自動でホワイトバランス調整してしまうので、白色光に照らされたような写真になってしまう。かといってホワイトバランスモードを変更すると肉眼よりもオレンジっぽくなってしまう。何枚かの写真を選んでみた。
  
旧宮廷教会                   対岸のザクセン州大蔵省

  
ドレスデン高裁              芸術学校とフラウエン教会

戻る                            続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする