雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

セビーリャ

2017-07-23 21:57:46 | 旅行
5月14日、グラナダからセビーリャへ移動である。グラナダ駅からセビーリャ駅まで、列車で移動するものと思い込んでいた。グラナダ駅発は8時43分であり、朝早く、ホテル前からタクシーに乗った。
グラナダ駅に到着した。どうも様子がおかしい。ホームや線路が工事中である。掲示された時刻表を見ると、われわれが乗車するのは「バス」とある。そこで駅員に聞いてみた。すると、現在は新幹線工事中であり、ここグラナダ駅から途中まではバス移動となるという。バスは駅前の広場から出発する。
用意されたバスは定刻に出発した。バスは平原を走り、平原のど真ん中に建設されたばかりの新幹線の駅に到着した。駅のまわりには畑しか見当たらない。
列車に乗る。列車は、定刻にセビーリャのサンタ・フスタ駅に到着したと記憶している。
駅からホテルまではタクシーだ。例によって、私は助手席に座り、ガイドブックの地図とまわりの景色の照合だ。ホテルは市庁舎の近く、ヌエバ広場に面している。しかしタクシーはホテルまで直進せず、南から旧市街を迂回していくようだ。スペイン広場の近くを通った。グアダルキビル川の川岸を通り、黄金の塔、マエストランサ劇場の横を通過する。そのたびにタクシーの運ちゃんが説明してくれる。私がガイドブックで確認しながら「ああ、マエストランサね」と相づちを打つと、運ちゃんが「お前はスペイン語が上手だな」と言ってくれた。単なるお世辞か。スペイン語と日本語は、母音で終わる所が共通しており、そのため運ちゃんが「スペイン語の発音が良い」と感じたのかもしれない。
その先の、マエストランサ闘牛場の横を通る。私は「ああ、闘牛場ね」という意思表示を手真似で行った。
車は右折して路地に入り込み、ほどなくしてヌエバ広場のイングラテーラに到着した。

セビーリャ観光は本日のみだ。ホテルで一休みした後、市内観光に出発した。
まずはコンスティトゥシオン通りを南下し、カテドラルに向かう。

ここセビーリャのカテドラルも、グラナダ、コルドバと同様、イスラム時代のモスクを、レコンキスタ後に撤去してキリスト教の大聖堂としたものである。
コルドバのメスキータは、イスラム時代のメスキータ(モスク)があまりにも壮大であったため、そのうちの一部のみの屋根をぶち抜いて大聖堂を建てた。そのため、メスキータの床面積の大部分で、モスクの姿がそのまま残っている。グラナダのカテドラルでは、モスクの面影はどこにも見られなかった。
それに対してここセビーリャのカテドラルでは、中庭がモスクのままの姿で残っている。それと、このカテドラルのシンボルであるヒラルダの塔は、下側の2/3がイスラム時代のミナレットをそのまま残して、鐘楼にしたものである。モスク時代の残存加減が、コルドバとグラナダの中間程度であった。

ガイドブックによると、このカテドラル、『1401年に開かれた教会参事会で、「後世の人々が我々を正気の沙汰ではないと思うほど巨大な聖堂を建てよう」と建設が決定。それまであったも楠を回想して、約100年後の1519年に完成した。ヨーロッパの聖堂としてはローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ボール寺院に次ぐ規模を誇る。』とある。
実を言うと、そんな巨大な聖堂だったかどうか、記憶がない。「魅惑のスペイン」を読み直しでその謎が解けた。通常のルートをたどったのでは、巨大さが実感できないらしい。巨大さを実感するためには、正面入口のすぐ内側まで行き、全体を見渡すと良いそうだ。広々とした五廊式で、巨大な石柱が立ち並んでいる堂々たる姿が、初めて実感できるそうだ。すでに帰国したわれわれには取り返しがつかないが。

《カテドラル》

カテドラル正面

 
カテドラル正面入口                       カテドラル側面入口
入口ドアのまわりには、聖人を飾る飾り台が数多く設けられている。ところが、正面入口(左上写真)には、多くの飾り台のうちの1台にしか聖人が飾られていない。それに比べ、側面の入口(右上写真)では、すべての飾り台に聖人が飾られていた。何で違うんだろう。

《ヒラルダの塔から》
 
南の方角 直近に王立礼拝堂のドーム、遠方にグアダルキビル川       東の方角

ヒラルダの塔に登り、セビーリャの全方角を眺めた。マエストランサ闘牛場は、この街にやって来たときにタクシーの窓から眺めた外壁と、下の写真で見る円形闘牛場の内周を遠方から眺めたのみであった。

マエストランサ闘牛場(西の方角)

 
カテドラルの内部(上写真、下写真)



コロンブスの墓(上写真)
4人の男性に担がれているのは明らかに柩だ。後から調べたら、コロンブスの墓だと言うことだ。柩を担ぐ4人の男性は、15世紀にスペインを構成した4つの王国(カスティーリャ、レオン、ナバーラ、アラゴン)の王の像らしい。

《ヒラルダの塔》

ヒラルダの塔のてっぺんには、信仰の勝利を表す青銅像が置かれ、それが風によってぐるぐる向きを変えるような構造になっている。ヒラルダとは人物や動物の形をした風見鶏のことで、それがこの塔の名前の由来だそうだ。




《アルカサル》
カテドラルに続いて、アルカサルを見学する。
 
入口はすごい行列だ(左上写真)。炎天下、苦行の末にやっと入場することができた。
 
ここアルカサルの地に最初に城を造ったのは12世紀のイスラム教徒だったが、レコンキスタ後にキリスト教王の住まいとなり、歴代の王によって増改築が重ねられた。なかでもペドロ1世は、スペイン各地からイスラム職人を呼び寄せ、アルハンブラを彷彿とさせる壮大な宮殿を作り上げたそうだ。一方ではペドロ1世(在位1350~69年)は、残酷王という異名で知られているという。

乙女の中庭(上写真、下写真)
 

アルカサルは、その背面に広大なアルカサル庭園を有している。時間の許す範囲内で、庭園内を散策した。そのときの写真から1枚を選んだ(下の写真)。


こうして、セビーリャ観光の半日が終了した。
来たときと同じコンスティトゥシオン通りを北上し、ホテルに戻った。
左下の写真がホテルの正面である。
コンスティトゥシオン通りには、路面電車が走っている。その路面電車、線路の上には給電用の架線が設けられていない。それにもかかわらず、電車はパンタグラフを持っている。何のためだ。
見ていると、停留所に着いたときにパンタグラフを上げている。停留所のみに、架線が設けられている(右下写真)。停留所に停車するたびに架線から給電を受け、電車内の蓄電池にでも充電しているのであろうか。
 

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アルハンブラ宮殿

2017-07-15 21:53:25 | 旅行
アルハンブラ宮殿のうち、ナスル宮殿については、予約した時間にのみ入場することができる。われわれは、事前にネット予約で、5月13日の15時で予約を取っている。
一方、13日の行動予定としては、一日中をアルハンブラ宮殿にあてるつもりにしている。そして前日によくよく調べてみると、昼の部の宮殿入場は、午前の部(14時まで)、午後の部(14時以降)に別れているようだ。そういえばチケット予約時に見たような気がする。前日の夜に3人で議論した結果、以下の行動を取ることにした。
チケットは、宮殿を含むチケットと、庭園のみのチケットの2種類がある。庭園のみのチケットの方が安い。そこで、当日の朝、庭園のみのチケットを別に購入し、午前の部はその庭園のみのチケット、そして午後の部は事前に購入した宮殿を含むチケットを利用し、1日がかりでアルハンブラ宮殿を攻略することとした。

チケット売り場は朝の8時に開場する。行列ができているはずなので、早めに行列に並ぶことにする。私と娘とで、朝、ホテルを出た。

市街地に宿泊しており、歩いて宮殿に向かう観光客は、ふもとから、ザクロの門を経由して山道を登り、裁きの門から宮殿に入場する。それに対してわれわれが宿泊しているホテルは裁きの門の近くなので、ザクロの門を見落としてしまう。
そこで、朝の入場券購入の前、ホテルから山を下って、ザクロの門を見ておくことにした。
 
ザクロの門
門の上部に、天使とザクロの彫刻(王家の紋章)があるのでこの名が付いている。

  
アルカサバ                               トルレス・ベルメハスとアルカサバ

ザクロの門から森の中の道を上っていくと、左手上方には、アルハンブラ宮殿の最も古い部分であるアルカサバが見えてくる(左上写真)。今は森が生い茂っていて宮殿がよく見えない。イスラムの時代には森はなく、原っぱだったそうだ。
登っていく右手に、出城であるトルレス・ベルメハスがある。そこから、谷を隔てたアルカサバを眺めたのが右上写真だ。

チケット売り場に到着した。まだ販売開始の8時までは間があるが、すでに長い行列ができている。2つの行列があり、一方は売り子から買う窓口、もう一方はマシンで購入する売り場である。マシンの側に並んだ。
行列の先頭、まだ開いていないマシンを外から眺めた所、3種類の色の違うマシンが並んでいる。それぞれ、販売するチケットが異なるようだ。そこで娘に、われわれが購入する庭園のみのチケットがどのマシンで購入できるか、確認してもらった。中央の緑のマシンがそれに該当するようだ。そこで販売開始に先立ち、私はマシンの近くに待機することにした。行列の大部分は宮殿込みのチケットを買う予定だろうから、庭園のみのマシンは行列ができない可能性があるからだ。
8時になり、チケット売り場がオープンした。案の定、行列のすべての人は宮殿込みのチケットを売るマシンのみを利用し、緑のマシンは空いている。そこで近くの係員に「緑のマシンを使って良いか」と聞いてみた。係員はOKを出したが、「庭園のみでいいのか」と念を押された。イエスと答えたのだが、その後さらに2回「本当に庭園のみでいいのか」と確認された。朝8時から行列して、庭園のみのチケットを購入する人はいないのだろう。
こうして、時間ロスなく、チケットを入手することができた。

アルハンブラ宮殿は、東西に三日月状に丘の上に位置している。そしてその北側には、谷を隔ててヘネラリフェという別荘がある。アルハンブラ宮殿とヘネラリフェは、東の端でつながっている。本日の午前、まずはヘネラリフェを訪問する。購入したばかりの庭園のみチケットで入場だ。

入場すると、北の方向に庭園が延びている。順繰りに庭園を眺めながら北に進む(下の2枚の写真)。
 

西に目をやると、アルハンブラ宮殿の先端、アルカサバが朝日に映えいている(下2枚の写真)。





庭園A

 



ヘネラリフェの先端まで来た。グラナダ市街がある谷を隔てて向こうの山が見える。山頂の教会からこちらがわまで、城壁が健在だ。山頂の向こうにも城壁がある。写真でも一部が確認できる(下写真)。



上の写真は、ヘネラリフェ先端からの帰途で通過した庭園だ。当時は気づかなかったが、この写真、上の庭園Aの写真と同じ建物の続きであることに今気づいた。

  
こうして、ヘネラリフェの散策を終了した。

ヘネラリフェの出入り口の近くが、アルハンブラ宮殿への入口である。


しばらく歩くと、"MUSEO ANGEL BARRIOS"の札が架かった小さな建物がある。中に入ると、上の写真のような部屋がある。どうもスチームバスのようだ。天井の開口は、水蒸気の通り道であろうか。2つの正方形を45度回転させて重ねた図形は、これからもちょくちょく目にした。イスラムのアラベスクの典型図形なのであろうか。

 
左上の写真は、城壁の外に突きだした、多分「7層の塔門」と呼ばれている部分だ。これ以上近づくことはできない。
アルハンブラ宮殿の先端、北西端のアルカサバに辿り着いた(右上写真)。
ここからは、低地に広がるグラナダの街並みがよく見える。左下写真を見ると、この街でも家屋がパティオを囲んで建てられていることがよくわかる。
右下写真は、谷を隔てて斜面に立ち並んだアルバイシンの街並みだ。街の上の方、遙か彼方に大勢の人が見える。サンニコラス展望台であろう。
 


上の写真は、アルカサバ先端の、多分「夜警の塔」のてっぺんから、アルカサバの中庭方向を見た写真である。中庭といっても、イスラムの時代には現在見える土台の上に木造の兵舎や倉庫があったという。中庭の向こう、左側の塔はオメナーヘの塔、日本の城で言えば天守閣の役割だったそうだ。中央は「割れた塔」であろうか。
下の写真は、アルカサバ中庭の北側部分と、武具の塔門のあたりだと思う。



ここアルハンブラ宮殿の中に、レコンキスタでキリスト教徒が占領した後の建物が2つある。そのうちの一つがカルロス5世宮殿だ(上写真、大砲の向こうに見える建物が外観、下2枚の写真が内部)。地図で見ると、カルロス5世宮殿は図体がでかい。中は円形の回廊になっているだけだ(下写真)。
 

そうこうするうちに、時刻は3時近く、ナスル宮殿入館の予約時刻である。入口の行列に並んだ。

バルタル宮?


バルタル宮から貴婦人の塔


貴婦人の塔


貴婦人の塔

 

 




ライオンの中庭

 


ライオンの泉(ライオンの中庭)


ライオンの中庭



 
サンタマリア教会

 
裁きの門
裁きの門(左上写真)は、入口の向かって右側が城壁だ。当時の兵は、右手に剣を持ち、盾を左手に持っていた。裁きの門に攻め入ろうとしたとき、盾を持っていない右側の城壁の上から射かけられる、という寸法である。首尾良く門まで到達しても、内部がジグザグになっているので、一気に攻め入ることができない(右上写真)。

こうして、アルハンブラ宮殿の一日が終了した。
 
夜になった。ホテルの近くの出城(トルレスベルメハス)からは、宮殿の夜景ライトアップが見えるに違いない。ということで行ってみた。コンデジでは、ライトアップ写真を撮るのが難しい(左上写真)。右上写真は、トルレスベルメハスへ向かう小道である。

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グラナダ市内

2017-07-02 12:11:51 | 旅行
グラナダと言えばアルハンブラ宮殿、我々もアルハンブラ宮殿を訪れるために、このグラナダに来ている。
そのアルハンブラ宮殿は別記事で詳細に述べることとして、ここではアルハンブラ宮殿以外のグラナダについて記す。

《ホテルアルハンブラパレス》
グラナダ滞在ホテルは、これもアルハンブラ宮殿にほど近いロケーションのホテルだ。名前をアルハンブラパレスという。アルハンブラ宮殿は小高い丘の上に位置している。このホテルは、アルハンブラ宮殿の丘の南側の中腹に建っている。
われわれは、コルドバからバスに乗ってこの街のバスターミナルに到着した。バスターミナルからタクシーを利用してホテルに向かった。グラナダ市街を通り抜け、くねくねした路地を経由しつつ坂を登るとホテルである。

 
ホテル正面                     客室のテラスから見た遠景(シェラネバダ山脈)

左上写真はホテル正面だ。
このホテル、1910年の開業式にはアルフォンソ13世も出席したという、格式のあるホテルだ。
客室の窓からは市街を見下ろすことができる。東方に目を移すと、遠くに山並みが見える。シエラネバダ山脈のようだ。山の上の方に白い斑点が見える。雪だろうか。スペイン南部の山に5月に雪が残っているだろうか。シエラネバダ山脈というと、アメリカのシエラネバダ山脈を思い出す。「シエラネバダ」とは、元々、スペイン語で「雪の掛かった山脈」という意味だそうで、世界には5箇所に位置している。
そして、ここスペインアンダルシア地方のシエラネバダ山脈は、最高峰が3480mである。6600万年前-180万年前のアルプス造山運動においてアフリカプレートとユーラシアプレートが衝突し、アルプス山脈やアフリカのアトラス山脈と共に、このシエラ・ネバダ山脈が形成されたということだ。

 
ロビー付近                     レストラン

ホテルの内装も、上の写真のようにゴージャスである。

レストランの横の壁に、白黒の写真が飾ってあった。広い部屋にベッドが並んでおり、野戦病院のようである。部屋の様子から、このホテルのレストランであることがわかった。通りかかったホテルの人に聞いてみた。それによると、この写真は、シビル・ウォー時の写真だそうだ。スペイン内戦か。「フランコ?」と聞いたら「フランコの前」と答えが返ってきた。
そうか。スペインには内戦の時代があったのだ。
ウィキには、『スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)は、第二共和政期のスペインで勃発した軍事クーデターによる内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持・直接参戦するなどした。』『他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。』とある。また、こちらによると、『戦場における死者の数は10万ないし15万とみられるが、処刑または報復殺人は共和国側では約2万、反乱軍側では内戦後の処刑を含めて約30万から40万ほどの処刑または大量殺人があったとみられている。』
GNU Free Documentation License
上記敵味方の地図を見ると、スペインが真っ二つに分かれて戦ったことがわかる。ここグラナダが最前線であっただろうこともうかがえる。ホテルは、どちらの側の野戦病院だったのだろうか。
戦死者、処刑者、報復殺人の数の多さが際立っている。同国人同士が、イデオロギーの違いだけでこれだけ殺し合ったということだ。80年前の出来事とはいえ、その後遺症は今でも残っているに違いない。

旅行に出発する1週間前から、コルドバ、グラナダ、セビーリャの週間天気予報に注目している。それによると、いつもグラナダの予想気温が他の2都市に比べて低い。調べてみて理由がわかった。ここグラナダは標高が738mもあるのだ。コルドバからグラナダまでのバスは、丘陵地帯を走ってきたが、そんなに標高を稼いでいたとは気づかなかった。
ホテルに到着したわれわれは、市街観光に出かけることにした。フロントで聞いてみると、ホテルの前を通るバス(アルハンブラバスC4(C3?))に乗ればいいと言う。ほどなくして到着したバスに乗り、市の中心部の広場(イザベル・ラ・カトリカ広場)で降りた。この広場には、イザベル女王とコロンブスの銅像があるらしいが、残念ながらその銅像には気づかなかった。

まずはカテドラルを目指す。

カテドラル正面

ガイドブックによると、『レコンキスタ終了後、カトリック両王は大モスクを壊してそこに、モスクに引けを取らない教会を建設することを命じる。』とある。
中に入ると、確かに巨大な教会である。豪華さというより、その巨大さに圧倒される。白くて巨大な列柱がそびえる空間が特徴だ。





カテドラル内部

カテドラルに隣接して王室礼拝堂があるのだが、そこはパスしてしまった。次の予定が迫っているからだ。王室礼拝堂には、イザベル女王とその夫フェルナンド2世、さらには二人の娘でカスティーリャ女王のファナとその夫フェリペの柩が安置されているという。
カトリック信仰に燃えていたイザベル女王は、グラナダを攻略してイベリア半島における最後の異教徒の王国を滅ぼしたことに、自分の治世での最高の意義を感じていたようで、グラナダを永眠の地にしたいと望んだのだそうだ。(「魅惑のスペイン」より)

次の目的地はデパート(エル・コルテ・イングレス)だ。そこへ行く途中、市庁舎の近くに、アルハンブラ事務所がある。その事務所で、アルハンブラ宮殿入場予約券をチケットに交換しておくと、当日の入場がスムーズだということだ。

アルハンブラ事務所が見つかった。正面玄関を入ると、巨大なパティオである(上写真)。その対面、人が立っている所がアルハンブラ事務所だった。言われるままに、マシンにクレジットカードを挿入すると、チケットが出力された。

本日のコルドバからグラナダへのバス移動、我々夫婦は11時出発、娘は14時出発と別行動を取った。娘は、バスでグラナダ到着後、路線バスに乗ってカテドラルで降りる予定である。そこで落ち合うことにしている。デパートでの用事を済ませ、集合場所へ向かった。無事に落ち合うことができた。そこでタクシーを拾い、ホテルへと向かった。

明日はいよいよアルハンブラ宮殿訪問だ。

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