「ちむどんどん」暢子は態度を改め、良子は再び…第55回あらすじ
(シネマトゥデイ 2022/06/23 08:15)
黒島結菜がヒロインを演じるNHK連続テレビ小説の第106作「ちむどんどん」。第11週「ポークとたまごと男と女」より、24日に放送される第55回のあらすじを紹介する。
暢子(黒島)は家族からのアドバイスを受けて、新たな気持ちでシェフ代行の仕事に挑む。房子(原田美枝子)の見守る中、態度を改めた暢子への、矢作(井之脇海)たち男性スタッフの反応は……。
沖縄やんばるでは、優子(仲間由紀恵)の支えを得て、良子(川口春奈)が再び学校の先生として働きはじめる。和彦(宮沢氷魚)が新聞社で巻き込まれていたトラブルは、房子のアイデアのおかげで急展開する。
「ちむどんどん」(月~土、NHK総合・午前8時~ほかにて放送、土曜は1週間の振り返り)は、ふるさと沖縄の料理に夢をかけたヒロインと、支えあう兄妹の歩みを描く50年の物語。「マッサン」を手掛けた羽原大介の脚本によるオリジナル作品で、主題歌は三浦大知の「燦燦」(さんさん)。ジョン・カビラが語りを担当している。タイトルの「ちむどんどん」とは、沖縄の方言で胸が高鳴る様子を表す。(清水一)
2022年6月21日(火)、一関市東山町長坂字柴宿の「柴宿団地」と呼ばれている住宅団地内にある「柴宿教会」の庭に植栽されているザイフリボク/シデザクラが、赤く色づいた果実を沢山付けていました。
鎌倉・長谷寺でアジサイが見頃(tvkニュース 2022/06/23 15:10)
見頃を迎えたアジサイの話題です。
県内屈指のアジサイの名所として親しまれている鎌倉市の長谷寺。
見頃を迎えているアジサイを見ようと、午前8時の開門に合わせ、多くの人が訪れました。
境内の斜面一面に植えられた、40種類以上、2500株ほどの色とりどりのアジサイ。
今回3年ぶりに企画された池のみなもに花が浮かぶ「花筏」や、竹林に植えられたものなど、さまざまな顔を見せる季節のアジサイに、訪れた人たちは写真を撮るなどして楽しんでいました。
訪れた人
「こんなに東京でアジサイをたくさん見られることがないので、すごく子どもたちにも、いい経験になったかなと思う」
「アジサイ、40種類くらいあるとうかがったが、手入れがすごい」
「山の上から鎌倉の海が見えて、そしてアジサイと、本当にすばらしいロケーションで来てよかった」
長谷寺のアジサイは6月いっぱい、見頃だということです。
鎌倉版掲載号:2022年6月17日号 長谷寺鎌倉名物に誘われて
長谷寺の境内で、40種類以上、約2500株のアジサイが咲き始め、多くの見物客でにぎわいを見せている=写真。13日時点の開花状況は7割程度で、6月いっぱい楽しむことができる。
6月中の開門時間は午前8時(土日は7時半)で、午後5時閉門。あじさい路への入場は、拝観料に加えて「あじさい入場券」(小学生以上300円)が別途必要。定員に達した際は、頒布を中止する場合もあり。
6月中の開門時間は午前8時(土日は7時半)で、午後5時閉門。あじさい路への入場は、拝観料に加えて「あじさい入場券」(小学生以上300円)が別途必要。定員に達した際は、頒布を中止する場合もあり。
長谷寺 鎌倉名物に誘われて | 鎌倉 | タウンニュース (townnews.co.jp)
© 毎日新聞 提供 摩文仁にある「平和の礎」を早朝から訪れ、沖縄戦で犠牲になった親族らを悼む人たち=沖縄県糸満市で2022年6月23日午前5時57分、喜屋武真之介撮影
沖縄戦から77年 なぜ6月23日が「慰霊の日」になったのか
(毎日新聞 2022/06/23 06:00)
6月23日は、太平洋戦争末期に沖縄であった地上戦で犠牲になった人々らを悼む「沖縄慰霊の日」です。なぜ、この日が「慰霊の日」になったのでしょう。沖縄の人たちはどんなふうにこの日を過ごすのでしょう。
Q:なぜ6月23日を「慰霊の日」としているの?
A:1945年6月23日で、沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされるためです。この日に、当時、沖縄の防衛に当たっていた日本軍司令官の牛島満中将や、その部下が自決(自殺)しました。ただ、自決については6月22日という説もあります。戦後、米国統治下にあった61年に琉球政府が法で「慰霊の日」を休日と定めました。当初は6月22日で、65年から6月23日に改められました。実際は牛島中将の自決後も戦闘は続き、米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは45年7月2日。米軍と現地の日本軍の間で降伏調印式があったのは45年9月7日でした。
Q:そもそも沖縄戦はなぜ起こったの?
A:米軍が沖縄を日本本土侵攻の足がかりにしようとしたからです。41年12月に始まった太平洋戦争は、42年6月のミッドウェー海戦で日本軍が大敗したのを機に米軍が攻勢に転じました。44年夏には米軍がサイパンやテニアンといった日本列島の南にある島々を攻略。そして、日本を降伏させるため、米軍は44年10月、本土侵攻への補給拠点として適した位置にある沖縄への上陸作戦を決定しました。45年3月26日、米軍は沖縄本島西側にある慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には沖縄本島に上陸し、地下陣地で待ち構えていた日本軍との激しい戦いになりました。
Q:たくさんの人が犠牲になったと聞くよ。
A:日米合わせて20万人以上が亡くなりました。このうち約19万人が日本側の犠牲者です。沖縄県民は一般住民約9万4000人(推計)、軍人・軍属2万8228人の計約12万2000人が亡くなり、県民の4人に1人が犠牲になったと言われています。
Q:なぜそんなに犠牲者が出たの?
A:沖縄戦で米軍は支援部隊を含め約55万人もの兵力を投入しましたが、日本側の兵力は約10万人。中には、訓練が不十分な地元住民や少年たちも多く、圧倒的な兵力差がありました。「鉄の暴風」とも呼ばれた米軍の激しい砲爆撃を受け、45年5月下旬に日本軍は首里城地下に置いていた司令部を捨てて南下。沖縄本島南部は兵士と避難民が入り交じる戦場となり、米軍の無差別な攻撃で犠牲が膨らみました。
Q:沖縄の人たちは、「慰霊の日」をどんなふうに過ごすの?
A:沖縄では6月23日は休日で、朝から遺族らが犠牲者の冥福を祈るために、各地の慰霊塔や慰霊碑に集まります。遺骨が見つかっていない犠牲者が多く、戦後野ざらしになっていた遺骨を沖縄の人たちが集めて建立した糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」を訪れる人もいます。この塔は46年2月に建立され、戦後、最初に造られた慰霊塔とされます。
沖縄ではちょうどこの頃に梅雨が明けることが多く、亡くなった人が家族との食事を楽しめるようにと、慰霊塔の前で重箱に入った料理を広げる姿も見られます。糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園には95年、犠牲者の名前を刻んだ石碑「平和の礎(いしじ)」が造られました。慰霊の日にはこの場所を訪れ、命を落とした家族や親族の名前を指でなぞったり、花を手向けたりする人も多くいます。
Q:平和祈念公園である追悼式の様子はテレビ中継もしているよね。
A:正午に合わせ参列者が黙とうをささげ、知事が「平和宣言」で戦争の悲劇を二度と起こさない決意を示します。今年は3年ぶりに首相を招待しています。地元の子供たちが寄せた詩から選ばれた作品が「平和の詩」として朗読されます。今年は小学2年の女子児童が「こわいをしって、へいわがわかった」という作品を朗読します。
Q:5月は「沖縄が日本本土に復帰して50年」というニュースをよく見かけたけど、慰霊の日も特別なんだね。
A:そもそも沖縄が27年もの長い間、米軍統治下に置かれたのは沖縄戦がきっかけです。米軍は上陸後、占領した住民の土地に次々と基地を造りました。宜野湾市の普天間飛行場など、その多くが今も使われています。また、地中に埋まったままの沖縄戦当時の不発弾も沖縄の人々の生活を脅かしています。77年前の戦争は今につながっているのです。
© 毎日新聞 提供 新たに造られた「月桃の碑」と、周りに植えられた月桃の葉=沖縄県西原町で2022年6月22日午後4時5分、喜屋武真之介撮影
6月23日は沖縄慰霊の日 忘れぬ悲劇、歌い継ぐ月桃の歌
(毎日新聞 2022/06/23 00:00 )
沖縄は23日、1945年の太平洋戦争末期の沖縄戦などでの犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。沖縄県西原町の町運動公園では戦没者を追悼し、平和を願う歌「月桃(げっとう)」の歌碑が建立され、22日に除幕式が開かれた。
月桃は沖縄に自生する植物で、春から初夏に先端がピンクの白いつぼみをつける。歌は町在住のシンガー・ソングライター、海勢頭(うみせど)豊さん(78)が82年に作詞・作曲した。県民の4人に1人が亡くなったとされる沖縄戦の悲劇を歌う。「慰霊の日」が近付くと、県内の小中学校などで歌われている。
歌碑の建立は沖縄の日本復帰50年を記念した町の事業で、町内外からの寄付で実現した。高さ2・5メートル、幅4・9メートルで、歌詞が刻まれ、脇にあるボタンを押すと歌が流れる。
除幕式では、海勢頭さんや歴代の町長らがロープを引いて歌碑の幕を下ろし、地元の小学校児童たちが「月桃」の歌を合唱。海勢頭さんは取材に「子供たちが心を強く持って歌い、(平和への)意思表示をしてほしい」と話した。
沖縄戦当時、西原町(当時は西原村)では日米両軍が激しく攻防。戦闘に巻き込まれるなどして住民の半数が命を落とした。
除幕式に参加した元町長の平安恒政(ひらやすこうせい)さん(85)は沖縄戦で家族6人を亡くした。沖縄独特の大きな墓に身を隠したが、日本兵に追い出され、沖縄本島南部へ。逃げ惑う中で祖父母は行方不明になった。召集された父は戦死し、本島北部に疎開した弟3人も栄養失調で亡くなった。式が終わった後、「大変つらい思いをし、戦後は母に苦労をかけた。戦争は二度と経験したくない」と目を赤くした。
23日に沖縄全戦没者追悼式が営まれる糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では22日夜、白いサーチライトが「平和の光の柱」として夜空を照らした。【宮城裕也】