気付いたことがあるだろうか。
考えたことがあるだろうか。
「Nuclear Weapon」 という英単語をご存知だろうか。
「Nuclear Development」 という英単語をご存じだろうか。
日本語ではどうだろうか。
前者は 「核兵器」 となる。
後者は 「原子力開発」 となる。
英語ではどっちも同じく 「Nuclear」 が含まれている。
当たり前である。
だって、どっちも同じ物質を処理することを指している。
でも、日本語では、「核」 と 「原子力」 に使い分けている。
「核」 といえば、いわゆる悪者である。
しかし、「原子力」 を言うと、なにか我々にとって必須なものに聞こえる。厳密には、必須なものだと聞かされてきている。
「核開発」 をしてはいけないという。
けれども、「原子力開発」 は大いにやって良いという。
ただ、「核開発」 と 「原子力開発」 はどう違うのか、いやっ、そもそも違うのかどうかを誰も説明しないまま今日に至っている。
そのわけは、 「核開発」 と 「原子力開発」 は根本的には同様なことであるに尽きる。
だとすると、「核」 と 「原子力」 の使い分けは、日本(語)のズルさになる。
そして、そのズルさによって日本人がこれまで騙されてきたことになる。
だから伺いたいのである。
気付いたことがあるだろうか。
考えたことがあるだろうか。
「Nuclear Weapon」 という英単語をご存知だろうか。
「Nuclear Development」 という英単語をご存じだろうか。
英語ではどっちも同じく 「Nuclear」 が含まれている。
当たり前である。
だって、どっちも同じ物質を処理することを指している。
相変わらずすごい。
ただ核と原子力の使い分けはずるさでもあり賢さでもあります。
日本は世界で唯一核攻撃を受けた国であり戦後にその日本が核開発などという言葉を国内的にも国外的にも使えるわけがありません。日本はまだ新興国と呼べる時代、高度経済成長期に最も日本の電力の安定供給に貢献したのが原子力であったのは紛れも無い事実。核か原子力かという気持ちの問題で民主主義で安定的エネルギーを否定していたら今の日本は存在していないハズです。それは今伸びざかりのインドだからこそ分かるはずです。安定供給できない電力が経済にもたらす弊害を。今の福島の後に考えれば狡さとも言えますが今の日本経済の地位を考えれば上手さが正しい。
ただ、資源がなく、開発土地も少なく、一億三千万人居るこの島国が経済大国となるには科学が必要だった………ただ、それだけだよ。
日本が何も犠牲なしで経済大国なんて有り得ないだろ。
昔は経済大国になるために国民はイタイタ病とか公害で死ぬ人は沢山居たし…
日本が世界に方を並べる為には犠牲も…ありってことなんじゃないの…。
でも、日本なら今回のこと何とかなるって思うんよ。
私の祖父は元日本軍人なんだ。
祖父は今回のこと、
『戦後最悪だ。だけどな、戦後直後も最悪だったんだよ。広島・長崎に原爆を落とされた。その時もプルトニウムなどの問題もあっただろう。しかし、日本は復興しただろう。 崩壊しきったなら…あとは建て直すだけだ。 大丈夫、若いお前たちだけに辛い道を行かせやしないさ。 俺たち戦時中世代もできることをやるし、お前たちに助言もする。 また再建をしような。 絶望は絶対にするな。 前を向け。歩け。辛くなったら上を向け。』
って言って微笑んでた。
うちは現代日本人は弱いよね。
昔の日本人が強すぎるのかもしれないけど…
あぁ、余計な話ししてすみません。
日本語は狡い。
確かにそうかもしれませんね…。
今回は、確かに日本語のズルさは日本語の賢さでもあったと思います。裏表一体だったと思います。
そして、原子力が戦後の日本を支えたことも否定できません。「核」を口にするのはタブーだったこともわかります。どれもまったく反論できない事実であります。
インドも、30~40年前に日本がたどった道を歩もうとしています。
しかし、です。フクシマが起きた以上、原子力推進派の専門家の話を聞いていたら、賢さがズルさにしか見えてこないです。それに、「核」を「原子力」に見せかけて推進してきた罪がやっぱり大きいような気がしてならないです。
「核」の怖さを日本人が知っているからこそ、「原子力発電所」でごまかさないで、「核発電所」にしてほしかったです。その方が、「必須かもしれないけど核爆弾と同じぐらいヤバイものだぞ」という認識がもっと浸透していたかもしれません。
広島・長崎があるから「核」を反対しておきながら、フクシマを防げなかったのはズルさ以外なんと言えるでしょうか?
なんかまとまりのない返事になってしまいました。それだけ難しい問題だということでしょうか。
それは、既に気付いていたからか、、当たり前過ぎて私達日本人に話してくれなかったのか。
知りませんでした。
日本人、、日本人同士でも騙しあっている点は 確かにずるい国民なのかもしれませんね。
みんないい人ぶって、、
外国人でもこんな違いに気付いている人があんまり多くないかもしれませんよ。僕の知り合いでは知らない人が大多数でした。
「核」と「原子力」の使い分けについて、今まで気に留めたことがなかったため、興味深く読ませていただきました。
「核開発」と「原子力開発」の違いは、「核(原子力)」の「攻撃的利用」か「積極的利用」、すなわち利用目的の違いだと思っていたのですが、確かに「原子力開発」と呼ぶことによって、その攻撃的な側面が見えにくくなる気がしますね。
今回のフクシマの事故は「今まで何もなかったのだからこれからも何もないだろう」という根拠のない安心が引き起こした事故のようにも思います。でも、経験したことのない事態を想定し備えることは案外難しく、科学技術の進歩の速度に対して、人間のそれを管理する能力が十分に追い付いていないということなのかなとザ・インド人さんのブログを読みながら思いました。
それにしても、素晴らしい日本語ですね。なかなか外国人で流暢に話すことはできてもここまできちんと書ける人はいないように思うので、感心しました。また新しい記事を拝見したいです!
はじめまして&どうもありがとうございます。
褒められるのは得意じゃなくて...(叱られるのも苦手ですが)。またぜひ(あんまり期待せずに)覗いてみてください!
おっしゃるとおり、科学の進歩に人間の管理能力が追いついていっていないかもしれませんね。
それと、追いついていけないであろう科学を生み出そうとする人間の思考能力にも問題があるということでしょうか?「核」と「原子力」のように言葉を上手に操るのも、そういう思考能力のなさを隠すためでしょうか?
ありがとうございます。
私は原子力に限らず、「科学」というものは「自然の法則を理解することによりそれを人間に都合が良いように制御、利用しよう」という意図から存在するのではないかと思っています。ただ、便利な面ばかりに気が向くあまり、リスクの方にはなかなか目がいかないのが、人間の思考能力の足りなさといえば足りなさであり、まあ、人間とはそんなものさ、と思えばそんなものなのかもしれません。リスクも理論的には備えれば回避できるということなのでしょうけれど、実際問題、うっかりミスや、全く予想もしてなかった事態というのは起こり得るわけで、それら全てに備えるリスク回避システムを構築できるかどうかというのはなかなか難しそうですよね。
全ての人間、あるいは国民が科学(技術)のリスクについて意識している必要があるとも思いませんが、せめて、国のトップやエリートと呼ばれる人々やその道の専門家は、もう少し想像力をもっていても良いのではないか、と今回の事故のニュースを知った時に思いました。
「核」と「原子力」はおそらく、わりと最近に日本語に持ち込まれた外国語からの訳語だと思われますが、爆弾や兵器には「核」を使用し、発電所には「原子力」を使用することにしたのは、やはり誰か(メディア?)の作為があったのでしょうか。いつ頃、「核開発」や「原子力発電所」という用語が日本に定着したのか知るのもおもしろそうですね。
原発に関する日本の備えと対応がこんなにずさんだったことが明らかになったところで、これから原発に夢を託そうとしているインドのことを考えればぞっとします。
これまでだと、何か問題があれば日本に頼れば良いという思いもあったのだが、これからはどうなるでしょうか。
それでも、3・11以降の日本の現状を考えると、日本だからこそこんなに平常でいられるとも思いますが。
やはり、これからのインドのことを考えればぞっとします。「核」 と 「原子力」 を使い分けていないだけが救いか...