今日は月一のコンサルタントに通う日だ。
息子のことで相談をお願いしている。ま、ここ一月は特にトラブルもなかったかな。相変わらずマイペースで、今朝も車に乗って仕事に出かけた。
彼が得る報酬は、おばあちゃんの年金の半分程度の雀の涙だ。若い子がなかなか報われない社会だ。
かと言っておばちゃんを責めるのもおかしい。おばあちゃんの世代こそが戦後日本をここまで立ち上げてきた、一番苦労した人達なので、若い人がこれに報いるのは当然だ。それにおばあちゃんのような女性でも、空襲で命を落としていた可能性はあるし、現にあまり空襲がなかったこの田舎でも命を落とした友人がいた。とおばあちゃんは言っていた。
さて、今日もオートホールドとヒル・ローンチ・アシストをいろいろ試してくる。
*****
またタイトルを変えた。
これまで愛車CX-5を「愛妻N」と呼んでいた。
今日から「愛妻のっち」だ。
「のっち」というのは、私が唯一愛した女性の名前の最初の音が「の」なので、そこから取った。
「N」よりは遥かにまし。
偶には「のっちゃん」と言うかも。酔っぱらっている時はうっかり本名の「の○○」と書いてしまうかも。
ま、ほぼ匿名状態なので、問題ないが。
しかし「真理子」などの名前とは異なり、最後に「子」がつかないし、この名前の女性がそんなに大勢いるとも思えないので、安全を期して「のっち」とか「のっちゃん」とか言うことにする。
とはいえ、あくまでも本人ではなく、愛車CX-5のことだ。
本人はもう9年前になるか。私の求愛をあっさり断ったので、今の姿形もよく分からない。
未だに独身であることだけは、風の便りに聞いているが。
*****
さて、その愛妻のっちに乗って(誤解を招きそうなので、五回くらいの繰り返しになるかもしれないが、「のっち」というのは自動車のことです。それを「愛妻」と呼び、擬人化しているだけです。)C市まで飛ばした。
トリップメーターの使い方が分かったので、早速距離を測った。
片道60キロほどだ。
5キロほど下の道を走る。その後、高速に入り、40キロほど走るかな。最後また下の道に降りて10キロほど走る。
今回も追尾機能に助けられたが、勿論、オートホールドにもお世話になった。
今日、画期的だったのは、初めて停車時にクラッチから足を離したことだ。
これまではオートホールドを入れて、停車していても、何となく心配だったので、クラッチは踏みっぱなしだった。
今日、おそるおそる交差点で停車したときに、クラッチとブレーキから完全に足を離した。
すると、自動的にアイドリング・ストップ機能が発動した。
(アイドリング・ストップという和製英語については、言いたい事が山ほどある。しかし本論を壊すかもしれないので、またの機会に)
この停車状態のホールドと同時にアイドリング・ストップが効いて、車の中がしーん、となるのがとても気持ちいい。
疲れが取れそうだ。
なるほど。オートホールドはこういう効用もあるのだ。
と感じ入った次第。
ますます、のっちが好きになった。
*****
そもそも自分にどれほどの「愛情」の在庫があるのか、よく分からん。
別れた昔の嫁からは、何度も「あなたはサイボーグみたいだ」と罵られた。要は、愛情のない男だ。という意味。
しかし、私は子供の頃、石森章太郎の「サイボーグ009」の大ファンだったので、そう言われる度に嬉しかった。ちょっと屈折してるな。
離婚して息子を引取り実家に戻ってきて、首都圏の生活、マンション生活ともおさらばした。
東京ほどの利便性は勿論ないが、しかしかといって全くの田舎ともいえない、地方都市の一軒家に落ち着いた。
やれやれ、と思ったら、あれほど何から何まで男手一つで世話をした息子から「お父さんは自分に何もしてくれなかった」と言われた。
改めて、いわゆる「愛情」というエネルギーが自分には足りないのかな、と思った。
とはいえ、全くない訳でもないだろう。と自問した。
しかし今、少し愛情があったとしても、それを投入する対象がなければ、社会的には「愛情がない」と判定されても仕方ない。
ではどうするか。
自分に愛情という emotion があることを証明するだけの不純な目的で、適当な女性を引っ張ってきて、かみさんにするとか、愛人にするとかは、自分の好みではない。
そこで愛情の対象として私が選んだのが、このCX-5。愛妻のっちだ。
加えて、毎朝、水を撒いている我が家の庭にも、愛情を注いでいる、という実感が最近している。
ということで、庭にも名前を与えたい。と思って、これも私がかって、かなり昔に惚れたある女性の名前を与えることにした。
「真理子」だ。
これはあまりいもありふれた名前なので、実名を割り当ててもほぼ、実害はない。
と思った次第だ。
これからは水をやる度に「真理子ちゃん。今朝も元気かい?」と呼びかけることにする。
*****
日経の夕刊の一番後ろのページ(多くの日本人にとって一番最初のページ)の「夕刊文化」という欄い、『目利きが選ぶ3冊』というコーナーがある。
いつもは読み流すだけだ。
今日のコーナーに、おっと思う本が推薦されていた。
思わずアマゾンで速攻で注文した。
中沢孝夫という兵庫県立大学客員教授のご推薦である「平成の経営」という本。
著者は伊丹敬之氏。知らない人だ。
しかしまず目を引いたのは、評点の星が五つ星ということ。これは希なことだ。
ま、この評者が片寄っているだけ、という可能性はある。しかし、いやしくも日経に載る訳だから、それなりの客観性は朝日新聞や東京新聞よりはあるだろう。
ま、それは表面的なことで、私がこの本を買った本当の理由は、次のようなことだ。
世間では、特にパヨク連の間では、平成は失われた30年、という言われ方をする。
日本は経済的にも停滞し、人口は減少しはじめ、もう大国ではない、という見方だ。
私も数年前まではそんな考え方だったが、ここ数年、違う思いを抱いている。
私は昭和を30年ほど、そして平成を30年生きているので、ほぼ半々だ。
確かに昭和はエネルギーに溢れていたが、社会的に成熟していたか。人がみな素晴らしかったかと言えば、ちょっとクビを傾げる。
私は小学校、中学校の頃、いまでは信じられないほどのおかしな大人が一杯いた。
学生運動とかとは別に。(勿論、全共闘などの学生運動は、どう贔屓的に見ても、おかしい、というのが私の個人的な見解だが)
巷に変な、常識からずれたおっさんが、ごろごろいて、子供にとってはそれなりにやばい社会だった。
皆さん、タバコはすぱすぱ吸って、遠慮なく路上に捨てていた。
旅の恥は掻き捨てで、やりたい放題。
今の若い子には想像もできないと思うけど、例えば映画館に行けば、食べた残りとか包んでいた紙は、椅子の下に押し込むが普通。映画が終わってそれを自分で持ち出してゴミ箱に捨てるなどということは全くなかった。
列車に乗るときも、食べ散らかしたものは椅子の下の入れてそれでおしまい。
駅のトイレはといかく汚いのが日常風景。
そんな、粗い社会だったのだ。
それが平成になって、GDPは別として、社会の整理整頓の進歩たるや、呆れるほど。
トイレは綺麗になるわ、路上のポイ捨てはほぼ絶滅状態。
昔はガムですら皆さん平気で、紙に包むこともなく、道にぺって掃いて捨てていたのだよ。
信じられないでしょ。
今、日本の若い子達は、ほとんど道にゴミを捨てたり、ガムを吐いたり、タバコの捨て殻を放り投げたりしない。
それはそうしないと罰せられるから、というのではなく、そんなことをすると、とても気持ち悪いからだ。と思う。
分かり易い例は、畳だ。ほとんどの日本人は靴を履いたまま畳に乗ることはないだろう。
そんなことをすると叱られる、というレベルのことではなく、それがとても心地悪い行為だ、と思うからだ。
誰も見ていなくても、ずかずかと畳に土足で入る日本人はほぼいない。
その忌避感が、畳のみならず、いろんなことに拡大していったのが平成だと思う。
ま、以上のことは若干象徴的な例だが、この平成という時代は、日本が、そして日本人が、ある意味、歩みと停めて、地を固めた時代で、踊り場だったという気が自分はしていた。
しかし、そんなことはテレビ、新聞で誰も書かないし言わない。
勿論パヨク連は、日本はもうだめ。これから中国、という暴言・妄言した言わない。
という欲求不満があった。
それがこの日経の書評で、実は平成時代は、日本人が自らの強さ(頸草)を育てたのだ、という本が出たというので、思わずアマゾンで買ってしまった。
自称怠け者の自分なので、買っても読まない可能性がある。
もし読んで何らかの感想があれば、このブログでまた書きます。
息子のことで相談をお願いしている。ま、ここ一月は特にトラブルもなかったかな。相変わらずマイペースで、今朝も車に乗って仕事に出かけた。
彼が得る報酬は、おばあちゃんの年金の半分程度の雀の涙だ。若い子がなかなか報われない社会だ。
かと言っておばちゃんを責めるのもおかしい。おばあちゃんの世代こそが戦後日本をここまで立ち上げてきた、一番苦労した人達なので、若い人がこれに報いるのは当然だ。それにおばあちゃんのような女性でも、空襲で命を落としていた可能性はあるし、現にあまり空襲がなかったこの田舎でも命を落とした友人がいた。とおばあちゃんは言っていた。
さて、今日もオートホールドとヒル・ローンチ・アシストをいろいろ試してくる。
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またタイトルを変えた。
これまで愛車CX-5を「愛妻N」と呼んでいた。
今日から「愛妻のっち」だ。
「のっち」というのは、私が唯一愛した女性の名前の最初の音が「の」なので、そこから取った。
「N」よりは遥かにまし。
偶には「のっちゃん」と言うかも。酔っぱらっている時はうっかり本名の「の○○」と書いてしまうかも。
ま、ほぼ匿名状態なので、問題ないが。
しかし「真理子」などの名前とは異なり、最後に「子」がつかないし、この名前の女性がそんなに大勢いるとも思えないので、安全を期して「のっち」とか「のっちゃん」とか言うことにする。
とはいえ、あくまでも本人ではなく、愛車CX-5のことだ。
本人はもう9年前になるか。私の求愛をあっさり断ったので、今の姿形もよく分からない。
未だに独身であることだけは、風の便りに聞いているが。
*****
さて、その愛妻のっちに乗って(誤解を招きそうなので、五回くらいの繰り返しになるかもしれないが、「のっち」というのは自動車のことです。それを「愛妻」と呼び、擬人化しているだけです。)C市まで飛ばした。
トリップメーターの使い方が分かったので、早速距離を測った。
片道60キロほどだ。
5キロほど下の道を走る。その後、高速に入り、40キロほど走るかな。最後また下の道に降りて10キロほど走る。
今回も追尾機能に助けられたが、勿論、オートホールドにもお世話になった。
今日、画期的だったのは、初めて停車時にクラッチから足を離したことだ。
これまではオートホールドを入れて、停車していても、何となく心配だったので、クラッチは踏みっぱなしだった。
今日、おそるおそる交差点で停車したときに、クラッチとブレーキから完全に足を離した。
すると、自動的にアイドリング・ストップ機能が発動した。
(アイドリング・ストップという和製英語については、言いたい事が山ほどある。しかし本論を壊すかもしれないので、またの機会に)
この停車状態のホールドと同時にアイドリング・ストップが効いて、車の中がしーん、となるのがとても気持ちいい。
疲れが取れそうだ。
なるほど。オートホールドはこういう効用もあるのだ。
と感じ入った次第。
ますます、のっちが好きになった。
*****
そもそも自分にどれほどの「愛情」の在庫があるのか、よく分からん。
別れた昔の嫁からは、何度も「あなたはサイボーグみたいだ」と罵られた。要は、愛情のない男だ。という意味。
しかし、私は子供の頃、石森章太郎の「サイボーグ009」の大ファンだったので、そう言われる度に嬉しかった。ちょっと屈折してるな。
離婚して息子を引取り実家に戻ってきて、首都圏の生活、マンション生活ともおさらばした。
東京ほどの利便性は勿論ないが、しかしかといって全くの田舎ともいえない、地方都市の一軒家に落ち着いた。
やれやれ、と思ったら、あれほど何から何まで男手一つで世話をした息子から「お父さんは自分に何もしてくれなかった」と言われた。
改めて、いわゆる「愛情」というエネルギーが自分には足りないのかな、と思った。
とはいえ、全くない訳でもないだろう。と自問した。
しかし今、少し愛情があったとしても、それを投入する対象がなければ、社会的には「愛情がない」と判定されても仕方ない。
ではどうするか。
自分に愛情という emotion があることを証明するだけの不純な目的で、適当な女性を引っ張ってきて、かみさんにするとか、愛人にするとかは、自分の好みではない。
そこで愛情の対象として私が選んだのが、このCX-5。愛妻のっちだ。
加えて、毎朝、水を撒いている我が家の庭にも、愛情を注いでいる、という実感が最近している。
ということで、庭にも名前を与えたい。と思って、これも私がかって、かなり昔に惚れたある女性の名前を与えることにした。
「真理子」だ。
これはあまりいもありふれた名前なので、実名を割り当ててもほぼ、実害はない。
と思った次第だ。
これからは水をやる度に「真理子ちゃん。今朝も元気かい?」と呼びかけることにする。
*****
日経の夕刊の一番後ろのページ(多くの日本人にとって一番最初のページ)の「夕刊文化」という欄い、『目利きが選ぶ3冊』というコーナーがある。
いつもは読み流すだけだ。
今日のコーナーに、おっと思う本が推薦されていた。
思わずアマゾンで速攻で注文した。
中沢孝夫という兵庫県立大学客員教授のご推薦である「平成の経営」という本。
著者は伊丹敬之氏。知らない人だ。
しかしまず目を引いたのは、評点の星が五つ星ということ。これは希なことだ。
ま、この評者が片寄っているだけ、という可能性はある。しかし、いやしくも日経に載る訳だから、それなりの客観性は朝日新聞や東京新聞よりはあるだろう。
ま、それは表面的なことで、私がこの本を買った本当の理由は、次のようなことだ。
世間では、特にパヨク連の間では、平成は失われた30年、という言われ方をする。
日本は経済的にも停滞し、人口は減少しはじめ、もう大国ではない、という見方だ。
私も数年前まではそんな考え方だったが、ここ数年、違う思いを抱いている。
私は昭和を30年ほど、そして平成を30年生きているので、ほぼ半々だ。
確かに昭和はエネルギーに溢れていたが、社会的に成熟していたか。人がみな素晴らしかったかと言えば、ちょっとクビを傾げる。
私は小学校、中学校の頃、いまでは信じられないほどのおかしな大人が一杯いた。
学生運動とかとは別に。(勿論、全共闘などの学生運動は、どう贔屓的に見ても、おかしい、というのが私の個人的な見解だが)
巷に変な、常識からずれたおっさんが、ごろごろいて、子供にとってはそれなりにやばい社会だった。
皆さん、タバコはすぱすぱ吸って、遠慮なく路上に捨てていた。
旅の恥は掻き捨てで、やりたい放題。
今の若い子には想像もできないと思うけど、例えば映画館に行けば、食べた残りとか包んでいた紙は、椅子の下に押し込むが普通。映画が終わってそれを自分で持ち出してゴミ箱に捨てるなどということは全くなかった。
列車に乗るときも、食べ散らかしたものは椅子の下の入れてそれでおしまい。
駅のトイレはといかく汚いのが日常風景。
そんな、粗い社会だったのだ。
それが平成になって、GDPは別として、社会の整理整頓の進歩たるや、呆れるほど。
トイレは綺麗になるわ、路上のポイ捨てはほぼ絶滅状態。
昔はガムですら皆さん平気で、紙に包むこともなく、道にぺって掃いて捨てていたのだよ。
信じられないでしょ。
今、日本の若い子達は、ほとんど道にゴミを捨てたり、ガムを吐いたり、タバコの捨て殻を放り投げたりしない。
それはそうしないと罰せられるから、というのではなく、そんなことをすると、とても気持ち悪いからだ。と思う。
分かり易い例は、畳だ。ほとんどの日本人は靴を履いたまま畳に乗ることはないだろう。
そんなことをすると叱られる、というレベルのことではなく、それがとても心地悪い行為だ、と思うからだ。
誰も見ていなくても、ずかずかと畳に土足で入る日本人はほぼいない。
その忌避感が、畳のみならず、いろんなことに拡大していったのが平成だと思う。
ま、以上のことは若干象徴的な例だが、この平成という時代は、日本が、そして日本人が、ある意味、歩みと停めて、地を固めた時代で、踊り場だったという気が自分はしていた。
しかし、そんなことはテレビ、新聞で誰も書かないし言わない。
勿論パヨク連は、日本はもうだめ。これから中国、という暴言・妄言した言わない。
という欲求不満があった。
それがこの日経の書評で、実は平成時代は、日本人が自らの強さ(頸草)を育てたのだ、という本が出たというので、思わずアマゾンで買ってしまった。
自称怠け者の自分なので、買っても読まない可能性がある。
もし読んで何らかの感想があれば、このブログでまた書きます。