チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「シシンのための打つ理学」

2006年02月02日 00時10分45秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
>やすのぶさん、

<彼の本には【玉】なんて無いと言われるかも知れませんが・・・・・>
▲人魂がヒト騙し・オオウソツキ・ジョウダンジャということは、
早大の大槻教授が証明しましたが、同氏が訳した講談社ブルーバックスは、
「詩人のための物理学」です。いっぽう、魂ではなく、
【玉】といえば、「小倉」百人一首にではなく、万葉集に、
「ひなのなる、痴熊のタワーの、細石も、君し貴文てば、【玉】と拾はむ」
という歌がありました。東歌ですから、青流(龍)は流れてても、
山部「連」赤人の佐久ではないと思われます。それはともかく、
この前も書きましたが、小倉氏を嫌ってなどいません。ただ、
「プロ」としては笊であり、「ひたすらチャイコが好き」というだけでは、
巷にあふれるムラヴィンスキーの演奏を最高と信仰するカン違いな
「チャイコ好き」と大差ない、ということです。

<森田氏の本には、参考文献として、小倉氏の著作は全く取り上げられていません>
▲同氏でさえ、小倉氏の「プロらしからぬ笊さかげん」にあきれてるのでしょう。
ちなみに、仏語「ドラジェ」が伊語「コンフェット」であること、
アマンドあるいはハシバミの実に砂糖をまぶしたものであること、
イタリアではそれを婚礼のときに花嫁が客にふるまうこと、
なぜならそれが「卵」「出産」「繁殖」「繁栄」を象徴するものだからということ、
すら、「彼ら」は知らない。ゆえに、なぜ、日本で、
ドラジェの精がコンペイトウの精に名変されたまま、別の、
おなじくラテン語系のポルトガル由来の「金平糖」と混同されるようになったか、
説明できないのです。日本における第一線のチャイコフスキー研究者の
教養・知能・洞察力とは、その程度のものです。

<チャイコフスキーは《優しい》だけをカットしたのではなく、
 この字句全部をカットしたのでは?>
<それで、【ドラジェの精と優しい王子。】をカットして、
 【男性舞踊手のためのヴァリアシオン。女性舞踊手のためのヴァリアシオン。】
  を残した、チャイコフスキーの真意をどうお考えで?>
▲「チャイコフスキーがカットした」というと、ずいぶんと積極的あるいは
意識してことさら「外した」ように聞こえてしまいますが、
そうではあろませんよね。自筆譜に写さなかっただけでは?
「ねむり」の「第3幕」ではチャイコフスキーは書き込みをしなくなりましたが、
そこに特別大切な意味はないでしょう。それはともかく、私の想像では、
作曲時に手元にあったのは「指示書」であり「台本」ではなかった、です。
「男性舞踊手用」「女性舞踊手用」とことさら書いたのは、ひょっとしたら、
ドラジェの精を踊る案トニ違ッタ・デッリ=エーラの体躯を皮肉贅肉ったもの、
などという他愛もないことかもしれませんよ。あるいは、
プティパの指示書への皮肉(やすのぶさんがほのめかされてるように、
クラーラちゃんとくるみ割り王子でしかるべき、と)が
こめられてるかもしれませんね。それから、
「ドラジェの精」の名だけあるのは「組曲」のタイトルとして必要だったため、
であり、ヴァリ1が「組曲」に入れられてたら、ひょっとして、
「やさしい王子の踊り」という題名になってたかもしれませんね。

<ブルックナーなら、筆写させたもので組曲を作るでしょうが、
 ブルックナーとチャイコフスキーの性格の異なるところでしょう。(笑い)>
▲性格の違いというよりは、忙しさの違いだったかもしれませんよ。なにしろ、
チャイコフスキーはくら音作曲家としては「めずらしく」生前から名声を得て、
作曲以外のスケジュールもぎっしり埋まってた人物でしたから。

<だいたい、肯定的なことは本人に言いやすいですが、
 否定的なあるいはアドヴァイス的なことは本人には言いにくいですよね(笑い)。
  だから、みんな分からないとお茶を濁しているのでしょう>
▲その点、ネットというのは対話する相手が、
「友だちどうし」でも「先輩後輩」でも「師弟」でもないので、
はっきりとしたこと、真実、正直な気持ち、
を言い合えて、指摘し合え、学習・反省でるという利点があるというのに、
日常の人付き合い感覚をネットにも持ち込むから、
おべんちゃらやお茶を濁すようなことを言って
なぁなぁにしてしまうという愚をおかすむきや、
女性(とおぼしきキャラ)には必死に食いつくヒマジンがいたり、反対に、
反対意見を書いただけで恨みを抱くむきがままいるのが、
アホらしくもったいないことだと思います。

<だいたい、あの文章では、第1主題は《トロンボーンの全音符である》
 ということすら、読み手には理解されないでしょうから・・・・・>
▲私も「普通の感覚だったら」理解できません。しかし、前にも書きましたが、
マーラーの「交響曲」を「くら音」とは考えてません。
「ソナタ形式を取り入れてみたジャズ」と思えば、合点がいく論説です。

<ブルックナーの記譜上の特徴は余さず印刷することによってこそ
 ブルックナーの意図が見えてくるものです>
▲同様のことを、ガキの頃、古文の先生に教えられました。

<ですから、『悲愴』を究めようとするのなら、
 是非とも自筆譜コピーを入手されるべきです>
▲ド素人の私がやろうとしてることは、究めることではありません。
本職はまったく別の世界ですし、日曜在野学者になるつもりもありません。
せいぜい、「世に流布してる明らかな誤り」を指摘することです。
運がよかったら、入手できることもあるかもしれません。

<今年、ぼくのアマオケで『悲愴』をやります。
 まあ、おっつけ話題にしましょう>
▲ぜひ、お聞かせください。また、もし、さしつかえなければ、指揮者に、
「『悲愴』はまずなによりも『吸って<>吐いて』を
おろそかにしないことが肝要」ですが、
「2つの『ffff』を充分にオーディエンスに知覚させること、
2楽章の中間部のテンポを落とさないこと
(5拍子のバロック・ワルツ♪ミーーミ・ミーーー>レー│
>ドーード・ドーーー>シー♪が、4楽章終いのアンダーンテという
スロウではあるが正規の3拍子ワルツで、♪ミー│ミー>レー、
>ドー│ドー>シー♪となるコントラストを台無しにする)、
3楽章のテンポを速くしすぎないこと」
などを注意してあげてください。
vnは両翼配置、バスクラなど使用しないこと、は言うまでもありません。

<『モツレク』『第9』とくれば、もちろん迷うことなく『第九』でしょう。
 未完成な点はつらいですが、深さはぜんぜん違います>
<でも、ぼくなら『弦五』か『ピアノソナタ21番』あるいは
 『城之内ミサ曲第6番』ですね。
  『モツレク』『第9』ラインからすると当然の帰結です>
▲以前から私が、
「ベートーヴェン」「シューベルト」「ブルックナー」「チャイコフスキー」
を「四神」、「モーツァルト」を「土用の神」とあてこすってることは
ご存知ですよね? とすれば、なぜ「シューベルト」は「交響曲」なのか、
おわかりになるでしょう(ただし、ハ長(D944)は、ある理由でボツ)。
さらに、<「8番」か「9番」か>というナゾかけも、実は、
シューベルトの「未完成」がすでに「8番」でなくなってしまった以上、
ブルックナーは「9番」(未完成)という「答え」をすでに決めてたのです。
♪未完のはぁ~ながぁ~~、咲ぁあいてぇ~いるぅ~~~♪
が、感動度は私にとっては真実、同程度です。私には「深遠さ」はわかりません。

<こんなことを言うのはたいへん失礼ですが、
 シューベルトを系統的に聴いておられないのでは?>
▲そこです! 私が常々言いたかったことは。このようなネットの場では、
そのような思いは正直に指摘していただきたいのです。
まったく失礼ではありません。ただ、
「系統的」という言葉が私には難しいのですが、
シューベルトの作品も、すべてではないにしろ、
かなりの数を「聴いて」るとは思います。むしろ、
「歌曲」を「別物」とおしゃるやすのぶさんの「聴きかた」はなるほど
「系統的」なのかもしれませんが、「偏食」ともいえます。
上記のような「指針」的選出でなければ、
「菩提樹」にしたところです。「記念樹」だと、
小林亜星大先生からクレームがつくかもしれません。それはともかく、
室内楽にもpfソナタにも、私はシューベルトに天才を感じないだけです。
必死の「背伸び」……でも、ベートー神の足元にも及ばない……
それがシューベルトの思いでもあったのでは? ところで、
「アルぺッジョーネ・ソナタ」をギターで演奏してるのをいちど聴いてみたい
(pfと合うのか、ということも含めて、興味あります)のですが、
そんなギタリスト、いますかね? エロキモいオヤジとしては、
エロカッコいい村治佳織嬢に弾いてもらいたい!(※)

<100人はたいへんですよね。大胆な試み。ぼくなら20人くらいでギブアップ!>
<これらを正当に評価できるのですか?>
▲ですから、「定家」先生の「百人秀歌」に倣ったまで、と申し上げたつもりですが。
定家も「本当の」秀歌を選んだわけではありませんよね。
「ある意図」のもとに選んで編んだ、そうですよ。「百人秀曲」も、
私の選択趣旨に基づいてれば、それでいいわけです。「百太郎」なら、
お爺さんは山へシバカレに、お婆さんは川へ洗濯バサミ・プレイに、です。
彼らの腿が顔に近づけばその「声」は高く、遠ざかれば低くなります。
これを、我々、似非ハンガリー田園打つ理学者のあいだでは、
「どんぶらこぉ~効果」と呼んでます。

<たとえば、ボッケリーニを選ぶときにはどうするんでしょう?
 シューベルトの『弦五』の解説に、この曲の手本はボッケリーニにあり、
  彼は何十曲も弦五を書いたとのことです>
▲手本=類似・ボッケリーニなわけですね。それはともかく、
すべての作品を聴いてその中から「正当に」評価する?……
そんなことが私にできるはずがあるわけないではありませんか。
当たるもボッケリーニ、当たらぬもボッケリーニ。たまたま、
世間様の同意を得れれば、それ、ボッケリーニの幸い、というものです。

<また、ギターを含む室内樂がいっぱいあるようです>
▲村治嬢が「連」ねて弾けば、聴いてみたいと思うでしょうね。


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指示書きとスコア (やすのぶ)
2006-02-04 11:44:26
<▲「チャイコフスキーがカットした」というと、ずいぶんと積極的あるいは意識してことさら「外した」ように聞こえてしまいますが>



そうです。パッションさんのような慧眼の方が、チャイコフスキーがスコア上に託したことに注目なさらないことは不思議です。



<「ねむり」の「第3幕」ではチャイコフスキーは書き込みをしなくなりましたが>



御意。そこには、たまに踊る人の指定があるだけですね。そこには、物語は無い。あるのは、レヴューだけです。そして、そこでは主役のオーロラとデジレだけが目立てばよいわけです。ちゃんと書かれていますね。

これは以前ヤフーの時代にも話したことですが、『イヨランタ』と『くるみ』はセットで上演されることを意図していたようですね。ぼくはそれを、物語とレヴューの性格にあわせるためと考えています。ちょうど宝塚や演歌歌手の座長公演のように、一晩の舞台は二部構成で、第一部でお芝居をやり、第2部で歌や踊りをやると言うものですね。これは観客を楽しませるためには上手い構成法だとぼくは考えています。

長大な『眠り』はこの2つの要素が加味されたものだということです。

すなわち、

序幕・第1幕・第2幕ーー第3幕

という構成は、振り付け師が考えたもので、本来は

第1幕・第2幕・第3幕ーーアポテオーズ

という構成にしたいとチャイコフスキーは考えていたのではないしょうか。

したがって、物語は第2幕で終わり。で、第3幕はレヴュー形式で舞台を盛り上げるだけということではないでしょうか。



<作曲時に手元にあったのは「指示書」であり「台本」ではなかった、です。>



御意。フセ氏の意向がどうであろうと、踊りに合わせたものを作曲するのが、チャイコフスキーの使命ですから、指示書には忠実であろうとしたでしょう。

そして、指示書はプティパが書いたものであることも間違いないでしょう。振付ける人が書かないと意味が無いですから・・・・

で、『眠り』や『くるみ』の指示書の正確な翻訳をお持ちですか?

ぼくは、あやしい小倉氏のものしか持っていません。



ここで問題となるのは、印刷譜が正しくチャイコフスキーの自筆譜を再現しているかどうかです。

そのためにも自筆譜に当たるようお奨めしているのです。パッションさんは写真かなにかで自筆譜をご覧になれますか?



これも、前に話題にしましたが、ぼくは小沢の『白鳥』のLPの解説のなかに1ページ自筆譜を写真で見ることが出来ます。(もちろん、それが筆写譜の版下である可能性を否定出来ませんが)

それはNO.9の最初のページです。そこには両印刷譜と同じものが書かれています。すなわち、ト書きは最後にetc.と書かれその後は省略されています。

このことは、また話題にしたいと思います。



とにかく、チャイコフスキーの意図と合致したものはスコアに書かれるけれども、合致しないものは省略あるいは無視されるということではないでしょうか?

また、当然ト書きがあるべきところで、何も書かれていないという部分については、チャイコフスキーの腹に一物があるという風に理解すべきでしょう。そして、それは音楽そのものから、我々が引き出すべきものであって、チャイコフスキーはそれを期待しているものと思われます。



<「男性舞踊手用」「女性舞踊手用」とことさら書いたのは>

もちろんこれはプティパが書いたものですよね。ですから、『眠り』のときと違って、このパドゥドゥーでは、プティパ自身にすらなにか思うところがあるのでしょう(でないと、こんな抽象的な書き方はしないでしょう)。で、それをチャイコフスキーが追認したか、あるいは皮肉ったかで、スコアに現れているのだとぼくは思います。



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『悲愴』ほか (やすのぶ)
2006-02-04 12:42:30
<もし、さしつかえなければ、指揮者に、

・・・・・

などを注意してあげてください。>

差し支えありますねえ。(笑い)

指揮者は独自の世界を持っています。たんなる一奏者が勝手な意見を述べることは出来ません。もちろん訊かれた時は、ここで学んだことを話題にしてもよいですが、訊かれる事は有り得ないです。



<(ただし、ハ長(D944)は、ある理由でボツ)。>

どういう理由ですか?差し支えなければお聞かせください。



<シューベルトの「未完成」がすでに「8番」でなくなってしまった以上、>

シューベルトには、ベートーヴェンやブルックナーのような番号がないことはご存知ですよね。『未完成』の自筆譜には『交響曲ロ短調』とだけ書かれています。番号は全集版を作った人が作曲順(だと推定して)勝手につけたものです。それでも6番までは鑑賞上あまり害の無いものでしょう。でも、それ以降は無意味です。

もちろんシューベルト自身はこの6曲も番外と考えていたでしょう。それは、出版されたピアノソナタから十分類推可能の根拠ある事実です。『大ハ長調』がもし出版されたら『第1交響曲』となったでしょう。(ベートーヴェンと同じ調です・・・・)



<なぜ「シューベルト」は「交響曲」なのか、

おわかりになるでしょう>

分かりません。

『未完成』に見る、これしかないという天才的《唯一感》と同様だと思う作品をぼくはチャイコフスキーの『白鳥』から感じています。『白鳥』も『未完成』と同様聴くと涙がとどめようもなく流れてきます。

それでも、ぼくはパッションさんが『悲愴』を最高作と断言されていることに敬意を表します。たしかに、僕自身も『悲愴』の方により深さを感じます。

なぜなら、天才という存在は、常に進歩し続けるバケモノだからです。

シューベルトで『モツレク』に相当するのは『ミサ曲変ホ長調』です(こちらは完成作)。これは最後の年1828年の作品です。残念ながら『大ハ長調』は1825年作です。この深みの違いは歴然と聴き取れます。



<「系統的」なのかもしれませんが、「偏食」ともいえます。>

もちろん、全く聴かないわけではありません。シューベルトの二面性を考えているのです。器楽曲と歌曲は密接な関連があります。



<必死の「背伸び」……でも、ベートー神の足元にも及ばない……それがシューベルトの思いでもあったのでは?>

それは、それはわが国に洋楽がもたらされて以来、えらい先生方が植えつけてきた、トンデモ発想です。

「世に流布してる明らかな誤り」の1つです。



<「アルぺッジョーネ・ソナタ」をギターで演奏してるのをいちど聴いてみたい>

これはたぶん不可能。調弦が一緒だからという発想でしょうが、少なくとも第2楽章はマンドリンか『アルハンブラ』のようにやらざるを得ないでしょう。

フルートやオーボエでやれてもギターでは再現不可能。



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その他 (やすのぶ)
2006-02-04 12:57:18
<▲性格の違いというよりは、忙しさの違いだったかもしれませんよ>

忙しくない大作曲家っているの?



<チャイコフスキーはくら音作曲家としては「めずらしく」生前から名声を得て>

生前から名声を博さない大作曲家でいるの?



<真実、正直な気持ち、を言い合えて、指摘し合え、学習・反省でるという利点がある>

御意。ただ、相手を人格として認めにくいという点が欠点ですね。あいては機械だと錯覚している御仁が多い(笑い)。



<▲手本=類似・ボッケリーニなわけですね>

ベートーヴェンの『田園』も、彼がああいった構成を創り出したのではなく、すでにだれかが、小川のせせらぎや農民の踊りや嵐などを題材として交響曲を作っていたそうですね。ベートーヴェンはそれを真似て作ったと言われています。

チェロ2本の『弦五』もベートーヴェンには無く、ボッケリーニの形をまねたということです。もちろん内容は聴くまでも無くぜんぜん違うでしょう。
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