チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「サバーキェ、サバーチヤ・スミェールチ(犬には、犬の死にざま)/レールモントフの死に場所(その弍)」

2011年07月29日 16時56分35秒 | 事実は小説より日記なりや?

レールモントフ 決闘 犬


"Tchaikovsky Research"というサイトの"Forum"に、
昔の米映画"The Turning Point(邦題=愛と喝采の日々)"の
エンディングに使われてたピアノ曲をチャイコフスキーの作品だと勘違いした人が
この曲のタイトルを知りたい旨の質問をしてた。
チャイコフスキーが大好き、というわりには、
ショパンとチャイコフスキーの曲の違いも判らないみたいで、実際それは、
ショパンの作品25の練習曲集のいの一番、
「エチュード変イ長調」である。シューマンがこの曲を
「エオリアン・ハープのように聴こえる」と言ったとされてることから、
"Aeolian Harp"というふうにも呼ばれてる。

風の便りにレールモントフが決闘死したという知らせを聞いた
ニコライ1世はこのように履き捨てたという。
"Собаке ― собачья смерть!"
(サバーキェ、サバーチヤ・スミェールチ!)
それぞれの語は、
"собаке(サバーキェ)"=「女性名詞собака(サバーカ)=犬」の単数与格=「犬にとって」、
"собачья(サバーチヤ)"=「形容詞собачий(サバーチィ)=犬の、犬のような」の女性形主格、
"смерть(スミェールチ)=「女性名詞смерть」の主格=「死が」、
といった内容である。で、全体の意味としては、
「犬には、犬の死(がある)」→つまり、
「チンコロには、チンコロにふさわしい死にざまなことよのう!」
「犬畜生はやっぱり犬畜生に似つかわしい死にかたをするものだ!」
みたいな感じである。ちなみに、
このロシア語のサバーカという語は古代の中近東の言葉で犬を指した
spakaが元であるという。英語のspeakとおそらく同源で、
「音を発するもの」→(吠える)犬→小うるさい野郎、→しゃべる、
とそれぞれなったものと推量される。

ツアーリ(ニコライ1世)から小うるさいチンコロ野郎と疎まれてた
レールモントフが現行暦換算1841年7月27日夕に決闘で死んだ
"Пятигорск(ピャチゴールスク)"という町は、
北カフカース(英語ではコーカサス)中央、すなわち、
2014年冬期五輪が開かれるСочи(ソーチ)から東に約250kmほどにある。
南に100km少しでグルジアとの国境である。
南東には北オセチア、その東にはチェチェン、というロウケイションである。
レールモントフが訪れる何十年か前に鉱泉が発見されて保養地として栄えはじめた。
「夜鳴きウグイス」の作曲者としてわずかに知られてる
Алябьев(アリャービエフ、1787-1851)が
冤罪をでっちあげられてシベリア送りにされたのち、
レールモントフが死ぬ10年ほど前に住んでた。その家は
レールモントフが死の前に住んでた祖母の実家のストルィーピン家の別荘のすぐそばである。
それらは標高933mのМашук(マシューク)山の南南西に現在は設置されてる
ケイブル・カーのある麓の駅から500m足らずのところである。現在、
博物館になってるこの家から東に約250mという近距離のマシューク山の南側に、
レールモントフが死ぬ10年ほど前にジュゼッペ&ジョヴァンニのベルナルダッツィ兄弟によって設計された
Эолова Арфа(エオローヴァ・アルファ=エオリアン・ハープ)という建造物が聳える。
エオリアン・ハープとは、元来は自然の風で音が鳴る、木箱に弦を張った楽器である。が、
愛下ろす、というよりは山頂から麓に風を吹き下ろす神が、
このピャチゴールスクのエオリアン・ハープの音を引き起こすかどうかは、
狆とチワワの区別がつかない拙脳なる私が知るはずもない。ともあれ、
レールモントフ博物館から北に3kmほどのマシューク山の麓が、
決闘の、つまりレールモントフの死の場所である。

さて、
レールモントフが死の前年、チャイコフスキーが生まれた1840年に書いた小説
"Герой нашего времени(邦題=現代の英雄)"
(ギローィ=主人公・ナーシェヴァ=我々の・ブリェーミニ=時代の→我らが世代の主役)
は、5部から成ってる。そして、
前2部はマクスィーム・マクスィームィチから主人公ペチョーリンの話を聞いた「私」が語り手であり、
後3部はマクスィーム・マクスィームィチが亡きペチョーリンからあずかった日記
つまり「ペチョーリン」が語り手である、
という粋な構成を採ってる。ともかく、
このペチョーリンという主人公は、「余計者」である。それはまさしく、
レールモントフ自身を映す鏡である。が、それはまた、
専横を憎む正義感を持つ複合された反社会性人格障害者だった
レールモントフとはまた違う人格である。
ペチョーリンには実は救いがある。が、レールモントフにはない。常に、
「英雄」=ナポレオンに憧れながら、
まったく正反対の惨めな生活に甘んじなければならなかった。
いろいろな女性と関係を持ちながら本当に惚れてた女性は
諦めなければならなかった。
ナポレオンも結局は失脚してはかない最期を遂げるのであるが、
それまでの過程では「英雄」である。
自分を活かす場もあり、何でも手に入れた。が、
レールモントフにはエリート社会の中で何もなかった。
政治面で叶わないならせめて文学面でプーシキンになりたかった。が、
それがまた自身の名声とともに立場を危うくした。
自分にはナポレオンやプーシキンのような才能があるのに、
あだ花でいなければならなかった。それはほとんど、
ベイブ・ルースがグラウンズ・キーパー(いわゆるグランドキーパー)としてのみ、
伊良部秀輝が饂飩屋としてのみ、白球ではなく
薄給で雇われてるようなものである。
屈辱以外の何ものでもない。
自滅への道しかなかったのである。

ともあれ、
「現代の英雄」の主人公のПечорин(ペチョーリン)という名は意味深である。
ロシア語でпещера(ピシシェーラ)、ウクライナ語でпечера(ペチョーラ)とは
「洞窟」のことである。洞窟とは隠棲者の棲家である。また、同源の語に、
"печать(ピチャーチ=刻印)"や"печь(ピェーチ=焼く)"
がある。печьからは数字の5を意味するпять(ピャーチ)が
すぐさまに連想される。レールモントフ終焉の町である
"Пятигорск(ピャチゴールスク)"という町は、
「5つの山の町」という意味である。それはともかく、
"печать(ピチャーチ=刻印)"というと、
レールモントフをガチで憎んでたニコライ1世の父アレクサンドル1世が容認してた
"скопцы(スコープツィ=去勢派)"というカルト宗教団体が信条としてた
「諸悪の根源は肉欲」という大義のもとに信者に行ってた
"печать(ピチャーチ=刻印)"が想起される。それは、
文字どおり「焼いて熱せられた鉄棒」で
乳首に傷をつける「刻印」から、それを切除する「小刻印」、さらには、
乳房まで切除してしまう「大刻印」、そして、
陰核切除が「小刻印」、小陰唇切除が「大刻印」となり、いっぽう、男性は、
睾丸切除の「小刻印」、陰茎まで切除の「大刻印」と、
ニューハーフ志望者ならいざ知らず、カルト教団にありがちな
狂信的な行為を特徴としてた。ちなみに、
この宗派はドストエフスキーの「罪と罰」の主人公
ラスコーリニコフ(分離派を意味する名)に示された
「分離派」に分類される異端である。

ペチョーリンの名にはレールモニトフ自身の「心に刻まれた異端」、そして
直系の子孫を残せない「敗北者」の意図がこめられてるのである。
レールモントフが3歳のときに母親は死んだ。顔も知らないまま。
そして、その母の名は"Мария(マリーヤ)"。マリアさま、である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」が想起される。
マリアさまは原罪(=性交)を犯さずにイエスを孕んだ。
2歳以下の幼児を殺す命をヘロデ王が下したため、
マリアさまはイエスを抱えて岩窟に身を隠した。よって、
「岩窟」はまた「聖なる場所=神殿」でもある。ウクライナの首都キエフの
"Печерська лавра"
(ペチェールシカ・ラーヴラ=ペチェールシク大修道院)には地下墓地がある。
そこがその修道院の起源だった。ために、
「洞窟大修道院」という名前なのである。
レールモントフを撃った男、
Николай Соломонович Мартынов
(ニカラーィ・サラモーナヴィチ・マルティーナフ、1815―1875)
は、実はレールモントフの茶番劇に付き合っただけだとか、
決闘は仕組まれた陰謀で木陰に隠れてた者が撃ったとか、いろいろな話が
持ち出されたが、軍事裁判にかけられ禁固3箇月を言い渡された。
出所後、キエフのペチェールシク大修道院で悔い改めることを義務づけられた。

ところで、
ニコライ1世はクリミア戦争中さなかの1855年にインフルエンザで死んだ。とされてる。が、
ベイブ・ルースや伊良部よりもデカい2.05mのこの巨漢ツァーリは、
兵力では圧倒的に上回るロシアの思わしくない戦況に悲観して
自殺したというのが真相らしい。ちなみに、
"собака(犬)"の複数形(主格)は"собаки(サバーキ)"という。
いかなる裁きがニコライに下ったのかは、宗教を信じず神などいないと考える
拙脳なる私には知る由もないが、ニコライにとって、
クリミア戦争の失敗は耐え難い屈辱だったに違いない。
"Баке, бачья смерть!"
ちなみに、
政治犯ドストエフスキーは死刑の判決を下され、
銃殺執行のほんの寸前でシベリア流刑に減刑というニコライの勅命をもらった。
シベリアから帰還後にはドストエフスキーは政治闘争という毒気は抜かれてて、
宗教と暴力と殺人を扱う小説を書くことが生きる目標となり、
二度めの結婚をしてニ女ニ男をもうけもするという凡人ぶりだった。
いっぽう、
プーシキンになりたかった男レールモントフは狙撃者が誰であれ、
シキン距離から撃たれて死んだ。
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