チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「蛙の卵/津田梅子生誕150年(生涯独身を貫き女子教育に一生を捧げた賢婦)」

2014年12月31日 21時41分25秒 | 歴史ーランド・邪図
今日は、
現在の津田塾大学を創設した教育者、
津田梅子(つだ・うめこ、現行暦換算1864-1929)
の生誕150年にあたる日である。
同女は幕末に幕臣の家に生まれた。といっても、
父はもともとは下総佐倉藩堀田家の家臣だった。が、
脱藩して西洋文明・学問を修め、
幕府に通詞として採用されたばかりだった。

現行暦換算1871年12月に横浜港を出る
岩倉使節団の附随的開拓使団のそのまた附属の
女子留学生5人の中に、わずか6歳の梅子がいた。
開拓団顧問となってた梅子の父が
梅子を女子留学生に次女の梅子を参加させたのだった。
船上で7歳の誕生日をむかえた梅子は、
4歳年上の山川捨松(のちの大山捨松)とともに帰国したとき、
18歳になってた。のちに
実践女子大のもとを創る10歳年上の上田歌子に英語を教えた。

それぞれ別の場所ながら同じく米国で学んだ
捨松や繁子とは違い、梅子は一生独身を貫いた。
上記上田女史や、女性の権利を主張する運動をした
平塚らいてうなどのように、
男性関係にもご発展な女性らとは違って、
梅子は自分の使命のためには男も家庭も
きっぱりと断ってたところが違うのである。
ブサイクなくせに女好きだった伊藤博文にも
梅子はとても気に入られてたが、
男女の関係はなかったようである。
女子の教育に尽力した梅子だったが、
ほんとうは医学生理学研究への興味が大きかったのかもしれない。

今年が誕生200年だった「星条旗よ永遠なれ」の作詞者
フランスィス・スコット・キーの曾孫である
トマス・ハント・モーガン(つまり、スコット・フィッツジェラルドの親類)に誘われて梅子は
「蛙の卵の発生」という共同論文を書きあげてるのである。
その40年後にモーガンは、キイロショウジョウバエを使った実験で
遺伝子が染色体にあることを突きとめた功績で
ノーベル賞医学賞を受けた。
使命感で日本の女子教育の道に進んでしまった梅子の
遺伝生物学者としての才能をモーガンは惜しんでたという。
滅私である。
学力試験のないAO入試で早稲田の理工学部に
入ることしかできないような知能レヴェルが、
真っ当な科学の発見などできるはずもない。また、
日本国民が収める税金で助成されて
国立大学を出ても公務員にもならず、
国や日本国民に恩返しをする職にも就かず、
ただただ己のキャリアに箔を付けるためだけに
東大や京大を出る輩などとは
とてつもなく違う高邁な精神である。

梅子は50過ぎから糖尿病を患って聖路加への入退院を繰り返してた。
ために、旧友の大山捨松が梅子に代わって学校運営を
取り仕切ってくれてた。が、その捨松がスペイン風邪で急死してしまった。
動脈硬化が進んでたためだろうが、
捨松を疲れさせたことを悔やんだ精神的な落ち込みもあってか、
梅子は脳出血を二度起こしてしまう。
死ぬまでの約15年間を不調のまま過ごすことになった。
関東大震災による五番町の校舎全焼などの不幸も重なったが、
教育を通じて日本の女性の自己向上につとめることをやめなかった。そして、
稲村ヶ崎の別荘で64年の波乱に富んだ生涯を終えた。
その二か月後、NYウォール街で株価が大暴落し、
世界大恐慌となってくのである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「八橋検校生誕400年+諸九尼... | トップ | 「未年/偶蹄目反芻獣単複同形... »

コメントを投稿

歴史ーランド・邪図」カテゴリの最新記事