チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすべい/旗本奴水野十郎左衛門切腹から350年」

2014年04月23日 23時51分21秒 | 歴史ーランド・邪図
オバマは安倍首相から、
「すきやばし次郎」で夕食に接待されたらしい。
たしかに私が知ってるかぎりは
小野二郎は史上最高の鮨職人だった。
家庭の事情で7歳のときに地元の料亭に
奉公に出されて以来、割烹料理店や鮨店などを
転々と修行した末に自分の店として開いたのが
「すきやばし次郎」である。
今年89歳のその小野二郎は、大正14年、
静岡県磐田郡二俣町(現在は浜松市天竜区)で生まれた。
戦国時代に、武田と徳川が攻防を繰り広げた
二俣城があったところである。家康が
信長からの不審を払拭するために
長男信康を幽閉し、結局は
切腹させた城としてもレキジョには知られる。ちなみに、
そのときの介錯は服部半蔵である。

5月の歌舞伎座は、
「團菊祭五月大歌舞伎」と銘打って、12世
「團」十郎の代わり海老蔵の成田屋と、
「菊」五郎・「菊」之助の尾上の音羽屋とが、
共演する趣向になってる。その夜の部では、河竹黙阿弥の
「極附幡随長兵衛(きわめつき・ばんずい・ちょうべえ)」
が海老蔵(長兵衛)と菊五郎(十郎左衛門)によって演じられる。
歌舞伎座での海老蔵となると人気で、
私のような松竹に強固なコネがない一般人には
なかなか切符が手に入りにくい。それでも、
ツテのツテを頼って手配してもらってるので、
25日までには観にいけるかもしれない。

本日、2014年4月23日は、
寛文4年3月27日(現行暦換算1664年4月23日)に、
3000石の大身旗本、
水野十郎左衛門(みずの・じうろざえもん、西暦およそ1630-同1664)
が切腹に処せられてから350年の日にあたる。十郎左衛門は
「旗本奴(はたもとやっこ)」の代表格だった。
家人らを率いて目立つ装いで伊達男を気取り江戸市中に繰り出し、
イキがってやりたい放題をしたアウトロー、いわゆる
「傾き者(かぶきもの)」である。
旗本奴は現在の族とかヤンキーとかとは違って、
家柄のいいボンボンだった。その走りは、
備後福山10万1000石(飛び地を含め)の大名となった、
徳川家随一の猛将として知られた
水野勝成(みずの・かつなり)、の三男で
最終的に3000石の旗本となった水野成貞(なりさだ)である。
棕櫚を刀の柄にして徒党を組んでたので「棕櫚組」と呼ばれた。
一説にはその艶姿をお忍びで観にいった
25万7千石の大名蜂須賀家の姫が一目惚れして
毎年30人扶持の終身持参金附きで、いわば
押しかけ女房となった、という。そして、
産んだ長男が十郎左衛門である。
メスというのはこういうタイプのオスが本能的に好きなのである。ともあれ、
「旗本奴」の走りが、勇猛として、また、
己の信念を貫いた、一本筋の通った男、
として知れ渡ってた武将で、無頼の輩と親しくしたり、
京都市中で喧嘩にあけくれ、諍いで人を殺したりして、
授かった禄を捨てて秀吉を怒らせて刺客を放たれた頃に
「六左衛門」を名乗った
水野勝成、の倅だったことから、また、
天地東西南北の六方にかけて無尽になりふり構わぬことから
「旗本奴」は「傾き者」だけでなく
「六方(六法)」とも呼ばれた。
その仕種を大げさにして芝居に採り入れたのが
市川團十郎の荒事、六方である。

そうした「旗本奴」に対して、
町人身分で同様にイキがってたのが
「町奴」であり、その代表格が
幡随院長兵衛だった。芝居では、
十郎左衛門の手下が歌舞伎の村山座の花道で狼藉をはたらき、
それを長兵衛に退治される。
手下が町人ふぜいにやっつけられて面目を失った頭の十郎左衛門は
長兵衛に詫びるという口実で自宅での藤見の宴に招く。
そこで殺されることが解りきってたのだが、
長兵衛は「怖がって逃げたら男が廃る」と見栄をきって殺されにいく。

史実はこのとおりではないにしろ、
チーム十郎左衛門が長兵衛を誅したのは事実である。が、
殺されたほうの素性と殺した側の徳川家への功労と身分との兼ね合いで、
十郎左衛門には「お咎めなし」だった。が、
相変わらずの切った張ったのその素行の悪さに
業を煮やした幕府はそれから7年後、とうとう
評定所に召し出した。
行状怠慢のかどで死罪(つまり、斬首)のところ、
父祖代々の功労を考慮して特別の恩情をもって
家禄召し上げのうえ蜂須賀家預け、
という裁決がくだされた。徳島藩蜂須賀家は
十郎左衛門の実母の実家である。家禄召し上げなので
その母や兄弟・子などもいっしょに蜂須賀家預けとなった。が、
十郎左衛門は髭・月代を剃らずザンバラ髪、
裃でなく白の着流しスタイルで評定所に出向いてたのである。
その態度不届き至極として、その日のうちに、評定所から
切腹申しつける旨の沙汰が届けらる、という
ナリユキだった。

十郎左衛門は蜂須賀家に脇差の名刀を所望し、
贈られた貞宗で右膝を突き刺し、
「これならよく斬れるべえ」
と検視役の前で見栄を切ってからそのまま股まで斬り裂いていき、
腹を斬り上げ、さらに左脇腹まで掻っ捌き、
不敵な笑みを浮かべて介錯されたという。
切腹の作法までも型破りにしたのだった。次いで、
二歳の嫡男百助も斬首された。が、後年、
十郎左衛門の弟は赦されて家を再興し、
旗本として存続した。

十郎左衛門の辞世は、
[落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすべい]
(「阿呆羅刹(あぼうらせつ)」=阿呆(阿傍)と羅刹。
ここでは地獄の牢番の意味に使ってる。アホウともかけてる)
(「拙大意」おいらを咎人として地獄へ落とすというのなら、そいじゃあ、
罪人を煮るという地獄の釜をこの貞宗で突ん抜いてくれるわ。
地獄の木っ端役人にも損害を被らしてやるぞ、この野郎!」
徹底した反抗精神である。
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