1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月20日・ミロの精髄

2023-04-20 | 美術
4月20日は、喜劇王ハロルド・ロイド(1893年)が生まれた日だが、スペインの画家ジョアン・ミロの誕生日でもある。

ジョアン・ミロ・イ・ファラーは、1893年に、スペインのバルセロナで生まれた。父親は、時計・宝飾品職人だった。
中学を卒業したミロは、商業高校に通いながら、美術学校にも通った。
17歳の年、高校を卒業したミロは、会社に就職し、簿記係として務めだした。が、仕事に慣れず、神経衰弱になり、さらに腸チフスにかかって、退職した。
休養をとったミロは、画家として立つことを決意。19歳のときに美術学校に入学。美術学校に通いながら、同時にべつのデッサン教室にも通い、作品を展覧会に出品した。
22歳のときから、ミロは、毎年10月から12月までの3カ月間、兵役に就いたという。
26歳のときまで、バルセロナを中心に活動し、バルセロナのサロンに作品を出品していたミロは、27歳のころから、仏国へ移り、パリで絵を描くようになった。そうして、そのころ仏国で結成されたシュルレアリスム運動に加わり、ミロはシュルレアリストの画家として知られるようになった。しかし、絵はなかなか認められなかった。
36歳で結婚、37歳のときには長女が誕生したが、なお苦しい生活が続いた。
39歳の年には、経済的な困窮から、パリをひき払い、スペインのバルセロナへもどった。その同じ年、ニューヨークで個展を開いたあたりから、評価が高まりだし、米国先導の形でしだいにミロは大画家と認知されるようになっていった。
1937年、44歳のときには、パリ万国博覧会のスペイン館のために、壁画「刈り入れ人」を制作。ピカソの「ゲルニカ」などとともに、スペイン館に展示された。すでに押しも押されぬ世界的巨匠になっていた。
ミロは油彩画だけでなく、彫刻、陶器、版画など、表現方法の幅を広げて制作を続けた。
1970年、77歳のときには、来日して、大阪万博のガス館に陶板壁画「無垢の笑い」を制作している。そして、1983年12月、アトリエを持っていた、スペインのパルマ・デ・マリョルカで没した。90歳だった。

ミロは、記号のような、微生物の拡大図のような、または落書きのような、摩訶不思議なキャラクターが画面いっぱいにちりばめられた独特の絵画で知られる。
ミロの絵は、自由で、奔放で、楽しくて、なかなかこちらを放してくれない。

20世紀最大の芸術家とも称されるマルセル・デュシャンなどは、便器をひっくり返して置いて「はい、これが芸術作品です」と言ったり、あるいは「モナ・リザ」の絵に口ひげだけ描き加えたり、と、物の見方をひっくり返し、価値観を逆転させてみる、といったやり方をした。それはそれで、20世紀的な芸術なのだろうけれど、ミロの芸術は、まったくちがう性質のものである。
ミロの芸術は、自分自身と向かい合って闘いつづけ、耐えぬいた後についにつかんだおのれ自身の精髄といったもので、観る者は、そのミロの個性美の豊かさを堪能するとともに、そこにいたるミロの苦闘を思って感動するのである。
(2023年4月20日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯──美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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4月19日・フェヒナーの生死

2023-04-19 | 科学
4月19日は、1775年のこの日にアメリカ独立戦争がはじまった日だが、精神物理学の開祖、フェヒナーの誕生日でもある。

グスタフ・テオドール・フェヒナーは、1801年4月19日、独国のラウジッツ地方で生まれた。父親は牧師だった。
グスタフは、はじめドレスデンのアカデミーで、17歳からはライプツィヒ大学で、グスタフは医学を勉強した。
33歳のとき、同大学の物理学教授となったが、色覚と視覚の実験のため、太陽を観るなど目を酷使し、目を悪くしたため、38歳のときに教授職を辞した。
視力が回復した後、彼の研究テーマは、精神と肉体の関係の研究へ移っていった。
1887年11月、ライプツィヒで没。86歳だった。

フェヒナーが定式化した「フェヒナーの法則」というのがある。これは、
「基本的な刺激と感覚の関係は、心理的な感覚量は、物理的な刺激の量の対数に比例する」
というものである。この法則から、こういうことが言える。
「外からの物理的な刺激がひじょうに小さいときは、心理的な感覚がゼロになり、心は何も感じない。逆に、外からの物理的な刺激が一定以上に大きくなると、心はそれ以上大きくは感じなくなる」
007シリーズの小説のなかで、ジェイムズ・ボンドが敵の拷問を受けるシーンがあって、そのときボンドはこう考える。
「苦痛というものは、放物線を描くものだ。急に上昇して最高潮に達し、それからは神経もにぶって、だんだん反響は弱まり」(イアン・フレミング著、井上一夫訳『カジノ・ロワイヤル』創元社)
これは「フェヒナーの法則」に通じるだろう。

「フェヒナーの色彩効果」というのがあって、これは、白と黒の2色で描かれたある模様を、速く動かすと、人間の目には、そこに色彩が現れたように見えてくるというものである。このフェヒナーの説を、英国のベンハムという人が、白と黒だけで描かれたコマを作って実証して見せ、「ベンハムのコマ」と呼ばれる。
高校生のとき、このコマを作ってみた。白と黒だけで描いたのに、コマをまわすと、いろいろな色彩が光って見えてきて、とても不思議だった。

精神と肉体の関係について研究したフェヒナーは、こう言っている。
「死は生命のひとつの過程であり、死は形を変えた誕生、すなわち、物質界への誕生ではなく、霊界への誕生である」
(2023年4月19日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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4月18日・五島慶太の強

2023-04-18 | ビジネス
4月18日は、『文明の衝突』の政治学者ハンティントンが生まれた日(1927年)だが、東急グループを築いた実業家、五島慶太の誕生日でもある。

五島慶太は、1882年、長野県青木村に生まれた。誕生時の名は、小林慶太。貧しい山村の農家の次男だった。小林慶太は、子どものころから志が高く、進学を望んだが、家庭の経済事情により、尋常中学校を出た後、小学校の代用教員になった。しかし、進学への思いはやまず、20歳のとき上京。学費のいらない東京の高等師範に入学した。
高等師範を卒業後は、いったん三重県で英語教師になったが、境遇を不足に感じ、25歳のとき、あらためて上京。一高をへて東京帝国大学に入学。家庭教師などをしながら大学に通い、29歳で大学を卒業し、農商務省に入省した。
30歳のとき、皇居二重橋の設計者の娘と結婚。妻の父方の先祖の家を継いで再興し、その姓「五島」を名乗ることになった。
五島慶太は、後に鉄道院へ移り、そこで課長職を務めた後、辞任して、鉄道会社の常務取締役に就任した。
経営不振におちいっていた鉄道会社をよみがえらせ、事業を軌道に乗せた五島は、鉄道の沿線にデパートや娯楽施設、大学を誘致するなどの手法で鉄道経営を成功させ、他の鉄道会社の株式を買い集めて、つぎつぎと合併させ、巨大な東急グループを作り上げた。
戦時中は、東條英機内閣の運輸通信大臣を務めた。そのため、敗戦後は、公職追放処分となった。やがて、追放処分が解除されると、ふたたび東急電鉄会長に就任し、経営再建、都市開発、企業の吸収合併などに辣腕をふるった。
そうして事業欲の衰えぬまま、1959年8月に没した。77歳だった。
五島慶太は、美術品の収集家としても知られ、そのコレクションは、彼の没後に開設された五島美術館に展示されている。国宝の「源氏物語絵巻」を所蔵しているのはここである。

五島慶太は、貧しい境遇から身を起こし、一代で巨大な東急グループを築き上げた立志伝中の人物である。
「強盗慶太」の呼び名は、本人のことばから来ているらしい。資金を調達して、大株主のところへ乗りこんでいって、口説き、お金を渡して株式を譲り受け、欲しい企業を自分のグループに取り込んでしまう。そういう強引な手法を、彼みずからこう言っていた。
「白昼に札束を切って、堂々と強盗を働くようなもの」
実際には、強盗でなく合法的な吸収や合併で、大金を積み上げて事業プランを示し、
「これが社会、人々のためになる。公共の利益になるから」
と説得したのである。人はお金だけでは動かないものである。

五島慶太のような天才事業家でも、1929年からはじまった世界大恐慌のころ(昭和恐慌のころ、五島が48歳のころ)には、一時、自殺を考えるほどの苦しい時期があったという。やっぱり、どんな人の人生にも、かならず苦境というのはあるので、それを乗り越えなくてはいけないのだ、と、彼の生涯に教えられる。
(2023年4月18日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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4月17日・畑正憲の魂

2023-04-17 | 文学
4月17日は、米国金融界の巨人・J・P・モルガン(1837年)が生まれた日だが、作家で動物研究家で雀士の畑正憲(はたまさのり)の誕生日でもある。

「ムツゴロウ」畑正憲は、1935年、九州、福岡で生まれた。父親は医者だった。父親の赴任先の旧・満州国で幼少期を過ごしたころから、彼は様々な動物と近しくしていた。
第二次大戦中に帰国し、正憲は中高の学校時代を大分の日田(ひた)で送った。
その後、東大に進み上京。理学部で動物学を専攻した。文学か動物かで悩んだ末の決断だったが、父親には医学部へ進んだと伝え、帰郷した折には父親の往診に同行したという。
畑は大学院(運動生理学)に進んだが、研究者生活を放りだし小説家を目指した。しかし芽が出ない。パチンコ、麻雀打ちなどしながら放浪する一時期を過ごし、一時は自殺しようと死に場所をさがしたが、行った先々でなぜか救い励ましてくれる人に出会い、思いとどまった。それで出版社の映像部門に就職し、まじめに働きだした。そのサラリーマン時代の32歳のころ『われら動物みな兄弟』を書き、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。会社を辞め、動物をテーマに据えたノンフィクション作家として活動しだした。
『ムツゴロウの博物志』『ムツゴロウの青春記』など「ムツゴロウ」シリーズで人気作家となり、37歳のとき、北海道に「ムツゴロウ動物王国」を開園。道産子の馬一頭と14人の仲間で始めたこの王国で、数多の動物を育てながらの文筆、講演生活を送る。
45歳のときに、彼の動物王国を紹介するテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が放映されだし、動物愛の人「ムツゴロウ」の名は一躍世間に響き渡った。
以後、北海道を拠点としつつ、海外を広く飛び回って世界各地の動物と触れ合い、また、動物愛護、自然保護の運動に尽力し、プロ以上の腕をもつ雀士としてマスコミに顔を出し、多彩かつ個性的な活動を展開した。
82歳のころに心筋梗塞を発症し、手術、入院を繰り返していたが、2023年4月に容態が急変し、北海道中標津町の自宅から救急搬送された先の病院で没した。87歳だった。

初めて畑正憲を見たのは、昔放送されていた深夜テレビ番組「11PM」でだった。司会の大橋巨泉が解説する麻雀コーナーのレギュラーとして、小島武夫、古川凱章といった強者たちと卓を囲む「麻雀の神々」のひとりだった。その後、彼が作家で、動物研究家だと知った。自分の認識は順序がさかさまだった。それから彼の著書を読むようになり、一連の動物ものや自伝的エッセイに感服した。『ムツゴロウの放浪記』はいまでも時々読み返す、わが人生のバイブルのひとつである。

畑正憲の生き物に対する愛情、生の把握、そして生命に向かい合う覚悟には脱帽した。どこで読んだか忘れたが、彼が、子熊のころから育てたヒグマが大きくなったときに対峙する場面には衝撃を受けた。可愛がっていたヒグマが、許すべからざるいたずらをした。親として叱ってやらなくてはならない。しかし、いまや相手は自分の何倍もある巨大な熊である。手の一振りで自分は殺されるかもしれない。しかし、自分が叱らなくては、誰もこの子をしかってやれない、親の責任がある、そこで彼は死を覚悟してヒグマに対峙し「そんなことをしてはだめじゃないか」と叱責するのである。
そんな畑正憲だから全身傷だらけだし、手の指はライオンに食いちぎられて欠けていた。細い華奢な人だったが、その透徹した知性、魂の大きさともに絶大だった。
(2023年4月17日)



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『ほんとうのこと』(ぱぴろう)
美麗なデッサンの数々と、人生の真実を突いた箴言を集めた格言集。著者が生きてきたなかで身にしみた「ほんとうのこと」のみを厳選し、一冊にまとめた警句集。生きづらい日々を歩む助けとなる本の杖。きびしい同時代を生きるあなたのために。


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4月16日・チャップリンの才

2023-04-16 | 映画
4月16日は、詩人アナトール・フランスが生まれた日(1844年)だが、映画界の天才チャールズ・チャップリンの誕生日でもある。

「チャーリー」の愛称で親しまれるチャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニアは、1889年、英国ロンドンで生まれた。父親は寄席芸人で、母親も舞台女優だった。チャールズが生まれて1年後に、両親は離婚し、彼は異父兄とともに母親に引き取られた。母親は当時、スター女優で、子ども二人を育てられるくらいの収入はあった。しかし、母親がのどを悪くし、声が割れて、ステージで歌が歌えなくなると、事態は急激に悪化した。彼女の声は治らず、舞台に立てなくなり、貯えは底をついた。
チャールズが7歳のとき、母は苦渋の決断を下し、母子三人は貧民院に入った。
9歳のとき、母親は精神病を発症した。ある日、彼女は近所の家をまわって、子どもたちへの誕生プレゼントだと言って、石炭のかけらをくばってまわりだしたという。精神病の原因は栄養障害にあるとされる。彼女は精神病院に入院した。彼ら兄弟は、裁判所の命令によって、アルコール中毒だった父親のもとに引き取られた。
母親は、その後、回復して、彼らはふたたび母子3人で暮らした。
チャールズが12歳のとき、父親が没し、母親はまた精神病を発症し入退院を繰り返すようになった(彼女の病気は完治せず、チャールズが39歳のとき、映画「サーカス」の撮影中に没した)。
学業を放棄したチャップリンは、新聞の売り子、印刷工、おもちゃ職人など、さまざま職業に就いて糊口をしのぎながら、俳優を目指した。12歳のとき、年齢を14歳といつわって俳優斡旋所に登録し、地方巡業する劇団の役を得た。チャップリンは、コミカルな役を演じて喝采を浴びた。それからも劇団を移りながら、さまざまな役出大当たりをとり、スター俳優となっていった。
劇団俳優としてフランス、カナダ、米国と巡業するうち、ハリウッドの映画プロデューサーにスカウトされ、24歳のとき、コメディの映画スタジオに入社した。
数多くのコメディ映画に出演し、チャップリンはまたたく間に人気俳優となった。映画会社を移籍するごとに、ギャラも急上昇していき、29歳のときには、100万ドルを超える年間契約を結ぶ大スターにまでのし上がった。
同じころ、チャップリンは、フェアバンクス、グリフィス監督らとともに、配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立した。
以後、多くはみずから制作、監督、主演するという形で、「キッド」「給料日」「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」などの無声映画の名作を作った。
トーキー映画時代に入ると、「モダン・タイムス」「独裁者」「殺人狂時代」など、社会風刺、反ファシズム、反戦争の色合いの強い映画を撮り、1952年、赤狩り旋風が吹き荒れていた米国から、国外通報命令を受けた。彼は、以後スイスで暮らした。
1972年、83歳のとき、アカデミー賞授賞式に出席するため、20年ぶりに米国へ入国した。
1977年12月25日、クリスマスの朝、スイスの自宅で没した。88歳だった。

オーソン・ウェルズ、ウディ・アレン、北野武など、映画界にはマルチ・タレントを持った天才がときどき出現するが、制作、監督、俳優、脚本、作曲をすべて一流にこなしたチャップリンの多才ぶりを超える者はいない。空前絶後である。
(2023年4月16日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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4月15日・ダ・ヴィンチの考

2023-04-15 | 美術
4月15日は、ジャーナリスト田原総一朗が生まれた日(1934年)だが、ヘリコプターの原理を考え出した万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生(ユリウス暦による)を記念して「ヘリコプターの日」でもある。

レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年、現在のイタリア、トスカーナ州のヴィンチに生まれた。父親は「セル」と略称された公証人だった。本名は「ヴィンチ村のセル・ピエロの息子のレオナルド」という意味らしい。
レオナルドは、14歳のとき、芸術家ヴェロッキオに弟子入りした。この工房で、レオナルドはたちまち、絵画、彫刻、設計、機械工学、木工などさまざまな分野に才能を示した。彼が絵画の技量があまりに高いので、師匠のヴェロッキオは描くのをやめてしまったという。レオナルドは、十代にして「親方」の資格を取得した。
30歳のころから、ミラノ公国へ移り、ミラノ公や教会の依頼で芸術作品を制作した。このころの作品に、修道院の食堂に描かれた壁画「最後の晩餐」、マドリードの美術館にある「受胎告知」がある。
47歳のころ、フランス軍がミラノ公国へ攻めてくると、レオナルドはヴェネツィアへ避難し、そこでフランス軍の攻撃から町を守る軍事技術者となった。その後、レオナルドは、チェゼーナ、フィレンツェ、ヴァチカン、などを渡り歩き、行った先々で軍事技術者、画家、工芸家などとして土地々々の権力者の下で働いた。ルーブル美術館にある至宝「モナ・リザ」は、この遍歴時代のなか、50代前半のころに描かれたものである。
64歳のとき、レオナルドは仏国のフランソワ一世に招かれ、ロワール川を見下ろすアンボワーズ城にほど近い邸宅を与えられた。そうして、光栄ある名声に包まれながら、1519年5月、そこで没した。67歳だった。

仏国の詩人ポール・ヴァレリーはこう書いている。
「私のつもりでは、この人間の業績に何らか思考の跡があるとみることになれば、もうこれ以上に広範な思考はあるまいとおもわれるほど多面にわたる仕事をしてみせた人間を想像してみようというのである。(中略)私は、こういう人間が、この世界の生なる全体とその密度の中をどう動いているものか、その足どりをたどり、そこでは自然をいかに手馴づけて、これを模してはこれに触れ、やがてはついに自然の中にもないものを考え出してみようという難題にまでも立ち向かうところを見ようというのである。
 こういう想像上の人間には、普通ではその果ての見通しさえあまりにも遠くかけはなれていて見えそうもなくて、その巨体を容(い)れようにも、名前がない。いま私には(レオナルド・ダ・ヴィンチ)の名にまさるふさわしい名は見当たらないとおもわれる」(山田九朗『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』岩波文庫)

ダ・ヴィンチは受験戦争を経験した日本人に耳が痛いことを言っている。
「食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない」(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)
(2023年4月15日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


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4月14日・トインビーの目

2023-04-14 | 歴史と人生
4月14日は、「ゲーム理論」の経済学者シェリングが生まれた日(1921年)だが、英国の歴史学者、トインビーの誕生日でもある。

アーノルド・ジョーゼフ・トインビーは、1889年、英国のロンドンで生まれた。父親は医者で、貧民救済にたずさわる社会事業家でもあった。
アーノルドは10歳のころから 寄宿舎生活を送った。寄宿舎では、頭脳優秀だったことが反感を買い、上級生らのいじめにあったり、寮の奇妙な規則に苦しんだりした。
22歳のとき、オクスフォード大学のベイリオル・カレッジを卒業したトインビーは、同学寮の学生指導教師となり、また、英国考古学研究所の研究生として、ギリシア・ローマ史の研究をはじめた。
26歳で大学を辞任し、英国外務省に就職。政治情報部に勤めながら、歴史学書を執筆。
30歳のとき、パリ講和会議に中東地域専門委員として出席。ロンドン大学の教授に就任。
40歳のとき、京都で開催された太平洋問題調査会に、英国代表団の一員として初来日。
41歳のころから、代表作となる大著『歴史の研究』の執筆をはじめた。完結したのは、65歳のときだった。この著作によって、トインビーは、従来の国家を中心とした歴史観を脱し、新たに文明を中心とした大きな歴史観を打ち立て、人類の歴史を文明の興亡として描き直して見せた。
67歳のときから、約1年半をかけて西まわりで世界一周の旅に出かけ、79歳のとき、日本政府から勲一等瑞宝賞を授与された後、1975年10月、ヨークにて没した。86歳だった。

トインビーは、ギリシア・ローマの歴史研究から出発して、全人類の歴史までを見渡すところまでいった大歴史学者である。彼は、たびたび来日し、日本にも多くの友人をもつ親日派だったが、長いつきあいである日本のいろいろな局面を彼は目撃してきている。
1929年、40歳のトインビーが初来日し出席した会議の主な議題は「満州問題」だった。当時、日本は山東出兵、張作霖爆死事件と、満州に軍事侵略を着々と進め、国際的に非難の嵐を浴びている真っ只中だった。国内的には、治安維持法ができて、思想統制がきびしくなっていた。そのときの公開講演でトインビーは、日本に対して警告を発している。
「日本はカルタゴの轍(てつ)を踏むなかれ」
カルタゴは、ローマと戦い、ついには滅ぼされた古代の商業国家で、敗戦の結果、カルタゴは焦土と化し、生き残った国民はすべて奴隷とされた。
トインビーは、日本に、カルタゴのようになってはいけない、といましめたのである。
でも、日本はトインビーの警告を無視し、中国大陸侵略、太平洋戦争と進み、結局、多くの都市が焦土と化した。幸いにして日本人は奴隷化はまぬがれたけれど。

歴史学が専門で、トインビーには多くを教わった。
日本のなかにいると、どうしても日本びいきに、ものごとを見がちになる。でも、もしも歴史学を科学として学んだ者なら、もっと客観的にクールに自国を見られる。
「子どもたちに愛国心を植えつけるために、歴史はあらかじめ、日本びいきに見るように教えなくてはならない」
というような社会科教育をする国からは、トインビーのような大学者は育ちにくい。
(2023年4月14日)



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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


●電子書籍は明鏡舎。
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4月13日・ベケットの空

2023-04-13 | 思想
4月13日は、哲学者ラカンが生まれた日(1901年)だが、アイルランド出身の劇作家、サミュエル・ベケットの誕生日でもある。

サミュエル・ベケットは、1906年、アイルランドのフォックスロックスで生まれた。彼が生まれたのは、13日の金曜日で、復活祭の前の聖金曜日だったという(キリストがはりつけにされた記念日だった)。父親は、工事の見積もりをする積算士だった。
5歳のころには、フランス語とピアノを習いだしたというサミュエルは、ダブリンの大学でヨーロッパ近代語を専攻。
大学卒業後、22歳のとき、仏国パリの高等師範で英語を教えた。高等師範教師時代のベケットは、毎晩酒を飲み、自室でフルートを吹き、マルセル・プルースト論を書いていた。彼は夏休みにプルーストの長編『失われた時を求めて』を二回通り読んだという。また、このころ、同じアイルランド出身のジェイムズ・ジョイスと知り合い、ちょうど『ユリシーズ』の仏語訳が完成した祝賀パーティーがあって、ポール・ヴァレリーらとともに、ベケットも出席した。
24歳のとき、アイルランドへもどり、母校の大学でフランス文学の講師となった。しかし、ベケットは、しばらく勤めた後、辞表を提出した。ベケットは言っている。
「教えてみてわたしは、自分でもほとんどわかっていないことを、そんなことなどどうでもいいと思っている人たちにむかってしゃべっていることを知った」(川口喬一『ベケット』冬樹社)
27歳から30歳までの3年間、英国ロンドンですさんだ生活を送ったベケットは、小説を試作しながら、独国の都市を放浪した後、31歳のとき、仏国パリに住み着いた。
ナチス・ドイツの占領下にあった大戦中のフランスでは、ベケットはレジスタンス活動に従事した。
第二次大戦終了後、いったんアイルランドに帰った後、40歳のとき、ふたたびパリにもどってきて、小説や戯曲の執筆をはじめた。
49歳のとき、田舎道の道ばたで二人の男がああでもないこうでもないと言い合い最後までなにも起こらないまま終わる戯曲『ゴドーを待ちながら』がパリで初演。当初は非難ごうごうだったが、しだいに評価は高まっていった。
1969年、63歳のとき、ノーベル文学賞受賞。受賞の報せを聞き、ベケットは言った。
「ノーベル賞はジョイスこそが受けるべきであった」(同前)
1989年12月、パリで没。83歳だった。

『ゴドーを待ちながら』は、「空欄補助効果」の作品だと理解している。どの文学作品も何らかの空欄があって、読者がそれぞれ自分の解釈でそこを埋めて作品が完成されるのだけれど、『ゴドー』は作品自体がばかでかい空欄になっている。その分、わかりにくいが、読者の解釈の幅は大きくなる。

ベケットは、アイルランド出身の英語で育った人だけれど、フランスにいてフランス語で小説や戯曲を書いたフランスの作家である。彼が口述筆記を手伝ったジョイスが、異国にいながら英語で、故郷ダブリンのことばかり書いたのと、趣を異にしている。
『ゴドーを待ちながら』もフランス語で書かれた。ベケットはこう言ったそうだ。
「フランス語のほうが、スタイルなしで書くのが容易であるから」(同前)
(2023年4月13日)



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4月12日・ティンバーゲンの説

2023-04-12 | 科学
4月12日は、ガガーリン宇宙飛行士を乗せた世界初の有人宇宙衛星船が打ち上げられた(1961年)「世界宇宙飛行の日」だが、この日は、経済学者ティンバーゲンの誕生日でもある。

ヤン・ティンバーゲンは、1903年、ネーデルランド(オランダ)のハーグで生まれた。5人きょうだいのいちばん上だった。ノーベル生理学・医学賞を受賞したニコ・ティンバーゲンは実弟で、兄弟で別分野のノーベル賞を受賞している。
地元の高校を卒業後、ヤンはライデン大学に入り、数学と物理学を学んだ。大学在学中、彼は、カメルリン・オネス、ヘンドリック・ローレンツ、ピーター・ゼーマン、アルベルト・アインシュタインといったそうそうたる物理学者たちと討論した(この4人は全員ノーベル物理学賞受賞者である)。
大学を出たティンバーゲンは、政府の統計局に勤めた後、33歳の年から、スイス・ジュネーブにあった国際連盟に勤務しだした。このころ、母国ネーデルランドと米国についての国民経済モデルを発表した。
第二次大戦後は、ネーデルランドの中央計画局局長、世界銀行顧問、途上国各国の政府顧問、国際連合開発計画委員会議長などを歴任。
国連にいた66歳のとき、経済政策の理論の発展につくした功績により、第一回目のノーベル経済学賞を受賞。
70歳のとき、ライデン大学教授に就任し、2年後に退官した。
1994年6月、故郷のハーグで没。91歳だった。

ノーベル経済学賞は、昔はなかったのだけれど、1968年に、スウェーデン国立銀行が設立300周年を記念して、ノーベル財団に働きかけ、設立された賞で、その第一回の受賞者がティンバーゲンとなった。

ティンバーゲンの名は、「ティンバーゲン基準(Tinbergen Norm)」で有名である。これは、ある企業の最低の収益部門と、最高の収益部門の収入の差が1対5より大きいと、それは逆効果として働き、会社に不利益をもたらす、というもの。
ティンバーゲンは、国家、政府のマクロ経済学のモデルをはじめて構築して見せた経済学者で、彼が提唱した学説には、価格、需要量、供給量の関係を示した「くもの巣理論」や、政策目標の数と、それに必要とされる政策手段の数が一致するという「ティンバーゲンの定理」がある。

ティンバーゲンはこう言っている。
「人類の問題は、もはや国家政府によっては解決されない。必要なのは、世界政府である」(Mankind's problems can no longer be solved by national governments. What is needed is world government.)
(2023年4月12日)



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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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4月11日・小林秀雄の構え

2023-04-11 | 文学
4月11日は、「若大将」加山雄三(1937年)が生まれた日だが、評論家、小林秀雄の誕生日でもある。

小林秀雄は、1902年、東京の神田に生まれた。父親は宝石の研磨技術を欧州で学んできた技術者、実業家だった。
18歳の年に、父親が没し、母親が肺ガンになった。このころ、小林秀雄は同人誌に小説を発表していた。
23歳の年に、東京帝国大学の仏文科に入学。詩人の中原中也を知り、中原の恋人だった長谷川泰子と恋愛関係におちいり、長谷川泰子と同棲をはじめた。
26歳の歳に大学卒業。卒論はアルチュール・ランボー論だった。同じ年、同棲していた家から逃げだし、奈良の志賀直哉を頼った。
27歳のとき、雑誌「改造」の懸賞論文に応募した評論「様々なる意匠」が二席に入り、評論家としてデヴュー。
28歳のとき、ランボーの詩集の翻訳『地獄の季節』出版。以後、『ドストエフスキイの生活』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』などを書き、56歳のとき、ベルグソン論である『感想』(未刊)を執筆開始。
75歳のとき、代表作『本居宣長』を出版。
1983年3月、腎不全、尿毒症などのため、入院先の病院にて没。80歳だった。

学生のころ、小林秀雄の書いたものはほとんど読まなかった。その昔、小林秀雄の文章は大学入試の問題にひじょうによく取り上げられていて、高校時代にさんざん問題集で読まされ、辟易としていた。
しかし、小林秀雄が没してから、彼の講演録音テープで、たばこをやめた話を聞き、それからおもしろい人だと読みはじめ、全集をそろえるまでになった。

戦争が終わったばかりのころ。戦時中に戦意高揚をあおった文学者や知識人がつるし上げられていたなか、文人戦犯として批判された小林はこう言い放った。
「僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」(山本七平「小林秀雄の生活)

年をとって知った顔をする輩は多いが、小林秀雄は違う。彼はこう書いている。
「天命を知らねばならぬ期に近付いたが、惑いはいよいよこんがらがつて来る様だし、人生の謎は深まつて行く様な気がしてゐる。成る程人並みに実地経験といふものは重ねて来たが、それは青年時代から予想してゐた通り、ただ疑惑の種を殖す役に立つて来た様に思はれる」(「年輪」)
これは自分の実感と同じである。知ったかぶりをせず、実感を正直に言ってくれる人こそ貴重である。彼は現代の紀貫之である。

世の多くは、小林秀雄の頭のよさ、直感力をほめるけれど、自分は何より彼の、保身に走らず、丸腰でつかつかと相手にふところに歩み寄っていくあの無勝手流のやり方、「あしたのジョー」のノーガード戦法のような構えに強く引かれる。
初めて読む方には『国語といふ大河』『私の人生観』『スランプ』などお勧めする。
(2023年4月11日)



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『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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