4月15日は、ジャーナリスト田原総一朗が生まれた日(1934年)だが、ヘリコプターの原理を考え出した万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生(ユリウス暦による)を記念して「ヘリコプターの日」でもある。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年、現在のイタリア、トスカーナ州のヴィンチに生まれた。父親は「セル」と略称された公証人だった。本名は「ヴィンチ村のセル・ピエロの息子のレオナルド」という意味らしい。
レオナルドは、14歳のとき、芸術家ヴェロッキオに弟子入りした。この工房で、レオナルドはたちまち、絵画、彫刻、設計、機械工学、木工などさまざまな分野に才能を示した。彼が絵画の技量があまりに高いので、師匠のヴェロッキオは描くのをやめてしまったという。レオナルドは、十代にして「親方」の資格を取得した。
30歳のころから、ミラノ公国へ移り、ミラノ公や教会の依頼で芸術作品を制作した。このころの作品に、修道院の食堂に描かれた壁画「最後の晩餐」、マドリードの美術館にある「受胎告知」がある。
47歳のころ、フランス軍がミラノ公国へ攻めてくると、レオナルドはヴェネツィアへ避難し、そこでフランス軍の攻撃から町を守る軍事技術者となった。その後、レオナルドは、チェゼーナ、フィレンツェ、ヴァチカン、などを渡り歩き、行った先々で軍事技術者、画家、工芸家などとして土地々々の権力者の下で働いた。ルーブル美術館にある至宝「モナ・リザ」は、この遍歴時代のなか、50代前半のころに描かれたものである。
64歳のとき、レオナルドは仏国のフランソワ一世に招かれ、ロワール川を見下ろすアンボワーズ城にほど近い邸宅を与えられた。そうして、光栄ある名声に包まれながら、1519年5月、そこで没した。67歳だった。
仏国の詩人ポール・ヴァレリーはこう書いている。
「私のつもりでは、この人間の業績に何らか思考の跡があるとみることになれば、もうこれ以上に広範な思考はあるまいとおもわれるほど多面にわたる仕事をしてみせた人間を想像してみようというのである。(中略)私は、こういう人間が、この世界の生なる全体とその密度の中をどう動いているものか、その足どりをたどり、そこでは自然をいかに手馴づけて、これを模してはこれに触れ、やがてはついに自然の中にもないものを考え出してみようという難題にまでも立ち向かうところを見ようというのである。
こういう想像上の人間には、普通ではその果ての見通しさえあまりにも遠くかけはなれていて見えそうもなくて、その巨体を容(い)れようにも、名前がない。いま私には(レオナルド・ダ・ヴィンチ)の名にまさるふさわしい名は見当たらないとおもわれる」(山田九朗『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』岩波文庫)
ダ・ヴィンチは受験戦争を経験した日本人に耳が痛いことを言っている。
「食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない」(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)
(2023年4月15日)
●おすすめの電子書籍!
『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。
●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年、現在のイタリア、トスカーナ州のヴィンチに生まれた。父親は「セル」と略称された公証人だった。本名は「ヴィンチ村のセル・ピエロの息子のレオナルド」という意味らしい。
レオナルドは、14歳のとき、芸術家ヴェロッキオに弟子入りした。この工房で、レオナルドはたちまち、絵画、彫刻、設計、機械工学、木工などさまざまな分野に才能を示した。彼が絵画の技量があまりに高いので、師匠のヴェロッキオは描くのをやめてしまったという。レオナルドは、十代にして「親方」の資格を取得した。
30歳のころから、ミラノ公国へ移り、ミラノ公や教会の依頼で芸術作品を制作した。このころの作品に、修道院の食堂に描かれた壁画「最後の晩餐」、マドリードの美術館にある「受胎告知」がある。
47歳のころ、フランス軍がミラノ公国へ攻めてくると、レオナルドはヴェネツィアへ避難し、そこでフランス軍の攻撃から町を守る軍事技術者となった。その後、レオナルドは、チェゼーナ、フィレンツェ、ヴァチカン、などを渡り歩き、行った先々で軍事技術者、画家、工芸家などとして土地々々の権力者の下で働いた。ルーブル美術館にある至宝「モナ・リザ」は、この遍歴時代のなか、50代前半のころに描かれたものである。
64歳のとき、レオナルドは仏国のフランソワ一世に招かれ、ロワール川を見下ろすアンボワーズ城にほど近い邸宅を与えられた。そうして、光栄ある名声に包まれながら、1519年5月、そこで没した。67歳だった。
仏国の詩人ポール・ヴァレリーはこう書いている。
「私のつもりでは、この人間の業績に何らか思考の跡があるとみることになれば、もうこれ以上に広範な思考はあるまいとおもわれるほど多面にわたる仕事をしてみせた人間を想像してみようというのである。(中略)私は、こういう人間が、この世界の生なる全体とその密度の中をどう動いているものか、その足どりをたどり、そこでは自然をいかに手馴づけて、これを模してはこれに触れ、やがてはついに自然の中にもないものを考え出してみようという難題にまでも立ち向かうところを見ようというのである。
こういう想像上の人間には、普通ではその果ての見通しさえあまりにも遠くかけはなれていて見えそうもなくて、その巨体を容(い)れようにも、名前がない。いま私には(レオナルド・ダ・ヴィンチ)の名にまさるふさわしい名は見当たらないとおもわれる」(山田九朗『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』岩波文庫)
ダ・ヴィンチは受験戦争を経験した日本人に耳が痛いことを言っている。
「食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない」(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)
(2023年4月15日)
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