1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月29日・デューク・エリントンの品格

2023-04-29 | 音楽
4月29日は「昭和の日(天皇ヒロヒトの誕生日)」だが、米国ジャズ界の巨人・デューク・エリントンの誕生日でもある。

エドワード・ケネディ・デューク・エリントンは、1899年、米国ワシントンDCで生まれた。昭和天皇よりぴったり二つ年上にあたる彼の両親は、ともにピアニストだった。
エドワードは、7歳のときから女性ピアニストについてピアノを習いはじめた。彼の母親は、息子のまわりを気品ある女性でかため、息子に品のあるマナーを身につけさせようとした。母親の期待通りエドワードは品のある優雅な子どもになったが、いつも洒落た服を着ていたところから、友だちから貴族のようだと「デューク(公爵)」とあだ名されるようになった。この愛称が、生涯を通じて、彼の名前に冠せられることになった。
15歳のとき、カフェでソーダ水販売係として働いていたとき、エリントンははじめて作曲をした。「ソーダ水売り場ラグ」という曲がそれで、これが、生涯に千曲以上を作曲したと言われる彼の第一曲目になった。
17歳のころから、ワシントンDC周辺のカフェやクラブで演奏をはじめ、フリーの看板絵描きをしながら、バンドを組んではダンス用の演奏をするようになった。
あるとき、ダンス・パーティー用の看板描きを依頼され、その依頼主に、
「もしも、まだ演奏バンドが決まっていなかったら、ぜひ自分にやらせてください」
と頼み込んだ。それ以来、エリントンは自分のバンドのピアノ演奏者であると同時に、仕事を入れるバンド・マネージャーとなり、本格的にミュージシャンとして活動しだした。最初の演奏で、彼がもらったギャラは75セントだったという。
最初はあちこちの町のクラブやパーティーで演奏する不安定な状態が続いたが、24歳のころ、彼のバンドはニューヨークのクラブと4年間の契約を結び、この安定したバンド環境を足がかりに、輝かしい音楽キャリアをスタートさせた。以後、デュークのバンドは、
「ブラック・アンド・タン・ファンタジー(Black and Tan Fantasy)」
「藍色の雰囲気(Mood Indigo)」
「スイングしなけりゃ意味がない(It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing))」
「カクテル・フォー・トゥー(Cocktails for Two)」
「A列車で行こう(Take the "A" Train)」
「黒、茶色とベージュ(Black, Brown and Beige)」などヒットわ放った。
1959年、60歳のときには、ジェームズ・スチュワート主演の映画「或る殺人(Anatomy of a Murder)」の音楽をエリントンが担当した。これはジャズ・ミュージシャンが映画音楽を担当した初の例であり、彼はこの作品でグラミー賞を受賞している。
1974年5月、肺ガンにより没。75歳だった。

エリントンは1964年、65歳のとき、来日コンサートを開いていた。そのとき新潟地震が発生し、被害を知ったエリントンは、次に予定していたハワイ公演を急きょキャンセルして、日本で募金を募る追加コンサートをおこない、収益を被災地へ寄付した。「デューク(公爵閣下)」の品格が偲ばれる。彼の最後のことばはこうだった。
「音楽は、わたしがいかに生きたかであり、わたしがなぜ生きたかであり、わたしがどのように記憶されるかである(Music is how I live, why I live and how I will be remembered.)」
(2023年4月29日)



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