1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月5日・吉田拓郎の詞

2023-04-05 | 音楽
4月5日は、指揮者カラヤンが生まれた日(1908年)だが、シンガーソングライター、吉田拓郎の誕生日でもある。

吉田拓郎は、1946年、鹿児島県大口市で誕生した。両親は朝鮮半島からの引き揚げ組で、父親は公務員だった。
拓郎が9歳の年に両親が別居し、拓郎は姉、母親とともに広島へ引っ越した。小さいころ、からだが弱かったために音楽に興味をもったという拓郎は、思春期にいたって音楽をやると女にもてそうだとみて、高校時代からバンドを組み、音楽にのめりこんだ。
広島商科大学に入学してからは、バンド活動と並行してソロでも活動し、フォークソングのコンテストに出場したり、芸能プロダクションに売り込みに行ったりしたが、なかなかプロ・デビューはかなわなかった。
20歳の年に上京。音楽コンテストに出場したり、自主制作レコードを作ったりした後、24歳のときに、インディーズレーベルの社員となり、レコードデビュー。
1971年8月、岐阜県で開催された「第3回全日本フォークジャンボリー」に出演し、25歳の拓郎は、機械の故障により、マイクなし、スピーカーなしの状態で、2時間にわたって「人間なんて」を歌いつづけ、ファンを熱狂させた。これが話題となり、彼は一躍フォーク界の新しいヒーローとなった。
翌1972年に、メジャーであるCBSソニーに移籍し、「結婚しようよ」 がヒット。つぎに出した「旅の宿」でチャート1位を獲得。以後、コンサート、レコーディングなど音楽活動を中心に、ラジオDJ、作曲家としても活躍。作曲した森進一の「襟裳岬(えりもみさき)」が日本レコード大賞を受賞したのは、拓郎が28歳のときだった。
57歳のとき、肺ガンの診断を受け、手術。これを機にタバコをやめたが、コンサート活動は復活した。

吉田拓郎がなしとげた功績は、いろいろあるけれど、ひとつは「字余りの作詞」を切り開いたことである。
それまで、一音符に一文字のことばをのせて曲を作っていたところ、拓郎は一音符にたくさんの文字をのせて早口で歌った。
これは拓郎だけではないかもしれないが、彼の大きな功績のひとつで、吉田拓郎以後、日本の流行歌作りの可能性が一気に広がった。

「打倒東京」を目標に掲げた若いころの吉田拓郎には、ほかの人にはない、特別なオーラがあった。何万人もが詰めかける屋外のコンサート会場で、夜通し歌いつづけたころを振り返って、拓郎はかつてこういう意味のことをコメントしていた。
「あのころは、どんなにたくさんの人が押し寄せてきても、ギター一本で立ち向かえる、そういう自信があった」
仕事で充実している時期は、そういう気持ちがあるものだ。
(2023年4月5日)



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