1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月26日・ウィトゲンシュタインの白紙

2023-04-26 | 思想
4月26日は、ロマン派絵画の巨匠ドラクロワが生まれた日(1798年)だが、哲学者ウィトゲンシュタインの誕生日でもある。

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ウィトゲンシュタインは、1889年に、オーストリアのウィーンで生まれた。ユダヤ系の家系だったが、ルートウィヒはユダヤ教徒でなく、洗礼を受けたカトリックだった。父親は、オーストリアの鉄鋼王で、米国で言えばカーネギー、独国ならクルップにあたる大富豪である。ルートヴィヒは、4人の兄と、3人の姉をもつ、きょうだいのいちばんの末っ子だった。
14歳まで家庭で教育を受けたルートヴィヒは、リンツの高校へ入ったが、そこの同学年の生徒にアドルフ・ヒトラーがいた。高校卒業後、17歳で工科大学へ入学。大学では、モーターやプロペラなど飛行機関連の研究をしていた。
23歳の年に、英国ケンブリッジ大学に入学。このケンブリッジ在学中に父が没し、ウィトゲンシュタインは莫大な財産を相続した。彼は相続した資産の一部を、オーストリアの芸術家の助成基金に寄付した。この寄付の恩恵にあずかった詩人にリルケがいる。
英国を出たウィトゲンシュタインは、ノルウェイの人里離れた山中に小屋を建て、そこに引きこもってひとり思索して哲学論文を書いた。それが『論理哲学論考』の原稿だった。
1914年、25歳のとき、第一次世界大戦がはじまると、彼はヘルニアのため、兵役を免除されていたのを、志願してオーストリア軍に加わった。戦闘にでた後、イタリア軍の捕虜となった彼の背のうには、『論理哲学論考』の原稿が入っていた。彼は哲学論文の草稿を肌身離さず抱えて戦場を走りまわっていたのだった。
戦後、捕虜の身から釈放されてウィーンに帰った彼は、相続した遺産をすべてきょうだいに譲り、無一文になった。これは、大戦中に読んだトルストイに大きく影響を受けてのことだと言われる。30歳のときのことだった。
白紙にもどり、貧乏になった彼は、小学校の教師をしたり、修道院の庭師をした。
そして32歳のとき、『論理哲学論考』を出版。
彼はこの本で、言語というものの性質を考えていくことによって、哲学の範囲の限界線を引いて見せた。『論理哲学論考』は、こんな命題で終わる。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波文庫)
こう書いて、哲学の問題をすべて片づけてしまった彼は、哲学の世界から遠ざかった。姉の家の設計などをしていた後、39歳のとき、数学の講義を聴いて、急に哲学の世界に帰る決意を固め、40歳のとき、英国ケンブリッジ大学へもどった。以後、ケンブリッジで教鞭をとり、58歳のときに退任するまで教授職にあった。1951年4月、ケンブリッジで前立腺ガンのため、没した。62歳だった。

ウィトゲンシュタインの言はつねに刺激的である。
「中国人がしゃべるのをきくと、わたしたちはそれを、ガラガラゴロゴロという、分節化されていないうがいの音かと思ってしまう。中国語のわかる人がきけば、それは言語であるとわかることだろう。わたしはしばしば、人間のなかに人間の姿をみつけることができない」(ヴィトゲンシュタイン著、岳沢静也訳『反哲学的断章』青土社)
(2023年4月26日)



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