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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5/3・マキャヴェリのクールな発言

2013-05-03 | 思想
憲法記念日の5月3日は、「ホワイト・クリスマス」を歌ったビング・クロスビーが生まれた日(1904年)だが、イタリア、フィレンツェの外交官、マキャヴェリの誕生日でもある。
冷徹な権力の方法論を説く『君主論』の著者マキャヴェリのことばは、新聞や雑誌、学術論文など、いろいろなところで引用される。マキャヴェリのことばは、つねにクールである。

ニッコロ・マキャヴェリは、1469年、現在のイタリア、フィレンツェに生まれた。父親は法律家だった。
ミケランジェロより六つ年上にあたるマキャヴェリが生きた時代のフィレンツェは、政変、戦乱の多い激動の時代だった。
マキャヴェリが25歳のとき、フィレンツェに事実上の独裁を敷いていたメディチ家が糾弾され、追放された。
その後は、糾弾の急先鋒だった修道士、サヴォナローラがフィレンツェの政治をリードしたが、彼も数年で失脚し、処刑されてしまう。それがマキャヴェリ29歳の年。
サヴォナローラが処刑されたすぐ後に、マキャヴェリはフィレンツェ共和国の第二書記局長に就任した。内政と、軍政を管轄する高級官僚で、外国との交渉にあたることも多い役職だった。
当時のイタリアは小国乱立の状態で、フィレンツェがピサを攻めたり、イタリアのなかで戦争があるかと思えば、フランスとスペインが、イタリアを舞台にして戦争をはじめるといったひどい状況だった。そんな時代に外交官、軍顧問などとして働いたマキャヴェリの生活は多忙をきわめた。
43歳のとき、メディチ家がフィレンツェにもどってきて権力を復活させると、マキャヴェリは職を失った。さらに、メディチ家に対する陰謀の疑いをかけられ、逮捕され、拷問を受けたりした。彼は、後ろ手にしばられた手首を吊るされ、肩の関節を脱臼させようとする責めを受けたが、陰謀への関与を否定しつづけ、結局釈放された。
マキャヴェリは山荘へ引っ込み、政治の表舞台から姿を消して、執筆に専念した。そうして書き上げたのが、『君主論』をはじめとする著作の数々だった。
『君主論』は、一国を統治するの君主が権力を維持し、安定して政治をおこなう方法を述べた書である。この本が画期的だったのは、それまでこの種の本に書かれがちだった、君主たる者が守るべき道徳や倫理といったものをきれいさっぱり捨て去ったことで、マキャヴェリはこの本で、民衆を支配し、権力を維持するためには手段を選ばない、という立場を明確にした。
47歳のとき、彼はこの本を、復活したメディチ家の権力者に献上し、ふたたびフィレンツェの政治権力に近づくことに成功した。そうしてメディチ家の依頼を受け、『フィレンツェ史』を書き、1527年6月に没した。58歳だった。

マキャヴェリがすごいのは、表向きの正義をとっぱらった、本音の部分を露骨に書いたところで、その勇気には、まったく恐れ入る。

「結果さえよければ、手段はつねに正当化される」

「民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない」

こうして並んだマキャヴェリのことばは、読む者をぞっとさせる魅力をもって光っているようだ。500年の時を超えて、現代に燦然と光を投げてきているのである。
(2013年5月3日)



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